メッセージ



 つまらない日常だった。
 毎日が単調で、あたしの周りには誰一人あたしを分かってくれる人間なんていなく、世の中はくだらない常識にしばられたままで、何もかも、うんざりするほどに普通だった。
 普通。なんて無味乾燥で無為なんだろう。あたしの大嫌いな言葉の一つだ。普通は人を殺す。日常に個を埋もれさせ、ただ何かを生産するために、歯車の一つとなる。そんな人生を、あたしは少しだって望んではいなかった。
 あたしは違う。そんな単調な一生を送る人間じゃない。
 視界を広げろ。世界を見渡せ。そして見つけなくてはいけない。
 この世で一番刺激的で――面白いもの。


 三年前のあたしは確かにそんな風に考え、そして一つ一つはほんのわずかだったけれど、たくさんの行動を起こした。それは世界という大きな枠からみれば、きっと取るに足らないものだっただろう。それでもあたしは必死だった。この小さな一歩が、そのうちこの大きな世界を動かすのだと、信じていた。
 それなのに。あたしが今存在しているこの場所の、なんてちっぽけなこと!
 ただ学力だけで選択したこの学校には、あたしの興味をひく人間なんていなかった。唯一心惹かれた「季節外れの転校生」には、最初こそその眉目秀麗さと、同級生にまで敬語を使うという奇異さに、面白い学校生活への予感を感じ取った。
 でも期待はずれだった。彼は存外普通の人間で、あたしの言うことを聞いてくれはするけれど、でもそれだけだ。
 入学式の日、クラスの自己紹介で言った言葉に反応した者はまだいない。少なくともこのクラスにそんな人間はいないと分かっている。もしかしたら学校にも、この街にも、それどころか日本にも。
 この時間軸に面白い人間なんて存在していないのでは?
 時々不安になる。どうしてこんなにも不安なんだろう?
 あたしは知っている。あたしの記憶の中にある人物の存在が、あたしを不安にさせる。
 あれはほんとうに実在していた人間だろうか?
 ――あたしの見た幻なんかではなく?


 あの日あたしは校庭にメッセージを残すため、学校へ忍び込もうとしていた。準備は万端だった。校門の鍵を盗み出し、必要な道具を揃えた。自分で考えた文様は一人で描くにはちょっと重労働だったけれど、できないほどでもない。ほんとうなら一人ぐらい協力者が欲しかったところだけど、そんなこと頼めるようなやつ、あたしの周りにはいなかった。
 普通の人間が、あたしの思いつきに同調してくれるわけがない。そんなやつがいれば、きっと今頃あたしはこんな大変な真似していなかった。あたしの元にやって来て、もっと楽しい日常をあたしにもたらしてくれていたはずだ。
 勢いをつけ、門柵に手をかけた。何度か屈伸して、強くジャンプ。半袖の腕に鉄の冷たい感触が触れ、少しだけじんとする。
 そのときだった。忘れもしない、あの低くて、気怠げな声が聞こえてきたのは。
「おい」
 ほんとうは死ぬ程驚いた。けれどそれを見せてはいけない。大人に弱みなんて見せてはいけない。あたしは少しだけ怒りをはらんだ声を意識し、思い切り睨みつけてやった。
「なによっ」
 振り向いた先にいたのは、声から想像していたよりも若い男だった。制服を着ている。おそらく北高のものだ。何故か背中に同じ制服を着た女の子を背負っている。そいつは呆れたような目でこちらを見ていた。怪訝という顔ではない。まるで友人の悪戯を目撃しているような、そんな親しみが籠っているように見えた。
 危ない目には何度か遭ったことがある。だからそれを察知する目も、対峙する方法もあたしは知っている。
 でも、きっとこいつには必要がないと、あたしの判断力が訴えていた。だいたい気を失った女の子背負ったまんま、別の子どもを襲うなんて考えられないし。
 結果、あたしの判断は正しかったのだった。
 別れ際にジョン・スミスと名乗ったそいつは、ぶつぶつと文句を言いながらも、結局あたしの仕事を手伝ってくれた。それから、まるで宇宙人や未来人や超能力者の知り合いがいるみたいな口ぶりで、あたしの疑問を肯定してみせた。
 変なやつだと思った。そう、ジョンは、あたしの求めていた「普通じゃない人間」だった。
 誘いの言葉をかけたとき、あたしには予感があったのだ。こいつはきっと、あたしを手伝うためにここに来たんだって。


