たまごの中の欲望


 彼があいつを好きだと気付いたのはほんの些細な事からだった。
 それはとても小さな小さな気持ちで、しかもたまごの殻に大事に仕舞われていたものだから、きっと彼自身も、気付くことはなかったのだ。
 それに気付いたのは、確かに、私だけだった。

・・・

 真夏の暑さはさすがに和らいできたところだった。赤とんぼが目の前を舞うのを見て、ああそろそろと秋がやって来たのだと誰もが思い始めているような季節だ。秋はあまりにも静かに私たちに近づいてくるので、気がつけば夏にはさよならも言えず終わってしまう。
 屋上は、秋の風で満ちていて、空は真っ青に染まっている。とても気持ちのいい午後、私はそこから校庭を眺めていた。視線の先には練習中の野球部の姿が見える。「ふぁいーっ」とか「おーっ」とか何を言ってるのか分からない叫び声がこだましてこちらまで届いてくるので、なんとなく気になって、さっきから目を離せないでいた。
 今日は土曜日だから、すでにクラブ員以外の生徒は殆どが帰路についてしまっている。私はと言えば、図書室に本を返却しに行った帰り、随分と気持ち良さそうな外の風景に惹かれて、ここまでやって来たのだった。
 フリーバッティングでホームラン級を次々と叩き出しているのは、同じクラスの山本だった。ほぼ八割方、グラウンドの先の芝生の方にまで届いているのには、素直に感心するしかない。確かに彼は、うちの野球部のエースなのだ。
 そんなエースは真剣な顔で、繰り出される球を打ち返してゆく。相当集中しているようで、周りの黄色い声援も全く耳に入っていない様子だ。普段はただの猿だけど、野球してる時はちょっとだけ格好良いなと、私は思った。
「山本!」
 不意に声が聞こえた。そんなに大きくもない、向こうまで届くかどうかも分からないほどの微かな声。それはちょうど屋上の真下から聴こえたものだから、きっと四階の教室、しかも山本の名を呼んでいるのだから、十中八九うちのクラスからだろう。
(あーあー、もっと大声出せよー)
 こんな所で叫んでも、聴こえる訳がないのに。私は少々呆れて、気付くはずのない張本人を見遣る。けれど予想とは裏腹に、山本は、声の主を凝視していた。
(……聴こえたの?)
 さっきまで周りの声すら聴こえていなかった様子なのに、一体どうして。何が彼に存在を気付かせたの。不思議に思い、柵から体を乗り出して教室の窓を覗こうとするけれど、全く見えそうもない。
(……誰?)
 どうしてか声の正体が気になって、私は教室へと向かった。

