放課後、部室の扉を開けたと単、スチル戸棚の横に座り込んでいるハルヒと朝比奈さんが目に入った。ぎょっとして変な声を上げてしまい、ハルヒに訝しげな視線を寄越される。
「何よ」
「いや別に」
ふうん、と気のない返事のあと、ハルヒは再び作業に戻った。どうやら床に大きな布らしきものを敷いて、筆ペンで何かを書いているみたいだ。習字の練習か?
「何をやってるんだ」
「ちょっとね」
機嫌よさげにハミングを交えながら、ハルヒは軽快に筆を運ぶ。リズムにのって頭が揺れて、黄色いリボンがぴょこぴょこと跳ねているのがおかしい。その隣では朝比奈さんが、時折よく分からん指示を出していた。そういえばこの人は元書道部なのだったな。窓際では相も変わらず、分厚いハードカバーを膝に乗せた長門が、無言でページをめくっている。
残りの一人はこの場にいなかった。
「古泉はまだ来てないのか」
俺の問いに、ハルヒはこちらも見ずに応える。
「ああ、古泉くんなら多分、備品室よ。何か探し物でもしてるのかしら」
行き先が既知だという風でもないのに、迷いなきハルヒの一言。俺は思わず目を瞬かせた。
「なんで分かるんだ?」
面食らったせいで少々間の抜けた口調になってしまう。ハルヒは横目で、黒板横の掲示板を見遣りながら言った。
「そこにかけておいた鍵がないもの」
掲示板には部室の鍵を引っ掛けておくためのフックが備え付けられている。そういえば普段はここに、備品室の鍵も一緒にして保管しているんだった。確かにここに鍵がなけりゃ、誰かが備品室に行っているのが一目瞭然だ。あの日、俺が備品室で居眠りこいてたことを、ハルヒが知っていたのはそのせいか。
別に信じていた訳じゃないが、そうだよな、超能力なんてもの、そうそう誰もが持ち得るはずはない。分かってみれば単純明快なことだ。種明かしにもなりゃしない。
おかげで気が晴れた。
「ちょっと備品室見てくる」
その言葉に余程驚いたのか、ハルヒは床に集中させていた視線をとうとうこちらに据えた。目をぱちくりとさせ、それからニッと音がしそうな笑顔になる。
「お願いするわ。古泉くんがあんたみたいに居眠りしてるとは思えないけど」
そうしてすぐに作業に戻った。結局、ハルヒたちがいったい何を作ってるんだか、まるで分からないままだった。
あれ以来足を踏み入れていなかった備品室は、春先の今もやはり埃臭いままだった。夏でも涼しいくらいなのだから、この時期の室内は、他所よりも随分と空気が冷たい。以前より明らかに増えている段ボールを避けながら奥に進むと、以前俺が寝転んでいた辺りに身を寄せた古泉を発見した。
「何やってるんだよ、こんなところで」
俺の声を聞き、古泉は大袈裟に肩を震わせた。俺が来ることが予想外だったのだろう、そりゃもう見ていて可哀想なほどにだ。そうして恐る恐るといった風に、こちらを振り向いた。表情をこさえる暇もなかったのか、愕然と目を見開いて、口まで半開きになっている。これがまた、写真に収めたいくらいの間抜け面だった。
「どうして、ここが」
呆然と訊き返す古泉を、俺はできるかぎり真面目な表情で見遣った。
「聞いて驚け。実は俺には透視能力があったのだ」
しんとした沈黙が訪れる。いやここは笑うところだろう。俺の必死のネタ振りを、古泉はアホ面のままスルーしやがった。しかしアホ面でも元がいいとそれなりに見れてしまうのだな。腹立たしいったらない。悔し紛れにすぐ下にある頭へと、チョップを落としてやる。「痛っ」と情けない声を上げて頭に手をやる古泉の目の前に、俺は腰を下ろした。
「言ったのはハルヒだよ。おまえ分かってたんだろ。あの日どうやってハルヒが、俺の居場所を備品室だと言い当てたのか」
同じ高さで視線があう。古泉はひどく頼りなさげに眉尻を下げ、それから困ったように微笑んだ。
「それでおまえは何をしてるんだ」
訊くと古泉の目が、分かっているくせに、と言いたげに伏せられる。
「……ケーキが心配で、少し早めに部室に来たんです。まだ誰も来ていなかったので無事を確認して、それから一人で部室にいたら、急に、あなたと顔を合わせるのが怖くなってきました」
「ほう。それでこんなところに隠れてたってわけか」
古泉はこちらをちらと見もせず、その頬に自嘲の笑みが刻まれる。
「馬鹿だとお思いでしょう。お察しの通り、今あまり頭が働いていないんです。こんなところに籠っても、意味がないのはもちろん承知の上です」
「で、顔を合わせるのが怖かった割には、今随分と落ち着いてるようだが」
「ええ、自分でも驚きですよ。いざあなたの顔を見てみれば、別になんてことはありません。きっとさっきの感情は涼宮さんのものだ。時々ああやって僕の中に現れる。もう今は平気です」
