恋愛小説について


 扉を開けると、窓際に一人の少女が座っている。
 もう何十回と見慣れた風景が目の前に広がっている。その少女は人を撲殺できそうなほど分厚いハードカバーを膝に乗せながらも、その重量すら感じていないかのように平然と、無表情にページを捲っている。彼女の腰掛けるパイプ椅子は、わずかとも音を立てずに静かなものだ。
「早いな、長門」
 俺が声をかけると、彼女は目だけをこちらに向けてから、ほんの数ミリだけ首を縦に動かした。俺は部屋の真ん中に置かれた木の長机に鞄を杜撰に放り投げると、並べられたパイプ椅子の一つに腰掛ける。鞄から下敷きを取り出しはたはたと仰ぎながら九月の残暑と格闘していると、その真向かいには、大量に並べられた古今東西の本、本、本。
 元文芸部の部室なだけあって、この部屋の本棚には当初から大量の本が並べられていた。古典ミステリからSF、純文学にベストセラーの文芸書まで。見たところ長門は一番上段の左端から順に読破しており、今は三段目のちょうど真ん中辺りに手を出しているようだ。おおよそ百七十冊目程度だろうか。
 ぼうっと本棚ばかりを眺めていて俺はふと気付く。そういえば、おれがここに座っていて、なおかつ古泉と向かい合ってゲームをしていない時は、大概視界の範囲内に長門の姿が写っている──つまり、長机の対岸に長門がいるということだ。しかし今日は視界から外れた窓際の隅っこに彼女はいる。窓は開け放たれていて、セーラー服の襟と薄く光を透かした髪が風にはためくと、彼女は半袖から伸びた細い腕で無造作にそれを押さえる。額に汗を浮かべながら机に半分身体を預けだれている俺とは違い、てんで涼しそうな様子だ。
「珍しいな、今日はいつもと位置が違う」
 俺の声に、俺以外には誰にも気付くことが出来ないであろう、わずかな反応を見せた長門は、膝の上の本に視線を落としたまま小さく口を動かした。
「窓からの風が体温の上昇を抑制するから。気温の変化と共にわたしの身体内部の温度調節機能が僅かな狂いを見せている。そのせいで思考能力及び判断能力の低下を確認、但し平常数値との差異が矮小のため、自己調節は不可能」
「──つまり、そこにいると風があたって気持ちいいって訳だな」
 長々とまどろっこしい言い回しで説明された現象はつまり人間でいう夏バテであり、しかし有機なんたらとかいう存在である長門にはそのような概念はないらしい。半年近く付き合って、やっとこの難しい宇宙人の言いたいことがなんとなく分かるようになってきた、俺の理解力はなかなかの成長を見せていると自画自賛したい。
 しかし長門の暑さを感じさせない様子を見ていると、窓際と部室真ん中では北海道と沖縄程度の気温差があるのかと錯覚しそうになる。もしかして、本当に気温が十度位違ったりして。
「あ、そーか、俺も窓の近くにいきゃあいいのか。そっちいっていいか?」
 おれの言葉にまたもナノ程度の頷きを返す長門を見ても、やはりどうしても先程の説明にあった状況とは結びつかない。彼女の言うところの”僅かな変化”では、対外的に見えうる状態ではないのだろう。しかしよくよく観察してみると、確実に何らかの支障を来してはいるようだ。本当に微かではあるが、確かにいつもより数秒、反応が遅い。あまりにも微か過ぎて、きっと誰も気にも留めてはいないだろうが。
 窓際に椅子を運んで、長門の向かい側に腰を落ち着かせる。目の前の長門はこちらを気にすることもなく、ひたすら膝の上の活字を目で追っている。確かに外から入る風が気持ちいい。クーラーとまではいかなくとも、ハルヒの壊した扇風機代わりにはなる。
 風が撫でるように俺と、長門の髪を揺らした。
 出会った頃から少しずつ、長門は変わってきている。もしかしたら本人ですら気付いていないほどに、ゆっくりと、だが着実に。なんと言うのだろう、例えば野生の猫を人間社会に放り込むと、だんだん人間臭くなっていくかのような、というと長門をペット扱いしているように聞こえるかもしれないが、断じてそういう訳ではない。
 そういえば、近頃長門は時々、恋愛小説と見受けられるものを読んでいることがある。それは単純に、今手を出している三段目の真ん中辺りに恋愛小説が纏めて置かれていたからに他ならないが、俺はふと考えるのだ。
 長門は恋愛という感情を理解できているのだろうかと。
「なあ、今読んでるのは何て本なんだ?」
「ボリス・ヴィアン全集──その中の、日々の泡という話」
