本日晴天、傘の準備を忘れずに


 友人の国木田の家に行くのは初めてだった。いつも学校ではそれなりに一緒にいるし、下校も一緒のことが多いのだが、そういえば本人についてのデータなんてほとんどといっていいほど知らない。たとえば住所だとか家族構成だとか。そのことに気づいたとき、谷口はいささか愕然とした。そうして少しだけ不安になった。ともだちってこういうものだっけ?
 もう一人のサンプルであるキョンというおかしな渾名の友人に関しては、その名が示すとおりの変人であるため、いまいち参考にはならない。その他の級友は、もう少しドライな付き合い方をしているから、まあ個人情報を知らなくても問題はない。これが対女子ならば、自らの持つ情報網をめいっぱい駆使してでも手に入れる価値は多いのだが。
(まあ、こいつも変わり者っちゃあ変わり者だしな)
 結局どうでもいいような気がしてくるのだった。物事をあまり深く考えない性格は谷口の短所であったが、今この場に限っては俄然、長所たりうる。
 前を歩く国木田におとなしく付き従い、谷口は坂道を行く。北高から続く坂を一度下りきり、光陽園の駅からまた反対側の山手へと向かう道だ。この辺りは坂が多い。どこもかしこも昇りか下りかの二択で、平坦な道など、北口駅の周辺のみだった。歩いているだけでくたびれるが、折しも季節は新緑の季節で、遊山と思えば気が楽だ。真夏じゃないことも救いだろうか。現時点で甲山登山一回分の総歩数はゆうに超えており、きっと暑さがあったら汗だくのぐだぐだで、見るも無惨な有様だったはずだ。
 すでに息が上がり気味な谷口とは正反対に、国木田は涼しい顔をして歩を進めている。普段から通い慣れている道なのだから当然といえば当然なのだろうが、国木田が妙に人間離れしているように感じるのは、こういったときだ。
「あ、そこだよ、あの三軒先の茶色い屋根」
 国木田の指差した先には、いかにも建売といった風情の一戸建てがあった。特筆すべきところはない。ただ、塀の際から見える庭がきれいに整えられており、目の覚めるような白を纏った空木が印象的だった。家の外観には似合わない、えらく和風の庭だ。
 玄関を抜けながら、谷口の視線に気づいたのか、国木田は言った。
「家は最近建て替えたんだけど、庭だけは以前のまま残してあるんだ。おばあちゃんの趣味で」
「へえ、ばあちゃん同居なのか」
「二世帯住宅に改築が終わった途端、死んじゃったんだけどね。できあがりみて、安心しちゃったのかも」
「それって最近?」
「最近といえば最近かなあ、五月の頭」
「えっ、すげえ最近じゃねーか。全然知らなかったぜ」
「まあ言ってないし」
 話しながら、二階奥の部屋に通された。小綺麗に片付けられた殺風景な部屋は、おおよそ想像していた通りだ。お茶を持ってくるから待ってて、そう言って国木田は階下に降りて行った。
 一人残された谷口は、手持ち無沙汰に室内をじっくりと見回した。それほど目立ったところもない。木製の勉強机にはノートパソコン、ベッドと本棚、ローテーブル、それからテレビには一世代前のゲーム機が接続されている。うっすら埃をかぶっている様子からして、普段からそれほど遊んではいないらしい。視線を移し、本棚には百科事典だの辞書だのが、小難しそうな書籍と一緒に並んでいる。いかにも優等生らしい部屋といった風情だ。
 しかしそのなかで、一つだけぱっと目に飛び込んできたものがあった。
 それは本棚の一段にひそやかに立て掛けられていた、蝶の標本だった。大きな蝶が一つと、小さな蝶が二つ、小振りの標本箱に納まっている。偽物かと思ったが、じっくり見ると、どうやら本物であると知れた。胴体のうっすら旋毛の生えた感じや羽のなめらかさが、いかにも生々しい。まるで今にも羽ばたき動き出しそうで、目が離せなかった。
 おかげで国木田がペットボトルのお茶とグラスを提げて戻って来たのに、数拍遅れてようやく気がついた。
「なんだ、座ってりゃよかったのに」
 国木田はそう言ってから、谷口の手のなかのものを目にとめた。
「標本だよ」
「これ、ホンモノなのか?」
