夢を見ていた。真っ青な空と真っ青な海の境界線、それを見上げながら僕はゆらゆらと波に漂っていた。僕は小さな魚だった。力をこめると、小さなヒレが微かにふるえた。僕はひとりだった。周りには何もなくて、誰もいない。遠巻きに僕を眺める無数の目には一つ残らず、畏怖とか軽蔑とか様々なマイナスの感情が入り乱れていたので、僕はどうやら、この広い広い海の底、ひとりぼっちで生きていかなくてはいけないのだと悟った。
でも僕はそれでいいと思った。だって僕は、ひとりでも生きてゆけるのだから。
彼女らと初めて出会ったとき、僕は僕が何をすべきなのかを改めて考えなくてはいけなかった。いまだかつて、あんなにも混乱したことはなかったし、また自分の意識と口の動きが乖離するなんてことも初体験だった。僕の脳みそが落ち着きを取り戻すために円周率を小数点以下数十桁まで数えているあいだ、僕の口は軽やかに自己紹介を済ませ、僕の表情筋は常に笑顔を作り出していた。
彼女はにこやかにその場の面々を紹介し、僕は当然のように疑問を口にし、その問いに彼女は答える、という一連のストーリーは、一年経った今でも記憶の中に鮮明に詳細に残っており、そしてきっと一生忘れることはないだろう。初めての出会いというものが、かくも人生において強大な影響を与えるとは自明の理なのだ。
次第に落ち着きを取り戻しはじめた脳みそで僕が最初に視認したのは、そこにいた唯一の同性である、彼の姿だった。呆れているのか退いているのか、それとも常よりそうなのかはその時まだ分からなかったが、彼は眉間にしわを寄せ口を半開きにし、僕と隣の彼女を交互に眺めるという所作を繰り返したあと、諦めたように肩を落とした。そのとき分かったのは、ああこのかくも哀れな巻き込まれ型といえる性格の青年は、思ったよりも賢明な判断を下せるのだな、という事実だ。
彼のことを、僕はよく知っていた。しかしそれはもちろん、書面の上での話だ。実際に顔を突き合わせたのはこの時が初めてだった。
僕が今までに知り得た彼についての知識の全容は、数枚の写真と、詳細に書き込まれた履歴と年表、それから極めてプライベートな事象まで記された個人情報のデータであった。それを主として僕の中で組み立てられていた彼の人間像は、驚くほど取るに足らないもので、僕は正直、何故『機関』が彼をこれほどまで重要視するのか疑問でならなかった。
彼は普通だ。少なくとも、三年前に突然非常識な存在となってしまった僕から見れば、彼の凡庸さには目を見張るものがあった。そしてどうして僕らが神と呼ぶ特別な人間が、彼に白羽の矢を立てたのかという疑問は、しばらくの間僕の知的好奇心を存分に刺激してくれる対象となった。後々、考えて分かるものではないと、嫌でも実感することになるのだが。
さて、彼が普通の人間だという事実と、僕がある種特別な存在だという事実に折り合いをつけることは、僕にとって些か難題であったといえよう。何故ならば僕は、自分が超能力者でありたいと望んだことは一度だってなかったし──いや、そりゃあ子どもの頃に夢想したことはあるけれど、それはあくまでも叶わないと知っているからこそのお気楽な望みであった──、また実際に超能力者として、あのふざけた空間に問答無用で引き込まれることは、苦痛でしかなかったのだから。
そんなとき目の前に、まさに普通を絵に描いたような人物が現れたら、あまつさえその人物が、自らの神の一番近しき存在になったとしたら。そこで抱いた感情に名前を付けられるような者が現れることは、おそらく今生あり得ないだろう。
僕は今でも覚えている。彼の存在を目の前に突きつけられた瞬間のこと。差し出された書類に記された、一分後には忘れてしまいそうな名前。五十ページにも満たない彼のこれまでの人生。写真に写る彼は気怠そうに空を見つめていて、一体このなんの変哲もない人生の何がそんなに不満なのかと、僕は言い様のない腹立たしさを覚えた。そのすぐ後、訪れた感情の洪水。苛立ち、不満、羨望、憎悪、何ものにも当てはまらないぐちゃぐちゃのそれは、僕の心を存分にかき乱してくれた。
今でも時折やって来ては僕を混乱させてゆく、その感情の正体を、僕は未だに知らずにいた。
実際付き合ってみれば彼は、思ったよりも頭の回転が早く、また理解力の高い人間であった。おおよそ荒唐無稽と思われる僕ら──この複数形が指す対象は『機関』ではなく、文字通り彼女の前に集結した特殊なバックグラウンドを持った者たちのことである──の話を、意外とすんなりと受け入れてくれたし、大概のことには動じない剛胆の持ち主でもあった。
知れば知るほどよく分からない。そんなブラックボックスめいたところが彼にはあるのだ。
それは言い換えれば、彼の魅力そのものなのだろう。分からないから、知りたいと思う。彼が宇宙のことを、未来のことを、そして超能力について知りたいと思うのと同じように、僕は彼の真意を知りたいと思った。
