消失 2008 log


これは2008年12月18日〜21日にかけてリアルタイム更新していたときの文字ログです。
実際はswfで、日時によって文章と背景が切り替わる仕様でした。
通常公開をするにはフラッシュ内で大幅な組み替えが必要なため、文字ログのみのアップでご容赦ください。

12/18


 手の震えが止まらなかった。
 だってしかたないでしょう、頭に白い変なネットをつけられて、微動だにせず、真っ白のベッドに横になるキョンの姿なんて、今まで想像したこともなかったんだもの。
 何ソレ、変なの、果物じゃないんだから。冗談めかして口にしようとするけれど、実際こぼれ落ちるのは、変なうめき声だけだ。
 みくるちゃんが涙を浮かべてキョンの名前をずっと呼んでいる今の状況を、あたしは変に冷静な頭の片隅で受け止める。冷静だからこそ、今この状態がとんでもなくおそろしいことだって分かってしまう。
 あんたの大好きなみくるちゃんが名前を呼んでるのよ、どうして返事をしないの。早く目を覚ましなさいよ。
 どうしてこんなときまで、あたしの言うことを聞かないの。
 バカキョン。
(12/18 夕方 ハルヒ)


 涼宮ハルヒを古泉一樹に任せ、わたしは一人病室に残った。朝比奈みくるは泣きじゃくり続けたせいで疲弊が激しかったため、一足先に帰らせた。
 彼らは不安に思っている。わたしは原因を知っているが、それを口外することは不可能。
 彼が無事答えを見つけ、脱出できることを祈る。祈るという行為自体に意味はない。おそらくは自身の精神安定のため。それでもわたしは、祈ることを止めない。止められないのだ。
 すべてはわたしの責任。
(12/18 夜 長門)


 彼の眠る姿を見るのは、おそらく孤島で酔いつぶれた彼を介抱して以来のはずだ。こんな風に突然取り返しのつかない事故が起こることを、僕はどこかで覚悟していたはずなのに、どうしてだろう、笑ってしまうくらい恐ろしくてたまらない。
 すっかり憔悴しきっている涼宮さんを家に帰し、現在僕は再び病院に戻ってきている。彼が階段から転落して、すぐさま搬送した病院は我ら『機関』の関係施設だ。特殊な事情で起こっている事態ならば、それ専門の知識を持つ者もいる。すぐさま露見するはずなのに、彼のどこにも異常はないという。異常もないまま、目を覚まさず眠り続けている。もう五時間以上もだ。ただ打ち所が悪かっただけなのかもしれない。しかし僕にはこれが、誰かの意志であるようにしか思えない。具体的に言えば、僕らのいうところの「神」の仕業と。
 いや、そんな馬鹿な。先ほど見送った涼宮さんの様子を思い出し、あり得ないとすぐに思い直す。彼女が、彼に対して望むのは、こんなことではあり得ない。絶対に。
 長門さんの様子が気に懸かった。彼女はおそらく何か知っている。そしてそれを口にすることも絶対にない。
何かが起こっている。何かは分からないが。
(12/18-19 夜中 古泉)

12/19


 寝袋持って忍び込んだら、古泉くんはひどく驚いた顔をして、それから呆れたように笑い出した。あんな古泉くん初めて見たわ、あたしにはそれが意外だった。
 きっと古泉くんは、取り乱しているんだ。表面上、ポーカーフェイスを崩すことはないけれど、あんな風に素直に感情を出しちゃうほど、疲れてるんだ。
「古泉くん、帰ってもいいのよ。疲れてるでしょ」
 隣に座る古泉くんに、あたしは声をかける。古泉くんは弱く笑みを浮かべたまま、首を振った。
「涼宮さんこそ、無理だけはなさらないでください」
「あたしは無理なんてしてないわ。団長たるもの、団員に何かあったときにはきちんと面倒みないとダメなんだから」
 胸を叩いて言えば、古泉くんはまた、見たことのない笑顔を見せた。
 不思議、なんだか別人みたい。
 すうすうと呑気な寝息をたてる、心配かけてる張本人を見ていると、ふつふつと怒りがわいてきた。
「団長と副団長に揃って心配かけて、ヒラのくせに生意気だわ」
 古泉くんを勢い振り向き、わざと怒った顔を作って、あたしは続けた。
「だから、目が覚めたら、思いっきり下らない罰ゲームをやらせるんだから」
 古泉くんは、はじけたように笑い出した。
(12/19 真夜中 ハルヒ)


