ひかりの讃歌 後編


 今の部室の空気に耐えるのは、精神にかなりの摩耗を伴った。特に涼宮さんと朝比奈さんのダブルコンボは、ただでさえ滅入って参っている僕の心を存分に痛めつけてくれた。
 彼の存在が危うくなっているとは、朝比奈さんも既に耳にしたのだろう。もうメイドルックを纏うことすらなく、ただただぼんやりと窓の外を眺めて、真っ赤になった目を隠そうともせずに、涼宮さんの問いかけにだって上の空で答えている。
「ねーみくるちゃんてば。もう、一体なんだって言うのよ!」
「はい……すみません……」
「メイドじゃないみくるちゃんなんてここにいたって意味ないのよ! もーっ、いいわ! もう今日は帰ってよし!」
 涼宮さんの怒号響き渡る中、朝比奈さんは無言で立ち上がると、そのまま鞄も持たずにふらふらとドアに向かう。そのまま開いていないドアに激突し、しかし何の反応も示さないまま、心もとない足取りで部室を後にした。
 涼宮さんもしばらく呆然と一部始終を見ていたが、すぐに我に返り、声を荒げながら地団駄を踏んでいる。
「ほんと、なんなわけ!? ああなんか苛々する。カルシウム不足かしら。ちょっと購買で牛乳買ってくるわ」
 部室棟の廊下に重厚な音を鳴らして彼女も部室を出てゆき、ちょっとした静寂が訪れた。本のめくれる音だけが、緩やかに響いている。
 窓から見えるすっかり葉の落ちた中庭の植樹から、長机の一番隅に席を構えた長門さんに、僕は視線を移した。
「……長門さん、僕はどうしたら? あのメールだけでは何も分かりません。せめてもう少し具体的に」
 彼女は本に目を落としたまま、小さな声で言葉を重ねた。
「あなたがするべきことは一つだけ。彼女に、彼の話をすればいい」
「彼の、話? だって、彼女は覚えてないんでしょう。一体それに何の意味が」
「意味はある。必ず、そこに意味は生まれる。彼女の記憶を揺さぶることができるのは、あなただけだから」
 僕はますます分からなくなってしまう。そんなことで、ほんとうに彼を助けることができるのか? 
 彼女はページを繰る手を止めようとしない。これ以上訊いたって、きっと理解できる答えは得られないだろう。生温い絶望感に襲われる。いくら理屈をこねたって、答えに辿り着ける自信はなかった。
 ぱたんと、本を閉じる音が鳴る。目を上げると、鞄を手にした彼女が映った。
「帰るんですか」
「そう」
「涼宮さんは」
「二人で話をして」
 あの不機嫌な彼女と、二人きりで? 僕は思いっ切り眉根に皺を寄せて、彼女に恨めしげな視線を投げかけた。もしこれ以上涼宮さんの機嫌を損ねたりしたら、それこそ彼のいる世界を、すぐにでも消滅させかねないではないか。今の僕は何を言っても、彼女を非難する言葉しか出てこない気がする。とてもじゃないが冷静に、彼の話などできそうにない。しかし彼女は外へ向かう足を止めようとしない。
 最後に一度だけこちらを振り向くと、
「あなたの思うままに」
 そう言って長門さんは扉を閉ざした。

 それから五分と経たない内に、涼宮さんは戻ってきた。あまり立て付けがよいとは言えない古びた扉を、一番酷使しているのは彼女だ。あんまり無体な開け方をするせいで、蝶番の辺りから木片がぼろぼろと崩れてきていることに、未だ彼女は気づいていない。
「ただいまっ。ああ寒い! 全国の高校は私立公立問わず、今すぐ全館冷暖房完備にすべきだわ。あれ、有希は?」
 眉毛を逆はの字にしながら入り口で仁王立ちになっている涼宮さんは、部室をさっと見回してから、ますます眉尻を吊り上がらせた。
「帰られましたよ。用事があるとかで」
 長門さんの無断早退に、彼女はてっきり怒りを露わにするのかと思いきや、表情を崩したその口調に棘はなかった。
「なんだ。……なんかやる気ないわね、最近」
 団長席までまっすぐ歩を進め、スリープ状態のパソコンを起こすと、彼女はさして興味もなさそうな顔でネットを徘徊し始める。僕は彼の席に座り、読む気も起きない文庫本のページを目でさらっていた。