彼はまったく平凡な人間などではなかった。僕は今まで作り上げた彼という人物像を、一から組み立て直さなくてはいけなくなった。そのギャップを埋めるのはなかなか容易なことではなく、一見にぶそうな彼が時折見せる鋭さには幾度となく焦らされた。彼を騙すには、ほんの少しの本意を同時に伝えなくてはならないと学ぶまでに、ある程度の時間を要した。
ゆっくりと僕は知ってゆく。彼の人となり。彼が抱く彼女への思い。
夢は続く。僕は波にたゆたいながら考えていた。彼との出会い、彼のこと。
小さな体はすぐに波にさらわれて、気づけば全く見覚えのない場所を旅している。流されるままに僕は泳ぎ続ける。大きなサメが目の前をゆったりと通り過ぎてゆく。サメは僕の存在に気づこうともしない。視線のすぐ先に、もっと大きな獲物がいたからだ。突然スピードを上げた彼(彼女かもしれない)は、あっと言う間にその魚を飲み込み、満足そうに尾ビレを揺らした。
出口のない海。僕は魚になってみて、彼らがひどく退屈な日常を過ごしていることを知った。なんせ、泳ぐ以外に何もすることがないのだ。これでは、食べられて早く人生を終えたいと思うのも仕方のないことだ。
僕は途端、普段の生活が恋しくなりはじめた。退屈なようでいて、少しだけスリリングな毎日。彼女たちの華やかな笑顔、彼の不機嫌そうな顔、ページをめくる音、古びたドアの軋む音。それは僕の日常に刷り込まれてしまった僕の生活の一部。
すでに習慣と化していた閉鎖空間での活動も、なければないでつまらないものだ。最後にもう一度だけ、あのスペクタクルを味わうのも悪くないかもしれない。
ああ、でも僕は何度も波にさらわれ、もうあの部屋で過ごした日々のことを忘れてしまいそうだ。
何もかも忘れてしまう前に、彼に伝えなければ。ずっと言いたかったことを、彼に。
目を開けて真っ先に飛び込んできたのは、白い天井と、彼の見たこともないような表情だった。
腫れたまぶたを二、三度瞬かせた彼の目は、見る見るうちにまん丸くなり、それから目尻の端にうっすらと涙をためて、少しだけ微笑んだ。
「あの……?」
何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。やっと視線を動かす余裕が生まれても、自分の意思では首を回すことすら出来ないのだ。力を込めると鈍い痛みに襲われて、僕は思わず顔を歪めた。
目に入るのは彼の泣き顔のみのこの状況で、僕は必死に頭を回転させようと努力した。どうにも記憶があやふやだ。どうして僕はこんなところで、こんな風になっているのか。
疑問は次から次へと浮かんでくるが、口を開いただけで、話すのも億劫になるほどの疲れを感じる。体の痛みはますます強くなってきていて、僕はどうも全身に怪我を負っているようだと、やっと気づいた。
「古泉、無理して喋んな。な。言いたいことは、元気になってからいっぱい聞いてやるから」
彼はそう言って、泣きながら笑う。彼が意外と器用な表情を浮かべることができるのだと、僕は初めて知った。
「……ひとつだけ……僕はいったい……どうして……」
切れ切れに言葉を紡ぐと、彼は、もういい、と言いたげに、僕のくちびるに指を落とした。彼はゆっくりと頷き、その大きな手で僕の頭をくしゃりと撫でた。
「俺も詳しいことはよく分からん。全部、新川さんと森さんから聞いたことだ。お前は閉鎖空間で戦ってる最中に、『神人』とやらにやられてしまったらしい。直接攻撃されたってよりは、吹っ飛ばされてコンクリにしたたか体を打ち付けられたんだとよ。診断は全身打撲だ。打撲自体はたいしたことないらしい。でも、お前全然目を覚まさねえから……脳検査しても、異常は見つからないっていうし、医者も原因不明だ、待つしかないつってさ。んで、俺も、ハルヒたちも、面会時間中はずっと交代で付きっきりで、お前のことを看てた」
彼の言葉に僕は一瞬不安を覚えた。言うまでもなく、「ハルヒたち」という部分にだ。その心配が顔に表れていたのだろうか、彼は取り繕うように口を開いた。
「ああ、ハルヒには交通事故ってことにしてある。長門と朝比奈さんはもちろん、本当のことを知ってるけどな。しかしハルヒのやつ大変だったんだぜ。ぶつけた車の犯人探し出して訴えてやるって大騒ぎでさ。まあそんな犯人は存在しないんだけどな。宥めるのに相当苦労したよ。不安だったんだろうな、怒らないとやってられないくらいさ。……正直、俺も毎日不安で死ぬかと思った。このまま目ぇ覚まさなかったらって」
彼は椅子ごとベッドまで身体を引き寄せ、そのまま布団の上、つまり僕の寝ているところに突っ伏した。いきなりどうしたのかと面食らったが、聞こえてきた小さな嗚咽に、僕は全身の痛みよりも深く、心臓に鈍痛を覚えた。
ああ、どうして今、僕の身体は動かないのだろう。この手を少しでも動かすことができれば、彼のその少し固そうな黒髪に触れて、いっぱい謝りたいのに!