「キョンくん?」
 ベッドのうえをのぞきこんで、ぺちぺちキョンくんの顔をたたいたら、お母さんにおこられた。
「ねえお母さん、キョンくんどうして起きないの?」
 おかあさんは困ったようににこりとして、さあ、ってつぶやいた。おとなりではかんごふさんも、困ったかおして、お母さんになにか言ってる。げんいんはふめい、だって。意味わかんない。
 頭をけがしちゃったのか、白いほうたいと、くだものについてる白いあみみたいなのが、かみの毛にまきついてる。変なの、なんかテレビドラマみたいなの。さっきまでここにいたハルにゃんは、どうしてかベッドの下で寝てたし(お母さんがびっくりして固まってた)、古泉くんなんて、ぜんぜん眠ってなかったみたい。目の下にすごいクマで、ちっちゃいイスに座ってた。あのまま学校に行くのかな。
 お外はいいお天気なのに、みんなかわいそう。キョンくん早く起きてあげたらいいのに。
(12/19 昼 キョンの妹)


 あたしの目はたぶん、うさぎさんみたいに真っ赤だと思う。泣いていたら、余計に悲しくなって、不安になって、そしたらまた涙が止まらなくなる。
 あたしがしっかりしないと、涼宮さんに余計な心配をかけちゃう。きっと今、一番不安なのは涼宮さんなんだ。
 キョンくんの目は覚めない。もう丸一日眠り続けている。こんなことってあるんだろうか。なんだかおかしい気がする。
 何かが起こってるはずなのに、何度未来に連絡を取ってみても、返答はこない。これはあたしの管轄外。現状を把握することも、ましてや力になることも、今のあたしにはできないってことだ。
 でも。今までだってたくさんおかしいことが起こってきて、それはほとんど涼宮さんの仕業だったけど、今回のこの事故が、万が一でも涼宮さんのせいだなんて、どうしても思えない。
 だからこそ怖い。あたしたちをおびやかすのは涼宮さん自身ではなく、すでに外側に存在を始めたのかもしれない。
 怖くて悔しくて、また涙がこぼれた。
(12/19 夕方 みくる)


 この世界は虚構だ。いつまで続くのかも分からない。ほんとうの世界は今やあちら側ということになっている。もうわたしには手出しできない。こちら側がこのまま、彼の眠り続ける世界として存続するのか、それともわたしたちの気づかぬうちに、瞬間存在をなくすのか、すべては彼女にしか、いや、彼女にすら分からないこと。
しかしそれならば、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹の現在の様子はいったい何だというのだろう。彼女らはここに存在して、眠る彼を思い、彼の不在に不安を覚え、思うがままに行動している。
 感情の残骸? それともシミュレーション。でもここにいる彼女らはまぎれもなく本物。わたしもそう。きっと彼が答えを見つけるまでは、帰るべきところとして存在し続ける。
 早く、答えを。
(12/19 夜 長門)


 病室では、長門さんが帰り支度をしているところだった。薄ら闇にほの白く浮かび上がる彼女の姿は、まるで人間には見えない。事実彼女は人間ではないのだが、だからといって宇宙人に見えるわけでもない。しいていえば、死神、だろうか。その想像はシチュエーションとあいまって、僕の背筋をぞっと震わせた。
「まだ目覚めない」
 長門さんが誰にともなく言う。ここには彼女以外僕しかいないのだから、僕に向けての言葉なのは明らかであるが、彼女の目は僕を見ていない。断定的な口調は、自分自身への確認のようにも取れた。
 そういえば昨日からここに寝泊まりしているはずの、涼宮さんの姿が見えない。
「涼宮さんは?」
「食事に出ている。すぐに戻ると言っていた」
「そうですか。長門さんはもうお帰りですか?」
 彼女はこくりと小さく頷く。漆黒の目は吸い込まれそうなほど深い。じっと見つめていると、その奥底がちらりと揺れた気がして、僕は無意識に口を開いていた。
「長門さん、彼は目覚めますよね」
 長門さんはもう一度、小さく頷いた。
(12/19 夜 古泉)


