ウフ


 こだま、こだま。
 冬のおわりを告げるのは、春のはじまり告げるのは。
 かたかた、ことこと、たたた、つうー、
 なる音、なる音。
 耳をすませば、きこえるよ。
 けらけら、げらげら、わらう音。
 知ってる?
 あれは、春のうまれる音なんだよおー。


 雪どけ水にちかちかと、日のひかりが反射してるのを、ぼくはおもいっきり踏みつぶした。ばしゃ、と茶色く濁ったしぶきが足もとにはね、ぼくの真っ白いくつ下を点々とよごした。ミルクに落としたココアの粉みたいに、それはじわりと染みこんでいく。あーあまた母さんにおこられる。ぼくが洋服やくつや足をよごして帰るたびに、母さんは真っ赤な顔をしておこる。そんなかあさんを見て、父さんは苦笑いしながら肩をすくめる。ああまた、しょうがないなあ、とでも言いたげに。ぼくはその時の父さんの顔が、けっこう好きだ。
 道のすみっこによせられた、白い雪の残がいは、ドロドロの泥だらけ、街中をいちめん真っ白に染めあげた、あのうつくしさは、今はみる影もなかった。ぼくがいちばん最初につけた記念すべき足あとも、もちろんあとかたもなし。
 ぼくの住む街に雪なんてつもったのは、ぼくの知るかぎり、今年が初めてだった。「今年は『いじょうきしょう』ね」、なんて母さんたちが話していたくらいだから、きっとものすごく珍しいことなんだろう。雪は三日三晩降りつづき、街はみるみる白くうもれていった。とてもきれいだった。
 だけどぼくは今、とても悲しいのだ。だって雪がぼくのよく知っている街をおおいつくしたそのときから、ここは見たこともない、新しい街になったのに。世界は生まれ変わったというのに。
 冬がおわって、春がきて、世界はまた元通り。あとに残ったのは、ぐちゃぐちゃの雪のなれの果て。
 なんてつまらないんだろう。
 アスファルトは水たまりだらけで、ぼくのくつもくつ下も、すっかり泥で汚れてしまった。道沿いにある家、垣根をへだてた庭のむこうから、おばさんの話し声が聞こえる。「いやだわ、庭がすっかり汚くなっちゃって。雪なんて降らなきゃよかったのに。ああいやだ」
 ぼくの世界を否定されたようで、すこしくやしい。だけどぼくの好きな風景は、本物のぼくの世界は、これじゃあない。汚したのはたしかにとけた雪だけど、それでもあの真っ白の世界は、雪が降らなければ現れない。
 ぼくは憎々しげに、道ばたの雪の残がいをにらみつけた。どうしてこんなふうに汚らしくとけてしまうんだろう。せめてもう少し、きれいな姿でうつろいでくれたならいいのに。
 じっと見ているうちに、雪の山のなか、赤くひかる何かを見つけた。雪と泥になかばうもれかけたそれは、小さな、ビー玉ほどの大きさの赤い球だった。ぼくはなんだか気になって、それを拾い上げた。手のひらに乗せて、よく観察してみる。一見まん丸い石みたいだけど、軽くて力を入れるとこわれてしまいそうだ。ひかっているみたいに見えたのは、表面がつるつるしているからだろう。反射した日のひかりを受けて、まるで発光しているようだった。一体なんだろう。それはあるものにとてもよく似ていた。
「仲間だわ!」
 手のひらの上の赤丸に気をとられていたせいで、その辺り一面に響きわたる大声に、ぼくはたいそうびっくりした。おどろきのあまり、肩をふるわせてしまい、思わず赤丸を落っことしたほどだ。固い雪の上にそれは跳ね、こわれたかと思ったぼくは反射的に目をつぶる。気がついたら隣で、同い年くらいの女の子が腰をかがめていて、何をしているかと思えば、シャーベット状の雪だまりに落ちたせいでこわれずに済んだ赤丸を拾っているのだった。この女の子が、叫び声の持ちぬしなんだろうか。ぼくはたぶん、おどろいた顔のまま固まっていたのだと思う。女の子はぼくの顔をふしぎそうに眺めたあと、気をとりなおしたように、でっかい口をみかづき型にして、笑った。
「ねえ、あんたもこれが気になったのね! ふしぎよね、これ、何だと思う?」
 一拍遅れて、ぼくはようやく調子を取り戻した。
「分かんないよ。石みたいだけど」
 僕が言うと、女の子は思いきりまゆ毛をつりあがらせて、怒ったような声を上げる。
「ばかね、そんなつまらないものなわけないじゃない。だって、これに気づいたのは、あんたで二人目よ。ちなみに一人目はあたしね。あたし、これを見つけてからずっと、ここを通りすぎる人を観察してたんだけど、他の人はみんな素通りしていったわ。でも、あたしはたしかにこのヘンな物に、ふしぎな何かを感じたの! それで思ったの。これはふしぎを探知できる人間だけに分かる何かを発してるんだって。だから他にも、この存在に気づく人がいないか、ずっとそこの陰から見てたの」
 そう言って女の子は、斜め向こうのT字路の角を指さす。どうやらここから死角になっている塀の陰に、ずっと隠れていたらしい。それからぼくに向きなおると、詰めよるように顔を近づけてきた。
「あんたもでしょ? 何かふしぎな感じがしたから、これを拾ったんじゃないの?」
 彼女はなんだかよく分からないけど、必死だった。そんなにこの赤い物体が、ふしぎ探知機みたいな役目を果たしていると証明したいんだろうか。
「たしかにふしぎに思ったけど、そんなすごいものって感じもしないよ」
「いいえ、きっとこれは、雪といっしょに天から降ってきたのよ! 宇宙から来たのかしら。それとも神さまとか天使とかの持ち物だったりして。ねえ、どっちだと思う?」
「どっちでもないと思うな」
「なによ、つまんないやつね。あんたにはロマンってものがないの? もしかしたらあたしたちは、この赤い丸に選ばれた存在なのかもしれないじゃない。これに気づいたものだけが、きっと世界をすくうキュウセイシュになったりできるんだわ! すごいわ、あたしたち、ヒーローになれるのよ!」
 彼女のことばは、ぼくの心のどこかをくすぐった。
「ヒーローになって、何をやっつけるのさ」
「よく分かんないけど、とにかく悪いやつよ!」
 彼女は言いながら、ボクシングの選手みたいに、誰もいないところに向かって、パンチをくり出している。女の子なのに変わっているなあ、とぼくは思った。ぼくのクラスの女の子たちが夢中なのは、やたら派手な洋服だとか、かおりだまとか、少女まんがとか、とにかく、彼女みたく「ヒーロー」になりたがっている子なんて、ひとりもいなかった。だっておかしいじゃないか、女の子がヒーローなんて!
「女の子が戦うなんてヘンだよ」
 ぼくが笑うと、女の子はふくれっ面をみせて、じだんだ踏むみたいに足をばたつかせた。「ヘンじゃないわ!」なんて叫びながら。
「おかあさんが言ってたわ。今はダンジョビョウドウの時代なのよって。いみ分かる? 男も女も、同じように働いて、同じように一番になれるのよ。だからあたしがヒーローになるのだって、ちっともおかしくないの」
 彼女は鼻をならし、じまんげに胸をそらした。その目は自信に満ちている。彼女はきっと、本気でヒーローになれるなんて信じているのだ。同い年に見えるけど、もしかしてぼくより若いのかもしれない。小学校4年にもなって、そんなことを言っているやつはいないからだ。でもそのわりに、むずかしい言葉を知っていたりもする。それとも女の子は、知らないのだろうか?
 ぼくら男子はよく知っている。変身ベルトを身につけたって、ヘルメットをかぶったって、ぼくらのあこがれるヒーローにはなれないってことを。

