くらす 3

わかる

 日曜日の図書館は、存外と人が多かった。普段は平日の昼間という一番人のいない時間帯を狙って行くため、こんな風に耳触りのよい賑わいをみせる(といっても静かには違いない)図書館が、まるで見慣れない場所のようにも感じられる。
 四方八方、本だらけの風景を眺める長門の目は、内に散開星団を映したかのごとく、らんらんと輝いていた。そうと気づいたのは多分俺だけだっただろうが。端から見りゃ、動物園のパンダ並みに微動だにしない、妙ちくりんな年齢不詳少女である。ちなみに年齢不詳さを際立たせている要因は間違いなく、俺の貰ってきた妹の洋服によるものだ。さすがに中学生の頃着ていた洋服では、少々子どもっぽかったかもしれない。
 棒立ちのまま、目だけをぐるりと動かし視界を一周させたのち、長門は許可でも得るかのように、こちらをじっと見つめていた。早くゴーサインを出さないと、俺の体にレーザー光線に打ち抜かれたような真っ黒い穴が開いてしまいそうだ。
「長門、借りたい本があったら俺んところへ持ってこいな」
 それだけ言って、あとは自由にさせた。
 案の定、長門は厚物揃いの書棚の前にへたり込むと、その小さな体では抱えるのがやっとではないかと思えるほどに大きな本を、膝に乗せて読み始めている。あの棚を制する頃には、きっと腕も太腿もアスリート並みの鍛錬がされるに違いない。
 隣の古泉をちらと見遣ると、薄笑いを浮かべたまま佇んでいる。視線の先は長門かと思えば、どうも俺のほうを気にしているらしい。ずっと突っ立ってこっちを見ていないで、お前もせっかくの図書館を満喫しろよ。
「いえ、僕は普段から大学の図書館を利用していますから。それよりも、少しお話したいことが」
「……長門関連か?」
「ええ」
 一度本を開いた長門の集中力は凄まじいもので、そんなこと初めて一緒に図書館に来たときから嫌というほど分かっている。だから俺たちは本の虫と化したあいつに声を掛けぬまま、図書館付属のカフェテリアへと向かった。
 ばかでかい採光窓が一面を埋める明るい店内で、俺はコーヒー牛乳のパックとメロンパン、古泉は砂糖入りのコーヒーを自販機で購入し、空いている席へと腰掛ける。
 周りはほとんどが家族連れで、こちらは図書館内とは違って多少さわがしい。俺の数分の一ほどの容積率であろうチビどもが、並べられたブリキの机の周りを駆け回っている。こんな味気ない真っ白なインテリアも、あいつらの目から見れば、遊園地の巨大迷路か何かみたいなんだろうな。小さい頃は俺もそう思っていた。そこかしこに、異世界への入り口やら、怪物の残骸やらが転がっていた気がする。それなのにいつから俺の目に映る世界は、こんなにも普通になっちまったのかね。
 俺が自身の成長を嘆いている向かいで、古泉は相変わらず結婚詐欺師のような胡散臭い笑みで佇んでいる。優雅に足を組みかえる仕草が、はっきりいってこの庶民的な空間に、まったく似合っていない。手にした紙コップがまるでマイセンの陶磁器かと思えるほどのしなやかな動きで、コーヒーを一口啜ると、古泉の口はまたも微笑をかたどった。キラッ、とか、チカッ、とか、そういう効果音が聞こえてきそうな笑顔だ。ああ、奥樣方の視線が痛い。
「それで」
 口火を切った古泉は、突き刺さるほどの圧迫感をもろともせず、両手を組んで前のめりの体勢をとる。話が長くなる時のこいつの癖だ。
「まず、長門さんのお話ですが……結論からいいましょう。今の長門さんは宇宙人でもなんでもない、ただの人間です」
 いささか緊張感を伴った古泉の声が、周りの空気を揺らした。驚かなかったと言えば嘘になる。しかし一方で、そんな気もしていたのは確かだ。長門の様子を思い出し、俺の口からは無意識に溜め息が零れていた。古泉が咎めるような視線でこちらを見おろす。
「あまり驚きませんね」
「まあな」
 俺の受け答えに不満を感じたのか、ほんの僅か眉根を寄せ、古泉は説明を続ける。