 有希が帰ったあとの病室には、古泉くんがいた。
「寝てから来ましたので、夜中は僕が看ておきますよ」
 そう言った彼の目元には、いまだ黒いクマが消えない。すぐにばれる嘘なんて、つかなくてもいいのに。だいたい看るったって、こいつってば寝ているだけなんだもの。ただ見ているだけじゃない。
 そういえば昨日もこうして、眠るキョンを古泉くんと一緒に見ていたんだった。あーあ、寝ているあんたを見てたって、何も面白いことなんてないわ。普段から寝ぼけたような顔したやつだけど、何も本当にずっと眠り続ける必要ないじゃない。別に疲れてるわけでもあるまいし。だいたい高校生よ、無駄に体力だけは有り余って、ついつい訳の分からないこと叫んだり、無意味な行動に走ったりするような年齢なのよ。それをこんなところで眠りこけ続けてるってどうよ。
 ひたすら心中でキョンに罵詈雑言の限りをつくしていたら、隣で古泉くんがふっと笑った。
「きっと彼のことだから、僕らが見ていない時に起きだして、なんでもない顔で、『おまえら何やってんだ』なんて言うんでしょうね」
 そのさまを想像して、あたしはますます腹が立ってきた。
「なんか無性にむかつくわ」
「ええ、まったくです」
「だいたいキョンは普段からやる気がなさすぎるわ。今は春じゃなくて冬よ。暁なんて覚えまくりよ、だって朝は寒いもの」
「仰る通りです」
「いい加減、目ぇ覚ますべきよ」
「ええ、きっともうすぐ、目を覚ましますよ」
 訳が分かんないわ。どうして涙が出るのかしら。古泉くんの優しい声を聞きながら、彼の差し出したハンカチで、あたしは思いっきり鼻をかんだ。
(12/19-20 夜中 ハルヒ)


12/20


 夜の病室は静かだ。光のない部屋はまるで閉鎖空間のようだと、僕は思った。きっと色のないせいだ。病室は真っ白で、彼の顔も真っ白で、僕は無性に、何か赤いものが欲しくなった。
 明日花でも買ってこようか。それとも、リンゴがいいか。嗅ぎなれた甘酸っぱい匂いに、彼の意識が呼び覚まされるかもしれない。
 足元に転がっている寝袋を避けて、僕は彼に近づいた。いまだ目覚める気配はない。呼吸も、脈も、正常なのだ。ただ起きないというだけ。しかしそれこそが一番おかしなことである。
 口元に手のひらを近づけると、かすかに息がかかる。小さな寝息は規則正しく繰り返される。顔色もいい。
 今すぐにでも起きだしてきそうなほどだ。誰が見たって今の彼に、ただ眠りこけている以外の感想など持ち得ないだろう。
 不意にある童話を思い出す。百年の眠りを与えられた王女と、その王女を目覚めさせる方法。スリーピングビューティー。そういえば彼は以前に、同じことを考え実行したのだった。彼女と二人、閉鎖空間に閉じ込められたあのときに。そして彼は、閉じた世界の扉をこじ開けた。もし、僕にもそれが可能ならば。
 眠る彼にそっと顔を近づける。吐息がかかるほどまでに。いつもならば呆れた様子で聞こえてくるだろう、「顔が近い」という台詞も、今の彼の口から発せられることはない。うっすらと開いた彼の口元に、僕は一度指を触れ、それから、
「うう……バカキョン、早く、起きろって、言ってんじゃ……ない……」
 足下から聞こえてきた声に、一瞬僕の頭は真っ白になり、そしてようやく我に返った。反射的に起こした体は、全身が心臓になったみたいに動悸が激しく鳴り響いている。何をやっているんだ、僕は。あり得ないだろう、まさかお伽噺を真に受けて、行動に移してしまうなんて。キスで目覚めるなんてそんな馬鹿な話、あるわけがないのに。
 恥ずかし紛れに、寝袋にくるまった涼宮さんを見遣る。体を小さく縮ませ、深い眠りの位置にいるのはすぐに分かる。見咎められたわけではもちろんなく、先ほど聞こえたのは正真正銘、ただの寝言だ。
 嘆息して、僕はサイドテーブル横の丸椅子に腰掛けた。
 やはり僕は少し、疲れているらしい。
(12/20 真夜中 古泉)