 そういえばここで涼宮さんと二人きりになるのは初めてではないだろうか。意識しだすと、変に緊張感を覚えてしまう。それを隠すみたいに、僕は笑顔を絶やさない。しかし口調だけは繕いきれなかった。多少の刺々しさを自覚しながら、僕は彼女に言った。
「しようがないですよ。近頃皆さん、落ち込んでいるので」
 瞬間、彼女はさっと表情を曇らせ、深刻さを含んだ声で呟くように問いかけてくる。
「……何かあったの?」
「ええ、まあ」
 言葉を濁した僕を、彼女は不審げな目つきで眇めた。あったどころか、彼女が引き起こした事態である。真実を言う訳にはいかないが。代わりに僕は尋ねる。肯定を得られるはずのない、無意味な質問を。
「ところで涼宮さん。この学校にいた、キョン、という渾名の男子生徒をご存知ありませんか?」
 無意識にか語調が強くなってしまった。彼の渾名の辺りで息が詰まったみたいになったのを、彼女は敏く気づいていたはずだ。しかしそんな素振りも見せない。彼女の自身に対する記憶操作はそれは見事なもので、彼女は絶対に、自分自身を傷つけないのだ。
「キョン? 変な渾名ね。そんな鹿みたいな名前の奴知らないわ。それよりねえ、何があったのよ。古泉くんもここ最近変よ。なんか妙にやつれてるし」
 涼宮さんは心配げに僕を見据える。彼女は自分勝手だが、優しい人だ。きっと今だって、僕ら団員のことを本気で気にかけているに違いない。それでも僕は、その優しさすら、偽善的なものだと捉えてしまう。
 とても、腹立たしさを覚えてしまう。
 長門さんの台詞が、昨日見たドラマの記憶のように、利己的な改変を伴って頭の中に反芻される。彼の話。してやろうじゃないか。僕が今、どれだけ彼のことを考えていると思う? 口を開けば彼の名を、彼の様子を、彼に対する思いをぶつけてしまいそうなくらい、僕の中は彼のことでいっぱいだ。重苦しさが腹に溜まったようで、僕は思わず胃の辺りを押さえながら、彼女に向き直った。
 僕はやけになっていた。どうせ彼を忘れてしまっている彼女に、僕はありったけ、今まで隠し続けていた気持ちをぶちまけてやれと思ったのだ。
「実は、僕の好きな人が、いなくなってしまったんです」
 そう告げると、彼女は丸く目を見開いたまま、息を詰めた。
「古泉くん、彼女いたの」
「彼女じゃありませんよ。僕の片思いです。それに、僕の好きな人は、彼女とは呼称できません」
 僕は意識的に彼女に微笑みかける。これからする告白に、彼女がどんな反応を示すか、僕には予想できない。現時点で充分驚きを見せているが、その上で呆れるか、はたまた軽蔑の目を向けるのか。
「どういうこと? それってあたしも知ってる人なの?」
「知らないと、さっきご自分で仰ってましたが」
「……もしかして、キョンとかいう奴のこと?」
「ええ」
「え、嘘、だって、男子生徒って……」
 彼女ははっとしたように口を押さえると、まるで失言を恥じるかのようにばつの悪そうな表情を浮かべて、それから小さな声で、悪かったわ、と呟いた。ぞんざいに胡座をかいていた足を崩してから、彼女は団長席を離れ、僕の向かいの席に座り直す。勢いよく腰を下ろしたせいで、古いパイプ椅子はぎしりと音をたてた。いつになく真剣な目をして、彼女はじっと僕の目を見つめている。
「そう、そうなのね」
「……気持ち悪いと思いますか」
 正直彼女にどう思われようが構わないのだが、僕はおそらく彼女を試したかったのだろう。マジョリティに対する反感を持つ彼女が、いざマイノリティに対峙した際にどのような意見を持つのか、僕は知りたかっただけなのだ。
 彼女は少し怒ったように目を吊り上げて、静かな声色で答える。
「そんなわけないじゃない。他人の恋愛に口出しできるほど、自分が偉いなんて思っちゃいないわ。それが仮令、俗世間に反すると言われている関係であろうと、それは当人の自由だとあたしは思うの。ねえ、そのキョンって子は、どうしていなくなっちゃったの?」
