※GK合同誌「恋に落ちる/落ちない法則」内の話の後日談です。
キョンが作家、古泉がその担当編集という未来パラレルのため、本編を読んでいないと話の分からない箇所があるかと思いますのでご了承ください。
最初に「海に行きたい」と言ったのは彼のほうで、それならば折角なので一泊二日の小旅行にしませんかと提案すれば、しかして彼は盛大に否定の意を重ねた。
「日帰りでいいじゃねえか、どうせ二、三時間楽しんだら疲れて、夕方前には帰りたくなるって」と主張する彼と、
「日帰りで行ける近場なんて、ぬるま湯のプールに浸かりにいくようなものじゃないですか。折角なんですから、ちゃんと海水浴のできる、水のきれいなところに行きたいです」と反論する僕の意見は、平行線のまままったく噛み合う気配をみせなかった。下手をすれば計画自体が立ち消えるのではないか。そう危惧した僕は、断腸の思いで奥の手を切り出すことにした。
「僕たち、付き合い始めてから旅行なんて計画したことがなかったでしょう。たまには恋人同士らしく、そうういったことをしてみませんか?」
本当は何度か取材旅行に同行したことがあるが、恐らく彼にとってはそんなことどうでもよく、何故なら当の彼の耳には、「恋人同士」という単語のみがクローズアップされて届いているからに他ならない。
暫く経ってから気づいたことなのだが、彼はよくよく「恋人同士」という言葉に弱い。非常に弱い。基本的に彼は恋愛関連のイベントごと――例えばクリスマスだとかバレンタインだとか、そういったことが苦手らしく、付き合い出して初めて迎えたそれらの行事を、最初は精一杯回避しようとしていたのだ。
じっさいクリスマスのときなど、僕が「せっかく恋人同士なんですから、いかにも恋人らしいクリスマスを迎えてみませんか」などと半分冗談のつもりだった戯れ言を口にしなければ、おそらくクリスマスケーキもシャンパンもなく、ご馳走でもないただの夕飯を摂ってその後ベッドになだれ込みという、ロマンチックの欠片もない通常運行の夜になっていたことだろう。最初は彼の掌の返しっぷりに、いったい何事かと思いはしたが、キーワードが「恋人同士」と判明するまでにそう時間はかからなかった。以来僕の繰り出す伝家の宝刀として燦然たる輝きとともに、彼のデレを引き出す一言ランキング第一位の揺るぎない栄光を保ち続けている。
そういったわけで、件の単語を耳にした彼は案の定、耳まで真っ赤にして俯いた後、口を尖らせながら呟いた。
「そ、そこまで言うなら行ってやらんでもない」
軽い。いや、あえて言おう。ちょろい、と。
古泉の野郎、明らかに俺で遊んでやがるな、とは気づいている。いるのだが、こればかりはどうにも抗えず、腹立たしいことこのうえないのだが全て自業自得ゆえ、誰にこの怒りをぶつけるべきか分からない。強いてぶつけるならば、根性なしの自分自身に対してであろうか。
俺は俺の意志薄弱によって、こうして旅行用ボストンバッグに一日分の着替えとその他諸々を詰め込み、辺鄙な海沿いの国道をひたすら突っ走る古泉所有のシルビア、その助手席に収まっているのであった。
「旅館まであと三キロほどでしょうか。地図見ていただけます? そこに入ってるので」
古泉が正面見据えたままダッシュボードを指差す。開けると確かに、ホームページの地図をプリントしたと思しきA4用紙が一枚ぺらっと入っていた。膝の上に乗せた全国道路地図と見比べる。現在南下中の国道をずっと真っ直ぐゆくと、左手に目印の漁業組合卸売センターが見えてくる、はずだ。そこを通り過ぎてまだまだ真っ直ぐ、そうすると目的地の旅館に到着である。
「ああ、あれが卸売センターだな。あってるあってる。つうか一本道なんだから間違う要素ゼロだろ」
「そうですが、一応ですね」
「なあなあ、あそこ卸の直販以外に、レストランも併設されてるんだ。魚うまそうだよな、明日帰りはあそこで飯食おうぜ」
正午の南向きは日差しの強いものの、少しひやりとした海からの風が心地よい。開け放しの車窓から、むっとするほどの潮の匂いが薫り始める。眩しさに目を細めて道路の向こう側を見ると、連なる家々の合間から、きらきらとひかる水平線が現れた。つい食い入るように見入っていると、視界の端で古泉がくつと笑う気配を感じた。