 涼宮ハルヒの鍵である、かの少年の身にどうやら異変が起こっているらしい。古泉の報告に『機関』内部は今、戦々恐々としていた。それが涼宮ハルヒの仕業ではないらしいというのが、一番の懸念。
 つまり彼の身に起こっている事態は彼女のなかでも想定外の出来事で、必然的に彼女の内面が不安定になることは避けられない。結果起こりうるのが閉鎖空間の発生であろうことは、安易に予測できる。まだその懸念が現実にはなっていないが、おそらく時間の問題だ。
 幸いここは『機関』管轄の院内である、彼の現状についての情報入手は抜かりない。
 僕らが学校に行っている間、彼に何かあると困るので、そう言って古泉はわたしに昼間の看病を依頼してきた。看病といっても、傍目にはただ寝ているようにしか見えない。何もしようがないのだ。しかし古泉の言い方に含みのあったことが気に懸かる。どうやら他者の思惑が介入している模様。
 ベッド脇の丸椅子に腰掛け、彼の様子を遠目に伺う。寝ているだけの人間をただ見つめているのも退屈だ。ふと窓の外に目をやると、六甲の山々の緑と、晴れ渡った空のコントラストが美しい。山鳥の群れがV字を描いてその間を渡る。
 病院という施設とはあまりにかけ離れた長閑な窓の風景と、ただ眠り続ける彼の姿が相まって、とんでもなくちぐはぐな印象だけが残るのだ。湧きあがる違和感。確かに今、何か妙なことが起こっている予感がする。
 少し気分が悪い。効きすぎなくらいの暖房の熱で酔ってしまったのかもしれない。空気を入れ替えようと、病室の窓を開ける。途端冷たい風が肌に当たり、ぼうっとしていた頭が切り替わった。窓の外を覗くと、色の褪せた芝生と、申し訳程度に植えられた木々。病院の中庭である。さして広くもない庭を、わたしは目だけでぐるりと見渡した。そこで、彼女と目が合った。青黒い髪をした少女。
 遠目からでも分かるほどに、少女の目線は真っ直ぐわたしを射抜いた。背筋から湧きあがる戦慄が、思わぬことに足を震わせる。
 彼女は消えてしまったはずの地球外生命体に、とてもよく似ていた。
(12/20 昼 森さん)


 学校が終わるとすぐに病院に向かうのが、ここ二日ばかりの日課となっている。今日はわたしが一番のり。
 病室の扉を開けると、古泉一樹の関係者である女性が立っていた。名前はたしか、森園生。彼女はわたしをみとめると、古泉一樹のような表情を作り、しかし間もなくそれは怪訝なものへと変わった。
「長門さん、以前あなたのバックアップとして存在していた端末のことについて伺いたいのですが」
「朝倉涼子のこと」
「ええ、そうです。彼女はもう、こちらには存在していないはずですよね」
「していない」
「そう……じゃあ、やっぱりわたしの見間違いね。あまりに似ていたから、驚いてしまって」
「……どこに?」
 森園生は、窓辺に顔を向けた。わたしもつられてそちらを見る。病院の中庭には、入院患者やその家族、休憩中と思われる院内関係者がちらほらと見られる程度。寒さの厳しい時期だから、誰も長居はしないだろう。閑散とした景色のなかで、あの恐ろしく目立つ、美しく長い髪はどこにも見当たらない。
「ほんの一瞬だったもの。きっと患者の家族か何かだったのね」
「そう」
 長門さんが来たならわたしは帰るわね、そう言って森園生は立ち去った。その様子を見送りながら、わたしは考える。朝倉涼子はわたしのバックアップの存在。もし仮に彼女が復活したとしたら、すぐにわたしに伝達されるはず。分からないはずがない。
 それでも嫌な予感がした。未来のわたしに同期を試す。不可能。以前から気づいていたが、十二月二十一日夕方を境に、それ以降の自身との同期ができなくなっている。それはわたしが選び取った選択。すでに決めている。おそらく、明日にすべてが解決するか、もしくは消去されるのはわたし。
 期限は今日。彼は鍵を見つけられたのだろうか。
(12/20 夕方 長門)


