恋文


 高校生にとって、下駄箱の中の手紙、という存在がいかに特別なものであるか、考えたことはあるだろうか。それは平均的かつ一般的男子において、多大なるときめきと甘酸っぱさ、それにほんの少しの羞恥心と困惑が一気に押し寄せる、マジカルでミラクルな存在なのだ。なお、そこで訪れる感情が憂鬱だとか辟易だとかいう人間とは、付き合いを改めねばならない。そいつとの間には暗くて深い、マリアナ海溝規模の溝ができるといっても過言ではないね。
 さてどうして斯様なことを考えているかというと、まさに今、俺のポケットの中に、そのマジカルでミラクルな存在が鎮座しておられるからだ。
 それは今朝、俺の上履きの上ど真ん中にぽつんとおかれていた。シンプルな封筒の中央には、豆みたいな字で俺の本名が書かれており、裏返すと、隅のほうに見知らぬ女性名らしき署名。一瞬頭をよぎった、間違いか、いたずらかの二択はとりあえず横に置いておき、封を切ってみれば、そこにはこれまた小さく丸っこい字で切々と綴られた言葉の羅列。俺の勘違いでなければ、どうやらラブレターと解釈してよいような内容であった。まじか。この世に生を受けて幾年月、自慢じゃないが彼女はおろか告白なんてものも夢のまた夢の存在であったというのに。やはりいたずらか? ただでさえ俺にとって下駄箱の手紙なるものは、疑心暗鬼にとらわれるに仕方なしの存在なのだ。
 ちなみに文面には、時間と場所を指定するような記述がある。呼び出されたからにはいかねばならないだろう。いや無視するわけにもいくまい。今俺の口元がゆるく笑みを浮かべているのは決して、にやけているってわけではないぞ。誰に言い訳しているかは訊かないでくれ。しかし今が授業中でよかった。今の自分の面が自分では見えないが、万一ハルヒにでも見られでもしたら、間違いなく馬鹿にされるか不審に思われるかするだろうからな。
 うっすらと花柄のプリントされた便せんを机の下でもう一度開き、じっくりと見直す。一筆一筆丁寧に書かれた筆跡が真面目さをうかがわせた。文体もまるで、手紙の書き方基本講座の見本のような堅さだ。拝啓で始まっている手紙など初めて見た。こんな優等生めいた子がいったいどこでどうやって俺なんかを。やはり考えれば考えるほど、谷口あたりのいたずらのような気がしてきた。

 昼休み。今日は珍しく購買のパンをむさぼっている谷口に、俺はそれとなく、例の女生徒の名を尋ねた。
「ああ、知ってるぜ。たしか7組の女子だ」
 即答。そして俺は感心。
「さすがだな谷口……ちなみにお前の評価は」
「けっこうかわいいぜ。Aマイナーマイナスってとこかな。っておいキョン、なんだいきなり。まさか惚れたか? お前には涼宮がいるだろうに」
「あほか」
 谷口の様子は、どうもいたずらをしかけた人間の反応には思えない。横でしたり顔でうなずいている国木田も同様。こいつらでないとしたら、ほかに実在する生徒名を使い俺に対していたずらをしかけるような輩も、少なくとも思いつく限りでは存在しない。
 ということは、このラブレターらしきものは本物と解釈して問題ないようだ。
 いかん、自然と口角が上がってゆくのを止められない。結局俺は五、六限の授業も上の空でやり過ごし、放課後が訪れるとともに、ハルヒに悟られぬよう、そっと教室を離れた。

 そうして間もなく俺は、自分の不注意を恨むことになるのである。確かに呼び出し場所は備品室であった。そして備品室までの最短距離は、9組のある階を通り抜けするのが一番だった。しかし放課後いの一番にそこを通れば、高確率で出会う知り合いが一人いるってことを、その時の浮かれきった俺の脳みそでは思いつく余裕もなかったのだ。
 そのやけにきらびやかな声が聞こえてきたのは、ちょうど9組教室脇の階段にさしかかった辺りであった。
「おや、どうしたんですかそんなに急いで」
 なんとも嫌な予感がして振り向くと、そこには文句なし満点の笑顔を浮かべた古泉が、鞄を提げて立っていた。いつ耳にしても、劇中劇の台詞を読む役者のような調子に聞こえる。続く言葉も、まるで最初から台本でも用意されていたみたいに、流暢に流れだした。
「涼宮さんはご一緒ではないのですか。あなたも部室に向かうところでしょう」
 どこからくるのかね、この嘘くささは。今の台詞、俺の耳には「どこへいくのかは知りませんが、団活もとい涼宮さんをほっぽらかして優先する事項などあなたに存在しないのですよ」と聞こえたのだが、気のせいか?
