俗説的に、女性は食欲とともに性欲が満たされる、と言われている。
女性というのは男よりも、食欲を知覚する脳の中枢と、性欲を知覚するそれが、近い位置にあるのだそうだ。つまり意中の女性とそういった関係になりたければ、食事に行く前にホテルに行けと。
まあこんな知識、性的に非常に健全な学生生活を送る俺にとっちゃ、今のところ役に立つ話題でもない。まこと遺憾なことではあるが。
と、ここで上記の言い分のうち、不本意ながら一つ訂正しなければならない箇所がある。「性的に非常に健全な学生生活」、これを残念ながら俺は、問題なく送れているとは言いがたいのだ。しかし「今のところ役に立つ話題でもない」、こちらは正解なのである。さてここにどんな矛盾が生じるか?
この話題が、女性のみに当てはまる現象ということを考えれば、自ずと回答も導かれるはずだ。
つまり、そういう訳で、俺は今、コンビニの袋片手に、古泉宅に向かっているのである。
文脈がいまいち繋がっていない? 深くは考えないでほしい。
行き慣れたアパートの一室の前、扉だけはやけに立派な玄関先で、俺は途方に暮れていた。何度チャイムを押してもドアをノックしても、部屋の主が現れないのだ。
ここの主に限って、俺が来ると分かっていながら部屋を空けるはずもなく、現に中からは、がたがたと大きめの物音が休むことなく鳴り響きっぱなしであることを一考しても、どうにもおかしい。まさか何かよからぬ事件でも起こっているのでは? などと思考の飛躍に至ったのは、昨日寝る前に読んだ、長門に借りているミステリ小説のせいだったと言っておこう。
俺は古泉の身を案じるあまり、とうとうドアノブに手をかけた。がちゃり、と大袈裟な音とともに、重厚な感触が手のひらに伝わる。まさか鍵が開いているとも思わず、力を込めて引っ張ったせいで、半ば体を振り回されるように勢いづいてしまった俺は身を崩し、うっかり「うおっ」と小さく悲鳴をあげて、ドアノブにぶら下がる形になった。
途端、耳をつんざくような悲鳴が聞こえて──くるはずもなく、その代わりにミニマムな驚嘆の声がなんとなく耳に入った。続いて聞こえてきたのは板の間を軋ませる大きな足音、胡散臭い笑みのオマケ付きだ。
「大丈夫ですか? チャイムに気づいてはいたんですが、どうしても手が離せなくて。申し訳ありません」
俺は思わず、たいして大きくもない眼球を、見開きすぎて落っことしそうになったね。なんせ忙しなく現れた古泉はエプロンを身につけており、あろうことか手にはフライ返しを持っていたのだから。
「なんだ、お前、まさか料理でもしてたのか」
俺は驚きのあまり、廊下にへたり込んだまま、古泉の手にした料理用具を凝視していた。
古泉が、料理だと。ちゃんちゃらおかしいではないか。こいつはいつ家に来ても、台所のゴミ箱に生ゴミ一つなく、その代わりにカップ麺やらフリーズドライ食品やらコンビニ弁当やらの残骸が山をなしているような、そんな奴なんだぞ。
目の前に差し出された手に気づいて、俺はようやく我に返り、体を起こした。中の様子が気になったが、古泉の長身に隠れて、ここからではよく見えない。
「とりあえず入ってください。ちょっと散らかっていますが……」
そう聞いた瞬間から予想はしていた訳だが、まあそのなんだ、お前の言う「ちょっと」とは、ゴジラが東京の町を「ちょっとうっかり踏みつぶしちゃったぜ」というぐらいの「ちょっと」なんだろうな。つまり、全然「ちょっと」じゃねえよ。なに生易しい表現で濁そうとしている。
目の前に広がるのは、見るも無惨な光景であった。そこいら中に散乱した、得体のしれない物体、これは元、何なのだろうか? よもやこの、鮮やかな黄色に所々黒く不気味な斑点の混ざったぐちゃぐちゃの凝固体が、宇宙からの贈り物だと言われても、俺は一切疑いを持たん。むしろそうであってほしい。これは地球上に存在してはいけない物のような気がする。
「どうにも上手くいかなくて。いやあ、難しいものですね」
なるほど、以前から薄々感じてはいたのだ。どうもこいつは、この眉目秀麗な見た目とは裏腹に、恐ろしく面倒くさがりな上に不器用なのではと。これだけ元がひどいと、ハルヒの希望を叶えるために完璧を演じるのも一苦労なのではなかろうか。はは、と爽やかに苦笑を浮かべる古泉に、俺は呆れを通り越してもはや哀れみといってもいいほどの視線を送ってみたが、こいつは意に介することもなく、笑んだまま肩を竦めやがる。
腹立ち紛れに視線をそのまま台所にずらすと、こちらも地震が来たのかと思えるほどの大惨事だ。至る所に例の黄色い物体がこびり付いていていることから、どうやら発生源はこの台所のようだと分かる。
「で、この謎の物体の正体はなんだ。料理じゃなく化学実験でもしていたのか」
「いえ、実はオムレツを作っていたんですが」
その事実に、俺は言葉を失った。どう頑張っても俺の常識的な頭では、この暫定的宇宙物質とオムレツが結びつかない。オムレツってのはもっと、丸っこくてふわふわしていて、鮮やかな黄金色でもって食卓を彩る、いわゆる食べ物ってやつだよな。俺の知らない新しい液体金属の名前ではないよな?
