12/21


 シャリシャリと、聞き覚えのある音がかすかに耳に入る。
 頭がぼうっとして、まるで夢か現実か分からない、あの感覚に襲われる。記憶に追いすがろうとしても、まるでピンク色のもやがかかったように不確かで、掴みどころがない。
 ずっと長い間、おかしな夢を見ていたような気分だ。きっと、さっきからずっと聞こえている音の記憶のせいもあるのだろう。
 分かっているのだ。今は一年前ではなく、俺がいるこの場所は、決して間違いではない。
 身体の節々が痛むのは、ずっとおかしな体勢をとっていたせいだ。重たい頭を持ち上げながら、今がいつで、ここがどこなのか、スポンジに水が浸透するみたいに、ゆっくりと理解してゆく。
 頭を振って、視界を広げる。明るさに慣れていない目でもすぐに馴染むくらい、辺りは仄暗かった。
「おや」
 忌々しい思い出を呼び覚ます音が止んだかと思えば、あの日、目覚めて一番最初に聞こえてきたのとまったく同じ調子の声が耳に飛び込んできて、俺は瞬間、足下がぐにゃりと歪んだような錯覚に陥った。
「やっとお目覚めですか。随分深い眠りだったようですが」
 古泉の笑みがやけに意図的に見える。わざとらしい。あの日の再現でもしようってのか。その一言一句違わない台詞からもそう窺えたが、単に無意識のなせる技なのかもしれない。
 示し合わせたように真っ赤なりんごが、今まで俺の寝臥せっていた長机の上に、数個並べられている。一つは古泉の手に収まり、既に半分くらい、白い果肉が姿を現していた。器用に剥かれた皮は途切れることなく、添えられたナイフから続いている。その銀色の鈍い光が目に入り、ありもしない傷跡が、じくと疼いた。
「電気くらいつけろ。もう日が落ちてるじゃねえか」
 俺が言うと、古泉ははたと気づいたように手を止め、剥きかけのりんごを机に敷かれた新聞紙の上に置いた。
「これは失礼しました。あなたが寝ていたものだから、灯りが邪魔になるかと思って」
 どうも、俺のためだったと言いたいらしい。確かに気遣いには感謝する。が。
「こんな暗い中でナイフなんか使ってたら手を切るぞ。気をつけろ」
 俺の言葉に目をしばたかせた古泉は、それからスマイルマークみたいな笑みを浮かべた。
「こちらこそ、お気遣いありがとうございます。しかし僕も見くびられたものですね。そんなヘマはしませんよ。あの時だって上手くやったでしょう」
 そう言ってから古泉は再びりんごを手に取ると、手つきも鮮やかに、最後の赤色を剥き終える。そしてその言葉通り、器用にうさぎの彫刻を施したりんごを手渡された。遠慮なしに頭からかじると、まだ少し酸っぱい。ひやりとした果肉の舌触りが心地よかった。
「なんで部室にりんごなんかあるんだ」
「朝比奈さんが持ってきたんですよ。鶴屋さんからのお裾分けだそうで。結構な量だったらしく、ここにあるのは僕とあなたの取り分です。そうそう、あなたが寝ている間に、他の皆さんは既に帰られました」
 喋りながら席を立ち、古泉はやっと蛍光灯のスイッチを入れた。人工的な明るさは、寝起きの目には少々刺激が強い。眩しさに目を細めると、それを見て古泉が笑う。
 しばらく二人して無言で、八等分されたりんごをかじっていた。男二人で向かい合い、黙って果物を食っている図を想像してほしい。どうひいき目に見ても、何かの罰ゲームとしか思えないはずだ。その上俺の手にしたりんごは、ご丁寧にうさぎの形をしているときた。こんなものを口にしたのは、去年の病室でのことを除けば、小学校の遠足以来だぞ。
 ああ、思い出したくもない出来事だ。あの三日間で俺が覚えておきたいことといえば、長門のはにかみ笑いくらいである。世界に一人取り残されたような恐怖も、金属が身体の中に入ってくる感触も、出来れば二度と味わいたくない。
 俺のしかめ面に気づいてか、古泉が言う。
「その割に、あなたはいつも無茶をしますからね。ご自分がこの世界にとって何事にも代え難い価値のあるものだと、少しは自覚をもってください」
 その偽悪的な口調とは反対に、俺を見る古泉の目は、どこか不安定に揺らいでいるように見えた。
「別に無茶はしてない。だいたい、俺は巻き込まれてるだけだろう。不可抗力だ」
「いいえ。いつだって、あなたが別の選択肢を選びとっていたなら、あなたはそこまで危険な目に遭わなかった。安全な道は他にもいっぱいあるのですよ。それをあなたは、わざわざ高難易度のアスレチックコースを行こうとするのですから、フォローするこちらは堪ったものじゃありません」
 わざとらしく欧米人のようなポーズで首をすくめると、古泉はふと真顔に戻った。どうにもばつが悪いのは何故だ。こちらは何も悪くないというのに。一瞬口ごもりながらも、そこは反論をさせていただきたい。
「そりゃこっちの台詞だ。お前らんとこと対立してる変な組織とか朝比奈さんとは別の未来から来た未来人だとか長門よりすごい宇宙人だとか、そういうのとはこれ以上、関わり合いになりたくないぞ」
 古泉は困ったように眉尻を下げ、笑ってるんだかなんだかよく分からない、微妙な笑顔をしてみせた。かすかに首を傾げると、そのまま窓の方へと視線を移した。俺もそれに倣って窓の外を見るが、薄暗くって何も見えやしない。強いていえば窓ガラスに映った、彩度の極端に低い自分たちが見えるくらいか。
 明後日の方向を見たまま、古泉は呟く。