「あれ、沢田?」
 教室の扉を開ければ、そこにいたのは同じクラスの沢田綱吉だけだった。ということは、沢田がさっきの叫び声の主なんだろうか。私が余程怪訝な顔をしていたんだろう、彼は少し不審な顔つきで、こちらを見つめていた。
「あれー、黒川?なんでいるの?」
「図書館に本返しに行ってたんだよ。あんたこそ……もしかしてまた補習?」
「う……」
 図星なのが丸分かりの仕草で、沢田は目の前の教科書をささっと片付ける。私がくすりと笑うと、不貞腐れたような表情を浮かべて、なんだよ、と口だけを動かした。
「沢田さあ、今さっき、山本のこと呼んでなかった?」
「?うん、呼んだけど、なんで?」
 私が気になっていたことを聞くと、なんでもないようにさらりと彼は答える。私はますます不思議に思う。沢田の声はそんなに通りの良いものではない。まだ変声期も迎えておらず、やや高めのトーンの彼の声では、どう頑張っても校庭の、しかも部活に集中している人間に届くはずはないのだ。 
「ううん、屋上にいた時聴こえたから、気になっただけ」
 ふうん、とだけ呟いて、沢田は帰る準備を始める。それから、もう帰るから挨拶したんだよね、と言った。
「そんじゃ黒川、ばいばい」
 ゆるりと手を振り、鞄を肩に掛け歩き出した沢田を、私はまた呼び止めた。
「ねえ、獄寺はなんで休みなの?」
「……イタリア行ってる」
 沢田は僅かながら苦しそうに、それだけ言って、扉をぴしゃんと閉めた。廊下に響く足音が教室にも聴こえてきたが、それも段々と小さくなって消えた。
「イタリア……ねえ」
 そういえば、と獄寺がイタリアからの帰国子女だったことを思い出す。本当に謎の多いやつだと、私は獄寺のことを考えた。あの沢田への異様な執着とか、何故だか沢田を「じゅうだいめ」と呼んだり、一体あの二人はどういう関係なんだろう?他のクラスメイトも、最初は怪訝に思っていたのが、その内慣れてしまったのか、疑問すら抱かなくなっているみたいだ。
 沢田が帰った後の席に座り込んで、ぼうっと校庭を眺める。木々の青さはもうすっかりと薄くなって、鮮やかさを失っている。校門へ続く道に敷き詰められた葉っぱの絨毯は、さわさわと風に揺れて、深い海のように見えた。
(あ、山本がいない……)
 目を離していた内に、野球部は休憩に入ったようで、各々好きな場所で水を飲んだり、涼んだりしていたのだけれど、その中に山本の姿は見当たらなかった。
 必死で目で追っていると、いきなり教室の扉が音を立てたので、私は驚いて肩を竦めた。
「あれ、ツナは?」
 そこにいたのは、今まで目で探していた山本の姿で、私は少し気恥ずかしい気持ちになった。動揺に気付かれないように、冷静を装った声で私は言う。
「ちょうどつい先刻までここに居たけど、帰ったよ」
「ちぃ、なんだすれ違いか。挨拶だけでもしようと思ったのにな」
 山本は如何にも全力で走ってきました、という感じで息を乱していて、そんなに必死に走って来なくても……と私は可笑しくなって含み笑いを浮かべる。真っ赤な顔が少しずつ平静に戻ってきて、彼は照れ隠しなのか、つられて小さく笑った。
「はは、全力疾走しちまった」
「ねえ、さっきなんで沢田の声が聴こえたの?ここから校庭じゃ大分離れてたでしょ」
 私はどうしても気になって訊く。山本はきょとん、とした目でこちらを見た後、見てたんか、と言って笑った。
「だってツナの声ってめちゃくちゃ通るじゃん」
 今度は私がきょとんとする番だ。沢田の声が通るって?本気で言っているんだろうか。あんなにも、控えめで、か細いあの声が、彼の耳にはどう聴こえているというのだ。
「だってどこにいても分かるぜ?あんだけ声が聴こえやすいと」
 違う!
 私は心の中で大声をあげる。
 それは違う──聴こえやすいんじゃないわ。
 聴こえてしまうのだ。
 その瞬間、私の頭の中に駆け巡った答え。
 彼の耳は、沢田の声を、沢田自身を、無意識に探しているのだ。

 

 それは明らかに、友達への感情とは別のものだと、私には思えた。きっと他の人が聞けば、余程仲が良いんだな、としか思わないだろう。でも何故か、そういったものとは違う、と私の中のどこかが、言っているのだ。あの彼の抱く妙な感覚に、名前を付けるのならば。
 恋……?
 思いついた言葉に、私はとんでもなく恥ずかしくなり、しかも有り得ないことだと、大きく首を振った。まず彼らは男同士なのだ。それにもし仮に男同士の恋愛が成り立ったとしても、山本の沢田に対する感情に、恋心を匂わせる部分など他には感じられない。例えば、執着だとか、欲だとかいったものが、全く、向けられていないのだから。
 私は机の上の日記帳に目を落とす。中学に入ってから、毎日かかさずつけているものだ。その日あった些細な事も、見つめていた景色も、何もかもを、詳細に綴ってゆく。むせ返るような秋の匂い、校舎の脇の落ち葉の絨毯、校庭から聴こえる音──それから、山本の心も。
 覗きたい、と思った。山本の心の中は一体、今、どんな風なんだろう。彼の中での沢田が一体、どれほど大きな存在なのか、その思いは何て名付けられるのか。私の好奇心は、とうとうフィクションの世界に飽き足らなくなってきて、現実の人間へと向けられてしまった。
 知りたい。山本武という人間を。