 谷口は標本箱を手にしたまま腰を下ろした。視線は箱のなかに注がれっぱなしだ。お茶をつぎ終えた国木田が、谷口の肩越しに覗き込みひとつひとつを指差す。
「うん。大きいのが、ミヤマカラスアゲハ、小さいのはルリシジミとミドリシジミ」
「へー。よくわからんが、きれいなもんだな」
 たしかにそれは見目にもうつくしかった。特に、大きな蝶は羽のかたちにそって瑠璃色の線がいくつも走り、これが羽ばたいていればきっと幻想的で、思わず見惚れてしまうだろうと、谷口は想像した。
「作ったんだ、それ。自分で」
「えっ、これ作れんのか!」
 あまりの驚きに、谷口はやっと標本から視線を外し、かわりにそれを国木田のほうへと向けた。国木田はいつも通りの、人好きのする笑みを浮かべている。
「うん、っていっても、小学生の頃、田舎の従兄弟に教わって、それ一回きりなんだけどね。その従兄弟のお兄さんが昆虫きちがいでさ、部屋のなかがもう、すっごいんだから。蝶だけじゃなくって、バッタとか黄金虫とか、昆虫標本だらけで。あれは子ども心にちょっと気味悪かったな」
 その部屋の様子を思い出したのか、国木田がぶるりと身を振るわせる。
「どうやって作るんだ? こういうのって」
 さして深くも考えず、谷口は訊いた。純粋に気になったのだ。どうだっけなあ、なにぶん小さい頃のことだから。そう言って国木田は目線を宙にさまよわせていた。あんまり考え込むものだから、谷口はもういいよ、と言おうとしたのだがそれよりも、国木田がぽんと手を打ち、思い出した、と声を上げたほうが早かった。
「捕まえた蝶の屍骸を、固定して乾燥させるんだ。ほら、ここにピンが刺さってるだろ。死んでからしばらくは、展翅板と、たしか専用のテープを使って、羽まわりもこうやって止めて、そのまま硬くなるのを待つ。そうしたら、こうやってきれいに羽を広げた標本ができるんだよ」
 続いて詳しく話を聞くと、なるほど細かくて面倒な作業のようだった。手先のあまり器用でない谷口には、とうてい不可能で不可解な趣味である。だいたい昆虫にたいしてそれほど思い入れもない。手足が六本もある節だらけの身体より、同じ人間の女の子の身体のほうが何千倍も魅力的だ。嗜好ってのは人それぞれだなぁなどと、谷口は変に感心を覚えた。
「んでもよ、そんな都合よくきれいな虫の死骸なんて手に入るもんなのか?」
 ふとそんな疑問を思いつく。そのまま口に出すと、国木田は本心から驚いたといった顔をしてみせ、それからこらえきれない風に、くつくつと笑い声をあげた。
「やだなあ、谷口。そんなわざわざ、死骸を探す真似なんてしないよ。標本っていうのは、捕まえた虫を殺して作るんだ」
 谷口はさすがにぎょっとした。そりゃ世の中に伝播している趣味の類いだし、端からその趣味に文句をつけるつもりもないが、やはり気持ちのよい話ではない。わざわざ生きている虫を捕まえて殺してしまうなんて。だから思ったままを口走ってしまっていた。
「なんか趣味悪ィ……」
 ついつい顔をしかめる谷口に、国木田は苦笑いを返す。
「谷口、元々標本ってのは学術目的で作られるもので、きちんと意味のあるものなんだよ。生態系に影響のないよう、ごく少数の割合から採取されるサンプルのようなものでさ」
「う、まあ、そりゃそうなんだろうが」
「でも、うん、そうだね、これがただのコレクターになると、生態系も何も無視して、ひどい採集のしかたをするのもいるって言うよ。希少種がそのまま金に繋がる世界だからね」
 国木田は言うと、ふっと目を伏せた。視線は谷口の持ったままの標本箱にそそがれている。谷口はつられてそれを見た。やはりうつくしいものはうつくしい。よくテレビや漫画なんかで、女性が言う、綺麗なまま死にたい、という台詞を、谷口は思い浮かべた。標本にされた蝶のなかの何万分の一くらいには、きれいな姿のまま残されて、喜んでいるやつもいるのだろうか。でも知らぬ間に死んでいるのはやっぱり嫌だ、想像するとぞっとした。そういえばまだ少しも口にしていなかったお茶のグラスを手に取った。それほど喉はかわいていない。一口飲んで、テーブルに戻した。
 ふたたび国木田をみやると、まだ彼は標本箱を見つめていた。それからおもむろに口を開いた。