 俺の左手は無意識に、胸ポケットの中身をかばうような動きを見せた。野生のカンというやつだろうか。何故かそうしなければいけないような衝動にかられたのだが、それはむろん間違いであった。古泉は俺の行動に目敏く反応し、瞬間、やつの表情はぐにゃりと歪んだ。
「胸ポケットが、どうしましたか?」
 くちびるは弧を描いているのに、まったく笑顔に見えないその表情はなんと称するべきか。俺は自然、身を退いたのだが、それによってますます古泉の疑念は確証へと変わったらしい。
「なんでもねえよ」
 ここまでくると、自分の台詞のしらじらしさに思わず呆れてしまうほどで、それは古泉も同じだったようだ。やおらこちらに向け手を伸ばした古泉は、そのまま俺の胸ポケットから小さく折り畳まれたそれを引っ張り出した。止める隙も与えられず、俺の示した抵抗といえば、声ならぬ声でつぶやいた「あ」の一言だけであった。
「ほう……これはこれは。なるほど、そういうわけでしたか」
 遠慮も何もなく中の便せんを広げ、古泉はそれをためつすがめつしながら呟く。気味の悪い笑みとともに。
 なあ、お前分かっていたんだろうな? 最初から知っていたんだろう。どうせ『機関』なる秘密結社には、俺のことなんざ筒抜けなんだろうよ。だからと言ってなあ。
「悪ぃかよ。それをどうしようが俺の自由だ」
 古泉はしばらくの間手元に落としていたひんやりとした目を、ようやく俺に向けた。
「困りますね。こういうことをされては。もしもこの事実を涼宮さんが知ったとしたら、どうなるかはあなたにだって予想できるでしょう」
「知るか。困るのはお前らの組織だけだろうが。いつもみたいにちゃちゃっと閉鎖空間とやらをぶっ壊せばいいだけの話だろう」
「ずいぶん簡単なことのように言いますね。僕ら能力者がどれだけ苦労しているのか、事細かに説明いたしましょうか」
「聞きたくもないね」
 古泉は仮面のような笑みを貼付けたまま黙り込み、それからすごい力で俺の腕を引っ張り歩きはじめた。廊下にぽつぽつと点在する観衆の目が痛い。痛すぎる。同じくらい、強く握られた腕も痛い。背中を向けている古泉の顔は見えないが、非常にぴりぴりとした空気がそこはかとなく伝わってくる。
「おい、何の真似だ。どこへ向かっている」
「決まっているでしょう。あなたが呼び出された備品室ですよ」
「待て、何故お前が一緒に行く」
「僕は見届けなくてはいけませんから。あなたがきちんと手紙の主に、断りを入れるところをね」
 意味が分からない。どうして俺の呼び出しに、古泉が同行せねばならんのか。おかしいだろう。普通彼女持ちの男だって、告白らしきものを聞きに行くのに彼女同伴で向かうなんてことありはしない。それがこちとら連れているのは、ただの部活が一緒なだけの男、いや、まあ友人と称してもいいとは思うが。
「おい、ほんとにやめろ、勘弁してくれ」
 俺が制止をかけようが足をふんばろうが、まったく動じない、もとい前に進み続けている古泉には、どうやら何を言っても無駄なようだ。そのまま見えてきた備品室の扉をためらいもなく開け放ち、古泉は俺を伴ったまま中に入った。
 ところ狭しと棚だの箱だので埋められている部屋の真ん中、振り向いた彼女は嬉しげにはにかんだ表情を、一瞬にして引きつらせた。そりゃそうだろう。どうしてだか呼び出した相手よりも前に、えらい迫力の男前が立っているのだから。そして呼び出しをかけた当人が、その後ろで呆然と固まっているのだから。その動揺の様には、申し訳なさやるせなしである。
「あ、あのう……?」
 当然ながら、彼女はこちらを見て訝しげに尋ねる体を見せた。まるで動物園に行ったらそこが美術館だったかのような、どうしていいか分からないといった風だ。そして残念ながら、こちらもどうしていいのかまったく分からない。これから何が起こるのか分かるのはただ一人、暴走した古泉だけだ。
