伝えるためのいくつかのこと


 隣同士でも会わないことって可能なんだな。感心しながらも、考えてみればまだこの家の留守を預かっていた頃、古泉が隣に住んでいると知らなかったときだって、一度も鉢合わせたことはなかったのだと、キョンは思い出して苦笑を浮かべた。
 すべて偶然なんかではなく、お互いが意識的に避けているせいだ。
 もう一週間ちかく、古泉と顔を合わせてすらいなかった。
 たった一枚の壁が、こんなにも二人を遮断するだなんて、引っ越した当初は考えてもみなかった。まだ今の自分の部屋が古泉の部屋だった頃、古泉から届く手紙を眺めながら、同じ部屋で過ごしていた毎日のほうが余程、古泉との距離は近かったようにも、キョンには思えた。
 こうして隣に住むようになってからも、誰よりも近くにいたはずなのに。
 弱い風に吹かれて、やわらかな白いカーテンが揺れる。古泉のかけていた遮光カーテンが気に入らず、キョンが自分でつけ直したものだ。光を受けた白さが、眩しすぎて目が痛かった。キョンは目を細めてそれを見た。
 南向きの窓から差す日差しのせいで、昼下がりの部屋はまだまだ自然の明るさを保っている。
 今日は遅く起きた。朝昼兼用の食事をとり、天気がいいので一度洗濯をまわした。ベランダなどないから、窓際に出ばる桟に備え付けられた物干竿にハンガーごと吊るす。一人分の洗濯物はいつも、それほどの量にはならない。
 はためくカーテンの裾から、干したばかりの洗濯物がちらと覗く。
 だらだらとした時間が流れていた。入ってくる風が部屋の温度を下げる。先ほど起きたばかりだというのに、不思議とキョンは眠気を覚えた。あくびを噛み殺す。そろそろ院の入試の準備だって始めなくてはならないのに、かたむけた体は一向に動こうとしない。まったくやる気がおきなかった。背中でもたれかかっていたベッドに上半身を向けると、キョンはそのまま顔を埋めた。
 古泉は今日、昼頃から出かけているようだった。起きたてのキョンの耳に、隣のドアの開閉音が届いたので分かったことだ。つい昨日干したばかりの布団に、埋めた顔を強く押し付けながら、キョンは想像する。
 帰ってきた時に俺がベッドで寝ていたら、古泉はどんな反応をするだろう。
 キョンは古泉の部屋の合鍵を持っていた。しかも二つ。一つは古泉の手から受け取ったもので、もう一つはとある別の人物から受け取り、そして近いうちにその人物に返さなくてはいけないものだ。ただしどちらの鍵も引っ越してきて以降、使ったことはない。古泉の在不在は隣に住んでいれば嫌でも分かるし、わざわざ留守にしている部屋に行く用事もない。しかしこの鍵があるからキョンは古泉と再び会えたわけで、決して不要な存在などではなかった。
 どこからきたのか分からない鍵を、キョンはジーンズのポケットから取り出し、しげしげと眺めてみる。何の変哲もない鍵。紫色のお守りのついたそれは、また彼の扉を開くことができるのだろうか。
 思いついた悪戯に、キョンは小さく笑いを漏らした。それから、もう一度考えた。
 どんな反応をするだろう。

 何をやっているんだと、キョンは自分自身に呆れる。判断力の低下。古泉と一緒にいるようになってから、キョンは自分らしくない行動ばかりしていた。まともじゃない。自分が馬鹿になっていることを、この頃キョンはやたらと実感している。そして同じくらい、古泉も馬鹿だと、そう思っている。
 布団を頭からすっぽりとかぶると、暑くてとてもじゃないが平静ではいられなかった。蒸された熱気に頭がくらくらと揺れる上、ここには古泉の匂いが充満している。逃げ場がないほどにキョンの感覚の一部はせっつかれ、頭の先からつまさきまで、自分ではない何かに丸ごと書き換えられたみたいな錯覚に陥る。息が苦しい。布団からはみ出ないよう、体を折り曲げて小さく縮こまっているから、余計に暑くて苦しい。