それは諦観だろうか? 古泉はいつもそうやって、自分の中だけで折り合いをつけては、息苦しさをやり過ごしてきたのかもしれない。自分で自分に嘘を吐き、しかしいつの間にか、古泉の中ではそれがほんとうになってしまうのだ。
ハルヒと自分の精神が繋がっているなどと、思い込んでしまうのだ。
「それは、逃げじゃないのか」
言葉が無意識に口をついて出た。虚をつかれたように古泉が俺を見る。言った本人ですら、自分の発言に驚きを隠せない。それでも止められなかった。
「違うのか? 俺にはお前が、必死に何かを隠しているようにしか見えないんだが」
きゅっと、古泉の眉間に力が入る。こちらを刺すように眇める目。無言の訴えが含まれたその視線に負けずと、俺は古泉を見返した。最初は強気にねめつけていた古泉の目が、だんだんと揺らぎはじめる。その目に、嘘が映り込む。
「僕は何からも逃げていません」
吐き捨てるように古泉は言った。そのまま俺の視線を避け、ふいと顔を逸らす。
「お前は嘘つきだ」
「だから嘘などついては」
ゆるく首を振る古泉の顔は、心なしか青白く見えた。唇が小さくわななく。今の態度が既に直前の発言を否定していると、気づいているんだろうか。
――いや、そうだよ、こいつはそういうやつだった。ほんとうは嘘なんてつけないのだ。
俺がちゃんと見ていなかっただけで、もしかすると最初から古泉は、隠された態度で嘘を嘘だと訴えていたんじゃないだろうか。じっくりと見ればとんでもなく下手くそな笑顔でずっと、自分の嘘を示し続けていたんじゃないだろうか。
思わず溜息が口から出る。それを自分に向けてだと思ったのか、古泉が小さく身体を揺らした。
「……頼むから、嘘をつくなら完璧についてくれよ。ちゃんとできないのなら嘘なんてつくな。徒に人を心配させるな。もしそれがわざとなら、回りくどいやり方は止めろ。前にも言ったけどさ、俺は人の心なんて読めないんだ。口で言ってもらわないと、何を訴えたいのかも分からねえよ」
さすがに今回は古泉も、それが嫌味だなどという、ひねくれた解釈をしなかった。ただ膝を抱えて俯いていた。
「……認められません。僕は嘘なんてついていない。僕の精神は涼宮さんと繋がっているし、僕は今まで何からも逃げたことなんてありません。あなたに伝えたいことも、解決すべき問題も、何も、ない……」
自信なさげな呟きは、かすかな音の波長となって、やっとのことで俺の耳に届く。この期に及んでまだ否定を唱えるとは、こいつはよっぽど頑固に凝り固まっている。
「だから、お願いですから僕をこれ以上、心配しないでください」
俯いたままの古泉は、ほんのわずか口を動かし、しかしはっきりと、そう言った。
その瞬間、俺の中で小さく音をたてて何かが壊れたのが分かった。それはおそらく、遠慮とか思慮深さとか、そういった類いのものだったに違いない。
「そんなわけにはいかない。それは無理な相談だ。心配するなだと? じゃあなんであの洋館に俺を連れて行った。なんでそう弱みを見せる。お前の態度はいつも言葉と裏腹だ。だから俺は惑わされるんだ。嫌になるくらい……くそ、心配、しないわけないだろう。俺は」
少しだけ言い淀む。しかし案外するりと、言葉は続いた。
「お前のことが好きなのに」
決死の覚悟、というほどでもないが、なかば勢いに任せてしまった俺の告白に、古泉は文字通り、ぽかんとなっていた。恐る恐るこちらを見やる、古泉の目に浮かぶ感情は、言い表すならばおそらく、混乱、である。まさかと思うがこの態度、最早受け止める以前に、意味が通じていないレベルではないだろうか。
古泉が応えるまで、俺は根気よく待った。待ち続けた。しかし古泉と俺の間に日付変更線でもあるのかってくらい、時差を感じるのは気のせいか。それほどまでに古泉の返答には時間がかかった。
「いや、まさか、そんな……いえ、今のは、ええと、どういう意味です?」
しかも口を開けば、答えにもなっていない。
「まさかじゃねえよ、多分お前の想像している通りの意味だよ」
時間をおいて、古泉の顔にだんだんと赤みが差しはじめる。もしかして今やっと理解したのか。反応が遅すぎないか、いくらなんでも。
かと思えば次の間には、古泉は素早く立ち上がっており、
「ぶ、部室に戻ります。早くケーキをお渡ししないと」
震えた声でそう言うと、足早にこの場を去っていった。俺と、開いたままの扉を取り残して。
「鍵……どうするんだよ」
さっき部室から逃げ出したと言った古泉は、今度は俺の目の前から逃走した。
とにかく急げとばかりに部室に戻ると、古泉の姿はまだ見当たらなかった。大きな音をたてて扉を開いた俺の方に、ハルヒと朝比奈さんが二人して同時に振り返る。
「あれ、キョンだけ? 古泉くんはどうしたの?」
俺にも分かるものか。自分から部室に戻ると言っておきながら、どうしていないのだ。やはり無理矢理にでもひっ捕まえて、一緒に部室まで来るべきだったか?