「これの一体どこがオムレツなんだ。俺にはどう見ても、宇宙的な何かとしか思えん」
「……それは幾らなんでも、長門さんに毒され過ぎではありませんか?」
古泉の笑顔がうっすらと引きつり始める。さすがに自分でもこの悲惨な状況が飲み込めていると見た。しかし不思議なのは、台所ならいざ知らず、どうやって部屋の真ん中に鎮座するコーヒーテーブル辺りにまで被害を広げたのかということだ。確かに広いともいえないワンルームではあるが、意図的に投げつけるかまき散らすかしなければ、こう甚大な災害にはならないだろう。
「ほら、オムレツってこう、ぽーんと、ひっくり返すじゃないですか。どうにも勢いをつけすぎてしまって、あちらまで飛んでいってしまうんですよね」
ぷち、と頭の隅っこで何かが切れる音がした。
「あほか、素人にあんな真似できる訳ないだろ!」
食べ物を粗末にするやつは、もったいないお化けにでも呪われるがいい。俺の感情はとうとう呆れも哀れみも素通りして、怒りへと一直線に向かい始めた。
「くそ、それ貸せ」
俺は古泉の手からフライ返しを奪い取ると、まずはシンクに水を溜めてそれを突っ込み、次いでやっと正体の分かった黄色い物体──確かに言われてみれば、卵に見えないこともない──を片っ端から片付け始めた。卵は乾くと擦っても取れなくなるので、早急に落とさないと二次被害の恐れがある。ようやく部屋中の卵を駆逐出来たら、次はシンクに溜まった調理器具類の洗浄だ。こちらもありとあらゆる箇所が卵汚れに冒されていたものだから、想像以上の重作業になってしまった。
なんとか見られる状態になった、ここに至るまでの時間、およそ一時間半。人の家で家政婦まがいの働きをして、その上無賃金。俺はどこまでお人好しなのだろうか。自分で自分が心配になってきた。
その間、家主である古泉が何をやっていたかというと、実に何もやっちゃいなかった。最初こそ俺の動きに合わせて付きまとっていたが、そのうち邪魔になっていることに気づいたのだろう、諦めたように溜め息を吐いてベッドに腰を下ろしてからは、静観の姿勢を崩さなかった。もうどこから突っ込んでいいのか分からないね。ここは誰の家だ。
「おい古泉」
声をかけると、バネ仕込みのような動きで顔を上げ、「はい」と無駄に大きな声で返事が返ってくる。
「なんでしょう」
「卵はまだあるのか」
大仰に驚きを見せる古泉に手を差し出し、「あるなら早く出せ」と迫る。古泉は焦ったように冷蔵庫に向かうと、中から新品の生卵をパックごと取り出し、手渡してきた。少しばかりの期待をその目に浮かべながら。
「もしかして、オムレツを作ることができるんですか?」
古泉の言葉に、心もち胸を反らせて、鼻を鳴らす真似をする。まったく、俺を誰だと心得ておるのだ。
「俺は美味しんぼとミスター味っ子と包丁人味平を家に全巻揃えている男だぞ」
はいそこ古泉よ、あからさまに落胆した表情を浮かべるのは止せ。お前は知らんだろう。その昔、まだいたいけな瞳に夢という名の白色矮星を煌めかせていたキョン少年が、俺は将来流浪の天才料理人になるとのたまって、料理と称した化学実験を繰り返していたことを。少年は母親の留守を狙ってその度、究極のうどんだの、至高のチャーハンだのと名付けた残飯を大量生産しては、証拠隠滅とばかりに後片付けまで懇切丁寧に行っていたのだ。
残念ながら俺に料理の才能が欠けていることは、早い時期に詳らかになったんであるが、性懲りもなく練習を繰り返し、一つだけ習得できた品がある。
「それがオムレツ、ですか」
その通り。オムレツだけは、俺の得意料理と言ってもいい。
口を動かしながらも、ボウルに卵を割り、多めに牛乳を加えると、泡立て器で思い切り撹拌する。卵白が泡立ち、さながらメレンゲの一歩手前といったところまでくると、軽く塩胡椒をふる。これでタネは出来上がりだ。しかしここからが真剣勝負の始まりなのである。
フライパンを火にかけると、まずは油とバターを半々ずつ落とし、溶けて混ざり合うのを待つ。香ばしいバターの香りが立ちこめたところで、充分熱されたフライパンに卵をひけば、じゅわっという、食欲をそそる効果音が響き渡る。古泉がごくりと生唾飲むのを、俺は聞き逃しやしなかった。