 こんなに苦しい思いまでして、いったい何をやっているんだろう。さっきの自分は何をそんなに面白いと思ったんだろう。先ほどから同じ考えばかりがキョンの頭をよぎる。
 古泉の部屋は、最初に訪れたときよりもずっと、人間らしい住処になっている。
 初めてここに足を踏み入れたとき、キョンは思わず目を瞠った。部屋にはほんとうに何もなかったからだ。寝る場所すら見当たらず、どうやってここで生活しているのかと、キョンは本気で不思議に思った。
 今は床に読みかけの雑誌が置きっぱなしになっていたり、取り込まれたままの洗濯物が椅子の背にひっかけられたりしていたりと、大学生の男の部屋らしくそれなりに雑然としている。台所の食器棚には、いくつか食器が増えた。カレー以外のバリエーションを覚えたキョンが持ち込んだ、茶碗や木の椀などがそれにあたる。
 部屋だけみれば、あの頃よりも随分と身近に感じられるようになったというのに。
 古泉はやはり、昔から何も変わっていない。変わったと思ったのに、本人だって変わりたいと願っていたはずなのに、臆病な古泉は、相変わらず自分から逃げようとしている。痛い程、キョンにはそれが分かっていた。
 息をひそめて丸まっていると、キョンはここに初めて訪れた日のことを思い出す。あの日も同じ鍵を使って、暗い部屋のなか電気もつけずに、ここに帰ってくる古泉を待っていた。古泉に会って、話をするために。
 同じことをしているのに、しかし抱く気持ちはまったく違う。あのときは、半年以上ぶりに会うことに気の昂りが先行していたが、今は不安と苛立ちばかりが胸を押しつぶそうとする。
 しかし、捕まえなくては、今度こそちゃんと。
 扉を開く音が聞こえた。
 床を踏みしめる音、続いてばさりと何かを落としたような音。鞄をどこかに置いたのだろう。冷蔵庫の開く音が鳴り、水を嚥下する音が続く。
 一人でいるときの古泉を、当たり前だがキョンは知らない。こっそりと生活を覗いているような罪悪感に、心臓が跳ね上がりそうになる。やはり止めておけばよかった、こんな悪戯、などといくら後悔してももう遅い。
 物音が止んだ。古泉が動きを止めたのだ。そうしてまっすぐベッドに向かって足音が近づいてきた。気づかれたのかとキョンは布団のなかで身を竦める。しかしそのまま古泉はベッドの端に腰を下ろし、深く溜息をついた。気づかれていない。そしてこの体勢はキョンにとって最大のチャンスだった。
 キョンの思いついた悪戯は、悪戯なんて呼ぶにはふさわしくないくらい、切実な願いだった。
 先程までの後悔など微塵も残っておらず、キョンは躊躇いなく古泉の腕を引っ張った。
 抵抗なく布団のなかに引きずり込まれた古泉は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。呆然と、自分の体にのしかかるキョンを見つめている。何か言葉を発しようとしているのに、口はそのままの形で固まっている。
 キョンはゆっくりと古泉の背中に腕を回した。少し強めに拘束する。胸に耳を押し当て、心臓の音を聞いた。どくどくと、すごい速度の鼓動の音。
 早く知れ、そして欲望を怖がるな。抗うんじゃない。キョンは祈るように思う。
 古泉の顔を見上げると、困惑と迷いを上回るくらい、熱に浮かされたような目をしていた。古泉の手が、おずおずとキョンに触れる。キョンの真似をするように背中に回された手は、背骨を辿るように動く。最初は壊れ物を触るように遠慮がちだった動きは、次第に荒さを増していく。強く抱きしめられる。
 まだ遠い。もっと近づかないと。古泉の頭を両手で押さえ、キョンは顔を近づける。古泉が目を閉じる。くちびるが届きそうな距離まで詰めて、そっと口を付けようとして──古泉は、はじかれたように顔を上げ、ありったけの力を込めてキョンを引き剥がした。勢いで、被っていた布団は床にずり落ちた。