ちくしょう、分かっているのだ。自分が相当浮かれているってことには。
自慢じゃないが、生まれてこのかた、いや、中一の頃二度目の初恋で自分の性癖を理解して以来十何年だ。ずっとマイノリティという名の獣道を独走してきた我が身に、ここにきて「恋人」なんて甘く普遍的な存在が現れたのだから、それもしかたのないことなんだが。
最初あんなに嫌がっていた癖に、蓋を開けてみればガイドブック片手に一番張り切っているのはこの俺だ。恥ずかしいったらない。
「あれ、お昼は『海の見えるレストランでロマンチックなひととき』でなくていいんですか?」
「っ……! おまっ、見てんじゃねえよ!」
俺がこっそり端を折り曲げていたガイドブックのページのコピーを、古泉は笑いを含んだ声でそのまま読みあげやがった。くそ、俺の命を握っているからといって、調子に乗りやがって。運転が荒くて怖いんだよこいつの車は。
しかし元々表情バリエーションの七割を笑顔が占めている古泉であるが、今日は一段とひどく、朝からこのかた、にやけ面しか見せていない。
かくいう俺もひどいもんだ。気を抜くと、古泉を喜ばせるだけのような、間抜けで浮かれた言動ばかりが出てくる。この男は俺のそういう姿を見て喜びを顕にする、要は鬼である、悪魔なんである。
だから嫌だったんだ、一泊二日の非日常なんて!
海水浴場の近くの旅館なんて、大方八十年代の香りのする、豪華なのか貧乏臭いのか判別に困るところか、そうでなければ民宿すれすれのところばかりだと思っていた。
「しかしこれはこれは……」
「いい部屋だろ、探し出すのに苦労したんだ。いかにも旅館って感じのとこは苦手だからさ」
通された二人部屋は、打ちっ放しコンクリートという随分とモダンな外観からは想像できないくらい、趣のあるものだった。ベッドルームタイプにも関わらず、どこか和の色が漂うのは、たとえば抜染の布のベッドカバーだとか、作りの丁寧な和紙の間接照明、しつらえられたインテリアのせいだろう。ウェルカムドリンク代わりに置かれていたのは、ここいら名産の甘夏を使ったみかんジュース、それに籠いっぱいの銘菓も添えられている。
そしてテラスにはもちろん、小さな温泉が備え付きである。
「ここ、海水浴目当てに来てるの僕らくらいではないでしょうか……」
「んなことないだろ、海水浴に便利な旅館としてちゃんと載ってたぞ」
一応浜辺直通の通路はあるようだが、どうにも忍びない気分になる。
「さっさと着替えて泳ごうぜ。寒くなってきちまう」
僕がみかんジュースを飲みながら複雑な思いを抱いている間に、彼はさっさと着替えて準備万端状態になっていた。
こういうときだけは無駄にアクティブで困る、普段は面倒臭がりの癖に。
海はいい。夏も好きだ。日のひかりを浴びて遊んでいると、自分がただの生物なのだと実感できる。普段は仕事が仕事なだけに引き篭もりがちの俺の体は、急激な紫外線にあてられすでに悲鳴をあげかけているが、そんなの知ったこっちゃない。生き急ぐマグロのように、俺はひたすら泳ぐのみだ。
最初は俺に付き合って潜りや遠泳に付き合ってくれていた古泉は、ぐったりした様子でパラソルの下、死んだように眠っている。昔プールで素潜り対決したときには、あいつに勝てた試しがなかったものだが、淡水と海水じゃまた勝手が違うのかもしれない。それに朝からずっと運転していたんだもんな、疲れもするだろう。悪いことをした。
ふと高校一年のときに起こった、繰り返す夏休みのことを思い出す。あのときの自分がすでに古泉に惹かれていたのかどうか、残念ながら覚えてはいない。しつこく好きでいたわりには、細かいことはどうでもいいとばかりに、成就の可能性皆無だった昔の恋の記憶は俺の脳内からぼろぼろと零れていった。だから正直古泉のいっていた、高校二年の雨の日のこともよく覚えていないのだ。自分がどれだけ恥ずかしいことをしたのか覚えていないってのは、ある意味幸せなことかもしれない。