しかし当の古泉は数分後、存外しれっとした顔を覗かせた。
「いやあすみません、お手洗いに行っていました」
中に入ると古泉は、内容に似合わない、爽やかな笑いを見せる。見事なスマイルだ。ハルヒたちはきっと騙されてくれよう。しかし俺にはもう通用しないぜ。せいぜい今だけは、必死になって虚勢をはるがいい。
どうせこのまま古泉は、俺からだけでなく、全てのことから目を逸らし続けるのだ。苦しくて苦しくてたまらなくなって、ついには水底から手を伸ばすそのときまで。
「さて、涼宮さん。今から僕たちから、ホワイトデーのお返しをさせていただきたいのですが」
古泉がにっこりと笑いかけると、ハルヒは分かりやすいくらい、目を輝かせた。すっと立ち上がり、俺と古泉の前まで短い距離を駆け寄ってくる。
「待ってたわ! 実はいつ言い出すのかしらと気が気じゃなかったのよ」
で、どこにあるのよお返しは、などと言いながら俺と古泉の身を眺め回すハルヒの視線を無視して、俺は昨日ケーキを隠したスチル戸棚へと近づく。近くに座り込んでいた朝比奈さんが慌てて身を起こし、窓際に座る長門の近くへと飛び退いた。長門もようやく本を閉じ、こちらに向き直る姿勢を見せる。
三人の視線を浴びながら、俺は黙ってケーキの箱を取り出し、長机の上に置いた。ハルヒが 待ってましたとばかりに、素早く箱に手を伸ばす。
「おい、揺らすなよ。丁寧に扱え」
「え、なあに、これケーキ? 開けていいの?」
「へいへい、お好きにどうぞ」
俺の返事を聞くか聞かないかってくらいのタイミングで、ハルヒはラッピングを遠慮なしにびりびりと破いて開封した。あれだけ苦労したというのに、破壊とは一瞬の出来事であると痛感する。
箱を開けたハルヒは、さすがに大きく目を見開いた。
「ねえ、これまさか、作ったの?」
「そのまさかです。さすがに三十倍返しとはいきませんでしたが、僕たちがいただいたものの、およそ十倍くらいはあるかと」
古泉の答えに、ハルヒは箱の蓋を持ったまま俺たちとケーキを交互に見つめ、それからただでさえでかい口を更に大きく広げて、気持ちいいほどの大笑いを始めた。
「ああ、あんたたち最高だわ! 想像以上よ!」
「ふわあ、すごいですねえ……」
朝比奈さんと長門も、ハルヒの隣からケーキを覗き込んでいる。朝比奈さんは感嘆の声をあげ、長門は表情をぴくりとも変えないながら、その目の奥にある種の感情が芽生えているように見受けられた。
「おいしそう」
そしてぼそりと一言。長門に褒められると、いやでも自信が湧くってもんだ。それだけで昨日の苦労が報われた気がする。
「早く味見しましょうよ。みくるちゃん、あっついお茶よろしく!」
朝比奈さんがお茶を淹れる横で、早速俺はなぜか部室に常備されている紙皿とプラフォークを用意して広げ、昨日箱の底に一緒に入れておいたケーキナイフで切り分けはじめた。自分たちの分は小さめに。これは三人に対するお返しだからな。
ハルヒは自分の分をさっさと取り分けると、あっと言う間に皿を空にした。
「ごちそうさまっ、結構おいしいじゃない! びっくりしちゃったわ」
そうして残っていたケーキに更に手を伸ばす。朝比奈さんはゆっくりついばんでいて、一口食べる度に、「すごおい」「おいしいですよ」などと感想を言ってくれる。いちいち笑顔になったり驚き顔になったりするのが嬉しい。
長門を見ると、すでに皿にはチョコの欠片一つ載っていなかった。しかしその表情にわずかながら満足感が感じられるのは、気のせいではないはずだ。
「あーおいしかった! あんたたちなかなかやるじゃない。正直驚いたわ」
日も落ちそうな時間、机の上に残ったのはケーキ箱と菓子類の残骸だけだ。ケーキを食べ終えた後は皆が好き勝手に食い物を広げだし、それこそ谷口の言った通りの、お菓子パーティーとあいなった。といってもほとんどが、朝比奈さんのもらってきたお返しである。クラスの企画で男子全員に義理チョコを配ったらしいが、明らかに本気っぽいものが混ざっていた。朝比奈さん本人はまるで気づいていなかったけどな。
さっさと自分の分を食い終えて読書モードに入っていた長門が、ぱたん、と本を鳴らした。団活終了の合図だ。