 週が明けてからも、獄寺は学校に来ていなかった。たった数日かそこらでイタリアからは帰って来れないだろうと分かっているのだけれど、本当にイタリアに行っているのか、私はどこかで疑っているようだ。
 いつもうっとうしいくらい付きまとっている獄寺がいない沢田は、ずっと山本と一緒にいた。そういえば、いつも三人で揃っているものだから、二人だけで並んでいる姿が珍しく映る。
 私は山本の顔を見る。最近気付いた、本当に僅かな変化だったが、沢田と2人でいる時の彼の表情は、三人でいる時のものとは明らかに違っていた。それはきっと、自分だけをこの小さな二つの目が見ているのだということの幸福さに、酔いしれた顔だ。
 ああ、彼にも「欲」があったのか。私はその小さな、誰も気付かない程の小さな彼の欲に、異常な動悸を覚えた。そうして、昨日私の思ったことは強ち間違いではなかったのだと少しだけ嬉しくなった。
 もしかしたら、と私は思った。もしかしたら、山本のこの消え入りそうで、でも確かにそこに有る気持ちは、三人でいることによって、全く見えなくなってしまっていたのでは。
 余りにも無意識に、山本は気持ちを押し殺している。そう思えてならなかった。
「花ってば、聞いてる?」
「え、あ、ごめん、なに?」
 ふと横を向けば、ちょっとした怒りと、心配をはらんだ親友の目がこちらを見ていた。そういえば、沢田は京子が好きなのだっけ。でも沢田の場合、恋かどうかは分からない、どちらかと言えば憧れに近い感情だと私は思っている。彼もまた、欲とか執着を京子に対してはそれ程持っていない様に見えた。
 京子はちらりとその沢田を見遣って言う。
「ツナ君さ、ここ二、三日元気ないように見えるんだけど……花はそう思わない?」
「え、そう?別にいつも通りに見えるけど?」
 そこまで沢田に興味のない私には、さっぱり分からない質問を投げかけられて、内心困惑しながらそう答えた。
「そうかなあ……絶対変だと思うんだ」
「じゃあ本人に聞けばいいじゃん。京子に心配されてるって分かれば元気になんじゃない?」
 私がからかったようにそう言えば、京子は目尻をピンクに染めて、もう、と頬を膨らませた。怒っているというよりは、照れているという感じ。
 こちらもまんざらじゃあないのね、と私は一人でほくそ笑んだ。そうしてふと思い立って尋ねる。
「ねえ、京子、沢田の声ってさ、どこにいてもすぐに分かる?」
「えー、どうだろ。でもすぐ分かるってことはないと思うけどな。ツナ君の声ってそんなに聞こえやすい訳でもないし」
「だよねえ……」
 やっぱりそうなんだ、と独りごちた後、それならば、と考える。
 それならば、やはり山本は沢田に特別な思いを抱いているはずだ──それが恋かどうかは別として。ただ、間違いなく、自覚はない。山本は、沢田への欲も、執着も、まるでそんな感情を持つことすら罪になるかのごとく、一切の思いを小さく折り畳んで、自分自身も分からないよう、たまごの固い殻の中に隠してしまっているのだ。
 きっとそれはゆっくりと温められていて、ふ化してしまえば全てが終わってしまう──そんな危ういたまごなのだ。


 その思いに気付いてからというもの、私は頻繁に山本を目で追うようになった。山本の小さな変化をその都度探しては、その思いの正体を、どうにかして探ろうと必死だった。そうして発見したことといえば、山本がどうにも、自分に対して無頓着だという事実だった。
 山本は、我が儘を言わない。
 それはクラスの誰に対してもだったし、ひいては自分自身にも、決して甘えを見せようとはしないのだ。我慢強いというレベルではない。ただ単純に、執着も意見も何も持っていないだけではと疑ったが、それならば、あんなに真っ直ぐに野球に打ち込むこともないだろう。
 考えれば考えるほど、分からない。
 今まで読んできた本の登場人物は、皆馬鹿馬鹿しい程単純で分かりやすい人間ばかりだった。恋を落ちたとなれば鬱陶しい程情緒的になるし、恋に破れれば嘆き悲しみ、死を選ぶ。一体全体どうしてそこまで恋なんかに全身全霊を注ぎ込めるのか、不思議でならない程に。
 それが本当のところはどうだ。恋というものはこうも曖昧で、それが恋と名付けられるものなのかも分からない。それでも、私は信じていた。彼の抱く思いが、恋だということを。
 山本は確かに恋をしていた。
 今まで読んだどの物語にも載っていなかった、見たこともない恋を。


