遠くへ行きたかった。
ただ、どこか遠い所へ行きたかったのだ。
「で、なんで俺がそれに付き合わねばならん」
「いいじゃないですか、たまには。こちら方面には、あまり行ったことがないでしょう」
隣に座る彼は唇をとがらせて不機嫌そうな顔をしている。それを見て、ああ、彼女と同じ癖だ、と僕は考える。かたん。かたん。一定間隔の振動は、鼓動のリズムに似ている。だから電車に乗ると眠くなるのだと、昔読んだ本に書いてあった。車両内には僕たち以外に、たった数人しか乗客がいない。先ほどターミナル駅で停車した際、ほとんどの人は降りてしまった。窓の外は真っ暗で、この電車は下りの最終電車だ。
かたん。
「海が見たくなったんです」
かたん。
「こんな時間にか。大体学校から見えるだろう、海」
かたん。
「港ではなく、海岸が、見たかったんです」
とうとう彼は押し黙ってしまい、返事の代わりに溜め息を吐いた。掴んだままの彼の手首は、じっとりと汗で濡れている。濡れているのは僕の手のひらのほうかもしれない。僕が無理矢理掴んだそれを、彼は振り払おうとはしなかった。
ぼそぼそとした車内アナウンスが、次の停車駅を告げる。各駅停車なものだから、さっきから五分間隔くらいでそれが繰り返されていた。だんだんと乗客は減ってゆき、最終駅手前で、とうとう僕たち以外に誰もいなくなった。
僕は対面の車窓に映る彼の顔を観察する。怒っているのかと思えば、彼は何も考えていないかのような無表情で、宙を見つめていた。瞬きを数回、その後、うっすらと、口を開く。
「今時、海が見たくなったとか……ねえよ。まじで」
呆れられているのだろうか。顔が赤くなるのが分かった。しかし、そのなんでもない口調が、心地よい。
普段は乗らない路線のせいか慣れない座席に、彼は居心地悪そうに何度も座り直すのを繰り返す。海岸近くの駅にはこの線しか止まらないので、わざわざ途中の駅で乗り換えてまで、僕は目的地を目指していた。
ほんとうは、行けるのなら、どこでもよかった。目的地など、あってないようなものだ。半ば強制的に連れて来られたかたちの彼は、すでに諦めきった態度で、寝る姿勢に入っていた。不意に彼の頭の重さを肩に感じる。短めの髪が、首もとをくすぐる。座席からは振動が伝わる。あと五分と経たずに終着駅へと到着するけれど、彼を起こす気にはなれなかった。
間もなくの到着を告げる短いアナウンスが流れ、気づいたように彼が頭を起こした。首もとにすうと風が通る。名残惜しげに自らの肩に手をやると、こちらを見ていた彼が照れたように目を逸らす。ようやく僕は、彼を握りしめていた手を離した。それを期に、彼は緩慢に腰を上げる。
「降りんだろ」
立ち上がってつり革にぶら下がり、こちらを見下ろす目はやけに優しい。彼が手を差し出す。僕は何も言わずにそれに掴まる。電車はゆっくりと駅に滑り込む。果無い明かりに照らされたホームが窓越しに見える。大きな振動ののち扉が開き、僕は彼に引っぱられ車外へ出た。
いきなり曝された外気温に思わず身を震わせる。昼間はあんなにも暖かかったのに、十月の夜はずいぶんと冷え込むものだ。
「さみい」
制服のブレザーごと肩を抱え込みながら、眉をしかめた彼は足早に改札へと向かった。時折、僕がちゃんとついてきているか確認しているみたいにこちらを振り向いては、頷いているのが、やけに彼らしい。乗り気ではないはずの彼が、まるで引率の先生みたいで、僕は可笑しくなって笑った。
「なんだよ」
なんでもありません、僕がそう言うのを睨みつけて、彼は再び僕の手を掴むと引っぱり始めた。
海岸までは、結構な距離があった。目の前には海を遮るように大きな公園が広がっており、それを抜けなくては浜辺には辿り着けない。シーズンオフの夜の海浜公園には当たり前だが誰もおらず、その上街灯もなにもないから真っ暗闇で足下がおぼつかない。木の根に躓きそうになりながら、手をつないだまま僕たちはひたすら歩いた。その内木々の間からちらちらと、海岸沿いの道に建てられた明かりが見え始め、彼がそれを指差して、もう近いな、とこちらに笑いかけた。