もどかしくて苦しかった。それ以上に、僕は自分を恥じた。彼が僕のために泣いているという事実を、僕はこの痛みとともに受け入れなくてはいけない。僕のためなどに、こんなにも痛ましい声をあげて泣く彼の姿を、僕は一生忘れてはいけないのだ。
そのとき、大きな音とともにドアが開いて、反射的に彼は肩を震わせ顔を上げた。ごしごしと目を擦りながら振り返り、そこに立つ涼宮さんに無言で手招きをする。涼宮さんはそれを見ているのかいないのか、先ほど目を覚ましたとき見た彼と同じような表情でしばらく一時停止したのち、ずんずんと音がしそうな勢いで病室へと入ってきた。
「古泉くん? 平気なの? 目、覚めたのね?」
肯定の代わりに微笑みを向けると、彼女は安堵感と喜びが入り交じったような笑顔を浮かべて、
「キョン、何ぼっとしてんのよ、早く医者呼びなさい!」
と彼のお尻を蹴飛ばした。
それから先は慌ただしかった。何人もの看護士と医者が出入りし、診察と質疑応答の繰り返しが続いた。鎮痛剤のおかげで痛みだけはましになったが、疲れていたせいもあり、ちゃんとした検査は明日以降ということでなんとか落ち着いた。その間も休むことなく、SOS団の面々が来たり新川さん森さんが来たりと、まさに千客万来状態であった。
やっと病室が静かになったのは、夜の八時も過ぎてからだ。
今、僕はひとりきりではない。電気の点いていない部屋の片隅で、彼がベッドサイドの丸椅子に座ったまま、リンゴをむいているのを、僕はずっと見ていた。しゃりしゃりと軽快な音がして、赤い皮がRを描きながら落ちてゆく。彼の器用な手の動きを見ていると不思議と、僕は生きているのだ、と思えた。
「なんか思い出すな、俺が入院した時のこと。あの時はお前がリンゴをむいてくれてたんだよな」
「そうでしたね」
鎮痛剤のおかげか、はたまた少し休んだおかげか、もう僕の身体はある程度の自由を取り戻していた。したがって会話も充分でないとはいえ、交わすことができた。
彼は未だかつてないほどに穏やかな笑みを絶やさず、僕はもしかして夢を見ているのだろうかと少しだけ不安になる。
「なあ、お前もあの時、こんな気持ちだったのか」
「こんな気持ち、とは」
綺麗に八等分されたリンゴを手渡され、僕はそれを口に含んだ。甘い香りとジュースが口いっぱいに広がる。喉を滑り落ちる果実の感触は、疲れた身体になんて効果覿面なのだろう。点滴や薬なんかよりは、ずっと身体を癒してくれる。このリンゴをむいてくれたのが彼だということも、多少は関係しているかもしれない。
「──今まで、普通に動いて喋ってたお前が、人形みたいに動かないのを眺めてた。もしかしたらこのまま一生こんな風に、病院で横になってるのを見なくちゃいけないのかと思ったら、背筋がぞっとした。訳もなく涙が止まらなくなって、恐ろしくて、眠れもしなかった。……もし、俺が倒れた時も、皆をこんな気持ちにさせてたんだったら、俺はその時のことを謝らんといかん」
ああ、だから彼の目はあんなにも腫れていたのか。寝不足と、泣きはらしたせいで。さきほど覚えた申し訳なさを忘れたわけではないのだが、僕は罪悪感を抱くとともに、大層嬉しくなって、思わず笑みをこぼした。それを見て、彼は忌々しげに眉をひそめる。
そうして僕は、彼が倒れたときのことを思い出していた。僕はあのとき、そう、あんなときでさえ、涼宮さんがいつその不安を不満として爆発させるかと、そればかり考えていた。もし彼が万一死ぬようなことがあれば、そのときが世界の終わりだと、そして同時に、彼女が彼を望む限り、彼が目を覚まさぬことなんてあり得ないだろうという確信も抱いていたので存外、安心と不安のバランスが均等に取れていたのだ。
僕はあのとき驚くほど落ち着いていた。なんだかんだ言って、『神』を信用している自分を、笑いたくもなった。だから僕には、彼が抱いていた不安だとか恐怖だとかが正直、よく分からない。
