100 love letters

     100

 目的地のアパート目の前でキョンは立ち止まり、いつまでも上がりっぱなしの息を落ち着かせようと、そこの階段に座り込んだ。ゆっくりと呼吸を整える。古泉の部屋とおぼしき窓には、まだ明かりがともっていなかった。もう夜の八時だというのに、珍しく帰りが遅い。珍しくといっても、キョンの知るかぎりでのことだが。
 一息ついてから、胸ポケットから鈴のついた鍵を取り出し、階段をのぼる。二階の端から二番目、表札は出ていない。試しに鍵を差し込んでみると、簡単に解錠された。恐る恐る扉を開ける。なかは真っ暗で、誰もいなかった。キョンはほっと息をつき、鍵をかけ直すと無造作に靴を脱ぎ捨て、部屋に上がり込む。
 電気をつけると古泉に存在がばれるかもしれないので、暗がりのなかを進む。なんとか視界が慣れてきて、キョンは呆然とした。
 そこは前の部屋以上に、何もなかった。ベッドも、テーブルも、本棚も、床の上には一つとしてものが置かれていなかった。生活感がないという次元ではない。ここで人が生活しているのが不思議、というレベルだ。
「あいつはほんまもんのアホだ」
 キョンはそう呟き、今日何度目かの溜め息を吐き出した。
 万一のことを考え、声を押し殺して部屋の真ん中に三角座りで身を固めていると、やがて外から足音が聞こえてきた。続いて鍵を回す音、そして扉の開かれる音。部屋から直接玄関は見えないが、うっすらと鈍い光が台所を照らしているのが分かる。その明かりが消えるとともに、ぎしぎしと床の鳴る音が響き、ようやく、部屋にまともな光がともった。
 部屋の中の様子がはっきりと浮かび上がる。古泉の驚きの表情とともに。