不意に目の前が開ける。公園を抜けきれば、あとは海岸に降りる道を渡るのみだ。しかし僕は思わず、そこで足を止めたのだった。
夜の海は、恐ろしかった。真っ黒な水が底なしの泥沼みたいで、それがどこまでもおわりなく続いているようだ。僕は呆然とそれを見やった。
「お前が見たがったんだろう、これを」
動けない僕の顔を覗き込んで、可笑しそうに彼が言う。僕はそれほど驚いた顔をしていたのだろうか。海岸へと続くコンクリートの階段を恐る恐る降りている間も、彼は僕の手を離したりはしなかった。
浜辺に降り立つと、眼下に広がる広大な闇に、僕は腰が抜けそうになった。あの灰色の世界とはまた違った、もっと純粋に薄暗く、人が作ったのではない、本物の黒が、そこにはあった。
僕は何も、夢見ていた訳ではないのだ。夜の海がロマンチックで美しいものだとは、はなから思ってもいなかったはずだ。でも、これでは、
「わざわざ逃げ出してきた意味がないよなあ」
心を読まれたのかと思った。僕は今度こそほんとうに驚いて、彼に目を向けた。彼は意地の悪げな笑みを浮かべて、僕を見ている。どくどくと、激しく心臓が脈打つのが、体中に響くみたいだ。漆黒の彼の髪色が、背景の真っ黒な海を背負っているようで、心底不気味に思えた。
立ちすくむ僕から目を逸らし、おもむろに彼はポケットから携帯を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。しかしコール音は鳴らず、すぐに音声が切り替わる。よく耳にするメッセージが彼の携帯から流れ出した。お掛けになった電話は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません。僕ははっとして、自分の制服の胸ポケットへと手を伸ばす。携帯電話を取り出し急いで電源を入れると、間もなく、聞き覚えのある着信音が鳴り響き始めた。画面上では、嫌になるほど見覚えのある名前と番号が点滅を繰り返している。僕はそれと、目の前の彼を、交互に見やった。彼は僕をじっと見つめたまま、携帯を鳴らし続ける。仕方なしに、恐る恐る通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。
「……もしもし、」
携帯のスピーカーと、彼の口から、同時に同じ声が聞こえてくる。
「古泉、お前逃げてきたんだろう。あそこから」
彼はもう、笑みを浮かべていなかった。どこか悲しげに眉尻を下げて、それから携帯の電源ボタンを押した。ツーツーと、電子音が耳元でうるさく通話終了を告げる。
「どうして、」
「……おかしいと思ってた。団活の時、お前携帯が鳴ったのに、いっぺんだけ見たまま、後は知らんフリしてただろ。そんなこと、今までなかった。お前は携帯が鳴れば、そのままバイトだのなんだのと理由をつけていつも帰ってたじゃないか。あれは、閉鎖空間発生を知らせる連絡だったんだろう。だってあれからお前、ずっとおかしかった。落ち着きがなく、上の空だった」
ざわざわと、海風に木々が煽られる音が響く。波音は昼間の海よりもずっと大きく、こちらに迫ってくるようだ。
「俺と、その、やってる時も、いつもと違ってただろう。いつもよりねちっこくて、その癖焦ってるみたいでさ。それでいきなり終電間際に、海が見たいんですときたもんだ。これで異変に気づかんようなら、俺は自分の鈍感さ加減を反省しないといかん」
ぶるりと体を震わせ、彼が鼻をすする。
「ああ、すみません、寒いですよね。もう行きましょう」
「行くってどこへ行くつもりだ。もう終電はないぞ。お前が、来たいっていったんだろう?」
「……すみません」