「おかしいわ。あんた全然、選ばれたって感じじゃないのよね。それとも力にめざめるには、人数をそろえないといけないのかしら? ほら、よくあるじゃない。仲間をそろえて、地球をすくうのだーっていうやつ。やっぱり5人くらいいるのかしら。赤と青と黄色と緑とピンク! もちろん赤はあたしよ。あんたは何かしら。そうねえ……なんだかきれいな顔してるから、きっと青ね」
 日曜の朝早くからやっている戦隊ものみたいな設定を口にした彼女は、ひらめいた、という風に天を指さし、それからさっき拾った赤い物体を、ふたたび雪のなかに戻した。わざと目につくように、少しだけ顔をのぞかせ、雪にうめなおす。
「さあ、これでまたひっかかったやつを、仲間にいれるの。きっと5人集まったら、へんなマスコットキャラが出てきて、あたしたちをひみつ基地みたいなところにみちびいてくれるはずよ」
 彼女は有無を言わせずぼくを一緒にひっぱってゆき、またT字路の陰にかくれている。こんなことしてほんとうに、あの赤丸に気づく人はいるんだろうか。いたとして、その人がぼくらのごっこ遊びに付き合ってくれる心やさしい人とはかぎらない。いきなり暴力を振るってきたりしたらどうするつもりなんだろう。彼女なら、誰とかまわず突っ込んでゆきそうでおそろしい。
 塀ぎわの雪山から視線を動かさないまま、彼女は言う。
「ねえ、あんた何小の何年?」
「南小の4年……です」
「なんだ、同い年か。ふうん、ちっさいから年下だと思ってたわ。あたしは東小よ」
 たしかに彼女はぼくよりも、5センチほど背が高い。その事実から目をそらしていたぼくは、くやしかったが、あらめて彼女をじっくりと見直した。彼女は、とてもかわいい女の子だった。長くのばされた髪はつやつやと黒く、そのすきまから覗く黄色いリボンのカチューシャがよく似合っている。目だってどんぐりみたいに大きくて丸くて、それはひかりをうけて、星を散らしたみたいにかがやいている。気の強そうな視線だって、いやみな感じがしない。それどころか、とっぴょうしもないことを言っているというのに、なぜだか信じてしまいそうなくらいの、力強さを感じた。
「あ、ねえ、見て!」
 彼女の姿に気をとられていたところに、彼女がいきなりぼくの首ねっこをひっぱって、塀の陰から覗くようにうながした。ささやき声で、彼女が続ける。
「ほら、あいつ、赤い丸を気にしてるわ。仲間かしら?」
 彼女の指さす先には、ぼくらと同い年くらいの少年が立っている。
 彼は赤い物体に目をうばわれたように立ち止まり、しばらくその一点を見つめたまま固まっていたけれど、しばらくしてそれに手を伸ばした。
 すぐに、彼女がものすごい勢いで飛び出してゆき、彼の伸ばした腕をひっつかむ。
 おどろいたように顔をあげた彼はぽかんと口をあけ、何ごとかと、あちこちせわしなく視線をさまよわせ、それからやっとぼくらに焦点をあわせた。
「な、なんだよ」
「ねえ、あんたも、それ、気になったんでしょ。その赤い丸が!」
 彼女の瞳は相変わらずキラキラしている。期待のこもった視線をその少年に投げかけながらも、彼女は決して彼を逃すまいと、その腕を離したりはしなかった。
「あんたもあたしたちの仲間ね。その赤い丸に選ばれた仲間よ! これからあたしたちは悪と戦う正義のヒーローになるの」
 少年は呆れまなこで彼女を見ているが、たぶん腕を離しても、彼は逃げ出したりはしないだろう。ワニ目の中に、好奇心の色が見え隠れしているのが分かる。彼女の言うことを信じているわけじゃないけれど、どうしてそんな発想になるのかという、興味なのだと思う。
「お前、アホか」
 少年は一刀両断、言い放った。
「なんですって!」
 当然、彼女は目を三角にしていきり立つ。またじだんだを踏んでいた。クセなんだろうか?
「じゃあこれは何だっていうの? あんただってこれをふしぎに思って、手を伸ばしたんじゃないの?」