「でもさ、谷口。自分の好きなもの、なんでもいいんだ、昔好きだった漫画とか、お気に入りのコートとか、それから初恋の人とか。それがずっとうつくしいまま手元にあるのって、すごく甘美じゃない? 朽ち果てることも逃げ出してしまうこともなく、大好きなものがずっと、自分のそばにあってほしいって、考えたことはない?」
 国木田の言うことが、どうにも不可思議で、何度も台詞を反芻し、谷口は考えた。そばにあってほしいもの、そばにあるべきもの、それが永遠にきれいなままであることの必要性。自分も歳をとって小汚くなるだろうに、隣でうつくしいままの恋人。考えれば考えるほど、それほど魅力的なことだとは思えなかった。そうして考えるのを止めた。疲れてしまったからだ。
「そりゃあ、きれいなままだったら嬉しいけどさ、そんなのありえなくね? だいたいさー、いっくら気に入ってる大事なもんでも、ずっと近くにあったら飽きるし、たぶんつまんねぇと思うぜ。ケータイもゲームも新しいのが次々出るしさ、女の子だって色んな子がいたほうが楽しいしな!」
 結局出した結論は、これだった。谷口にとって、永遠の時だの、朽ち果てることない美だのは、さして重要なことではない。そんな些末なこと、日々が楽しければけっこう、どうだっていいのだ。
 国木田はどんぐり目をぱちくり瞬かせたのち、盛大に吹き出した。
「あはは、谷口らしいなあ、何それ、あはは」
 なかなか笑いがおさまらないらしく、ひいひい言いながら笑い続けている。そんなにおかしいことを言っただろうか、おかしいというなら、国木田の言い分のほうがよほどおかしいと感じるのだが。
「じゃあ国木田は、んなこと思うわけ? この標本みたく、好きなもんとっておきてぇって」
 ようやく笑いをひっこめた国木田が、目尻にたまった涙を拭き取りながら、ふとなんともいえぬ表情を見せた。よくは分からないがなんとなく、深く触れてはいけなかったような気がして、谷口は訊ねたことをほんの少し後悔した。
「……うん、そうだね。僕は、時々思うよ。こうやって残しておけたらなあって」
 そう言って、国木田は口元を綻ばせたのに、谷口は顔をしかめ、否定の意を述べた。
「ふうん、なんか歪んでるなーおまえ」
「そうかなあ、人間として真っ当な欲求だと思うけど。だからこういうものが生まれるんだし」
 谷口の持つ標本箱に手を伸ばし、国木田はこんこんとそれを叩いた。そうと言われてみればそうかもしれないと、思い直す。たいして考えなしに発することだから、もっともらしい理由を述べ立てられれば、すぐに人の意見に左右される。いつものことだ。つくづく、頭を使うのが下手くそなのである。
 まあ人の嗜好なんてそれぞれだし、そう自分を納得させた。納得しながらお茶をすすっていると、盆の上に載せられたままだった、皮の黒いまんじゅうを手渡された。国木田とまんじゅう。妙な取り合わせのようでいて、しっくりくるような気もする。よくよく考えれば、それをおかしいと思えるほど、国木田の人となりについて詳しいわけでもなかった。
 しかし初めて家の場所を知ったその日から、国木田の意外な趣味にまで触れることになるとは、谷口は思ってもみなかった。あらたに知ることになった友人の一面は、なかなかにアグレッシブだ。国木田の祖母が近頃亡くなったという事実も、虫きちがいの従兄弟がいることも、それから少しばかり歪んだ執着心があることも、知らないからといって何の損得もない。それでも、知れたことが喜ばしかった。
 それで谷口は、自分の執着は、そこなのかもなあ、と思った。俺は物体はいらないから、中身が欲しいなあ。ゲームは借り物でもいいから最後までクリアしたいし、漫画も買わなくてもいいけど、話は知りたい。ともだちだって、別にいつでも一緒でなくてもいいから、何を考えてんだか、何をやってるんだか、そういったことは知りたい。
 そうだ、ともだちってこういうものだ。
 谷口はまんじゅうを頬張りながら、ようやく気を緩めた。まんじゅうの中身は白あんだった。


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