 古泉は彼女に向けて恐ろしいくらい完璧な笑みを作り、それから言った。
「申し訳ありませんが、彼はあなたと付き合うわけにはいかないのです。ですから諦めていただけますか」
 おいおい、勘弁してくれよ。お前は俺の彼女か何かか。勘違いされそうな言い回しは止めてくれ、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えていた俺が間違いだった。次に古泉がしでかしたことは、冗談では済まされない、むごたらしい行動だったのだ。
 握りしめていた彼女からの手紙を、古泉は見せびらかすように取り出した。すでに顔面蒼白になった彼女は、それを見てとうとう顔を歪めた。対する古泉の笑みはもはや壮絶としか言い表せない。
「こんな紙切れ一枚で、彼の心を動かそうなんて、浅ましいと思いませんか」
 言いながら古泉は、折り畳まれた便せんを広げると、彼女の目前に突き出した。ずっと握りしめていやがったせいで、もはや手紙は中身までしわくちゃだ。せっかくのきれいな花柄は翳る部屋の中でうっすらと影を落とし、やけに色あせて見える。どこからか流れてくる風に、便せんはかさかさと音をたてて揺れている。手紙の差し出し主はまるで、振り子運動をする五円玉を見るみたいにそれを眺めている。
 古泉の笑みがまた深まる。
 そのまま何も言わずに、奴は便せんをびりびりと引き裂いた。
「おまっ……何して!」
 数テンポ遅れて、俺はやっと制止するという選択肢を思いついたのであるが、時既に遅しである。古泉によってバラバラにされた便せんは、風になびいて開け放たれた窓の外へと舞ってゆく。
「古泉、お前、ふざけんな」
 とぎれとぎれに呟きながら古泉を睨みつけ、俺はようやく彼女に向き直った。放心したように宙を眺めているその表情は、不思議なほど何も物語っちゃいない。彼女が今どんな気持ちでいるのか、俺にはまったく伺うことができなかった。
「あの、ごめん、ほんとうに」
 そう謝るしかない。謝って済む問題とも思えないが、いやそれ以前にまず真っ先に謝るべきなのはこの目の前で嫌らしい笑みを浮かべているどアホなのだが、そんなこと口にできるような空気はこの備品室に一ミクロンも存在していない。おそらく二酸化炭素濃度が恐ろしく高いに違いない。息苦しすぎる。
 女生徒は苦しげに眉根を寄せ、それからずっとこらえていたのかもしれない涙を、うすく滲ませた。視線は俺の胸あたり、おそらく後生、彼女と真正面から向き合うことはないだろう。そのまま彼女は小さく首をふり、俺の横を素通りして、教室の後ろのドアから出て行った。
「これくらいで身をひくなんて、それほど強い気持ちでもなかったのでしょうね」
 まるで他人事みたいに、古泉は口にした。
「お前……まじで一体なんのつもりだよ……」
 もう怒りを通り越して、ある種の不気味さすら感じる。こいつ、頭のねじがどっか一つ緩んでるんじゃないか。そうでなければ、あんな非人道な真似できるはずがない。他人の色恋沙汰にまで口出しするなんて、普通の人間のすることじゃないだろう?
「よかったじゃないですか。所詮高校生の恋愛ごっこなんて、身にもならないお遊びです。時間の無駄ですよ」
 まるで諭すような丸い声。薄ら寒い笑み。
 本能的な恐怖を覚え、俺は身を震わせた。窓からの逆光が古泉の背中を突き刺すのを、ただただ見ているだけだった。言葉も発せず、この場から動くこともできずに、ひたすら時の経つのを待った。古泉は動かない。俺に視線を寄越したまま、棒立ちになって向き合っている。ねっとりと絡み付くような時間の流れに対し、俺の思考回路は既に働きを放棄しており、古泉の瞳に映る、ある種冷静な判断からくる動揺、揺らぎ、そういったものを洞察する気力も、今の俺には存在していなかった。

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