「な、にを……」
 呟きながら、衝動的な行動を恥じ入るように、古泉はキョンから目を背ける。体を起こし、ベッドから這い出ようとする古泉の手首を、キョンは再び強く掴んだ。
 ベッドの上で二人は向き合う。
「逃げるなよ」
 言うと、古泉は力弱くキョンを睨みつけた。
「そういう問題じゃ」
 答える古泉の声は、情けないものだった。体を退こうとする古泉を、ますます力を込めて引っ張り、キョンは掴んだその手を自分の胸に持っていった。この間のように。びくりと指が跳ね、結果的に古泉はキョンの胸元を引っ掻いた。反射的に発した小さなうめき声に反応して、古泉の頬に赤みが差す。
「おまえは、こういうことを俺としたくないのか」
「……っ、し、たくない、です」
 泣きそうな声で古泉は言うが、再び手が振りほどかれることはない。言葉とは裏腹に名残惜しそうに、彼の指先は触れたままだ。キョンの高まる鼓動の揺れはおそらく、その指からダイレクトに伝わっている。
「……そうか。俺はしたい。おかしいか?」
 熱に浮かされているのは俺も同じかもしれない、キョンは頭の片隅で考える。だからどうしたなんて、考えるよりも先に、体が動いた。
 古泉の手を持ち上げ、指先にキスを落とす。人差し指を口に含み、舌先で舐め上げる。古泉の息を呑む気配がした。遠慮がちに吐き出される吐息には、明らかに熱がこもっている。
「俺は古泉のことが分からない。何を考えてんだとか、ほんとうは俺をどう思ってるんだとか──言葉だけなら簡単に嘘つけるだろう。おまえはそういうのが得意だから、俺は信じない」
「そんな、」
 震えた声は、消え入りそうなほど小さい。
 すぐに俯き加減になろうとする古泉の顔を両手で挟み込み、キョンはまっすぐに、古泉を見据えた。
「だから俺はおまえとしたい。もう一回、今度はちゃんとしたら、おまえの考えてることが分かるような気がする」
「でも、僕は……あなたを傷つけるのは、もう」
「どうして傷つける前提なんだ。言っただろう、ちゃんとするんだよ、傷つけないように、二人で気持ちよくなる方法を」
「そ、そんな方法、分かりません」
「分からないなんてことは、絶対にない。俺も、おまえも、同じ男だ。自分の知ってる方法を、俺に与えればいいんだよ。俺もそうする」
 そのまま顔を近づけ、キョンは古泉に口付けた。キョンだって経験があるわけではない。何もかもが手探りで、しかしきっとすべて本能的に知っている感覚なのだ。
 数回ついばむようなキスを落とす。そのうちされるがままだった古泉がだんだんと、応えるように深いキスをし始めた。キョンが不器用に差し出した舌を、からめとるように古泉は口内を舐る。
 キョンの手は既に力を失い、弱々しい仕草で古泉のシャツを握りしめていた。代わりに古泉の両手がキョンの頭を強く押さえている。もっと、もっとと言いたげに、何度も角度を変え、繰り返し求めてくる。息ができないほどのキスの応酬に、キョンの頭は早くもぼうっとし始めていた。
「は……」
 息を吸い込むと喉が鳴る。それは想像以上に甘ったるい声だった。それで古泉のスイッチが入ったのか、くちびるから頬に、そして耳たぶへとキスは移ってゆく。
「くすぐってえ……」
 吐息とともに苦情を呈すが、古泉はそれを止めようとしない。首筋がぞわぞわと粟立つのも、決して嫌な気分ではなかった。耳たぶをくちびるでくわえ、含まれた先端を舌でくすぐられる。
「あっ」
 思わずはっきりと声が出てしまい、キョンは羞恥に身を固くした。はっきりいってまだ入り口だ。何もしていないに等しいというのに。
(──何が、そんな方法分かりません、だ)