「そうですね……その通りです。僕だって関わりたくないのはやまやまなのです。我々も、きっと朝比奈さんや長門さんも、そう思っているでしょう。しかし彼女があの力を持つ限り、そのような存在との接触も避けられない。それは仕方のないことです。──それよりも僕は、もっと恐ろしいことがある」
 古泉はガラス越しに、俺を見ているようだった。直接的ではない視線が余計に気になって、俺もずっとそちらに目を向けている。俺たちは窓ガラスを通して見つめ合うという、些か妙な状況に陥っていた。
 古泉は、そこにいない誰かに話しかけるように、実体の俺から目を逸らし続ける。
「去年の今日でしたね。あなたが目を覚ましたのは。あなたが眠り続けていた三日間は色々と大変でしたし、随分心配もしました。それでも僕が比較的落ち着いていられたのは、涼宮さんが、あなたを失うことを望んでおらず、また彼女の希望は高確率で事実となる、そんな力があることを知っていたからです。しかし今あなたの身に何かが起こったとして、僕は以前のように楽観的には考えられないでしょう」
「なんでだ。お前はハルヒと俺を信用してるんだろう」
「いえ……今僕が最も恐れているのは──彼女よりも、この世界への影響力の強い、新たな『神』が現れることです。そしてもしも、その『神』が僕らに悪意を持っていて、例えばあなたの消失を望んだとしたら?」
 俺は古泉の言い分を鼻で笑ったが、やつの声色は真剣そのものだった。俺は憮然たる面持ちとなり、思わず呆れを含んだ溜め息を漏らす。
「あのなあ、これ以上、あのバカのような奇天烈なプロフィールの持ち主が現れてたまるか」
「現れないと言い切れますか? あなただってここ二年弱で、涼宮さんに関わる様々な思想の人間と出会ってきたのだから分かるでしょう。涼宮さん以外の人間を『神』に仕立てあげようとする輩だって、長門さん以上の力をもつ宇宙生命体だって存在している。残念ながら僕は、もう一人の『神』の存在を否定出来るだけの、確信を持ち得ないのです。世界はあっという間にその姿を変えるのだと、あなたこそよく分かっているのでは?」
 反論の余地はなかった。
 古泉の言う通りだった。何の疑いもなく存在していると思っていたこの世界も、それどころか俺や、世界中の人間の持つ記憶さえ、ほんの一秒後には全く別のものとなってしまう、そんな現象を俺は身を以て体験したではないか。
 いつだか古泉が言っていた、人間原理だったか。あれだって当初は馬鹿げた理論だと軽んじていたが、今の俺には、完全に否定するなど出来そうになかった。
 そうだ、世界は簡単にリセットされるのだ。消えた人間を蘇らせることも、そこにいた人間を消すことも、『神』にとっちゃ造作ない。その感覚自体、自分の理解を超えた範疇だ。想像しただけで背筋が薄ら寒くなってくる。
 しかし、それでも。
「おいおい、『機関』はいつのまに多神教になったんだ? お前はハルヒ教の信者なんだろうが。自分とこの神様一人さえ信じときゃいいんだよ。よく言うだろう、『信じるものは救われる』って」
 俺はわざと気のない風にそう告げた。古泉の視線が、やっとこちらを捉える。ガラス越しではなく、ちゃんと俺に顔ごと視線を向けている。その目は大きく見開かれ、何度か瞬きを繰り返したのち、やがてゆっくりと細められた。
「ああ、そうでしたね、僕は涼宮さんのことを存外、信用しているのでした」
「それに長門は意外とすごいぞ」
「ええ、知っています」
「朝比奈さんなんか時をかけてしまえるし」
「すごい能力だと思います」
「あと、お前も結構すごいと思うぞ」
「そう言っていただけると光栄ですね」
 古泉はそう言って、にっこりと微笑んだ。比喩でもなんでもなく、見たまんま、眩しい笑みであった。思わずくらりとくるほどに。
 どうにも馬鹿馬鹿しくなってきて、俺は鞄を手に立ち上がる。
「帰るんですか。はい、りんごを忘れずに」
 向かいの古泉も同じく腰を上げると、机の上に載ったりんごを三個ほど投げて寄越してきた。まだらな赤の表面に、蛍光灯の光が丸く反射している。よく見るとそのりんごはつややかで、とても美しい見目をしていた。それに味だって、普通のものより美味かった気もする。鶴屋さんの手土産なのだ、きっとスーパーで売っている一般のりんごとは比べ物にならない高級品なのであろう。そんな品を裸のまま鞄に放り込むのは気が退けたが、仕方がない。
「朝比奈さんと鶴屋さんに礼を言わなきゃな」
 ジャケットを着込み一歩部室の外に出ると、途端フリーザー並みの冷気に身を包まれる。寒さに肩を竦ませて、廊下を歩きながら、俺は一年前を思い出す。
 あの時、この部室棟の廊下は、俺のたった一つの希望へと繋がる道だった。ここを通る時は一人きりだったり、長門が隣にいたり、そしてハルヒと古泉と朝比奈さんの三人が揃っていたこともあった。
 訳が分からず絶望的になっていても、文芸部の部室へと向かうその時だけは、ほんのかすかな希望を見いだしていたのだ。
 今隣には、俺のことをよく知る、俺にとってのほんとうの古泉がいる。
 それが植え付けられた記憶ではないと、俺には言い切れない。それにいつまた世界が腸捻転を起こすかも分からないのだ。明確な敵意をもったもう一人の『神』が現れないとも言い切れない。
 もしかしたら、またSOS団がばらばらになる時がくるかもしれない。それでも俺には自信があるのさ。
 五人を揃えて、鍵を開く自信がさ。

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