「そろそろ帰りましょうか。悪いけどキョンと古泉くん、後片付けよろしく」
ハルヒは鞄を手に取り軽く言う。普段なら文句の一つも言うところだが、今日ばかりは仕方がない。お手伝いしましょうか、と心配げに俺を見る朝比奈さんに笑顔を向け断りを入れていると、ハルヒにいきなりネクタイごと体を引き寄せられた。なんつう馬鹿力だ。絞まる首の苦しさに顔をしかめると、ハルヒは俺の耳元に顔を寄せ、
「古泉くんと何があったか知らないけど、さっさと仲直りしなさいよね」
と囁いた。
参ったね。どこで気づいたんだか、ハルヒの洞察力にはついつい嘆息が出る。俺が無言で頷くと、ハルヒはようやく俺のネクタイから手を離した。そのまま扉まで向かうとやおら振り向き、いたずらっ子のような笑顔を見せる。そうして大声で叫んだ。
「明日は朝七時にここに集合よ。朝練をするんだから。遅れたら死刑! じゃあね」
「って、なんのだよ、おい」
ハルヒはそのまま朝比奈さんと長門の手をひき、部室を後にする。俺の突っ込みは宙ぶらりん状態。呆然と閉まった扉を眺めていると、古泉から声が飛んできた。
「さっさと片付けてしまいましょう」
振り向くと、古泉はゴミ袋を取り出してきて、机上のゴミをぽんぽんと中に放り投げている最中だった。箱も紙皿もプラスチックのフォークも一緒くたに。
「っておい、分別くらいしろ」
俺は慌てて古泉の手からゴミ袋を奪い取った。幸い中にはまだほとんどゴミが入れられておらず、分別すべきプラスチック類はすぐに取り出せそうだ。燃えないゴミはもう一枚のゴミ袋を用意し、そちらに入れ直す。
「俺が燃えないゴミを集めるから、お前は燃えるゴミの方頼む」
ゴミ袋を手渡すと、古泉は申し訳なさげに眉尻を下げ、すみません、と小声で謝った。こんなしょうもないことで殊勝な態度を取るより、さっき逃げ出したことを反省してもらいたい。よく考えてみれば、俺は告白したその場で逃げられたわけで、これは相当情けないことじゃなかろうか。沈黙に耐えかねてか、古泉が口を開く。
「ケーキ、喜んでもらえましたね」
ああ、この状況でそんなとんちんかんなことを述べるか、古泉よ。ますます情けなさが身に沁みて結構辛い。いや、古泉の発言は別に間違っちゃいないんだが、あえて間違っているとすれば、そのデリカシーと考えのなさであろうか。
「ああそうだな、お前が余計なことをしなくても、ハルヒには充分喜んでもらえたよなあ」
ぴしりと空気の凍りつく音が聞こえた。今俺の心はそれなりにやさぐれているので、嫌味の一つも言うくらい許してもらいたい。
これまたよく考えてみれば、昨日の俺に対する古泉の態度はかなり人でなしだったとは思わないか。なんせ自分のことを好きだという人間に対して、別の人物に告白まがいのことをしろと言って、あまつさえプレゼントまで用意していたのだから。そりゃあ確かに昨日の時点では、古泉は俺の気持ちなんて知らなかったから、そこを責めるのはお門違いだ。俺自身ですら自覚していなかったんだしな。昨日の行いで責めるべきは、まるでゲームのフラグ立てみたいな扱いで、告白自体をイベント事として設定しようとした、馬鹿な発想の方だ。
そう、それさえ謝ってもらえれば。きっと俺は許すことができる。さっき古泉が逃げ出したことも、許したっていい。
「……それでも、あなたからあのプレゼントを手渡してもらえれば、きっと彼女は、もっと嬉しかったに違いありません。あなたは僕ではなく涼宮さんに、先ほどの言葉を伝えるべきでした」
それは俺にとって、はっきりとした裏切りだった。まさかこれ以上、傷つけられることなどないと思っていたのに。胸を抉るような言葉に、昨日訪れたもやもやとした怒りは、遂にはっきりと形を取った。
考えた。我慢をした。認めた。ちゃんと言葉で伝えた。それを古泉が受け止めてくれないことなど百も承知の上だった。しかしたった今俺は、俺自身を否定されたのだ。拒絶よりも明確に、もっとも効果的に、言葉は俺の中のずっと深いところに突き刺さった。
なかったことにすらならず、それは間違いだと諭された。
ずっと近づいては離れ、二人の間で繰り返された会話は、実のところすべて俺の独りよがりだったのか。
いくら伝えても、伝わらないのか。
