※ 朝倉と長門。流血表現がありますので、ご注意ください。
「同じマンションに住むよしみじゃない。困ったことがあったらなんでも言って」
彼女が初めてそう言った時のことを、わたしはよく覚えている。それは同時に、忘れたくても忘れられない強烈な出来事が、わたしを襲った時だったからだ。
気づけば彼女はいつもわたしのそばにいた。それが一体いつ頃からであるのか、わたしにはまったく思い出せない。彼女と初めて会った時のことなど、ほんとうにそんなことがあったのか、と思えるほど、すっぽりと記憶から抜け落ちているかのようだった。きっと彼女の台詞のインパクトとは正反対に、印象にも残らない出会いだったのだろう。覚えていないのだから、そう予測するしかない。
彼女は朝倉涼子といった。決して珍しくはないが、どうしてかやけに頭に残る名だと、わたしは思う。光に透けるとうっすらと青黒く、美しい髪を持つ少女だ。きりりと強い眉が印象的な、わたしとは正反対の、明るく優しい人。
とても、いい人なのだ。それでもわたしには、彼女がどこか得体の知れない部分を持っているように感じられた。
まるで、そう──宇宙人みたいな。
彼女のクラスはわたしのクラスの隣だ。だから移動教室や登下校の際、よく顔をあわせた。わたしはクラスにも特に馴染みの友人がいないため、彼女は頻繁にこちらの教室までやって来て、一緒にお昼を食べたり、話し相手になってくれたり、それからわたしが本を読んでいる時は、静かに隣の席に腰掛けていたりした。
そんな彼女も、何故か文芸部室には顔を出すことがなかった。
「一度来てみればいい、どうせわたしの他には誰もいないのだし」そうわたしが言っても、彼女は口を濁すだけで、肯定の返事が返ってきたことは一度たりともない。不思議ではあったが、あまり深く詮索してはいけないだろうとわたしは思い、何度か断られて以来、誘いを口にすることもなくなった。
そうだ、一度だけ、部室について彼女が口にした台詞がある。
「あの部室は長門さんの世界なんだもの。私も、誰だって、あそこに入ることは許されないと思うわ」
にこやかに彼女は、妙なことを言った。あそこはただの文芸部室で、わたしがいようがいまいが、あそこに存在し続ける、誰のものでもない教室の一つだというのに。
「ねえ、もしあなたの世界を脅かす侵入者がやって来たら、すぐに言うのよ。そんな奴は、私が排除してあげる」
そう言って笑う彼女は、どこか無感情で、何かが欠落しているようにも思えた。
しかしそんなところが、自分と似ているのかもしれない。
彼女のクラスには、わたしの知っている人がいる。その人とは一度だけ、話をしたことがあった。五月の半ば、初めて訪れた図書館でのことだ。彼はわたしが本を借りられずに立ち尽くしているところに声を掛けてくれ、その上カードを作ってくれたのだ。
わたしにとっては、ほとんど初めての体験だった。朝倉さん以外の人から、そんな風に助けてもらったことなどなかった。
だからだろうか、彼のことをわたしはとてもよく覚えている。きっと彼のほうは忘れているだろう。何度か朝倉さんと彼が一緒に話をしているところに出くわしたことがあるが、彼のわたしに対する反応は薄かった。
そんなこともあってか、わたしは彼の姿を見つける度に、無意識に目で追うようになっていた。
彼は特筆すべきところは何もない、至って普通の男子高校生に見えた。町で出会ったとしてもすぐに彼とは判別できない、もしかしたらよく似ている人なのかもしれないと考え込んでしまうような、そんなぼやけた印象の人だった。きっとわたし以外の人間から見れば。
わたしの視線に真っ先に気づいたのは、朝倉さんだった。
「彼のことが好きなの?」
ある日彼女は心底不思議そうな顔で、わたしにそう訊いた。わたしは黙って首を横に振る。
「そういうわけじゃない。ただ、少し、気になるだけ」
「ふうん、そう」
納得がいかない、といった風な彼女の口調に、わたしこそ首を傾げた。
「そんな風に、見える?」
わたしの質問に、彼女は今度こそ、目をまん丸くして、驚きの表情を露にした。
「今の長門さん、私の知っている今までの長門さんと少し違うわ」
わたしは時々ほんの少しだけ、彼女を怖いと思うことがある。
わたしを見透かしたような彼女の目や、些か情緒に欠ける言動は、出会った頃よりも、少しずつ、増えていっているような気がする。
特に、わたしに彼のことを訊いてきてからこちら、彼女はわたしの家にますます足げく通うようになっていた。ある時はおでんを持って、ある時はカレーを持って。すべて彼女の手作りだという。彼女の家には両親がいないのだ。どうして彼女は一人、こんな豪奢なマンションに住んでいるのだろう。親の都合など、不躾に訊くものでもないと、わたしはあえて触れないままでいたが、ほんの些細な疑問が、大きな猜疑心を呼び起こす。
それに、それはわたしにだっていえることではないか。わたしはどうして、こんなにも広い家でたった一人暮らしている? わたしは今までそんなこと、疑問にすら思わなかった。そういうものだと、納得していたのだ。両親はどこへ行ったのだっけ。両親はどんな人たちだった? 写真はどこにあるのだろう。死んだはずはない。それならば覚えているだろう。それともあまりのショックにその事実を忘れてしまったのだろうか。
大体、わたしはいつからここにいる?
