無題


 その日ユキが市立図書館に足を運ぼうと思ったきっかけは、なんのことはない、文芸部室の蔵書にはない、とある小説を借りるためである。
 今年入学したばかりのK高に、ようやく見つけた文芸部だが、現在部員は彼女一人だ。昨年度三年生が卒業してしまい、今年で廃部かと思われていた矢先であった。ユキはたった一人、部室棟のこの古ぼけた扉をノックし、そしてたった一人の部員となった。
 部室棟は文化系の比較的小さな部や同好会が集まっているため、普段からとても静かだ。放課後でも物音一つしないことなどざれで、その辺りもユキは気に入っていた。


 ユキは図書館の貸し出しカウンター前で、一人途方に暮れていた。手には小栗虫太郎全集。恐ろしく分厚いが、目的の短編はこの第三集にしか入っていないのだ。
 休日の市立図書館にこれほど人がいるとは、ユキは考えてもみなかった。折しも時はゴールデンウイーク明けの土曜日、おそらく一年を通して一番気候のよい時分だ。駅からここまでの道中も、家族連れやカップルで賑わっていた。事実ユキ自身も、朝起きてあまりの気持ちのよい晴天に心奪われ、普段ほとんど出掛けることのない休日を利用してまで、軽い散歩ついでと読みたい本をリストアップしてやって来たのだ。もちろん、部室の蔵書は部費の関係から気軽に増やすことが出来ず、そして蔵書には限りがあるのだから、遅かれ早かれ彼女はこの図書館を訪れることになっただろうが。
 話が逸れてしまった。ユキが途方に暮れている原因である。簡単なことで、彼女はこの場所に来るのが初めてだったため、図書館の貸し出しカードの類を持っていなかった。カードの作り方すら知らず、その上引っ込み思案な性格が災いして、先ほどから目の前をせわしなく動き回る司書を、自分の都合で呼び止めるなど、思いつきもしなかった。
 そろそろ、彼女の力では重量オーバーであろう全集のせいで、腕のあちこちが痺れてきた頃だ。
「どうした?」
 突然、頭の上のほうから、低めの声が降ってきた。
 知らない人間だと思う。ユキはその声を記憶と参照ののち、そう結論づけた。しかし、もしかするとどこかで一度くらいは耳にしたのかもしれない。不思議と耳なじみがよかったのだ。なんとなく懐かしさすら覚えた気もした。
 ユキは緩慢な動作で声の主を見上げた。彼女自身自覚はなかったが、その表情は思わず話しかけたことを後悔するほど、困惑に満ちているように見えた。事実話しかけた彼は、まるで言い訳でもしているかのように、しどろもどろの体で言葉を続けた。
「いや、お前、北高の生徒だろ。その制服。んな重たそうな本かかえてずーっと突っ立ってんのはなんでかと、そう思っただけだ。別にそれ以外の意味はない」
 その彼の言い分に、ユキはたいそう驚いた。彼女の中に、理由もなく他人に話しかけるなどという概念はなかったからだ。彼女は今まで用もないのに人と話をしたこともなかったし、そんな場合どういった話をするのか、想像すら出来なかった。驚きながらも彼女は答える。現状を答えるくらいなら彼女にだって出来るのだ。
「本を借りたいのだけど」
「借りりゃいいじゃねえか」
「……カードを持っていない」
「じゃあ作れば」
「作り方が分からない」
「じゃあ誰かに訊いたらいい。その辺にいるだろう、図書館の人が」
「……忙しそうだから」
 そう言って彼女は目の前を走り去る司書を目で追った。目的が見えなくなるまで同じ動作をしていた彼は、眉尻を下げ、何かいいたげにユキを見下ろすと、そのまま黙ってため息を吐いた。ユキは何か失礼をしてしまったのかと、途端に不安になる。
「あのなあ、あの人たちはそれが仕事なんだよ。タイミングよく声掛けりゃ別に迷惑でもなんでもない」
 彼は言い終えるとすぐ、早足にすぐ横を通り過ぎようとした司書の一人を呼び止め、早口で伝えた。
「すみません、新しくカード作りたいんですけど」
 司書は歳若い女性で、今気づいた風に、あら、と声を上げると、貸し出しカウンター脇の小さなテーブルを指差し、「あそこにある申し込み用紙に必要事項を記入して、カウンターで渡してください。身分証が必要ですので、一緒に用意してくださいね」と丁寧に説明を加えた。にこやかに立ち去るその人に、彼は軽く礼を告げ、それからユキのほうへと向き直ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、「ほらみろ」と言った。
「訊いたらすぐじゃねえか。ほら、さっさとあそこで書き込め、それから身分証持ってるか」
 早い展開についてゆけないユキは頭の中で彼の言葉を繰り返す。身分証。保険証は財布の中に入っている。焦りながらもなんとか保険証を取り出し、彼に見せるように胸の前に掲げたら、彼はまた呆れたような顔をしてみせた。
「俺に見せてどうする。カウンターで見せるんだよ」
 彼はそのままユキをテーブルまで引っぱってゆくと、申し込み用紙と鉛筆を目の前に置き、丁寧に鉛筆を彼女の手に持たせるまでして、「分かるとこから書いてけ。ほら名前は」と空白の紙をとんとんと指差す。
「ナガトユキ」
「ナガトさんか。はい、じゃあそれを書く。次、住所」
「N市光陽園○ー○ー○ー708」
「次、電話番号」
「家に電話はない」
「連絡先がないとダメだと思うぞ……じゃあ携帯は」
「090−××××ー××××」
「それ書いとけ。次は歳」
「15」
「ああよかった同い年か。年上だったらどうしようかと思ったぜ。性別は……どう見ても女だよな。こっちに丸だ。よし。で、保険証の番号写して、と。これでいいだろ。これをカウンタに持ってったら、すぐカード作ってくれるから。よかったな。じゃあな」
 早口でまくしたて、そのまま立ち去ろうとする彼のシャツを、ユキは思わずしっかと掴んでしまった。引っ張られるようなかたちで足を止めた彼は、振り向くと怪訝そうな表情で彼女を見る。
「……まだなにか」
 すぐにシャツから手を離したユキは逡巡しながら、言いかけては止め、言いかけては止めを繰り返す。しかし彼が再び呆れ眼になってきたのに気づくと、やっと重たそうに口を開いた。
「……ありがとう」
 たっぷりと時間をかけて口にしたそれは、彼女が一番言い慣れていない言葉だった。たった一言だけだというのに、彼女にとってはとてつもなく勇気のいる瞬間なのだ。彼は徐々に表情を崩し、やがて困ったような笑みになると、「どういたしまして」とだけ言って、出口へと向かう。その姿を見送っていたユキはふと気づいた。遠く見える彼の手には、ユキにも覚えのある表紙の文庫が収まっている。
 それは彼女の一番好きな小説だった。

('XX.12.19 yuki)

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