 恥ずかしさは悔しさに変わり、やられっぱなしでたまるかとばかりに、キョンは古泉のシャツのボタンを外し始めた。はだけた胸から腹にかけてやにわ撫でると、古泉は息混じりの声を漏らす。そうしたら仕返しのつもりか、キョンの肩に顔を埋めた古泉は、肩甲骨から首筋を舌で舐め上げた。びくりと体が震え、まるでそれが合図だったみたいに、キョンは思い切りベッドの上に押し付けられた。
 古泉の目が、キョンを見据えている。その目ははっきりと、キョンを欲していた。キョンは思わず口を開く。
「俺と、したいか」
「あなたと、したいです」
 いつもよりずっと低い声で、古泉は応えた。

 真っ暗な部屋のなかは、窓を閉め切っている上、エアコンも入っていないから、ひどく蒸し暑かった。八月の夜は、真夏の空気が充満している。暑く、むっとするほどの汗の匂いは、どうしてかこういったときにだけ、興奮を呼び覚ますようにできているらしい。
 セットの崩れかけた髪が、古泉の顔を見えにくくしているのが嫌だ。キョンは古泉の頭に手を伸ばし、何度も髪を掻き上げた。その度に覗き見える古泉の視線で、またおかしなくらい興奮する。
 古泉の手が滑るようにキョンの体中を這う。汗まみれの体を舐められるのが、どうにかなりそうなほど恥ずかしい。まるで見られたくない部分をさらけ出しているようだ、そう考えたあと、今まさにそんな状態なのだと思い直す。
「どうしたら、気持ちいいですか」
 余裕なさげに、古泉が耳元で囁くのに、キョンはくちびるを噛みしめて首を振った。答えられるかそんなこと、そう言いたいのに、言葉にならない。
「教えてください。あなたを気持ちよくしたい。あなたのことを、全部知りたいんです、何もかも」
 さらけだして。掠れきった声が耳に届く。
 キョンは、少しだけ泣きそうになった。
 熱をはらんだそこを、古泉の長くしなやかな指がもてあそぶ。強く握られ、上下にこすられ、先端に小さく爪をたてられると、キョンの口からは出したくもないなまめかしい吐息が漏れた。快感だか何だか分からない、波のようなものが断続的に襲ってきて、いよいよ正気を保てない。愛おしくて、苦しくて、もっと近づきたい、もっと内側に入り込みたい、そんな思いがキョンのなかを駆け巡る。
 感覚がふくれあがり、あ、と思ったときには、すべてを古泉の手のなかに吐き出していた。終わってからも体が小刻みに揺れる。それはほんの僅かな間だったのかもしれないが、随分と長い余韻のように感じた。は、は、と短い呼吸を繰り返し、息を整える。
「あ、古泉、俺も……」
 すっかりされるがままになっていたせいで、自分が何もしていなかったことに、キョンは気づいた。しかし手を伸ばす前に、弛緩した下半身を持ち上げられる。膝を肩にひっかけられ、そこに指を這わされた瞬間、キョンの体は硬直した。
「……ここ、怖いですよね」
 いつもなら靄がかったように思い出さない恐怖心が鮮やかに蘇る。気づいた古泉はすぐに、持ち上げた足を解放した。うずくまる体が小刻みに震えるのを止められない。そんなキョンを、古泉は悲しげに揺らいだ瞳で見つめている。
 思っていたよりもはるかに、自分があのときの痛みを引きずっているのだと、キョンはようやく自覚した。そして古泉は最初から、そうと知っていたのかもしれない。
 古泉は罪悪感から逃げようとしていたけれど、同じ過ちを冒すことを怖がっていたけれど、きっと同じくらい、キョンを傷つけることだって怖がっていたのだ。
 もしかして、ものすごく大切に思われているのではないだろうか。
 欲望を必死に抑え込んで、その結果、苦しさに涙を流すほど。
 ものすごく熱く切ないものが、キョンの胸にじわりと溢れ出した。目の前の男がたまらなくいじらしくて、なんでもしてやりたくて、こういう気持ちをきっと、いとしいというのだろう、そうキョンは思った。
 この気持ちを前にしたら、恐怖心なんて、ほんのつまらないものだ。