 日々の泡。俺はあいにく恋愛小説は読まない主義なので、タイトルと粗筋くらいしか目にしたことがない。確か結婚した女の肺に蓮の花が咲くだとか、生々しいながらもファンタジックな内容だった気がする。おい長門、人間の感情に興味があるのならば、手始めにもう少し普遍的でどこにでも転がってそうな恋愛小説を読んだほうがいいぞ、ともしも突っ込みをいれても、彼女はページを捲る手を休めることはないだろう。一度手に取った本は最終ページを迎えるまで離さないのだと、彼女を初めて図書館へ連れて行った時に判明している。
「ああそうかい。そんで、その話は面白いのか?」
「──分からない」
 やはり反応が鈍い。暑さにほんの少しだけ弱い宇宙人は無表情のまま、まるで上の空といった風情で、本から顔を上げると開けっ放しの窓の外をぼうっと見ている。俺はつられて彼女の視線の先を追った。しかし見えるのは部活動中の生徒のみだ。
 うるさいくらいの蝉の声が、ハウリングしたように耳に響く。
「あなたは、知っている」
 それは断言ともとれる言い様だったが、語尾の調子からかろうじて質問であると分かった。
「俺に、訊いてんのか」 
「そう」
 長門の肯定に、俺は多少の驚きを隠せないでいた。なんせ、長門が俺に、というか他人に質問をするという行為が、ツチノコの発見なみに希有であることは間違いないのだ。長門はいつでも全てを分かっていて、俺に何かを尋ねるなんて、そうそうあることではなかった。
 長門の目が、答えを促しているように見える。しかし、質問に目的語が含まれていなかったせいで、俺には長門が何を訊いているのかが分からなかった。溜め息を一つ吐いてから、長門に質問返しだ。
「何を知っているって訊きたいんだ?」
「この主人公の心情。何故彼は自らの富を削り、望んでいなかった労働に身を費やしたのか」
 俺はこの時、困ったような顔で笑っていたのだと思う。
 なるほど、つまり彼女は知りたいのだろう。その慈愛が、執着が、本能が、何なのかを。
「おれの知っている粗筋が正しければ、そいつはクロエの病気を治す為に財産を使い果たして、それでも足りんと働いたんだったな。それは何故かってーと、主人公はクロエのことが好きだったからだ。それは恋愛感情ってやつだ」
「それをあなたは、知っている」
 分かりにくいが、これも質問。
「それは、えーとだな、その人を見るとドキドキするとか、その人のためならなんでもしてあげられる気になるだとか……」
 言いながら俺は初恋の女性の顔を浮かべる。駆け落ちをした従兄弟の姉、確かにあの時俺は悲しかったし悔しかったが、あれが本当に恋だったかと問われると、簡単にイエスとは答えられない。朝比奈さんを見て癒される思いも、勿論ノーだ。そこから先どう発展するかは定かではないが。
「──すまんが、俺にもはっきりとは分からんな」
 俺は両手を上げて、降参のポーズをとった。長門の全くカラフルでないスペクトル図みたいな目が俺を見ている。本当に真剣に考えて答えているのか、と言いたいかのような痛い程の視線を浴びながら、俺は出来る限り真面目な表情を作って、長門の顔を見返した。その思いが通じたのかどうかは分からないが、長門はまたも小さく、そう、とだけ呟いて、視線を落とした。
 長門は既に、俺と会話していた数分前を忘れたかのように読書に没頭している。しかし端から見れば表情の変化がないため、読書しているのか考え事をしているのか、はたまたぼーっとしているのかは分からない。
 俺は長門を観察するように眺める。やはり眼鏡はないほうがいい。意外と大きくて丸い黒目が、微かに上下している。相変わらずの無表情はしかし、先程までのそれとは明らかに違って見えた。
 もしかして安心しているのだろうか、俺の答えに。
 長門でも、不安を感じることがあるのかもしれない。人間の感情という不確かな、未知の存在への恐怖を、もしかしたならば。
「おい、長門──」
「はい、ちゅーもーく!」
 俺が長門に声を掛けたのと、部室の扉が勢いよく開いたのと、ほぼ同時であった。俺は思わず声のしたほうを反射的に見遣り、反対に長門は気にも留めず、読書を中断する様子もなし。
 これ以上ない位の満面の笑みを浮かべた騒音の主が、仲良く椅子を並べて向き合っていた二人の男女を見逃すはずもなく、その笑顔は瞬間、引きつったものへと変わった。それを見て俺の第六感が叫んでいる。警報発令、と。
「ちょっと、そこの二人、何をしているのかな?」
 引きつった笑顔を絶やさぬまま、ずんずんと音がしそうな程の大股開きで向かってくるハルヒから目を逸らしながら、俺は心の中で呟いた。
 おい長門、安心しろ。恋愛感情を知らない人間なんて、意外といっぱいいるもんだよ、と。

おわり

back