「なんで、そんなことが言えるんだ? 古泉、お前はおかしい……」
「おかしいと言われようが構いません。これが僕とあなたが取るべき、一番正しい方法なんです」
俺は嘲りの意味を込めて鼻を鳴らした。ゴミ袋を床に置き、手近な椅子を引き寄せて座る。
「ふざけんな」
古泉は突っ立ったまま、窓の外へと目をやった。日が落ち、夜が訪れるまでのわずかな間、空は濃い群青を映し出す。大陽不在の空がどうしてまだ明るく見えるのだろうと、子どもの頃は不思議に思ったものだ。薄くガラスに反射する自分の姿を、古泉の目はどのように捉えているのだろう。それは誰にも分からない。古泉にしか分からないことだ。
「彼女は絶対に嬉しく思うはずなんです。あなたに……告白されて」
「また感応がどうとかってやつか? もういいよ、その話は。そんなトンデモ話、誰が信じるかよ。自分の気持ちすらなかなか分からねえのに、他人の気持ちが簡単に分かってたまるか」
自らを振り返り、自分に言い聞かせるみたいに俺は言った。それでも古泉には届かない。
「そう言っても、実際にあるんです。あるのだから……仕方ないでしょう。ほんとうなんです。絶対に、間違いがあってはならない」
「じゃあ証拠でもあるのかよ。閉鎖空間に入ったときみたいな、明確な証拠が」
「それは……ないですが、でも絶対に、僕と涼宮さんは繋がっているのです。そうでなければ、困る……」
「困るだ? そんな自分本位な意見は聞いてねえよ」
堂々巡り。古泉にとっての八方ふさがりは、俺にとっても同義だ。しかし一つずつ外堀を埋めてゆくしかない。古泉がせめて、たった一つの真実を認めるまでは、この会話まで平行線を辿らせるつもりはないのだ。
「なあ、古泉。目を逸らすのは勝手だが、頼むから人の気持ちまでなかったことにしないでくれ。お前がいくら否定しようとも、俺の中にある気持ちは変わらない。だからハルヒに同じ言葉なんて言えない。俺はあの言葉を、古泉一樹に伝えたんだ」
古泉は目に見えて反応を示した。名前の効力だろうか。中庭に向けられた視線は閉じた瞼に遮られる。ぎゅっと目を瞑り、古泉は強く言葉を紡いだ。
「きっと勘違いです」
「だから否定するなって言ってるだろう」
「ですが、……それはやはり困ります」
しかしすぐに自信なさげに、言葉尻が揺らぐ。端から自信などないに違いない。おそらく古泉はどこかで理解している。自分の訴えが、所詮自らの思い込みででき上がっていることを。
もう少しだ。歪みを作れ。ほんの小さなヒビでもいい、綻びができれば、きっとこの殻は破られる。
「うん、だからそれなら、いっそのこと思い切り振ってくれ。気持ち悪いでも考えられないでも他に好きな人がいるでもいい。ちゃんと俺の言葉がお前に伝わってることを、証明してくれりゃそれでいいんだ」
「……それも、できません。僕には今、自分の気持ちが存在していないから、分かりません。ここには、涼宮さんの感情しかない」
古泉はそう言って、とんと自分の胸を人差し指で叩いた。いったいどこまで逃げれば気が済む。しかしこれは突破口なのだ。
古泉の気持ちは分かっている。俺はもうずっと前から――きっと、あの夏の日から。
あのときつっ突きだした蛇は、はっきりと形を取って、再び俺の目の前に現れた。
「だから違うだろう。それはハルヒの感情じゃない。よく考えろ。それは誰の気持ちだ」
古泉は首を振る。腰が抜けたように、その場にずるずると座り込んだ。
「違う。だって、こんな気持ちを、僕があなたに抱くはずがないんだ。こんな、」
「こんな?」
「……あなたを、好きだと思う……気持ちを」
ようやく覗かせた気持ちの突端を、逃すわけにはいかなかった。俺は立ち上がり古泉の前まで行くと、そのだらんと垂れた手を力いっぱい引っ張り上げた。古泉ははじかれたように顔を上げ、身を起こす。長机の端にもう片方の手をかけ、今にもくずおれんとする古泉を、俺は片手で支える。引き上げた手を高く掲げる。捕まえたそれを、誇示するかのように。
「認めてしまえばいい」
不安げに俺を見る古泉の目を、俺は強く見つめ続けた。俺よりも少しだけ高い位置にある、鳶色に滲む瞳。
「そしたら楽になる」
言霊を宿す、そんなイメージを持って、俺はゆっくりとその一言を吐いた。じわりと染み込むように、古泉の胸に届けばいいと、俺は必死に願った。