彼とつながっている手のひらが、じくじくと痛い。見透かされていたことが恥ずかしくて、僕はここから消え去りたくなった。僕の内心を知ってか知らずか、彼は僕の手をひいたまま、砂浜に腰を下ろす。どうしようもなくなり、一緒になって僕は隣に座り込んだ。貝やら石やらが混ざり合った座り心地の悪い砂は、冷気を吸ってかひんやりとしており、余計に彼の体温を奪うのではないかと心配になる。しかし彼は動かない。手はつながれたままで、僕に自由意志は存在していない。
「あの、」
「古泉、『機関』からの連絡を無視して、その後、俺と一緒にいる間、どんな気分だった」
彼はもう片方の腕で自分の膝を抱え込み、うずくまるようにしてそこに顎を乗せる体勢をとる。僕はその一部始終を眺め、それから彼の質問の意味を考えた。そうして彼の言いたいことを理解した瞬間、僕はもう羞恥を越えて、申し訳なさに、穴があったら入りたい、ような気にすらなっていた。
「すみません……あなたを不安にさせて、」
僕の謝罪に、彼は何も言わない。しかし膝を抱える彼の手が、微かに震えていた。それを見て、鼻の奥がツンと痛くなる。
「今日あなたと一緒にいた僕は、ひどかったでしょう。閉鎖空間はつい先ほど、消滅しました。それまでの間、ずっと僕は、ひどい気分だった。ただでさえ閉鎖空間の発生中は、涼宮さんの精神状態に引きずられやすくなっているというのに、僕はそれを無視して、その上、逃げ出すような真似をして……ほんとうに、最悪の状態だった。そんな時に、あなたと一緒にいようとした僕は、大馬鹿者です」
「なあ、そういうことって、よくあるのか。あそこに行きたくないって思うことが」
「……そうですね、たまに。しかし、本当に行かなかったのは初めてです」
「そうか」
そう言った彼の声は驚くほど穏やかで、僕は不思議に思って彼の方を見やる。意外なことに、彼は柔らかな微笑をたたえて、こちらを向いていた。
「俺さ、小さい頃から腑に落ちなかったんだよな。漫画やアニメに出てくる正義の味方は、いつも文句の一つも言わずに世界平和を守ってるけど、アレ嫌にならんもんなのかってな。ただの小学生の俺ですら、たまに面倒くさくて学校休みてえなあ、とか思うのに、命かけて戦ってるような連中が、嫌にならないはずないだろうって。でもそんなシーン、当たり前だがストーリー上では書かれてないだろ。敵が現れたら、仕事も遊びも放り出して現場に向かわないといかん上、それは仕事じゃないんだから、金を貰える訳でもない。どんな神経してやがるんだって、子ども心に、ちょっと薄気味悪いとすら思ってたんだよな」
「随分とひねた子どもだったのですね」
「うるさい。でも今、正義の味方もたまにはサボりたくなるんだっつうのが分かって安心したよ。やっぱそういう身近さがないと、キャラには感情移入できねえよな」
はは、と声を上げて彼が笑う。つないでいた手を離したかと思うと、その手はそのまま僕の頭に乗せられて、ぐちゃぐちゃと髪を掻き乱した。
「お前は、誰かのために生み出された、物語の登場人物じゃないもんな」
なあ、と彼は改めてこちらに向き直ると、そのまま僕の頭を抱きかかえる。温かい。彼の肩に頭を預けると、制服から彼の匂いを感じた。目を閉じると、それはよりはっきりとしたものになる。彼の首筋に、強く耳を押し当てる。とくとくと、小さな鼓動が聞こえる。うるさいくらいの潮騒は、その音に柔らかく中和されて、先ほどのような圧迫感はもう感じられなかった。静かな夏の海の、風が止んだ瞬間のようだった。
「お前は怖がっているが、俺は、夜の海は嫌いじゃないな。悪いもんを、持っていってくれそうな気がする」
彼は僕の肩越しに、海を眺めているようだった。そうか、そういう考え方も、あるのか。彼の制服にうずめていた顔を少しだけ動かして、僕も視線を海に向けた。まだ、得体の知れない恐ろしさを感じなくなったとは言えない。しかしずっと胸にわだかまっていた、どろどろとした嫌な気分は、幾分か薄れたような気がする。
「そうですね……そうかもしれません」