海に上にぽっかりと浮かびながら、いまだ実感の湧かない今の状況を思うと、喉元を掻き毟りたくなるような、大声で叫びたくなるような、おかしな心持ちがする。なんせ、今までの人生で一度だって、叶う恋などしたことがなかったのである、耐性ができていなくてもしかたのない話だ。そのせいで苦手だったというのに――クリスマスとかバレンタインとか、世間の浮かれきった様子を斜から眺めて馬鹿にする立場でいたかったというのに、どうだ俺のこの体たらくは。
クリスマスには科学館のプラネタリウム特別プログラムを見に行った後、ホテルのレストランでディナーを食った。古泉はしきりに上階に泊まりたがっていたが、俺は必死に止めた。(そんな日に男二人でホテルの部屋を取れるほど、俺の度胸はすわっちゃいない)
バレンタインには有無を言わせぬ笑顔で押し切られ、女性の情念渦巻く特設チョコレート売り場を這々の体で探索し、古泉の食いたがっていた、なんとかいうメーカーの限定トリュフを買ってこさせられた。本人はしれっとした顔で、今年はこれと一緒にチョコを食べるのが流行ってるようですよ、と赤ワインのボトルを持ってやって来たのだが、それがまた一段と腹立たしかった。
俺がこういったかたちで世間の目に晒されるのを嫌がっていると知ってか知らずか――いや間違いなく知っていながら、古泉は平気で考えなしなことをいう。
結局のところ、あいつは分かっていないのだ。俺たちみたいな人間が、どれだけ世間から蔑まれるべき存在なのかってことをさ。
鼻の頭が真っ赤になった彼に起こされた頃には、もう夕陽が沈みかけ、目の前の海は真っ赤に染まってゆく最中だった。波間にたゆたう模型みたいに小さな船が、一つ、また一つと向こうの港へと帰ってゆくのを見ていると、不思議と惜寂感を覚える。僕は大きく伸びをした。気温が下がったのか、少し肌寒い。身を震わせると、彼は笑って、温泉入るか、と砂だらけの手で僕の頭をくしゃくしゃと撫でながら言った。
旅館裏のシャワー室で砂を流してから部屋に戻った。てっきり一緒に入るのだと思っていたのに、彼は僕ひとりだけを温泉に放り込んで、自分はさっさとベッドに沈み込んでしまった。そりゃああれだけ泳ぎ続けていれば疲れもするだろうが。
「一緒に入らないんですか?」
期待半分で訊くと、彼は枕に顔を押しつけたまま、アホ、とくぐもった呟きを吐いた。思わずむっとして彼のほうを向くと、シーツから覗く耳殻の端がほんのりと赤く染まっている。相変わらず素直じゃない人だ。脱衣所に引っ込んでからくっと喉を鳴らすと、聞こえていたのか扉向こうから小さな舌打ちが聞こえたのだった。
夕食は部屋の隣にある小さなダイニングルームを、時間差で使うというスタイルだった。季節のものを交えた懐石風のコースのあまりの美味しさに、僕たち二人は無言で舌を唸らせた。近くの海で素潜りで捕って来たという岩牡蠣は身がぷりぷりとしており、おおぶりながらも濃厚な味わいは、なるほど海のミルクと称されるのも当然だ。深い甘みに混じって、嫌というほど嗅ぎ慣れた潮の味がした。新鮮な刺身はもちろん、夏野菜の炊き合わせも米茄子の田楽も、すべて素材の味がぎゅっと詰まっていた。訊けばすべて、このあたりで採れたものばかりだという。なるほどどうりで美味いはずだ。
締めの雑炊までがっつりと掻き込み食事を終えた僕らは、満腹のまま温泉につかるべく、今度は大浴場のほうへと向かった。部屋に風呂がついているせいか、せっかく広々と入れる大浴場には人っ子一人いない。内湯は檜、露店は岩風呂で、どちらも二人で占拠するには勿体ないほど大きかった。浴場を覗いた彼は一瞬だけ眉を顰めると、すぐに気を取り直したのか無表情で内湯へと身を沈めた。
「いい旅館ですね」
「ああ、俺もこんなにいいとこだとは思ってなかった。よかったよここにして」
話しながら隣に腰を下ろすと、彼がやんわりと距離を置く。湯気でしっとりとぬれた髪の隙間から、伏せられた睫毛がかすかにふるえるのが見えた。目元がじんわりと色づいている。噛みしめているくちびるは血色のよい赤色にひかる。付き合って半年以上経とうというのに、未だに生娘みたいな反応を見せる彼がおかしい。――一度ベッドに入ってしまえば、あんなにいやらしくなるのに。