それからはもう時間との勝負だ。できる限り手早く卵をかき混ぜ、空気を含みながら焼き上げる。いやいや、まだ早いだろう、と思えるほどトロトロの半生卵を、焦げ付かないよう気をつけながら、フライパンのへりに寄せて、あのラグビー型を作り出すのが一番の難関だ。上手くふんわり形作れば、これで一丁上がり。
ところで先ほど部屋を片付けている最中に、気づいたことが一つある。ベッド脇にカバーもかけず置かれた文庫本が目に入ったのだが、それに俺は大層見覚えがあった。そしてぴんときたのだ。古泉に料理欲を湧かせた犯人に、である。
「古泉、どうせフランスパンを買い込んでるんだろう。今のうちにトーストしといてくれよ」
その瞬間の、古泉の間抜け面といったらなかったね。うっかり吹き出すところだった。
「……どうして分かったんです?」
「さてどうしてでしょう」
古泉の目が、盛大にクエスチョンマークを乱立させている。なんという快感。いつも、何でもお見通しと言わんばかりに浮かべられた、あのポーカーフェイスを本日とうとう崩すことができて、俺はすっかりご満悦である。普段は古泉の独壇場である長舌をふるうほどに。
「まあ驚くのも無理はない。俺はお前みたいに推理小説に傾倒してる訳じゃないから、普通ならまさかあんなマイナーな本を知っているはずはないもんな」
くいと、俺が親指で指し示したのは、先ほど見つけたベッドサイドの文庫本。古泉が、あ、の形に口を開けたまま固まった。
「しかしな、昨日長門が貸してくれたミステリは面白かったぞ。ただの短編集だと思って読み進めていたもんだから、仕掛けに気づいた時には、もうどっぷりと物語に入り込んでて、読書を中断できなかったさ。結局一晩かかって全部読んじまったよ。しかし拷問だったなあ、異様に料理の描写が細かいせいで、夜中だっつうのに腹が減って仕方なかった。特に最初に出てきたオムレツの描写のインパクトはすごかったね。とろける卵にフランスパンを浸す食べ方なんか、食感まで想像できちまって、たまらなかったぜ。まさに導入部にぴったりの演出だったな」
古泉の顔がみるみる赤くなってゆく。その反応があまりに面白いため、もっといじめてやりたいのはやまやまだったが、まだ料理の途中であることを忘れてはならない。俺は顔をにやつかせたまま、フライパンを一拭きすると、同じ手順で残りの卵を流し込んだ。
鼻歌歌いながらフライパンを振るう俺を、じっとりと横目で睨みながら、古泉が言う。
「まったく、あなたがこんなに意地の悪い人だとは思ってもみませんでした」
そうしてストックケースからフランスパンを取り出し、ナイフで大振りに切り始めた。
古泉の不機嫌は、テーブルに並べられた黄金色のドームを目にした瞬間、どこかへ消え失せたようだ。こだわるべきソースは時間も材料も俺の腕もなく、仕方なしにお手軽かつ最強である、ケチャップとウスターソースをミックスしたジャンキーソースになってしまったが、それでも辺りに立ちこめるかぐわしい卵の香りと、フランスパンのこうばしい芳香に、自然と腹の虫が一斉に活動を開始する。
「本当は小説にあった通り、ホワイトソースでも、といきたかったんだが、残念ながら俺には作り方が分からん」
「いえ、とんでもない……充分です」
ぷるんと震えるオムレツにひとたびフォークを差し入れれば、中からどろりと半熟の卵が溢れ出る。これに件のソースを絡めてフランスパンをくぐらせれば、うむ、確かに幸せになれる味が口の中に広がった。
「すごい。おいしい。うん、これは、すごい」
古泉が語彙をなくしている。これまた珍しい。てっきり料理評論家のような感想を述べ出すのではと身構えていたが、これだけ素直な反応を見せてもらえると、作った甲斐があるというものだ。
「しかし本当に驚きです。あなたにこんな特技があったなんて。あの手際の良さ、一体どれだけ練習したんです?」
古泉が卵液たっぷりのパンをほうばりながら訊いてくる。口に物を入れて喋るな、行儀の悪い。しかし褒められて悪い気はしないな。俺は口の中の物を嚥下してから、答えた。
「さすがに最初は失敗ばっかりだったさ。お前ほどじゃないけどな。それに卵を大量に無駄遣いしたら、さすがに母親にばれると思って、まずは素振りをすることにしたんだ」