 獄寺のいない日常は、山本の些細な変化を、次第に緩やかなスピードで暴いていった。それはきっと私だけが気付いていた変化だ。その兆しを一身に受けている沢田ですら気付いていない感情は、私の心を存分に震わせた。朝の挨拶、昼食の誘い、放課後のお喋り、そのどれもが、存在しない獄寺の居場所をパズルのピースのように埋めてゆき、気付いた時には獄寺を排除してしまうのではないかと思わせるくらい、その場所に山本は居た。
 これが欲というものなのだ。山本は今まさに、欲を全身で体現していた。彼は間違いなく、沢田の隣を独り占めしたがっていた。獄寺という枷がない今、山本の目には、ただ沢田しか映っていない。誰にもばれないように、まるでもう一人の山本が居るかのように、自分の意思とは別の次元で、山本は自我を見せていた。
 どうして。どうしてここまで抑えきれない山本の思いが、沢田には見えないのだろう。そんなはずはないのに。
 もしかしたら、沢田は気付いていながら、わざと見ない振りをしているのかも知れない。
 そう考えたら、私の心の奥底がちらりと疼いた。



 ある朝、獄寺がいつも通り登校しているのを見かけた。隣には、当然のように沢田の姿が見える。そこに山本の姿はなかった。居ないのは野球部の朝練の所為だろうけど、なんとなく、そこに山本が居なくて良かったと私は思った。
 二人があまりにも、二人だけの存在だったから。
 下駄箱で二人とすれ違う。私に気付くと、沢田はこちらに向き直って、おはようと手を振った。隣の獄寺はこちらを見ようともしない。なんて分かりやすい位、一途なやつだろう。きっと彼の世界では沢田が全てで、それ以外は本当にどうでもいいんだわ、そう思える程に獄寺は、自分の世界をきっちりと二分していた。
 教室に入るとすぐ、京子がこちらに向かってくる。おはようの挨拶の後、一言「ツナ君、元気になったみたい」と言って笑った。
 私にはやっぱり違いが分からないけれど、その原因が獄寺だということだけは分かった。
「良かったじゃない、京子」
 からかい半分の言葉を投げかけながらも、私は山本の姿を探した。山本の反応が気になって仕方がなかった。一体、どんな表情をあの二人に向けるのか、沢田と一緒の時に見せたあの小さな欲が、どうなってしまうのか、私の目は、どんな小さな変化も見逃すまいと、ただひたすら彼だけに集中していた。
 朝練から戻った姿を見つけた時、彼は笑っていた。いつもと同じ、満面の笑顔。獄寺に向かって、お帰りと言って肩を叩く仕草も、沢田に向かって、おはようと肩を組む仕草も、全て、いつもの彼のもので、沢田と二人でいた時のあの小さな変化何もかもが、成りを潜めていた。最初から、そんなものなど存在していなかったかのように。
 それは予想のできたことだった。今までだって、そうだったのだ。見せようとしない弱味、小さな欲を称えた目、それは誰の目にも触れずに彼の根底に眠っていて、時々、ほんの一瞬だけ、顔を覗かせては、少しずつ空気抜きをしていたはずなのだ。このまま、誰にも──本人にすら気付かれないまま、彼の思いは何処に行ってしまうのだろう?
 思いは、ぶつける前に消えることはない。ぶつける場所のない思いは、だんだんと心を浸食して、その内、内側から自身を壊してしまうというのに。
 もし彼のたまごがふ化してしまったら──私はあの日の屋上での出来事を思い出して背筋がぞくりと震えた。あれは、そういうことではなかったのか。彼の内側で燻っていた何かが、右腕の怪我が火種となって一気に爆発した結果が、あの屋上での自殺未遂だったのでは。
 嫌な予感が頭を過る。せっかく見せかけていた山本の本心は、獄寺が帰って来たことによって再び隠されている。もし誰かが気付かなければ、また爆発するぎりぎりまで溜め込んでしまうことは、容易に想像できる。
 早く、どうにかしないと。私は焦って考える。苛々と、頭を掻きむしりたくなる衝動を抑える。彼の思いに気付いているのは、私と、多分、沢田だけだ。助けてあげないと、思いを消化させてあげないと。早く!