 その時彼が、ほんの少しだけ、悲しそうな顔をしたのを、ぼくは見逃さなかった。それでぼくは、彼がこの赤い物体の正体を知っているのだと分かった。
「それ、たまごだよ」
 彼は彼女に向かって言った。わずかに言葉を詰まらせたようにも聞こえた。
「たまご? これが? はじめて見るわ、こんなたまご。すごく小さいし、それに色だってヘン」
「めずらしいたまごだからな」
 少年は手のひらにのせたそれを、もう片方の手でもてあそぶ。コロコロと、狭い世界を転がり続けるそれを見ていると、ぼくは何故だか気味の悪い不安を覚えた。ぼくの視線に気づいたのか、彼がこちらを睨めつける。こころなしか、彼の表情は怒っているように見えた。
「何がうまれるのかしら。きっとあたしたちをみちびく何かね! 鳥かしら、それともハムスター? 想像上の生き物かもしれないわ。ドラゴンみたいなでっかいのだったらどうしよう。ねえ、あんたドラゴンって何を食べるか知ってる?」
 興奮の彼女はつばを飛ばしそうな勢いで、ぼくのほうを振り向き言う。その様子を、少年は何も言わずに眺めていたが、彼の何か言いたげな、変に歪んだ表情を見て、今度こそぼくは確信した。
 彼はこの赤丸の正体を知っていながら、それをぼくらに伝えるつもりは全くなかったのだ。
 知らないほうがいいことだったのだと、それが彼の気づかいだったと悟るには、その時の僕は幼すぎた。
「き、君は、これが何か知ってるんでしょ。教えてよ。これが一体なんのたまごなのか」
 彼はやっぱり、僕に対して怒っているみたいだった。ばかな質問をするなと、諌めるように、眉間に皺をよせたまま黙りこくってしまう。
 僕はどうにも引っ込みがつかなくなって、彼に食ってかかる。
「お願いだよ、どうしても知りたいんだ」
 どうしてこんなに躍起になっているのか、自分でも分からない。見れば女の子も両手で口をおさえ、びっくりまなこで僕を注視している。
 でも、ちゃんと知らなくては。そうしないと、僕は春を知ることができないのだ。
 赤い球は、彼の手のひらの上、儚げにその姿をさらしている。僕はすでに、このきれいな真ん丸の、そのほんとうの意味を、分かっていた。きっと彼だって。
 世界が、とけるように、消えてなくなる。白い雪で閉ざされていた僕のうつくしい街が。
 姿を変えて、ここはもう、僕のよく見知った街になってしまった。
「お前、知っているくせに」
 彼の声が、低く、悲しげに響く。小さな子どもの声でも、なんでもなく、彼は今、彼の姿をしている。
 ああ、でも僕は知りたい。分かっているのに、知りたい。彼女に聞かせてやってくれ。これが、とても絶望的で、悲しくて、何の証しでもなく、ただの、
「言って、ください」
 彼は、僕を見ないまま、そして彼女も見ないまま、小さな声で告げる。
「これは、死んでしまった、たまごだ」
 赤いたまごは、彼の手から滑り落ちた。かたりと、ふしぎな音がする。
 それはアスファルトを数回跳ねて、彼女の足もとへと転がった。
「うそよ」
「巣から落ちてしまったんだ。去年の春の頃だと思う。托卵のヒナに蹴落とされたそのたまごは、きっと木の枝か何かに引っかかってしまったんだろう、腐らずにその姿のまま夏も秋も越し、冬の雪に埋もれてしまっていたんだな。可哀想に」
 彼の目は伏せられたまま、視線はきっと彼女の足もとに注がれている。彼女は何も言えずに、その赤いたまごを見つめたまま、動けなくなっている。小さな女の子だったはずの彼女は、黄色いリボンを震わせ、大きな目を揺らめかせる。
「だから聞かなきゃよかったのに」
「信じないわ」
 彼女は足もとのたまごを拾い上げ、耳の横で、それを振った。小さく、からりと音が鳴る。からからから、彼女はそれを何度も振り続けた。
 そして、そのまま地面に叩きつけた。