「僕は……」
「俺はお前を心配したい。嘘をつかれたくない。もうおまえの嘘に苛々するのは嫌なんだ。俺に嘘をつく必要なんてない。だから安心して、ほんとうの気持ちを言え」
古泉はまるでここにいない誰かに伺いを立てるみたいに、俯き、眼を閉じる。祈りを捧げているようにも、何かを自分に問いかけているようにも見える。俺は掲げていた手を下ろした。まだ繋ぎ続けたまま。古泉が目を開く。そこには覚悟の色が宿っていた。
「僕は、ほんとうは嬉しかった。あなたの告白を、僕が、嬉しいと思ったんです。それが怖かった。僕があなたを好きだけならば、自分自身をごまかして済む話だったのだから」
古泉はそこで一端言葉を切って、それから苦々しげに笑みを刻んだ。
「でも、そうですね、あなたの気持ちだけはごまかせない。それは僕のものではないから」
そうだ。他人の気持ちをなかったことになんてできない。存在するものを消すのは、簡単なことではないのだ。
人と関わるのは、だから苦しい。苦しくて、だからこそ面白い。
こいつはきっと、そんなことも忘れていたんだ。ずっと、見ないふりを続けていたんだ。受け取らなかったチョコレートの行方も、奥底に押し込めてしまった自分の気持ちも。
突如普通でなくなった三年前のそのときから、はにかみ笑いを浮かべた少年は、全てを元凶に委ねて生きてきたのだろう。
「ほんとうは、ずっと好きだった。この感情は涼宮さんのものなんかじゃなく、まぎれもなく、僕のものです」
聞き取れないほどのか細い声が生み出す、それはずっと聞きたかった言葉だった。顔を真っ赤にした古泉の姿に、夏の記憶が蘇る。それが最初のきっかけだった。この姿を見たから、俺はこいつの思いの先端が掴みたくて、躍起になったのだ。
ほんの半年前の出来事なのに、随分と懐かしく感じられ、俺はつい頬を緩めた。
いつの間に俺は、古泉を好きになってしまったのか。理由なんていくら探しても見つからない。それは昨日の晩に、充分すぎるほど考え尽くした。だいたいこれが恋愛感情かどうか、古泉とまったく同じ感情なのかも分からない。それでも、口に出る言葉は同じなのだ。角度が変われば見え方が変わるみたいに、まったく同じものなど、この世に二つと存在していない。だから今はこれでいい。認めることができただけでも。
「言ってしまえば、こんなに簡単なことだったのに」
古泉が惚けたように呟く。そう、確かにそれは、とても簡単なことだ。ただ簡単であるからこそ、踏み出すまでの一歩がとても遠かった、それだけの話だ。
「ああ、随分と遠回りしたもんだ」
ただしきっとこれからも、迂回は続いていくだろう。たったこれだけのことを認めるのに、半年以上かかった男なのだ。こいつのことだ、まずは今日の夜にでも、一度目の後悔に襲われるのは目に見えている。明日になれば、やっぱり涼宮さんを……などと言い出しかねない。
それでも一度認めた言葉は、決して嘘にはならない。俺と古泉の中にその気持ちがある限り、また一歩前に進むのだって、案外簡単なことなのかもしれない。
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく目を伏せた。軽い、触れるだけのキス。挨拶みたいなキスだ。たったそれだけなのに、とてつもなく恥ずかしく、しかし言いようのない幸せが、じわりと胸を熱くする。俺の中の触れ合いたいという欲求は、肉体的なものであり、同時に精神的な意味合いも持つ。古泉もそうなのだろうか。それは追々分かっていければいい。
「まずは最初の一歩、だな」
俺が言うと古泉は吹き出し、そして珍しく、にやりと悪戯げな笑みを浮かべた。これは初めて見る表情かもしれない。こんな顔もするのか。俺がそのレア度に地味に感動していると、古泉は続けた。
「まだまだ先は長いので、覚悟していてください」
案外、これが古泉の素なのかもしれない。
次の日の早朝七時五分前、俺は寝ぼけ眼を擦りながら、部室の扉を開けた途端、
「あーもう、キョン、おっそいわよ!」