 泣きそうな顔をしている古泉に腕を伸ばし、そっと抱き寄せる。脱力した古泉の体は、簡単にキョンの上にくずおれた。
「怖くない。大丈夫だ」
 そう呟いた声は震えていなかっただろうか。もうキョンには確認する術もない。だから必死で古泉を抱きしめた。強く抱きしめたなら、少しだけでも思いが伝わるかもしれない。
 そしてちゃんと繋がることができれば、もっと。
「ちゃんとしよう」
 古泉の耳元に口を近づけ、キョンははっきりと言った。

「少し、待っていてください」
 キョンの腕を解いた古泉が、ベッドから降りてどこかへ向かう。それで昂った気が少しだけ冷静になり、キョンは口元を押さえてシーツに体を押しつけた。
 言ってしまった。
 もちろん後悔はしていない。けれど考えれば考えるほど、動悸は膨れあがり、まるで心音がパンクロックでも演奏しているみたいに重厚に脈打つ。多分これは恐怖とか不安から来るものではない。
 戻ってきた古泉は、手に細長い容器を提げていた。
「何だそれ」
「潤滑剤です」
 キョンはおかしな顔をした。潤滑剤というのは、いわゆるそういった行為をスムーズに行うためのものだろうことは、たいした知識のないキョンにだって分かる。だがそんなもの、普通自宅に常備されているとは思えない。
「なんで、そんなもの持ってんだよ」
 怒っているわけではなく、本心からの疑問だった。自分に指一本触れてこなかった古泉が、一足飛びに物を用意していたという事実は、ひどく奇妙に感じられた。
 案の定古泉は、叱られた子どもみたいな情けない顔をして黙りこくる。キョンは仕方なしに、体を起こして古泉の頭をゆるく抱きかかえた。肩に吐息の感触が落ち、古泉の口の開く気配がした。
「……すみません、その、もし万一そういうことになったら、いや今その万一が起こっているのですが、そのときに、またあなたを傷つけてしまわないように、少しでも優しくできるように、と思って」
 語尾なんて、震えて消え入りそうな弱々しい声だった。それでもキョンはそこに、古泉の優しさを感じた。心の真ん中が、ずきりと疼いた気がした。
 それを伝えるために、キョンは古泉の顔を上げさせると、自分から口付けた。額に、目尻に、頬に、最後にくちびるに。それに応えながら、古泉はキョンの体を軽く押す。ゆっくりと倒れ込んだ先は、さっきまでの熱が残ったままで、それが余計にキョンを火照らせる。
「好きです」
「うん」
 キスの合間に短く言葉を交わす。そうしてまたくちびるを重ねる。嫌になるくらい、水音が内耳に響いた。
 ピンと張った糸が今にも切れそうな緊張感と、早くそれを切ってくれという切望が、キョンのなかでぐるぐるとかき混ぜられ、融け合う。
 ベッドサイドに置かれていたボトルの中身が、古泉の手のひらに落とされた。さっきと同じような、足を上げた体勢を取らされたキョンの内側に、古泉の指が侵入しようとする。
 いくら心で許していても、一度違和感を覚えた体は簡単にそれを拒否しようとした。痛みがないわけではないし、それに何よりも、気持ちのいい感触ではなかった。玉のような汗が額に湧き出す。圧迫感に異物感、そういったものが全力で、嫌だと訴えている。無意識に、古泉の肩にかけた手には力が込もっていた。
 キョンの様子を見て、古泉が手を止めた。
「やめるな……」
 うわずった声が出てしまっても、キョンは首を横に振り続けた。
 前に進みたい。
 そうすればあの薄くて壊れない壁を、きっと壊すことができる。
 キョンも古泉も、その壁を壊せる言葉を持っていない。口にすることができない。だからどうにかして、伝えなくてはいけないのだ。
 伝えて、壊さなくては。

 二度目の行為は、熱くて、引き裂かれそうなものだった。やはり気持ちよかったかどうか、キョンには分からない。