「実は数日前に『機関』のほうにタレコミがありましてね」
「タレコミ?」
 突然場違いな単語が割り込んできて、俺は耳を疑った。ハルヒが力を失った今、長門の記憶喪失情報などを『機関』に密告してどうするというのだろうか。大体現在の長門の状態をよく見知っているものなど、限られているどころか、たった一つの可能性しかないではないか。
「ええ、おそらく長門さんについて『機関』に情報をもたらしたのは、情報統合思念体の端末に違いありません。一応ね、宇宙生命体の一部は未だ涼宮さんの観測を続けているものもあります。きっと統合思念体もその一つであることでしょう。まあ長門さんは五年前の時点でその任期を終えたわけですが……。これは僕の予想ですが、この垂れ込みは長門さんを気にかけている端末の独断だったのではと思いますよ。なぜなら今の長門さんは、統合思念体から切り離され、何の力も失ってしまったのです。ただの人間となった彼女が一人、何も知らないままこれからこの地球上で行きてゆくなど、不可能に近いでしょう。だから回りくどい方法でもって僕たちに長門さんの現状を知らせた。あなたと長門さんを邂逅させたのもおそらく同一人物の仕業です。あなたならばきっと彼女を助けるだろうと考えてね」
 説明を終えると、古泉はやっと元の微笑顔に戻った。ほっとしたように息を吐き、外国人のように肩を竦める癖も未だ健在だ。しかし古泉の達成感に満ちた表情に比べ、俺の方は相当変な顔をしていたことだろう。
「──待て。一体どういうことだ? 統合思念体は長門を切り捨てたってことか? なんのために? あの宇宙人だか宇宙存在だかは、そんな無責任なことをするようなやつだったのか?」
 古泉の説明で、俺の頭の中はますます混乱を迎えることとなった。はてなマークが盛大に頭上を舞い踊っている錯覚すら覚える。思わず伺うような視線を投げかけるも、古泉は真面目腐った顔で首を傾ぐだけだ。
「僕からはなんとも言えませんね。今分かっているのは、さきほど説明したことが全てです。なぜ長門さんがたった一人、しかも記憶喪失状態でこちらに戻されたのか。僕だってそこが一番知りたいところですよ」
 そう言って古泉は両手をこちらに広げてみせた。なんだそれは。お手上げのポーズでも取っているつもりか。悪いが古泉の冗談にいちいち突っ込んでいる暇はない。頭のRPM数をどうにか上げなくてはいけないのだ。
「そうだ、その垂れ込みした長門の仲間とか、喜緑さんなんかに訊けば分かるんじゃないか。長門を元に戻す方法とか、そういうのが。『機関』だったらコンタクトが取れるだろう」
 俺のやっとこさ思いついた提案に対し、古泉は首を横に振ることで答えた。その表情には諦観の色が浮かんでいる。俺が漏らした「なんでだ」という呟きを、古泉の耳は拾い上げたのだろうか、困ったように微笑むと、躊躇いがちに口を開いた。
「無駄ですよ。彼らからコンタクトを取ってこない限りはね。『機関』の情報網では彼らの居場所を知り得ることは不可能です。残念ながら以前ほど、権力も資金も残ってはいないのですよ」
 なるほど、『機関』も落ちぶれたものだな。あの頃話を聞いている限りでは、金に糸目はつけない超巨大秘密結社ってな感じだったが。不景気の波は何も零細企業のみに襲ってくるわけじゃないということか。
「つまり、結局、分かったことといえば、今の長門が宇宙人でないってことくらいか。なんだそりゃ。何の問題の解決にもならん」
「そうですか? 何もかも不明な状態よりはずっとましでしょう。それに、八方ふさがりからは脱却できました。彼女が人間であるというならば、そのように接するまでです。彼女が知識を得ようが感情を得ようが、バグの起こる心配はない。腫れ物扱いする必要もないということです」
「それでどうするつもりだよ。長門の帰る家がないのは変わらんし、住民票だってあるんだかないんだか。そもそも戸籍はいったいどうなってる? 展望ゼロじゃねえか」
