恋は幻


はじまりの日


 昼休みに見かけた古泉は、殊更幸せそうな笑みを口元にたたえながらも、表面上はいつも通りとしか言いようのない如才のなさで、クラスメイト達と談笑していた。奴の纏う空気がいつもと違うのに気づいているのは、多分、俺だけだ。自惚れでなく、そう思う。


 今朝のことだ。
 連絡も何も入れずに無断外泊したことを謝罪するため母親に電話をすれば、高校生男子が受ける程度に軽く諌められ、その通話を終えた後、俺は呆然とベッドの上を眺めた。
 今日着てゆくべき制服が、ワイシャツもブレザーも、見るも無惨にぐしゃぐしゃのしわしわの状態で、山をなしていた。思わず無断欠席してしまいたいほどの光景に、俺は肩を落としつつ、しかし自業自得なのだから誰も責めることはできない。
「大丈夫です、制服の替えなら幾らでもありますから、一着くらいお貸ししますよ」
 朝っぱらから嫌味なくらい爽やかなこの部屋の主は、まるで他人事のようにそんな提案を口にしているが、実際にこの衣類の山をこしらえたのは、その牛乳を注いだグラスを持つ自身の手であるという事実に、何か抱くべき感情はないのだろうか。例えば反省とか心苦しさとかさ。
「それはお互い様ですよ。僕の制服だってほら、」
 流れるように優雅な仕草で、古泉はもう一つの山を指し示す。それから俺のほうに目を流し、にっこりと、それはもう文句のつけようのない完璧な微笑みで答えた。
「……昨日のいじらしいお前をどこに隠した。お前あれだろう、やっぱり多重人格者なんだろう」
「嫌ですね、あなたともあろう人が。多重人格──すなわち解離性同一性障害の一種の症状について知識がない訳ではないでしょう? そのような漫画的解釈を実際に存在する心的障害に当て嵌めて、あまつさえ誤解を招きそうな表現をするとは、些か配慮が足りないのでは?」
 っかー腹が立つったらありゃしねえ!
 俺は江戸っ子よろしく鼻をならし、限界まで顔を歪めて古泉を睨みつけ、こう発した。
「早速だが昨日の出来事は全てなかったことにしてもらえるか」
 言うや否や、古泉の満面の笑みにヒビの入った音が聞こえたのは気のせいか。じっくりその表情を観察すると、こめかみがひくついているのが見て取れた。おお、この一言でここまで動揺させられるとは、俺はとうとう魔法の呪文をゲットしたらしい。
「……履行された契約の破棄には、それなりのリスクが生じると、ご存知ありませんか」
 小難しい理屈を捏ねようとしても無駄である。古泉の声は、「自信がありません!」とマジックの太字で書いたみたいに分かりやすく震えていて、俺はそれが面白くて、うっかり口の端を持ち上げてしまう。それに気づいた途端、古泉は顔を真っ赤に染め上げて、何事かを喚き始めたが、俺はにやけながら知らんフリして風呂場へ直行した。
 さてこの馬鹿馬鹿しい程にドラマ的な朝のシーンに一カ所間違いを見つけるとすれば、それは、二人が二人してむさくるしい男の姿を取っている、という所だろう。自嘲の笑みを浮かべたくはなるが、しかしまあ、決して泣きたくなるようなことはない。
 こういうのも悪くないな、などと思える程度には、幸せである。

 谷口がふと気づいたように口にする。移動教室の途中、廊下での出来事だ。
「キョン、なんかいつもと違うなーと思ったらお前、制服でかくね?」
 続けて国木田が俺の全身をためつすがめつし、それからぽんと手を打った。
「ああ、ほんとだ。なんか違和感あったんだよね。そっかあ、やっとすっきりしたよ」
 気づいてくれたか、その屈辱的な事実に。気づいてくれんでもよかったのに。
 今朝のやり取りにて、結局俺は古泉から制服一式を借りることとなった。ワイシャツについては、サイズが同じM寸なのだからどうだってよく、問題はブレザーとパンツである。こちらは生徒一人一人の身体にあわせたオーダーメイドであるからして、当然のことながら古泉のそれが俺の体長に合うはずもない。しかし、ただ合わないだけならここまで卑屈になる必要はないのだ。俺の気を滅入らせているのは、なんとなーく余っているように見える丈の存在であり、どの部分かと具体的に言えば、袖とか裾とか身丈とか襟周りとか、ってそれ全部じゃねえか。と試着しつつ一人突っ込みながら暗澹たる気分になったのは言うまでもない。
 古泉はそんな俺を見ながらやけに嬉しそうに、かいがいしく、必要もないのに着替えを手伝ってくれた。ちなみに非常に鬱陶しかったことを明記しておこう。
 それでだ、上記のことを全て説明すればもれなく俺は、謂れもないとは言い切れない噂によって身を滅ぼすのは分かりきったことであるゆえ、ここで発するべきことと言えば、口から出任せでしかあり得ない。
「予備だよ、予備。昨日うっかり汚しちまってな。別の予備もクリーニングに出払ってて、これは俺が今より成長した時用に作ってたらしい予備の予備だ」
 俺の説明に、谷口の口が嫌らしい笑みをこしらえ始めた。非常にむかっ腹立つ、友達甲斐も何もなさそうな笑顔である。
「その気遣いが実を結ぶ時が来るのかねえ」
 うるさい、俺よりも背が低いくせに。
「まあ、背が高いばかりが価値じゃないけどね」
 畳み掛けるような国木田のその台詞に、切実な事情を感じた俺と谷口は、そのまま話を転換させる努力を怠らなかった。