 食べる気が起きないという朝比奈みくるを伴って、涼宮ハルヒと古泉一樹は食事へと出かけた。
 先ほどの森園生の言葉が気に懸かり、わたしは院内へと留まることにした。古泉一樹が何か訊きたげな目を向けてきたが、わたしは結局、彼女が朝倉涼子によく似た少女を目撃したことを、言わずにいた。余計な心配を掛けさせるし、もし万が一彼女が再び現れたとしても、古泉一樹や朝比奈みくるに対処できることは何もない。
 病室の時間は静かに過ぎる。明日の夕方まで、このまま何も起るはずはない。
「おひさしぶりね、長門さん」
 突然、そんな声が聞こえた。驚いて顔をあげる。何の気配もない。背後を振り向くと、病室の入り口に彼女が立っていた。
「驚いちゃった? ふふ、長門さんのそんな顔初めて見た。随分表情筋が発達したみたいね。もうすぐわたしみたいに笑えるようになるのかしら」
 朝倉涼子はたおやかな微笑みを浮かべたまま、片手を持ち上げた。その先には、鈍く銀色に光るもの。あれには見覚えがある。あのとき、彼に突き刺そうとしたもの。
「私、失敗しちゃってさ。もう少しで彼をやれるところだったのに、また邪魔されたの。せっかくあなたを解放できたのに。あなたのこと傷つけるあいつがいなくなれば、あっちの世界のあなたはきっと、私の隣で私を必要としながら、ずっと一緒にいてくれたのに」
 目の前の彼女は、以前私の消した彼女とはどこか違っていた。彼女の言い分が理解できない。どうやら彼女はあちら側からここに来たらしい。いったいどうやって。私の顔を見て、朝倉涼子はふふ、と笑い声を零した。
「不思議そうな顔ね。私がどうやってここに来たのか考えてる? それは私にも分からないんだけどね。また消されるのが嫌だったからさ、私必死に再構成をしたの。そうしたら消えずにいれた。きっともう一度チャンスをもらえたんだわ、彼を消すための」
 おかしい、そう思った。そうやって饒舌に話す彼女は、以前持っていたはずの彼女の構成要素を一つも含んでいない。まるで空っぽだ。有機物ですらない。
 彼女はほんとうに、今わたしの目の前に存在しているのだろうか。
 そんなはずはない。彼女はもう、存在していないのだ。これはおそらく。
「あなたは虚構。ただの入れ物。データコピーすらできていない、不完全な模造品」
 朝倉涼子の顔色がさっと変わった。その目は怒りに打ち震えている。瞬間、狂ったように、彼女は声をあげた。
「どうして! 私あなたのために生まれたのよ。あなたが望んだから、もう一度作られたんじゃない! それをまた切り捨てて、私の存在を否定するっていうの?」
「わたしは望んでなどいない」
 わたしの言葉に、彼女は鼻を鳴らして笑みを浮かべた。わたしの知っている彼女は、こんな風に笑うことがあっただろうか。
「ばかね、そんなわけないじゃない。全部あなたが作ったのよ。あなたが、キョンくんを選び取って、涼宮ハルヒと朝比奈みくると古泉一樹を排除したのよ。もう一度彼らが巡り会わないように、私という防御壁まで作って。あれは全部あなたの願望でしょう」
 彼女は最後ににっこり笑って、ナイフを逆手に持ち直した。指先に力を込める。そして、一気に振り下ろす気配を見せた、はずだった。
「……どうして……」
 彼女は動かなかった。全身硬直したように、まったく微動だにしない。ナイフの切っ先が震えている。その下には、まるで泣きそうな顔。
「……あなたは最後まで、私に自由をくれないのね。私のことを望んで配置したくせに」
 彼女の目に浮かぶものがある。わたしたち有機生命体には必要のないはずのもの。こぼれ落ちたそれは、やはり朝倉涼子が不完全な物体であることを示していた。涙と呼ばれる水素化合物は落ちる途中で蒸発し、それとともに朝倉涼子は消えた。
(12/20 夜 長門)