ハルヒのがなり声が耳をつんざいた。ぐわんぐわんと耳の中で反響する声が静まるまでの間、朝比奈さんと古泉からの爽やかな朝の挨拶が飛んでくる。長門は当然のごとく、黙って読書中。朝っぱらから皆元気である。指定席に腰を下ろすと、さっそく椅子の上で胸を張ったハルヒが演説をおっぱじめた。
「さて、皆揃ったわね。あ、最下位のキョンは皆に学食でご飯奢ること。じゃあ、朝練を始めます! まずはー」
「待て待て、だからなんの朝練だよ」
独壇場を遮られたからか、ハルヒは不機嫌顔で俺を睨んでくる。しかし一人で勝手に進んでもらっては困るのだ。ほら見ろ、朝比奈さんと古泉の頭上にはてなマークが飛び交っているだろうが。
「あれ、言ってなかったっけ? キョン、今日は何の日かもちろん分かってるわよね」
さて。ホワイトデーは昨日終わったし、三月十五日に何かイベント事でも設定されていただろうか。
「学校の行事くらい、ちゃんと覚えておきなさいよ! すっごく大事な日なんだから」
そう言われても、分からんものは分からん。学校行事なんて、ますますもって何も思い浮かばない。もう球技大会も終わっちまったし、期末考査はもう少し先だ。避難訓練でもあるのか? 腕組みして首を傾げていると、向かいの古泉から助け舟が入る。
「ああ、もしかして高校の合格発表ですか」
「その通り! さすが古泉くん、それでこそ副団長ね。ヒラ団員とは違うわ」
びしっと音がしそうなほど勢いよく、ハルヒは古泉を指さした。だから人を指さしちゃいけませんと言っておろうに。そしてハルヒ、その台詞は同時に長門も貶めているってことに早く気づけ。
「で、その合格発表と俺たちに、なんの関係があるって?」
ハルヒは人差し指を振り、わざとらしく舌を鳴らした。
「いい、合格発表にここにやって来る中学生たちは、ここに入学する生徒なのよ。もしかしたら宇宙人とか地底人とか、そういう面白いのが混ざってるかもしれないじゃない。それを他の部に取られちゃったら、SOS団には大損害なわけ。だから今の内に、SOS団の名を未来の北高生たちに知らしめておくために、宣伝を行いたいと思います!」
びくりと朝比奈さんの肩が揺れた。ああ、とても嫌な予感がする。古泉は相変わらず人畜無害スマイルでこの場をやり過ごそうとしているのが見え見えだし、鼻歌歌いながらがさごそと、やけにばかでかい紙袋を漁っているハルヒの背後に、恐ろしいオーラが見える。何をやるのかは知らないが、恐らく今回も、一番の犠牲を被るのが朝比奈さんであることは間違いない。
「じゃじゃーん! 男子はこれね、これの両端持って立ってなさい」
手渡されたのは、どうやら昨日何かを書き込んでいた布きれのようだった。昨日は机の影になって分からなかったが、広げてみると案外でかく、面いっぱいに筆文字で「合格おめでとう! bySOS団」と書かれている。
「で、あたしたちはこれ着てチラシ配り!」
ひっ、と朝比奈さんが小さく悲鳴を上げる。それもそのはず、ハルヒの手にあるものは見るも忌まわしき、あのバニースーツ一式であった。しかもなんと今回は、見覚えのない白い衣装まで追加されている。
「喜びなさい有希、とうとうあんたの分も用意してあげたわよ!」
長門はちらりとハルヒに視線をやり、それからすぐに手にした本へと視線を落とした。どうでもいいらしい。反応の薄さはいつものことなので、ハルヒもさして気にせず朝比奈さんの制服に手をかけようとしていた。危険を察知して古泉と二人、さっさと部室の外に飛び出した直後、室内から朝比奈さんの悩ましげな悲鳴が聞こえはじめた。ぎりぎりセーフだ。
半ば習慣と化した妄想掻き立てショーを意識しないよう、扉から離れた位置で窓際にもたれ掛かっていたら、古泉が「少し時間がかかりそうですし、中庭でコーヒーでも飲みませんか?」と提案してきた。心なしか明るい声に聞こえるのは、昨日の出来事が影響しているからだろうか。了承の意味を込めて頷くと、古泉の笑顔は目に見えて華やいだ。それは間違いなく、偽物なんかではなかった。
こんな時間に学校にいるのも珍しい。緑が多いことだけが自慢のこの高校の朝は、やけに気持ちがよかった。コーヒーの香りが纏わりつく眠気を覚ましてくれる。古泉の淹れたものとは比べ物にならないが、朝の空気も相まって、決しておいしくないわけじゃない。