 彼女が即座にスイッチを切り替えたのが分かり、僕は胸中感心を覚えた。動揺を最小限に抑え、言葉を選びながら自身の所信を主張する、この回転の速さはさすがだと思う。ただし彼女がなまじ聡明だからこそ、皮肉にも事態が錯綜する結果となるのだが。
「事情がありましてね。彼自身ではどうにもできない理由で、彼はここから離れることを余儀なくされてしまったのです」
「それっていわゆる家庭の事情ってやつ?」
「まあ、似たようなものです」
「そんなの、無理やりさらっちゃえばいいのよ。大人の身勝手に子どもを巻き込むなんて変だわ」
「……無理なんですよ。もう二度と、彼には会えないかもしれない。それくらい遠い所に行ってしまったから」
「諦めちゃうの?」
「いえ、そんなに簡単に諦めきれるわけがないですよ。何せ一年以上もずっと思い続けていたんですから」
 僕の言葉に彼女は片眉を上げて、へえ、と嘆息を漏らした。
「古泉くんって意外と一途なのね。でも古泉くんみたいな色男にそれだけ思われてたら、相手も幸せよね」
 感情の籠っていない声。カチューシャでまとめられたサイドの髪をいじりながら、さっきまでの食いつきが嘘のように、話半分で聞いているといった感じだ。どうしてか少しだけ不機嫌そうにも見えた。
 しかし酷なことを言う。これが無意識の言葉なのだから、彼女はほんとうに容赦がない。
「さあ、どうだったんでしょう……彼はノーマルでしたから、男の僕に言い寄られたとしても、喜びはしなかったと思いますが」
 僕がそう笑みを向けると、今度は不思議そうに目をくるりと回して首を軽く傾げる。
「そうなの? じゃあ、ほんとに、完全に片思いじゃない。そういうのって、しんどくない? 非生産的な感じがして、あたしには理解できないわ」
 まったく彼女らしい言い草だ。だがほんとうにそう思っているのなら、今、彼はここに存在していたはずなのだ。こんな風に、涼宮さんの知らない人間として、彼の話をすることなんてなかっただろう。彼女が元より、彼を思うことを知りさえしなければ。
「そんな風に割り切ることができれば、楽なんですけどね」
 そう言うより外なかった。
「思う気持ちは止められないし、僕は止められないことに嘘を吐きたくもないんです」
 それを聞いて涼宮さんは、おかしな顔をした。
「そんなことないわ。あたしならできる。誰かを思うことだって、簡単に止めることができるわ。自分の意思で」
 まさか。僕は心の中でひとりごちる。あなたは止めたんじゃない。そこに無理やり蓋をしているだけなのだ。
「それはごまかしですよ。自分で自分に嘘を吐いているだけです」
 だんだんと、考えが開けっぴろげに言葉に表れ始める。元よりぼかして言うつもりもなかった。それで彼が戻ってくるのなら幾らでもそうするが、今や彼女を気遣う必要などどこにもない。今なら彼女がやけを起こして世界を消してしまっても、僕は後悔だってしないだろう。
 僕の直接的な批判に、彼女は心外だとでも言いたげに目を細めた。
「どうして嘘だって分かるのよ。古泉くんにあたしの何が分かるわけ? あたしにとって恋愛感情なんて、邪魔なものでしかないの。だからあたしは本気で人を好きになることなんてないわ。きっと一生ね」
 彼女はきっと無意識に、そのまま目を逸らした。自分でも嘘だと分かっている癖に、彼女はそれすらも気づかない。こんなにも単純なことを考えているのに、彼女の精神構造は複雑すぎた。彼女の心はまるでマトリョーシカみたいに、幾重にも重なっていて、一番奥にいる小さな人形を、まるで存在しないもののように扱っている。その小さな人形は、彼女の願いであり、希望であり、一番醜くてどろどろした、隠しようもない欲望のことだ。振ればカタカタと音がするのに、そこに確かにあるというのに、聞こえないフリ、見ないフリを、彼女は一体いつまで続けるというのか?