 早くどうにかしないと、という思いだけで、私は沢田を学校中探し続けた。こんなにもパワーを使ってまで、私は何をやっているのだろう。本当は、どうでもいいことなのに。山本の心の行方も、沢田との関係も。頭の片隅では分かっているのに、どうしても私は冷静になれない。まるで熱に浮かされたように、彼らのことだけが今、私の全てを占めていた。
 分かっている。私はおかしい。
 やっと沢田を見つけた時には、もうすっかり私の熱は、これ以上上がらない、というところまで来ていた。
「沢田」
 ワントーン低い声に、沢田は肩を振るわせて振り向く。私と分かってほっとした顔をしたのも束の間、すぐに緊張感を称えた表情に戻った。
「黒川、どうかしたの?顔、怖いよ」
 放課後の廊下は夕日で真っ赤に染まっていて、きっと私の顔もオレンジ色の鬼のような形相になっていたのだろう。不安げな目の沢田がこちらを見上げる。
 かあ、と烏が一つ鳴いた。
「ねえ、助けてあげなさいよ、友達でしょ」
 沢田は何を言っているのか分からないといった風で、ぽかんとこちらを見ていた。私は構わず続ける。
「沢田、あんた、気付いてるんでしょう?山本のこと」
「何の話」
 私の問いかけに対して、沢田はいとも簡単に目を逸らす。そんな沢田に私は怒りを覚える。
「とぼけないで。山本は、自分からは絶対に気持ちをぶつけないって分かってるんでしょ。それに甘えて、山本の気持ちを無視するつもり?」
「だから一体何の話だよ!」
「また自殺未遂起こしちゃってもいいの?」
「………」
「山本が溜め込んで溜め込んでやっと吐き出しそうになった気持ち、今朝になったらすっかりどっかに行っちゃってたのよ。それが獄寺の所為だってことも、分かってんでしょ」
 誰もいない廊下に、私の声だけが響く。その間沢田は一言も言葉を発さず、じっと窓の外に視線をやっていた。耳だけはこちらを意識してるのが分かって、私はますます腹立たしく思う。
「なんとか言いなさいよ」
「……山本は友達だ」
 ぽつりと漏らした一言に、私は耳を疑った。
「友達だから、無視するの?獄寺のことは受け入れるくせに?」
 私の言葉を飲み込んで沢田は、はっとしたようにこちらを見た。その目には、はっきりと怒りの色が浮かんでいる。部外者に何が分かるものか、彼の目はそんな風に語っていた。
「友達だから!巻き込みたくないんだ……今更もう遅いって分かってるけど……おれ達と山本は違う。山本には野球があるし、おれ達と一緒に来ることなんてないんだ」
「え……?」
「山本は優しいから、おれ、甘えてしまうんだ。なんでもない風に、おれの傍にいてくれるから。ダメなんだ……本当は巻き込んじゃダメだって分かってるのに、本当のことも言わないで、おれ、山本のこと騙してるんだよ……」
 私は混乱する。何故か話が噛み合っていない。私は、山本の思いのことを問いただしていたんじゃないの?一体、沢田は何の話をしているんだろう。一緒に来るとか、巻き込むとか、それが山本の思いと何の関係があるというの?
 沢田は既にこちらを見てはいない。きっと私と会話しているという意識すらなく、ただ独りごちているだけだ。
「ねえ!さっきから、一体何の話をしてるの?」
 そう聞けば、沢田ははっと顔を上げて、口を噤んだ。気まずそうな顔。ただただ困惑して、こちらを見遣っている。そうしてまた目を逸らす。
「ごめん、今の話は何でもないんだ。気にしないで、」
 なんて無茶苦茶を言う。もう、何も聞けない雰囲気になっていた。沢田はきっともう、何を聞いても答えることはないだろう。私は聞き方を間違ってしまったのだ。
 私はため息を一つ吐いて、壁に倒れ込むように凭れかかった。さっき走り回った疲れが、一気に足に来たのだった。