 何気ない一日の最後は、当然のようにSOS団によって締めくくられる。
 そうだ、ここで一つ、前言を撤回しなければならない。
 古泉の変化に目ざとく気づいた奴が、俺の他にもいたからだ。名前を出すまでもなく分かるだろうが、一応事の顛末と併せて記しておこう。
 放課後の部室、今日は全員が所定の位置に揃っていた。ご機嫌な団長はパソコン付き団長机の前で胡座をかきながらネットサーフィンに精を出し、朝比奈さんは本物のメイドと見まがうほどにぱたぱたと部室中を動き回り、俺と古泉はそんな朝比奈さんの入れた甜茶を啜りながらまるで老人会の一席のごとく将棋を差し、窓際では長門が正立方体にしか見えない真四角の書籍を捲っている、そんな、普段通りの風景。
 一週間だ。そう、一週間、部室からこの風景が消えていたのが、俺には遠い幻のように思えてならなかった。あの改変世界のように、これまでの一週間は俺たちの中から意識的に丸々消去されて、何事もなかったように世界は動いている。嘘みたいな一週間の出来事。しかし、確かにあった現実。
 その証拠に、やけににこやかなハルヒは、部室に顔を出した古泉に向かって開口一番こう言ったのだ。
「あら古泉くん、憑き物が落ちたのね」
 古泉と俺は、思わず顔を見合わせた。その外側で、ハルヒの台詞はまだ続いている。
「どこから持ってきた訳? その憑き物。ねえ、一週間前くらい、どこか変な場所にいかなかった? 朽ち果てた社とか鎮守の森とか廃墟になった病院とか。あ、そうだ、そういう所に行ったらあるんじゃないかしら、不思議の一つや二つ!」
 苦笑する古泉の横で、ひええ、とか細い悲鳴をあげる朝比奈さんを見ながら、俺はハルヒに苦言を呈する。やにわ騒がしくなった部室内には、単調なリズムで、長門が本を捲る音が絶えず響いている。
 一人で勝手に話を進めた挙げ句、ネットで心霊スポットを検索し始めたハルヒとのやり合いも一段落したのち、俺は古泉に向き直った。
「で、今日はなんだ」
 向かい合う古泉が浮かべる笑みは、そこはかとなく幸福感を滲ませている。
「将棋など、いかがです?」
 そしてそれは多分、俺だって同じだ。
「しゃあない、一局だけな」
「ありがとうございます」
 俺たちは知っている。この一週間は決して、なかったことにはならないと。ハルヒの苛立ち、古泉の嘘、俺の抱いた古泉への思い、全部が、今の俺と古泉を、形作っていた。
 消えてなくなるものなんて、この世界には何一つない。
 俺と古泉の中に存在するこの気持ちだって、決して一生、幻なんかにはならないのだ。


******

「あれ、嘘なんです」
 体を重ねるようになってから何度目かの夜だった。この時分には、俺は痛みよりも気持ちよさを追う術を手に入れ、古泉はますますの図々しさと図太さでもって、俺にその術を教え込んでいた。ああ、これは余計な情報だったな、忘れてほしい。
 俺は、古泉の言う「あれ」を良く覚えていた。覚えていたが、忘れたフリをして訊いた。
「……何の話だ?」
「いつか僕が話した昔話。僕に当時付き合っていた女の子などいませんでした。全部、作り話です」
 古泉は、そう、悪戯を告白する小学生のような笑顔で言った。

 ああそうかい、お前がそう言うなら、そういうことにしておいてやるよ。


end
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