「少なくとも、家ならあるじゃないですか」
 古泉はとっておきのジョークでも思いついたみたいに、笑みをかみ殺す仕草を見せる。
「……あー、お前の言いたいことは分かった。分かったが、皆まで言うな。正直、そこまで面倒見られるかどうか分からん。へたすりゃ一生もんだぞ」
「元はといえばあなたが彼女を連れてこられたんでしょう。それに僕ならば別に構いませんよ。三人での生活もなかなか悪くありませんし。何せ一人の頃よりもずっと、規則正しく暮らしていますからね」
 俺は言葉に詰まった。参ったね、言い返すべき言葉が何も見つからない。誰か俺に国語辞典を持ってきてくれないか。とびきり分厚いやつを頼む。
 とまあ、冗談まじりに考えたことがいきなり現実になってしまうと、人間反応できないものである。
 ご所望のものはこちらでしょうか、とでも声が聞こえてきそうなくらい俺の望み通りのものが、目の前に現れたのである。箱か? これは。などと言いたくなるような、見事な大きさの国語辞典が、俺の前に差し出されている。
「これ、借りたい」
 いつの間にやって来たのか、いやそれ以前にどうしてここが分かったのか、差し出し主は当然のごとく、長門であった。その細い両腕でよく、ダンベル代わりになりそうな凶器サイズのハードカバーを軽々しく持っていられるものだ。ほんとうに人間になったのか? 身体能力は宇宙人時代のままなのではないだろうか。あの頃見せた跳躍力とかダッシュ力とか、まだ残っているのでは。あとで試しに体力測定でもやらせるべきかもしれない。
「これだけでいいのか? 五冊までなら借りられるんだぞ」
 そう訊くと長門は小さく首を倒した。
「いい。今日はこれで充分。また明日来る」
 まじかい。こりゃしばらくは毎日図書館通いが続きそうだ。


 ばかでかい辞書を一冊だけ貸し出しカウンタに持ってゆき、俺たちは図書館を後にした。いつの間にやら大陽の位置は、ずいぶんと地平線に近づいている。夕暮れが訪れるまでのわずかな時間はどうしてか、もう少し、もう少しと、何かに引き止められているような気分になる。
 長門が来たことで中断されたままだった話の続きを訊こうと、帰り道、俺は古泉に向かって抑えめに声を掛けた。ちなみに長門は国語辞典を広げながら俺たちの数十メートル先を進んでいる。器用なうえに力持ちだな。もう何も言うまい。
「で、お前はしばらくこの生活を続けようっていうつもりなのか」
 古泉も同じように声を潜めて囁きかけてくる。
「ええ、問題ありますか?」
 大ありな気もするが、ひとまずそれは置いておこう。
 それよりもおかしいのは、どうして古泉がここまで乗り気なのかということだ。言っちゃ悪いが、古泉が自ら進んで面倒ごとを引き受けるなど、俺には考えられない。いつも外から傍観しながら、非常事態をおもしろがっている、それが俺のイメージする古泉像である。当事者になることなど望んでいないんじゃなかったのか。もう古泉の信望するハルヒパワーだって存在しない。変なプロフィールもとうの昔に、持ち合わせがなくなっただろうに。
 俺がよほど疑り深い目を向けていたのか、古泉はこちらを見て、苦笑いをたたえている。そうしてふと口元を緩めると、前を行く長門に視線を移し、少しだけ目を細めた。
「実をいうと、少しだけ退屈だったのですよ。あれほど戻りたいと思っていた日常にいざ戻ってみれば、どうにも味気ない。隣の芝生はいつだって青々と茂って見えるものです。あなたもそんな風に思ったことはありませんか?」
 古泉の真似をして、俺も長門を目で追いかけた。
「……」
 俺はまた何も言えなかった。言いたくなかったとも言う。うまい表現も俺の辞書では見つからない。
 なあ長門、ちょっとその辞書を貸してはくれないか。うっかりそんなばかなことを考えた。


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