 遠くから、「じゅうだいめ」と呼ぶ声が聞こえる。獄寺が沢田を探している。彼の声は通りが良いので、数百メートル先からでもその存在を主張していた。声はだんだんとこちらに近づいて来る。
 私は今朝の出来事を思い出す。沢田の他に誰も必要のないと言わんばかりの、獄寺の潔い程の執着。それとは正反対の、山本の隠された執着。獄寺の世界の一番は沢田で、きっと、山本の世界の一番も、そうだ。
「沢田はずるいね……あんたはいつでも1番なんだわ。獄寺も、山本も……きっと京子だって」
「そんなことないよ」
 目の前の彼は、はにかんで笑う。
「どうして、あんたの一番は、山本じゃないの……?」
 ゆるゆると首を振って、沢田はそれきり黙りこくってしまった。
 それから五分も経たない内に、大きな音を立てて獄寺が現れた。ぜいぜいと肩で息をしているのを見て、この間の山本の姿が重なる。一体沢田の何が彼らをそうさせるのか、私には不思議に思えて仕方がない。獄寺は私と沢田が向き合っているところを見た途端、こちらをきっと睨みつけて、てめえ「じゅうだいめ」に何してんだ、と凄んだ。
「別に何もしてないわよ」
「10代目、さっさと帰りましょう。こんな女ほっといて」
「あんたさー、ほんっと嫌な奴だね」
「てめーよりマシだ」
 私たちのやり取りを最初はハラハラと眺めていた沢田も、とうとうぷっと吹き出してしまった。さっきまで神妙な面持ちだったあれは何だったのだ。なんだか馬鹿馬鹿しく思えて、私は手をひらひらと返し、さっさと帰ったら、と呆れて言った。
「おーてめえに言われなくても帰るよ」
「そんじゃ、黒川ばいばい、」
 それから、と小さな、私にしか聞こえない程の声で囁いた。
「山本を、助けてあげて」