 古泉は随分時間をかけて、ゆっくりと解きほぐしてくれたが、最後には結局、理性に本能が勝ってしまった。もっとゆっくり、と言いたいのに、口をついて出るのは短いうめき声だけで、それがまた妙に甲高くて、自分の声ではないみたいだったのが、キョンはひどく恥ずかしかった。
 それでも、キョンにはたくさん伝わった。古泉が自分を欲しいと思う気持ちと――気のせいでなければ、深い深い、いとしさが。
 達する直前、古泉はキョンのなかから脱し、そのままキョンに覆い被さるように倒れ込んだ。
 温い感触を、キョンは腹の上に感じた。
 ベッドの上で息を切らしながら、二人は固く手をつないでいた。絡まる指で、お互いの甲を撫でたり、握ったりを繰り返した。
 暑くて布団などかぶっていられず、お互い裸をさらけだして横になっている。暗くて何も見えないから、別に問題はなかった。横を向くと、古泉と目があう。闇を溶かした眼は吸い込まれそうに奥深い色をしていて、とても綺麗だとキョンは思った。
 体はけだるく重い。体液でべたべたになった体を簡単に拭ったものの、シャワーに向かう気力は残っていなかった。それでもあまりの暑さに耐えかねたのか、古泉はベッドを降り、部屋の真ん中にある窓を開けに向かった。
 生温い風と、夜と水の匂い。
 むっとするほどの夏の空気が、どっと部屋になだれ込む。決して嫌いな感じではない。しっとりとしていて、どこか儚げで、「真夏の夜の夢」というタイトルをつけた劇作家も、夏の夜にそんな気配を感じたのかもしれない。劇の内容なんて一ミリも知らないけれど、キョンはそんなことを考えた。
 心だって、きっと儚い。明日にはあっという間に姿を変えてしまうかもしれない。
 それでも、壁を取り払ってよかったと、キョンは思う。
 一度内側を知ったことで、こうやって指の先から、視線の奥から、いくらでも思いを伝えて、感じることができるようになった。
 それは、とても幸せなことではないだろうか。
 夜風が体中から倦怠を攫ってゆく。ふと隣から聞こえてきたのは、安らかな寝息だった。手のひらはまだ触れ合ったままだ。キョンはその体温に安心して、そうしたら、まるで寝息が子守唄のように、眠気を呼び覚ました。

「俺、あのベッド捨てようと思う」
 明くる朝、古泉宅の洗濯機を回しながら、キョンはそう告げた。目が覚めた途端、ベッドのシーツも布団も嫌にしっとりしているのと、すえた匂いが気になって、剥ぎとるとそのまま洗濯槽に放り込んだのだ。
「それで新しいのに買い替えるよ。だからいい加減、こっちの部屋にも来てくれ」
 洗濯の合間にキョンが作った、目玉焼きと少し焦げたトーストを頬張った古泉は、目を丸くしてキョンを凝視している。これだけ端正な見目でも、しっかり馬鹿面に見えるのがすごい。キョンは変な部分で感心を覚えた。
 古泉は何も考えず応えようとしてすぐに思い直し、口のなかのものを嚥下してから、優しげに口元を緩めた。それは誰が見ても、この人は今とても暖かな感情を抱いていると、すぐに分かるような笑顔だった。
「はい、行きましょう。しかし、ベッドは処分していただかなくても結構です」
 今度はキョンが目を丸くする番だった。
「いや、だって――」
 キョンが何かを言おうとしたそのとき、不意に強い風が吹き、真っ白なカーテンをふわりと持ち上げた。コーヒーテーブルに光が反射して、二人は眩しげに目を細める。揺れる光の波紋が、食卓をきらきらと染め上げた。
 幸せを具現化したみたいな風景だ。そんな発想がキョンの頭をよぎる。
 そうしたら古泉が、まるで同じことを考えていたんじゃないかと思えるような、満面の笑みを見せた。
 微笑んだまま古泉は何も言わなかったが、キョンには彼の声が聞こえた気がした。
 幸せを告げる、魔法の呪文のような言葉が。

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