 しかし僕だって、そんな彼女の気持ちを理解できない訳じゃない。完全に否定できない葛藤は、確かに自分自身にも感じることができた。
「僕だって、時々考えますよ。こんな生産性のない思いを、どうして抱いているんだろうと」
 僕は微笑んでいるつもりだった。きっとうまく笑えているのだと思う。その証拠に彼女は何の疑いもなく、僕の言葉に対して、我が意を得たりと言いたげな笑みを浮かべていた。
「やっぱり、そうでしょ。だって、そこから何にも生まれないわ」
 僕は黙って首をふった。
「でも違うんだ。僕は彼を欲しいと思いながら一方で、絶対手に入らないのだと分かっているんです。それでも彼が近くにいるだけで僕は満足だった」
「そんなの、変よ。矛盾してる。それってほんとうは、自分のものにしたいってことでしょ。諦めてるの? それとも欲しいっていうのは嘘? 恋愛っていうのはもっと、性欲を伴った自分勝手な衝動じゃないの? ──ねえ、それって、ほんとうに恋愛感情なの?」
「……自分でも、分かりません。何なのでしょうね、これは。でも、」
 彼女の表情は、なんだかよく分からない。やけに歪んで見えた。空気が滲む。ぼやけた彼女は、とても悲しそうだ。白っぽく霞んだ景色に呑まれて、彼女は口をぱくぱくと動かしていた。
「彼がいれば、それだけでいいのに」
 彼女の手がこちらに伸ばされた。やけに温かな手のひらが、僕の頬を包むように添えられる。彼女の手は濡れていた。濡れているのは、彼女の手。
「──どうして泣いてるのよ?」
 そう言った彼女は、ほんとうに悲しそうな目で、僕を見ていた。
 彼のいない世界の空虚を共有する、もう一人の、僕と同じ感情を持つ彼女は、ほんとうはきっと今の僕の気持ちを、痛いくらい分かっている。
 それなのに、どうして。
「あなたが消したんだ」
「訳分かんない」
「あなたが彼をここから追い出した癖に」
「知らないわ。あたしはキョンなんて奴知らない」
「そうでしょうね。あなたは忘れているんだから。彼が一番忘れてほしくないと思っているのはあなたのはずなのに、あなたはそんなにも簡単に、彼の存在を消してしまう」
「知らないったら」
「あなたはずるい……全部僕から奪ってしまうんだ」
「あたしは何もしてない」
「そう、あなたは何もしていない。ただ望んだだけだ。それだけであなたは、人一人簡単に消してしまうことができる」
「……あたしが殺したの?」
「殺すよりもずっとひどい」
「あたしが、キョンを」
 彼女は苦しげに顔を歪めたまま、その先を言うことはなかった。
 彼女は気づいて、思い出したのだった。その表情の意味するところは、後悔なのか懺悔なのか悲哀なのか虚無なのか、多分彼女にだって分からない。風もないのに揺れているオレンジ色のリボンはやけに白々しく、まるでこの場にそぐわない。ゆらゆらと、揺れている。よく見たら、揺れているのは彼女の肩だった。真っ白な手で、彼女は自らの顔を覆う。隠された目は、それでもきっと涙を流してはいないだろうと、そんな気がした。
 こんな風に彼女を追いつめても、僕の気は晴れない。けれど僕には止めることができない。長門さんは呆れているだろうか。一体僕に何を期待していたのかは知らないが、僕は彼女らが想像しているよりもずっと、大人げない人間なのだ。
 彼は、こんな僕を笑って許してくれるんだろうか。会いたいなあ、唐突にそう思う。
「彼を返してください」
 からからの喉に、言葉がつっかえる。変なところで声が裏返ってしまったのも、格好悪いと感じる余裕すらない。彼女が顔を上げる。予想通り、泣いてはいなかった。そのかわり、ひどく思い詰めたような目をしていた。
「……だって、手に入らないんだもの」
 彼女がゆっくりと首を振る。かたりと音が聞こえた気がした。彼女の一番奥底にあった、小さな人形の音。ようやく聞こえるくらいのその音は、彼女の言葉に寄り添うように、彼女の本心を暴こうとする。
「とっても腹が立ったの。どうしてあたしを見てくれないの、って」
 その声はみっともないくらい震えていて、まるで普段の自信たっぷりの彼女からは想像もできない姿だった。
 彼女の切実な願いは、僕の心を存分にかき乱す。怒りとも悔しさとも知れない感情が、発作的に胸の中を暴れ回って、僕は薄い皮一枚でそれを抑え込んでいるような気分だった。
「どうしてよ。なんで古泉くんは平気なの? そんなの嘘よ。あんたのほうがあたしより、よっぽど嘘つきだわ。ただ近くにいるだけでいいなんて、どうしてそんな風に思えるのよ」