 

 目を覚ます。
 薄暗い部屋で、ちかちかと、ブルーの光の波が点滅を繰り返す。大仰な治療椅子にもたれかかっている体を起こし、頭を数回降る。目を閉じるとまぶたの内側に、幾何学の模様がゆったりと漂っている。
「気分はどうですか」
 声が聞こえ、僕はいつも通りの受け答えをした。
「特に、問題ありません」
 分厚いファイルを膝にのせた女性は、別に精神科医でもなんでもないくせに、いつも僕にカウンセリングと称した謎の催眠治療を施している。彼女の名は森さんといった。下の名前は知らない。彼女のネームカードには、「森」としか書かれていないのだ。
 催眠治療といっても、僕はにその効能がどんなものか分からないし、今自分が特におかしいとも思っていない。たしかにここに来た時分、つまり一人の少女によってもたらされた能力で、彼女の構築する世界を守るという自分の役目を知った時、僕は自分がおかしくなってしまったのだと思ったけれど、それももう済んだことだ。僕はその特異な状況に慣れ、端からみれば一般人と変わらぬ生活を送っている。だけど未だに僕は、一定の間隔でここに呼び出され、この治療を続けなくてはいけないという。苦痛というわけでもないが、ただ、訳が分からないのが嫌だった。
「そう。それならばよかった。おつかれさま、もう来なくても大丈夫よ。今日で治療はお仕舞いです」
 彼女は何でもない風にそう言って、ばたんと、大きな音をたててファイルを閉じた。
 僕は拍子抜けして、何度か瞬きを繰り返し、それから思わず溜め息を漏らした。安堵のためなのか、結局最後までよく分からないまま治療が終わったことに対する落胆のためなのか、自分でも判別できない。
「とても、参考になりました。古泉、あなたのおかげで微小ながら、涼宮ハルヒと我々の関係性解明の糸口を掴むことができたわ」
 彼女は残酷な笑みを僕に向けた。
 僕はやっぱり訳が分からず、笑うしかなかった。
 僕への治療と涼宮ハルヒとの関連性は依然不明のまま、僕は治療室から追い出された。首をひねりながら廊下を歩き続けると、一番奥の蛍光灯が一本、切れかけているのに気づいた。交換すべきかと数秒悩み、結局何もせずに建物を出た。早いところ、家に帰りたかったのだ。
 来月から、彼女のいる高校へと編入することとなる。たいして多くもない荷物をまとめて、引っ越しの準備をしなければならない。
 それから、早急に資料を読まなければ。彼女に選ばれたという、彼についての。
 外はすでに真っ暗で、街灯の明かりだけが頼りなくアスファルトの道路を照らし出していた。見上げると夜空には満月がぽつんと浮かんでいる。春と夜の混じり合った匂いが、鼻先をくすぐる。嫌いな匂いじゃない。
 僕は注意深く道路の端を見ながら歩く。
 もしかしたらこの時期には、蹴落とされた小さく赤いたまごが、落っこちているかもしれない。

おわり

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