「あの洋館がなんなのか、ご存知だったのですか?」
俺が昨日備品室でうっかり口走ってしまったことを、古泉は覚えていたらしい。古泉の問いに俺は黙って、胸ポケットから写真を差し出した。古泉の目が見開かれる。完璧なトリックを目の前で見せられたみたいな顔で、古泉は俺と写真を交互に見比べていた。
「これ……いったいどこで」
「悪いな。書斎で見つけて、思わず持ってきちまった。お前の様子がずっと変だったんで、気になってさ」
「そう、でしたか」
古びた写真を手に、古泉は懐かしげに目を細めた。それが郷愁の思いなのか、もう戻れない過去への未練なのか、俺には分かることができない。ただ、切なげに睫毛を揺らす古泉にはもう、あの家が『機関』のものだとか、そういう嘘はついて欲しくない。ちゃんと自分の思い出として、願わくばいつかもう一度、話を聞かせて欲しい。
「……今度また、一緒にあの家に、行っていただけますか」
しばらくして、古泉はそうぽつりと零した。
「ああ」
頷くと、古泉は照れくさそうにはにかんだ。まるで、写真の中の少年みたいに。
少し温くなったコーヒーを一口啜る。風が吹き、古泉の糸くずみたいに細い髪が揺れる。光に透け、それは美しく完成された飴細工にも見える。中庭の木は少しずつ芽吹いている。もうすぐ青々と葉が茂りはじめるだろう。
それはきっとなんでもない風景。一年前に見た、そしてこれからも繰り返される光景。
「さっき、お前が話しはじめたとき。俺はてっきりまた、昨日のはなかったことに、なんて言われるのかと、戦々恐々としてた」
俺の言葉に一瞬目を丸くした古泉は、すぐにくつくつと笑い出した。
「あなたには見透かされているなあ。そうですね、昨日までの僕なら、もしかしたらそんなことを言っていたかもしれません。けれど、もうそんな馬鹿なことを言うつもりはないですね。今のところは――ええ、今のところは、です」
冗談混じりの口調ながら、どことなく真実味を帯びた言葉。蠱惑的な微笑みが、古泉の頬に刻まれる。目が離せなかった。本来の古泉は想像以上に表情豊かで、いちいち驚かされる。ああ、逃げられないな、と俺は思う。
遠くから覚えのある叫び声が聞こえてき、俺はようやく目を逸らすことに成功した。視界の端で古泉が苦笑するのが見える。くそ、どうにも調子が狂う。
「あーいた、あんたたち、何のんびりお茶してるのよっ」
ものすごい勢いでこちらに向かってくるハルヒは、眉毛を逆ハの字にしながら、口は三日月型を形づくっているという、やけに器用な表情をしていた。頭には長いウサ耳。まだまだ長袖でも肌寒い季節だというのに、むき出しの肩が見ているだけで寒々しい。それでもハルヒは背筋をぴんと伸ばし、異常に元気だ。
「もうすぐ貼り出しが始まるわ。貼り終わったらもうすぐに受験生がやってくるから、先生に見つかる前に校門前まで移動よ」
「うう、恥ずかしいです……」
ハルヒはぴょんぴょんと飛び跳ね、まるで本物のウサギのようである。その後ろでぷるぷる震える朝比奈さんと、普段通り無表情の長門は、手に大量のわら半紙を抱えていた。
「さ、あんたたちもさっさとその応援幕持って来る! 早くねっ」
ハルヒはそう言って二人の手を引き駆け出した。
「ひえっ、す、涼宮さん、引っ張らないでええ」
朝比奈さんの悲鳴が小さくなっていくのを聞きながら、俺たちも重い腰を上げる。
「……一年前、合格発表見に来たときには、まさかこんなことになると思ってもなかったぜ」
「はは、そうでしょうね」
「おまえと出会ってからも、もう一年近く経つってことだな」
「ええ」
旧校舎の三階、渡り廊下、運動場。目に映る北高の姿はまったくと言っていいほど変わっていない。
変わったのは俺たち。SOS団なんてふざけた活動が、いつの間にか生活サイクルの中心になっている。危ない目にもあって、過ぎ去ってみればまあ楽しかった日々があって、そして、一年前とは違う感情で、ほんの少しだけ歩み寄った。
足を踏み出し、一歩、古泉の前に近づく。それはたった数センチの距離。
「これくらいの距離が、一年かかってやっとだ」
こんなにも近く、それでいて、思い切って踏み出さないといけないその距離を詰める。
悔しいがつま先に力を込め、俺は古泉の唇をかすめ取った。