わたしは何者なのか。
朝倉涼子は、一体わたしの、何。
それ以上、考えたくなかった。わたしはわざと忘れたふりをした。そうして休みの日だというのに、いつまでもベッドの上でごろごろと転がっていた。夜中考えていたせいでとても眠いし、身体はいますぐにでも休みたいと訴えてくるのに、脳細胞はますます活発化していて、到底眠れそうになかった。
玄関チャイムが聞こえた時も、よほど居留守を使おうかと思ったが、ドア横のチャイムが直接押されているのだから、きっと朝倉さんか、そうでなければ隣人が回覧板でも持ってきたのだろう。そう考えてわたしは寝間着にカーディガンを羽織った簡素な姿で、躊躇もなく扉を開けた。
瞬間、何が起きているか理解できなかった。
目の前にいたのは、見知らぬ男だった。
ガタイがある訳でもない、中肉中背のやけに猫背気味の男だ。いくら記憶を照合しても、合致する顔はなかった。正真正銘、会ったこともない他人だとすぐに認識する。
では何故、こんなところにいるのか。
考える間もなく、渾身の力で突き倒され、その間に男は後ろ手でドアを閉めている。わたしは尻餅をついたまま、混乱と恐怖で動けなくなっていた。
訳が分からなかった。最初は勧誘か何かかと思ったのだが、幾ら無茶をする新聞の勧誘員でも、いきなり突き倒してはこないだろう。そもそも、その類いは大体オートロックで遮断されているはずだ。この男の侵入経路は、間違いなく非公式なものだろうと予想がつく。
「……誰、どうやって入ったの」
声が震えて、上手く発音ができない。男はそれをせせら笑い、座り込んだわたしの目の前に腰を据えると、わたしの頬を片手で強く掴んだ。
顔ごと強く押されて、その痛みよりも恐怖感がいくらか上だった。押さえつけられ、まったく身体が動かせない。叫ぼうにも声は出ないし、きっとここでいくら喚いても外まで聞こえない。それどころか男を逆上させかねない。
それは初めて感じる生命の危機だった。
そして、わたしの世界を直接的に侵すものだった。
たすけて、と、わたしは確かにその時口にした。
だから、彼女は来たのだ。
男は苦悶の表情を浮かべ、そのままわたしのほうへと倒れ込んできた。その背中には光を受けて輝く、やけに光沢のあるものが生えている。わたしはそれを一瞥して、ゆっくりと顔を上げる。
彼女は優しげに笑っている。まるで聖女のような笑みだ。頬と、胸元と、それから両手は、真っ赤なもので染められている。
ああ、あの時も、彼女は同じように赤く染まって、こんな風に笑っていた。
ちょうど一年前、彼女が初めてあの言葉を口にした時のこと。
あの時は公園だった。今日と同じように、わたしは見知らぬ男に襲われて、それから先も同じだった。
ビデオテープが再生されるみたいに、彼女は同じ行動を繰り返す。次に彼女はきっとこう言うだろう。あの優しい声で、真っ赤なその手をわたしに差し出しながら。
「同じマンションに住むよしみじゃない。困ったことがあったらなんでも言って」
わたしはその時初めて心の底から、彼女を恐ろしいと思った。
('XX.12.20 yuki)