そういえば裸だったんだと思い直す。それから、今は二人きりだとも。すぐ視線の先には、血行よく上気した彼の首筋があった。ああ、あのよく日に焼けた肌に、思い切りキスして、噛みついて、跡を残したいと考える。今それをしたら彼は怒るだろうか、きっと怒るだろうな。
彼が僕たち二人の関係を他人に悟られないように、殊更気を遣っていることを、僕はよく知っている。いっそ腹立たしいほどにだ。たしかに大手を振って歩けるような関係性ではないだろう。嫌悪感を示す人も多い。彼とこのような事態に陥るまでは、どちらかといえば僕はそちら側の人間だったのだから、たいがい分かるのだ。それでも、自分の気持ちを我慢してまで世間に溶け込む必要がほんとうにあるのか、隠していることが美徳なのか。それに対して僕は、素直にうんとは頷けない。
だって世間をどれだけ敵に回そうとも、味方は一人だけで充分じゃないか。
わざとらしく肩を触れさせると、彼は分かりやすいほどに身体を大きく跳ねさせた。笑いかけるとバツの悪そうに目を逸らす。それでも視線を逸らさずいると、彼はしびれを切らしたのかおもむろに立ち上がり、「俺、もう出る」と、僕の返事も聞かず浴場を飛び出していった。
もう勘弁してほしい。俺の理性が豆腐の角くらいヤワだってことを、あいつは誰よりよく知っているはずだろうに。わざとだろう。俺の反応を見ておもしろがってるだけだろう。ただのからかいに対してでも、俺の分身は正直に反応するわけで、あのくそ意地悪い男のことを、それでも好きでしょうのない自分がほとほと嫌になる。
結局部屋の風呂に入り直し、ベッドの上で自己嫌悪に陥って転がり回っていると、いつの間に帰って来たのか古泉がソファに腰掛け、にこやかな笑みを浮かべていた。
「いいお湯でした。あなた湯あたりでもしたんですか? 大丈夫です?」
「うるせえ、ほっとけ」
「湯冷ましに、ちょっと外を散歩しませんか? さっき露天風呂に入ったら、星がすごく綺麗でしたよ」
ほらな、こいつは天性のロマンチストで誑し野郎なんだよ。そして俺はそれに抗えない馬鹿野郎だ。俺の首は俺の意志を無視して、見事縦に振られていたのだった。
松林を抜け、海岸に出ると、そこにはたしかに満天の星空があった。都会じゃ久しく目にしていなかった本物の星空は、クリスマスに見たプラネタリウムよりも、ずっとうつくしくて壮大だ。古泉が空を指差す。夏の大三角は分かりますね、デネブ、ベガ、アルタイル、それからちょうど反対側にあるのがポラリス。水平線の際に見える明るい星はさそり座アンタレスです。砂浜をゆっくりと歩きながら、古泉は話し続ける。
「織姫星と夏彦星が川の向こう岸に隔てられたのは、婚姻後の二人が恋愛ぼけで働かなくなったからだそうですが、本来の二人は腕のいい働き者だったらしいですよ。恋愛がひとを馬鹿にさせるって、まぎれもなく事実なんですよね」
俺は驚いて身を竦めた。古泉の手が俺の手をとったのだ。振り払おうとするが、古泉の手の力はますます強まった。
「おい、離せよ……」
「どうして? 『恋人同士』なんですから、手くらい繋いだっていいでしょう?」
ああむかつく! こいつ、そう言ったら俺が黙ると思い込んでやがる。しかし腹立たしいことに、それが誤りであるとは決して否定できない。それでも今は言葉の威力よりも、ここがフィールド外であることのほうが問題だった。
「だ、誰か来たらどうするんだ」
「誰も来やしませんよ。こんな夜の海に。万一来たって、どうせ闇にまぎれて見えやしないし、それに」
月のあかりに照らされて、深く刻まれた古泉の笑みが夜のなかにうっすらと浮かんだ。それは何の魔力か、壮絶に妖艶だった。無意識に喉が鳴る。古泉は何もかもを分かったような笑顔で、言い放ったのだった。
「誰になんと思われようと、別に構いませんから。あなたがこうして僕の隣で、いつでも手を取ってくれるのならね」
俺はもう、絶句して、それから頭を抱えた。身体中が死にそうに熱かった。
――ああ、負けたね。俺の負けだ。こいつはそういうやつだったさ。