「長門さん」
 古泉一樹がやけに心配そうな声色で、わたしの名前を呼ぶ。もちろん彼は気づいていない。先ほど起こった一部始終を。それともあれはわたしの見た幻覚だろうか。
 朝倉涼子は言った。あれはわたし自身の望んだことだと。わたしは今まで、明確な願望など持ったことはない。現在の事態は、わたしに蓄積したバグによって引き起こされている。ただのバグ。そこに感情など存在しないはず。
「——明日の夕方」
「はい?」
「彼はおそらく目を覚ます」
 古泉一樹は瞬間、虚をつかれたように目を見開き、束の間黙り込んだ。そしておそらく、安堵のために口元を緩めた。
「……そうですか、それは、よかった」
 声が少し震えていた。わたしはさっき彼女の流した涙を思い出し、なぜか呼吸器官に息苦しさを覚えた。
「ごめんなさい」
 苦しい息の代わりに、するりと、それは吐き出された。その言葉を、彼に伝えなくてはいけないのだと思った。
 そのときの古泉一樹の表情は、夕方目にした森園生の笑みとはまったく、似ても似つかなかった。
(12/20-21 夜中 長門)


12/21


 鮮やかな赤が螺旋を描いて落ちてゆく。みずみずしい香りが病室内に満ちる。気がついたら僕は、丸ごと一つ林檎の皮を剥ききろうとしていた。いったい誰が食べるというのだ。きっと時間が経てば、痛んで捨てる羽目になるというのに。しかしせめて手だけでも、動かしていないと落ち着かない。どうしようもなくて、丸裸になった林檎を丸ごとかじり、残ったへたをゴミ箱に放り投げた。
 明日の夕方、彼は目を覚ます。そう長門さんは言っていた。もうすでに日は落ちかけている。夕方といっても、何時頃をさしているのかはっきりしない。
 彼女の言葉に確信を持てないまま、それでも横たわる彼から目を離すことはできなかった。万に一つの小さな可能性でも、僕はそれに縋るしかなかった。点滴のチューブから落ち続ける栄養剤だけが、ただ眠る彼の命綱になっているだなんて、ほんとうに、馬鹿馬鹿しい。
「いったい、いつまで寝ているつもりですか」
 問いかけたところで、当たり前だが答えなど返ってこない。紙袋からもう一つ、林檎を取り出しまた剥き始める。シャリシャリ、涼しい音を響かせる。彼の耳にも届いているだろうか。この音は、この匂いは、僕たちの声は。
 顔を上げる。目に映るのは、先ほどと寸分違わぬ彼の姿のはずだった。
 驚いて声を詰まらせた。彼の目がうっすらと開いている。何度かまばたき、そしてゆっくり大きく目を開けた。
 早く、何か言わなければ。彼をここにつなぎとめなくては。僕はなぜか、慌ててそう考えた。冷静に、焦りを見せてはいけない。ここが日常の延長だと、彼に知らしめるために。
「おや」
 あくまでも普段通りの口調を意識した。彼の目がきょろきょろと動く。焦点の定まらない、寝起きの顔をしている。まだ意識がはっきりとしていないようだ。おそらく声だけで、僕の姿を探している。
 僕はここだ。あなたの目の前にいる。思いを込めて、僕は古泉一樹を作り出す。
「やっとお目覚めですか、ずいぶん深い眠りだったようですね」
 ようやく彼の目が僕をとらえた。
(12/21 夕方 古泉)


 わたしは彼に謝らなくてはいけない。
 わたしのバグが世界を窮地に陥れたことはまぎれもない真実。世界があるべき姿に戻ったのは、巻き込んでしまった彼の尽力の賜物だ。
 しかし彼との短い会話の最後、私の口を滑り落ちたのは、謝罪の言葉ではなかった。
「ありがとう」
 彼の言葉が嬉しかった。力いっぱい握られた手から伝わる彼の手の温もりが、わたしの平坦な感情に波を起こす。伝えたいことはたくさんあるのに、わたしにはそれを伝える手段を持たない。
 わたしの口元はこれ以上持ち上がらない。微笑みを作る方法が分からない。感謝を伝える表現も、今のわたしの胸のうちを表すセンテンスも、わたしの辞書のなかにはない。またわたしのなかに蓄積されてゆく何か。このもどかしさを、わたしはとてつもなく嫌う。わだかまるものは、何度も積み重ねられ、きっとそのうちにまた、わたしをおかしくさせるのだ。
 だから何度も言おうと思う。そうすれば、少しでも彼に伝えることができれば。わたしのなかの悪辣なものが、消えてゆくような気がした。
 彼につながる手に、少しだけ力を込めて、わたしはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「ありがとう」
(12/21 夜 長門)

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