 なのにどうして、あたしは引き止めなかったんだろう? どうしてあんなにあっさりと別れてしまったんだろうか。連絡先だけでも聞いておけば。そうしたら一緒に遊んでくれたかもしれないのに。あの日みたいに、あたしの望みを叶えてくれたかもしれないのに。あれから北高の全生徒を調べたあたしは、結局ジョンを見つけることができなかった。後悔だけが膨らんでいった。
 あのときのあたしは知らなかったのだ。三年後、こんなにも鬱屈した思いを抱えて、つまらない生活を送ることになるなんて。あのときは、もっとずっと楽しいことが、きっと訪れるはずだって思っていた。希望ばかりが膨らんで、思う理想は高すぎた。
 あたしは馬鹿だった。現実を知らないままだった。こんな風に鬱屈した思いを抱えたまま、教室の端の席で臥せっているなんて、想像もしていなかった。
 夜に見る夢は、いつも残酷にそれをつきつけた。
 夢のなかのあたしは、いつも楽しそうに遊んでいた。教室にはジョンがいて、それから宇宙人でも未来人でも超能力者でもないけれど、なんだか面白くて可愛くて格好いい友達がいる。ジョンの顔なんて覚えていないから、全体的にぼやけた映像でしかない。でも、すごく楽しい。不思議なことは起きないけれど、それでも何故だか楽しくて仕方がない。
 だからこそ、目が覚めたときの絶望感は大きい。あの世界はあたしのものではない。
 ただの夢だ。きっと存在し得ない嘘の世界だ。ほんとうは、あの出会いだって幻だったのかもしれない。夢を見ていたのかもしれない。それでも。
 あたしは必死に我慢する。
 そうして、もしかしたらこの現実で会えるかもしれない、夢のなかの誰かを思う。


 繰り返す毎日。つまらない日々。授業が終わり、すぐに教室を飛び出す。この学校にはロクな部がないから、放課後ここにいる必要もない。帰ってまた不思議を探しにいかなくては。一人きりでも。後ろをついてくる古泉くんが何か必死に話しかけてくるけど、何を言っているのか分からない。つまらない。適当に相づちをうつ。あたしから声を掛けたのだから、それくらいはしてあげるのが義理だ。
「おい」
 唐突に声が聞こえる。一瞬の寂寥感。でも掴み切れない。無骨な呼びかけにだんだんと嫌悪を覚えはじめる。
 振り向くと、坂の上にある高校の制服を着た男が立っていた。必死の形相。どこかで見たような気がする。でも分からない。知らない人間だ。
「何よ」
 苛立ちに、声が普段より一層低くなる。威嚇。見るからにつまらなそうな人間。あたしに声を掛けていいのは、「普通じゃない人間」だけだ。どうせまた告白や交際の申し込みだろう。くだらない。誰か恋愛なんて一種の精神病だってことを、広く人口に膾炙するべきだ。
「なんの用? ていうか誰よあんた」
 苛立ちは言葉となって相手を攻撃する。あたしの口はそういう風にできていた。しかし男はひるむ様子もなく、古泉くんに標的を変える。当然ながら彼の知り合いでもないらしい。
 誰。誰だ。どうしてあたしの名前を知っている。あたしの知っている人間? そんなはずはない。記憶力だけは確かだ。ほんとうに?
 あたしは問いつめる。
 男が口にしたのは、あの七夕の夜のことだった。
 あたししか知るはずのない事実。誰にも届くはずのなかったメッセージ。それを男はすべて知っていた。
 咄嗟に男の胸元を掴んだ。手加減なんてする余裕はなかった。あたしの頭の中は疑問符と、早く気づけというもう一つの自分の声が混じり合って、ひどく混乱していた。
 北高の制服。耳に触れる低い声。
 その瞬間、既視感は記憶として蘇った。
「あんた、名前は?」
 苦しげに顔を歪め、しかし男は殊更ゆっくりと、その名を口にした。
「ジョン・スミス」
 七夕の夜の記憶が蘇る。
 あたしの希望の源である言葉を吐いたその口が、またゆっくりと閉じられるのを呆然と見つめる。
 彼は、あたしの幻なんかではなかった。
 確かに存在する「普通じゃない人間」だったのだ。
 ――あたしの世界を、やっと見つけた。


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