やっぱり変なひとだ、このひとは。僕は代わりに湧き上がってきた感情に任せて、彼の首筋にくちびるをあてた。
「ひ」
油断していたらしき彼は一瞬にして硬直してしまい、僕は彼の腕をすり抜けると、固まったままの彼のくちびるをここぞとばかりに貪った。しばらくの間されるがままだった彼はようやく我に返り、僕の首根っこを掴んで無理矢理──というには彼の力はあまりにも弱々しく、僕は仕方なしに引っ張られるフリをしたのだが──引き離してから、「調子に乗るな」と力なく呟いた。ものすごく説得力のない呟きだ。ふいと顔を背ける彼の耳は先の方まで真っ赤になっていて、あー、このひとは、ほんとうに変で、かわいくて、愛おしい。
「ありがとうございます」
僕はそう言って彼を背中から抱きしめると、その真っ赤な耳にくちびるを落とした。特に抵抗を示すこともない彼は、前方に回した僕の手を取り、強めに握りしめる。
「まあ、たまには悪くない……馬鹿正直なお前を見るのも」
くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。僕はすっかり眠たくなって、彼の肩にあごをかけもたれ掛かった。
「あ、おい、寝るなよ、古泉」
分かっています、と僕は小さな声で言ったが、彼の耳に届いていたかは分からない。僕はその時眠くて眠くて、その後の記憶があまり鮮明ではないのだ。
目が覚めたら、不思議なことに、そこは僕の自室であった。うっすらと開いた瞼に透けて見えるのは、見慣れた天井。そのまま上方に視線をやると、見飽きた柄のカーテンがかかっている窓の外はすでに明るく、小鳥のさえずる声や、小学生のあいさつやらが聞こえてきて──まぎれもなく朝だ。
「よう、目が覚めたか」
あくびをかみ殺して、彼が僕を覗き込む。驚いて体を起こしたせいで見事におでこ同士が衝突して、僕と彼はしばらくぶつけた箇所を押さえて無言でうずくまり続けた。
「っつう……急に起きるな、アホ」
一足先に立ち直った彼が苦言を吐きながら、目の前のテーブルに緑茶のペットボトルを二人分並べて置く。うちの冷蔵庫に元々入っていたものではなさそうだが、いつの間に買ってきたのだろうか。いまだひりひりと痛みを訴えるおでこに、そのよく冷えたペットボトルをあて、僕はさっきから抱き続けている疑問を彼にぶつけた。
「あの……つかぬことを伺いますが、僕たちはどうやってここに帰ってきたのでしょうか?」
途端、彼はにやりと口元を歪めた。この様子では、あまり喜ばしくない結果が耳から入ってきそうだ。自分の浮かべた笑みが引きつっているのが分かる。
「さてなあ、どうやってだと思う? ヒントはお前の携帯のリダイヤル履歴だ」
嫌な予感に冷や汗が背中を伝った。僕はすぐに頭もとの携帯を操作して、リダイヤル履歴を表示させる。今日の午前二時十二分、そこに残る名前を見て、一気に肝が冷えた。焦って舌が上手く回らない。
「な、な、どうして、あなた、が、ですか?」
「仕方ないだろう。お前は意識を失ったみたいに眠りこけるし、海岸で一夜を明かす訳にもいかん。だからお前の携帯勝手に拝借して、新川さんに迎えにきてもらった。ご丁寧に助手席には、森さんまで同乗してくれていてなあ。心配してたそうだぞ。幾ら携帯に掛けてもつながらないから」
まったく仕方なくなさそうな顔で、彼ははあ、と溜め息を一つ。僕の視線に気づくと一瞬口元を引き締めるのだが、それもすぐにひくひくと痙攣し始め、とうとう彼はげらげらと笑い出した。
「おま、その顔っ……! 初めて見たぜそんな……ひひっ、間抜け面!」
あーおかしい、と言いながら彼は、その後たっぷり十分は笑い続けた。やっと笑いの発作が収まってきたかと思いきや、この後の処遇を想像し青ざめる僕を見て、また肩を揺らせている。
「あなたのお気遣いには感謝しますが……ああほんとうに、気が重いったらありませんよ、まったく」
悔し紛れに吐いた台詞に、彼の発作はまたぶり返したようだった。
おわり