「素振り?」
「濡れた布巾を卵に見立てて、フライパンを振る練習だよ。知らないのか? これって結構有名な練習法だと思ってたんだが……」
もしや俺がそうと思い込んでいただけで、実際は漫画の中のみのフィクショナルな常識なのだろうか? 古泉が無駄知識を得たコメンテーターのような面持ちで、なるほど、とうなずいているのを見て、少々申し訳ない気分になる。まあフィクションだとしても、一応練習の成果は明らかになっているのだから、丸っきり嘘ということはあるまい。ここは話を逸らして忘れていただこう。
「ところで、お前って意外と影響受けやすいんだな。いやまさか、出来もしない料理に手を出すなんて、無謀なことをやらかすとはなあ」
さっきあれだけ恥ずかしがっていたところをみると、どうやら触れられたくない事実なのだろうが、そういう小さな穴ってもんは余計に掘り返したくなるのが人間の性なんである。案の定、その見目麗しいハンサムフェイスは見る見るうちに情けなさでいっぱいになり、俺はとうとう我慢できず吹き出した。
「笑わないでください。僕はもう恥ずかしさに、穴があったら顔から突っ込みたいほどです……まさかあなたがあの小説を知ってるなどと、思いもしないではないですか」
俺だってびっくりだよ。まさか同じ日に同じ本を読んでいただなんて、それこそどこのちゃちな物語の展開かってんだ。なんせ本を貸してくれたのが長門だということに、仕組まれた何かを感じずにはいられないのだが、そんなことを仕組んでも長門にはなんの得もないだろうし、まず無意味極まりないので、マジでただの偶然なのだろう。
ちなみにその小説は、よくある連作短編の体をとったミステリであった。ただ一つ違うとすれば、何故か知らないが異様に食べ物の描写にこだわっており、また探偵役の男がプロ並みの腕を持つ料理人という設定なものだから、話の至る所に食欲をそそる表現が散在している点である。けれどもそこに気を取られていると、複雑に張り巡らされた伏線に気づかず、最終的に明らかになる謎に度肝を抜かれることになるのだが、今は関係のない話なのでそれは置いておこう。
「まあ、あれは仕方がない。それほどに何か食いたくなるし、料理のひとつでも作りたくなる小説だったからな」
とか言いながら笑いを引きずっていると、いい加減古泉は無言になり、そのままじっとりとした目で、俺のほうを睨んできた。
しかしなあ、別に小説やらテレビに影響されるなど、普通の人間なら当たり前のこと、何をそんなに照れることがあろうか。どうせ照れるんなら、普段からのたまっている、聞いているだけでむず痒くなる自分の発言に対して照れろよ。まったく、こいつの考えることは、ほんとうによく分からん。
「で、俺の作ったオムレツは結局お気に召していただけたのか」
「それはもう。今まで食べた中で一番のオムレツだったと言っても過言ではありません」
すぐにガラリと表情を変え、爽やかすぎる笑顔で嘘臭い台詞を吐いているが、弧を描く口の端に黄色いカスがついているぞ。くそ、今日のこいつの間抜けな姿の数々を、デジカメにでも収めときゃよかった。北高女子相手に、裏稼業でぼろ儲け出来ただろうに。
しかしまあ、この完全無欠な理想的ハンサム男の、意外なまでの情けなさを、俺だけが知っているというのも悪くない。俺みたいな庶民は、一分の隙もないデコラティブな一流ホテルに宿泊するんじゃそれこそ落ち着かないが、そこにドジっ子メイドの一人でも存在してくれていれば、途端に安心感を得られるのさ。言っておくがこの喩えは決して、俺の個人的な趣味ではないぞ。
ぬいぐるみだって人形だって、完全な造形よりも、少しへちゃむくれているほうが愛着が湧くってものだろう。
それで俺はさっきから、何をこんなにも回りくどい表現でもって伝えようとしているかというと、まあその、なんだ、察してくれ。
目の前で子どもみたいに口の周りをべたべたに汚して、オムレツを頬張っている、ビスクドールみたいな男が、どんな風に俺の目に映っているか、なんてさ。
どうでもいいことだろう? 美味しい食事を前にすれば、なんだって。