 気づけば彼女の頬はすっかりと薄影に照らされていた。日の沈みきった、濃い群青色をした空には、薄らと雲がかかっている。部室は電気を点けなくてはいけないほど薄暗く、しかし今話を途切れさせるような真似は、してはいけない気がした。
「あたしは嫌よ……絶対に嫌。ずっと見ているだけなんて耐えられない。あたしは待ってるだけじゃ嫌なの。手に入れたいの!」
「彼は物じゃありませんよ。思い通りになる訳ないじゃないですか。しかも相手はあの彼なんですから。考えてもみてください。彼が簡単に手に入るような人間なら、あなたはそんなにも執着を持ちますか?」
 カラスの鳴き声がこの部屋の空気を壊したいかのごとく、間抜けな響き方をした。
 張りつめていたものが、急に萎んでゆくようだった。ずっと肩を張っていたことにやっと気づく。彼女も同じように、大きく息を吐いて、目を瞑った。
 彼女はだらしなく椅子にもたれ掛かると、不貞腐れたように口をとんがらせ、我が侭な子どもみたいに拗ねてみせる。
「……そんなの分かってるわよ。あいつは馬鹿だけど、自分を曲げたりしないもの」
「それが彼のいいところです。少し頑固すぎる気もしますが。まあ僕はそんなところも好きですけどね」
「あ、あたしだって。あいつは絶対にあたしを馬鹿にしたりしないから、だから一緒にいるの。……でもそれは皆もそう。有希もみくるちゃんも、それから古泉くんも」
 そう言って彼女は、目を逸らすように、扉の方へと顔ごと向けて頬杖をつく。意外な彼女の告白に、僕は思わず目を瞠った。一見不機嫌なままに見える彼女の横顔は、少しだけ、照れを隠したみたいな空気を纏っていた。
「そこに彼も」
「うん、いたら、いいかも」
「五人、揃うといいですね」
「そうね」
 彼女は扉の木目から顔の形でも探しているみたいに、ずっとそっぽを向きっぱなしだが、きっと、それでいいのだ。それが彼に関してはまったく素直ではない彼女の最大限の譲歩なのだと、僕はさっきまでの苛立ちをすっかり忘れて、微笑ましい気分に浸っていた。
 きっと、もう大丈夫だ。
 ようやくこちらに向き直った彼女が、遠慮がちに声を掛ける。
「ねえ、古泉くんは、ほんとに辛くないの? またあいつの側で、あいつを見てるだけよ」
「僕はずっとそうやって生きてきましたから。でもそうですね、もしかしたら、その内我慢できなくなるかも」
「ふうん、いいんじゃない。そっちのほうがよっぽど健全だわ」
「ライバルに対して余裕の言い草ですね」
 僕の言葉に、彼女はにやりと口を歪めた。
「だって言ったじゃない。古泉くんのそれは、恋愛感情じゃないんでしょう」


 その日の夜、それはもう広範囲に渡る、大きな閉鎖空間が現れた。今日までの全ての感情がごちゃ混ぜにされたその空間も、《神人》も、正体を知ってみれば、随分と可愛げのあるもののように思えて、非常に新鮮な感覚で接することができた。《神人》の動きもいつもより若干ユーモラスというか、茶目っ気のある気がしたし、どうも彼女は深層で、僕のことを気づいているのではないかと思ったほどだ。
 ただし彼女は明日には全部、忘れてしまっていることだろう。僕とやりあったことも、彼への本心を吐露したことも。世界はいつでも、彼女の都合のいいように回っている。
 しかし終わってみれば簡単なことで、もしかしたら彼女は単に、普通の女子高生みたいな恋の話をしたかったのかもしれない、などと、僕は今回のことを結論づけた。
 彼にそれを聞かせたら、どんな反応をするだろう。間違いなく怒るに決まっているが、さんざん文句を言った後、きっと呆れたように口を緩めて、どうしようもねえなあ、なんて呟きながら、頭をかいて僕のふくらはぎを軽く蹴飛ばすのだ。
 想像したら可笑しくて、僕は思わず笑みをこぼす。口元を手で押さえながら、僕は部室棟へ続く廊下を渡る。まだ朝早いせいか、校内にはほとんど人がいない。天気がいいので、中庭の褪せた芝生もいつもより元気にみえる。
 部室の扉を軽く二回ノック、それから静かにそれを開く。蝶番を気遣ってのことだ。
 いつもの席に、いつものように、彼は腰掛けていた。大きなあくびをしながら、こちらに目を向けて、はにかみながら口を開く。
「約束通り、待ってただろう」
 頬はこけて、目の下はまっくろで、制服はしわくちゃで、ひどい有様だったが、彼はほんとうに嬉しそうに笑った。
「ありがとうな」
 僕はこれ以上ないくらいの微笑みでもって、彼に答える。
 さてこれから、彼女と交わした会話の内容と、僕の導いた結論について、彼に話してみようか。彼女は怒るかもしれないけれど。

end

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