「よう、久しぶりだな」
 部屋の入り口で、口を開けたまま動かない古泉に業を煮やし、キョンは自分から声を掛けた。何度か瞬きを繰り返した古泉は、事情がだんだんと飲み込めてきたようで、ゆるゆると表情を歪ませて、突然、踵を返して走り出しそうになる。
「こら逃げんな!」
 キョンが大声で叫ぶと、古泉は肩を大袈裟なくらい揺らし振り返った。そこには今にも泣き出しそうな顔。
「あろ、どっううしれ、あらたがっ、こ、ここに、」
 古泉の声は、ぶるぶる震えているし、舌はかむし、何を言ってるのだか判別できないほどひどかった。
「ちゃんと喋れ」
 キョンがそう言って睨みつけると、ますます縮こまった古泉は、その場にずるずると座り込み、頭を抱え込んで沈黙した。
 何分経ったか分からなくなった頃、ようやく古泉はキョンに視線を向けた。憔悴しきった表情は、よく見ると以前より少し、やせこけたように思える。
「どうして、ここにあなたがいるのです。どうやって入ったのですか」
「それは禁則事項だ」
 キョンの切り返しに、古泉は眉をしかめる。落ち着いたらこの理不尽な状況に怒りを覚えはじめたようで、さっきよりもいくらかきつい口調を作り、古泉は言った。
「どうやって、ここを探し出し……いえ、おそらく彼女から聞いたのだろうことは分かります。しかしこれは不法侵入ではありませんか。あなたどうやってここの鍵を手に入れました」
「だから禁則事項……って言い訳も通用せんだろうな。鍵はとある人から預かった。合法的に手に入れたのは確かだ。そこまで言や分かるだろう」
 苦々しげな面持ちで、古泉は答える。
「……もしかして、朝比奈さんですか」
「やっと頭が回りはじめたか」
 さすがにもういいだろうと、キョンは足を崩した。古泉はといえば、入り口の柱にもたれかかったまま、肩を落としてうつむいている。その表情は伺えないが、複雑な感情が雰囲気となって伝わってきた。
「せっかくの再会に、なんだその不満げな態度は。そんなに俺と顔を合わせたくなかったのか」
 古泉の前髪で隠れた顔が歪むのが、キョンにはなんとなく分かった。
「そういうわけじゃありませんが……でも」
 煮え切らない古泉の態度に、キョンもだんだんと苛立ちはじめる。ここへ来て、最初に抱いた疑問を、遠慮なくぶつけるほど、キョンは怒りにかられていた。
「だいたい、俺に会いたくないんなら、なんでこんなところに住んでる」
 そう言われたときの古泉は、まさに痛いところをつかれた、といった風だった。言葉につまり、目は泳ぎ、決してキョンのほうを見ようとしない。
「こんなもん、近いうちにばれるに決まってんだろう。どうやって上手いこと、俺を避けるつもりだったんだ? おかしいだろう、わざわざ隣の部屋に住むなんて……おまえの考えてることはまったく分からん」
 古泉はずっと沈黙を守っている。部屋中に蔓延しているのは、おかしな空気だった。気持ち悪くてたまらなくなったキョンは、換気をしようと窓を開け放す。すると何もない部屋の真ん中、むっとする湿気とともに、やさしい風が通り過ぎた。窓から見えるのは、いつもと同じようで、少しだけ違う、切り取られた景色。川沿いの道は見慣れたはずなのに、部屋の内側が違うだけで、どうしてこんなにもさびしく感じるのだろうと、キョンは不思議に思う。
「俺はおまえに、ずっと会いたかった。言いたいことがいっぱいあった。手紙を受け取るたび、おまえに会って、話がしたくなった。それに、おまえの部屋を掃除するのが、どれだけ大変だったと思う。カーテンだってけっこういいやつに買い替えたんだ。その分の代金くらい請求させてくれ」
 窓辺に立ったまま、キョンは古泉を振り返る。顔をあげた古泉は、キョンをじっと見つめていた。おかしな顔だった。泣きそうで、笑いそうで、かなしそうで、うれしそうな、そんな表情だった。
「……いくらでしたか、カーテンは」
「三千九百八十円だ。税込み四千百七十九円」
「分かりました、あとで払いましょう。細かいのがあるといいのですが」
「ああ、四千円でいい」
「それは助かります。他に、何か必要で買ったものはありましたか」
「雑巾とマイペット。あと食器用洗剤」
「それも払います」
 古泉は、かすかに笑った。ようやく、キョンのよく知る古泉の表情が垣間見え、なんとなく安心を覚える。ずっと張りつめていた空気が、ほどけるようにゆるやかに変わってゆく。
 古泉は再び口を開いた。
「僕は、あなたと会わなくなってから、一日たりともあなたのことを考えない日はなかった。ほんとうは会いたくて会いたくてたまらなかったけれど、あなたが僕から距離を置きたがっているのは知っていたから、我慢しました。僕はずっと、あなたに嫌われていると思っていたから、あなたと会うたび、うれしいのと同じくらい、おそろしかった。いつ突き放されるかと考えただけで、いつも死ぬほどつらかった。だからあなたが別れの言葉を吐いたとき、僕はもちろんショックだったのですが、同時に、安堵もしました。嫌いだとはっきり言われるよりずっと、ましだったので。それだけで僕のなかでは、あなたは僕の大切な友人のままで、それが僕の思い込みでも、否定されないかぎり、それでよかったのです。だからあなたに一方通行の手紙を書き続けた。返事など出せるはずのない手紙なら、返事を待ちわびてかなしむ必要もないでしょう」
 古泉の言い分は身勝手だったが、キョンにはそれを怒る気になれなかった。古泉の気持ちが、痛いくらい伝わってきた。あの別れの言葉は古泉のためを思って告げたのだと、キョンは思い込んできたが、それが決して自分のためではないと、キョンには言い切れなかった。
 今ならばなんとなく分かる。自分はもしかすると、『そこにいない存在』と重ねて見られることが、単純につらかっただけなのではないかと。
 ちゃんと、自分自身を見てもらいたかっただけなのではないかと。
「なあ古泉」
「はい」
「俺たちは、つながってるんだとよ。二度も言われた。一度目は二年前、ハルヒがアメリカに行くってときだった。あいつに寂しくなるなって言ったら、寂しくなんかないって、そうあいつは言ったんだ。二度目はついさっきだ。朝比奈さんは、二度と会えないわけじゃないと、言ってくれた。だからさびしくないと。おまえはずっと、自分が一人だと思ってたんだろうけど、そうじゃないんだとさ。俺もそう思う」
 なぜならSOS団は、ずっとつながっている。
 キョンは確かめるように、ゆっくりと口にした。
「僕は……」
 古泉は何か言おうとして、そのまま言葉をつまらせた。ぼろぼろと、その鳶色の瞳から、大きな涙のつぶをこぼしながら。何度も口を開こうとするのだが、嗚咽がもれるだけで、ひとつも言葉にならない。ぐちゃぐちゃに顔を歪め、必死に口を動かす古泉のその髪に、キョンはやさしく触れる。
「古泉、話せないんなら、字で書け。ずっとそうやって、俺に伝えてきただろう」
 そう言うと、古泉は袖口で涙をぬぐいながら、小さく頷いた。そしてさっきから隣に置きっぱなしの鞄から、レポート用紙と筆入を引っぱりだし床に伏せると、何やら書きつけはじめる。書いては手を止め、長考ののち、消しゴムをこすりつける。しばらくかちかちと床の鳴る音が、静かにかなでられていた。
 かなりの時間をかけて、古泉は手紙を書き終えた。丁寧に四つに折られたレポート用紙を、古泉はキョンに手渡した。一応の気遣いか、キョンは古泉に背を向けて、少し離れた場所で、それを開いた。

 僕はあなたが好きです。
 逃げ出してごめんなさい。

 消し跡と涙の跡の残る用紙の真ん中に、たった二行だけが綴られた手紙。
 読むのがやっとのほど、ひどい字だ。しかしそれで充分だった。
 キョンは古泉に手を伸ばす。その柔らかな髪に触れる。
 そうして訊いた。
「これは、俺への言葉だよな。誰でもなく、俺に向かっているんだよな」
 古泉はしっかりと頷いた。
 キョンは頬をゆるめる。そして古泉の手からシャーペンを奪い取ると、同じレポート用紙に何かを走り書き、そのまま古泉のほうへと差し出した。

 全部許す

 それを見て、古泉は目をまん丸くすると、何度もその字に触れて、それから、もう一度頷いた。




おわり

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