「それならば、まずは涼宮さんに謝ってください。あの時の彼女──不安を押し殺して気丈に振る舞う姿は、それは痛々しくて見ていられなかった。でもね、僕のほうはといえば、全くそんなことはなかったのですよ」
そう言うと、彼は心なしかショックを受けたような表情を浮かべた。彼の口がリンゴをかじる、妙に生々しい音が耳に入る。あまりにも静かすぎて、あごの骨がそれを噛み砕く音までが、病室に反響している気すらした。
「だって、あなたが目を覚まさないなんてことあり得なかったんですから。僕は、あなたと、それに涼宮さんを、あなたが想像している以上に信頼しているのですよ」
そのとき僕が浮かべた微笑みは、ぎこちなくはなかっただろうか。飲み込みの早い彼はすぐに僕の言いたいことを理解して、ほっとしたように肩の力を抜いた。床に落ちたリンゴの皮を拾い上げる彼の手はよく見ると僅かに震えていて、そうだ、僕は今になってようやく思い至ったのだ。
彼は僕を心配しすぎるほど、普通の人間であるということに。
僕が目を覚ましたとき、長門さんは別格として、朝比奈さんも涼宮さんでさえ、彼の様に涙を流すことはなかった。僕が眠っていた間は分かりようがないけれど、少なくとも彼ほどは不安になっていなかったんじゃないだろうか。
彼があまりに異常事態に対して動じないために、いつの間にやら僕はすっかりと、彼がただの普通人であることを失念していたのだ。宇宙的未来的超能力的現象には免疫のできあがっていた彼がこんな、親しい人間が突然事故で意識を失うという、至って日常起こりえる事態に動揺する事実に、僕は意外性をもって客観視せざるを得なかった。こんな段になって、彼の普通性と、僕の異常性に気づかされるとは、思ってもみないことだった。
ああ、しかし、でも。
「でも、僕は嬉しいのです。あなたが、僕のために泣いてくれたことが」
もうさっきみたいなことはない。僕の手はもう動かすことができる。僕は体を起こし、彼の頭に手をのばした。ようやく手の届いた彼の髪は、見た目よりもずっと柔らかい感触で、そういえば僕は初めて彼の髪に触れるのだった。さらりとした癖のない髪。彼は一瞬眉根にしわを寄せて、否定の意を示したものの、実際に抵抗はとらなかった。されるがまま、じっと身をひそめるように黙っていた。そのまま手を下にずらし、今度は彼の頬に触れる。指先に、温かな体温を感じることができた。反対に僕の手は冷たかったようで、彼は気持ちその身を退いた。
まったく、と言って、彼の手が僕の手をとる。じわりと、体温が移るのが分かった。
「俺はもう、二度とお前のために涙なんか流したくないぞ」
「……そうですね、僕も、あまりあなたが泣くところは見たくない」
病棟脇の街灯と月の光のせいか、彼の頬に残る涙のあとが、はっきりと浮き彫りになる。それはまるで、海から見上げた月のクレーターのようだと僕は思い、そうして唐突に、夢の続きを思い出した。青い海の夢。ひとりぼっちで泳ぎ続けたあの夢を。
そうだ、僕は、彼に言わなければいけなかったのだ。
「……僕は、ほんとうは、ひとりは嫌いです」
この部屋は海だ。真っ白な壁も天井も、淡い光を受けて青く暗く沈むかのようだ。今、そばに彼がいてくれてよかった。僕はまた、ひとり夢の淵に向かい、あのひどく寂しい世界に舞い戻るのは嫌だった。
彼はその黒めがちの目をくるりと回すと、ようやく普段通りに近い、いたずらっ子のような笑顔を見せた。
「バカか。んなこと前っから知ってるよ」
つながれたままの手に、強く力が込められる。まるで彼が、俺はここにいると主張しているかのように。穏やかな水面が風に吹かれたときみたいに、僕の心はさわさわと揺れる。時に混乱を呼び起こす、心地のよい違和感。僕はようやく、この気持ちに名前を付けることを決めた。
すなわち、僕は、恋をしているのだと。