 簡単に言ってくれるじゃないの。それは自分の役目ではないのだと、沢田はそう言った。
 全てを見ていた黒川ならきっと、山本を分かってくれるから、とも。
「一体、どうしろっていうのよ」
 私はすっかり赤く染まり切った空を窓から見上げて、呟いた。さっきから、息苦しくてたまらない。外に出なければ。あの屋上に行かなければ。
 屋上へと続く扉を開けた瞬間、強い風が吹き付ける。風は冷気をはらんで、ひんやりと寒い。そういえばもう10月だったと、私は気付く。なんて目紛しく速いサイクルで、季節は変わってゆくのだろう。
 風を切りながら、いつもの場所へと向かう。校庭を見渡すことのできる、一等の場所だ。フェンスの方に、人影が見える。その人影はゆらりと揺れて、その瞬間、記憶がフラッシュバックのように蘇った。
 その人影が、山本だと分かったから。
「だ、だめ──!!」
 私は無意識に叫んだ。それはもう自分が出せると思っていた声量よりも、随分と大きな声で。あまりの叫び声に、山本は変な声をあげて驚いたように振り向く。
「な、なんだ黒川かぁ……て、おい、大丈夫か?」
 山本の心配そうな目が私を見る。情けないことに、私は腰を抜かしてへたり込んでしまったのだった。じわりと、目尻から涙が零れる。
「だ、だって、山本……そんなとこで、なにやってるの?」
「なにって、校庭眺めてたんだよ。で、何がダメなんだ?」
 差し出された手を取って、私は腰を上げる。まだ少しがくがくと震える膝を叩いて、フェンスに掴まった。
「だって、飛び降りるのかと思った……」
 涙目でそう呟いたところを、あはは、と呑気な笑い声で一蹴されて、とうとう私は切れた。
「あんたねえ!分かってんの!?前科持ちなのよ、あんたは!うちのクラスの連中が見たら、十人中十人が自殺を疑ってたわよ、今の状況」
 今にも掴み掛かりそうな勢いで捲し立てる私を見て、さすがの山本も笑いを引っ込めた。そのまま申し訳なさそうな表情に変わる。
「ああ、そりゃ……心配かけて悪かった。そうだよなあ、俺、あんな馬鹿な事やっちゃったんだよなあ、」
「そうよ、ほんっとに馬鹿」
「あはは、ひでえなあ、ほんとのことだけど」
 その柔らかな笑みには、あの時の仄暗さは微塵も感じられないけれど、あの時の光景は鮮烈に、クラスの全員の脳裏に焼き付いていた。皆あれ以来、ことある毎にこっそりと山本を観察しては、前兆が訪れていないかを確かめているのだ。
 そんな風に注意して山本を見ていた誰もが気付かない程の、彼の小さな恋と、沢田の言葉を思い出す。
 山本の目の奥を覗く。そこに映っているのは私だけで、他には何も存在していない。私の見つけた彼の恋は、幻ではなかったのかと疑う程に、一欠片すらも見当たらない。
 何もかもが、私の勘違いだったら、どれほど気持ちが楽になるだろう。それでも、その考えが逃げでしかないことは、私自身が一番よく分かっていた。
 山本を助けてあげて、と言った時の沢田の表情を、思い出して歯を食いしばる。あの表情は反則だ。あんなにも美しい表情で、友達を思うことの出来る人間がいるなんて、私は知らなかった。
 あの表情を見ただけで分かった。沢田は山本から逃げているんじゃない。山本のことを思うからこそ、気付かない振りをしているのだと。
 そして絶対に噛み合ないのだ、二人の思いは。
 なんて息苦しい、そしてなんて胸の痛む恋だろう!
「なんで、そんな風に笑えるの……?」
「ん?」
「自分の気持ち押し殺してまで、どうしてそんな笑えるの?」
「なんだそりゃ、俺、別に気持ちを押し殺すだとかそんなこと、考えたこともねえぞ」
「あんたねえ、気付いてないの?自分が沢田を、どんな風に見てるのか」
 私の言葉に山本は、不思議そうな顔をする。まん丸のチョコレート色をした瞳が私を見る。
「え、何、俺どんな風にツナんこと見てんだ?」
「そりゃあ、もう、独り占めしたくってたまらないって目、してるよ」
 山本は一瞬大きく目を見開いて、それから、嘘付け、と言って笑った。
「嘘じゃないよ。あんたは知らなくっても、私は知ってる。ずっと見てたんだから。あんたがどんな風に沢田を見てるのか、ずっと見てた」
 笑顔のままで固まって、山本はこちらをじっと見つめる。
「どうしてちゃんと言わないの?獄寺ばっかじゃなくって、俺のことも見てって、言えばいいだけじゃん」
 そう言った瞬間の山本の顔といったら。人を殺しそうな勢いの鋭い眼光に一瞬怯みながらも、こいつもこんな顔が出来るのか、と私は感心した。目には怒りの色が見える。ああ、これはさっきの──沢田と、同じ目だ。分かった風な顔をするな、そう言っている目。
「俺は──大事なんだよ。ツナも、獄寺も。一番も二番もねえよ。二人とも大事なんだ」
 嘘つき、と私は心の中で呟く。
 山本はとんでもない嘘つきだ。しかも自分ではそれを嘘だと分かってもいない。どうしてそこまでして、彼のたまごは心の中を隠すのだろうか?
 一体そのたまごから、何が生まれるというの?
 ああ、なんて苛々する。
「あーもう、馬鹿みたい!あんたも、沢田も、」
「んあ?」
「二人して、お互いを大事、大事って、大事にしてりゃそれでいい訳?大事っていいながら、腫れ物触るみたいに、なーんも分かり合えずに終わるんだ。ふーん、それがあんたらの言う友達なんだ。そんなの結局、そこらを歩いてる赤の他人と変わんないじゃん」
 ああ、また怒った。だんだんと、山本の表情の奥の微妙な変化を読めるようになって来る。笑顔で隠していた激情が、見え隠れし始める。それを少しでも、沢田に見せればいいのに。クラスメイト全員とまでは言わない。たった一人、自分の大好きな人間にくらい、見せてしまえばいいのに。
「もう、いいのよ。もう、隠す必要なんて、ないよ」
 山本の思いに負けないくらい、強い目で彼を見据える。もうすぐだ。あとほんのちょっとの力で彼の背中を押せば──彼は楽になりたいと願っているのだから。
「全部吐き出しちゃえばいいの。誰も、山本に失望なんてしないから、」
 ふわりと、山本の顔が緩んだ。私は今、背中を押すことができたのだ。それが分かった。
 山本の口から、本物のことばが、溢れた。
「──俺は、ツナの、一番に、なりたい」
 それは彼の喉の奥のつっかえをとうとう外してしまった。次々と、堰を切ったようにことばが溢れ出す。
「俺は、ずっと、あいつの傍にいたんだ。獄寺とおんなじくらい。でも、あいつは俺にはいっつも遠慮してた。幾ら親友だ、尊敬してるって言われても、そんなの全然嬉しくなかった。本当は、あいつの重荷も何もかも、全部俺が背負ってやりたかった。でもいいやって。そんなの長く付き合っていけばその内そうなれるだろって。そしたら、獄寺はいつの間にか、ツナの隣を全部奪ってったんだ。俺の居場所の分まで全部。そこには俺がいるはずだったのに。あいつ、俺が言ってやりたかった言葉を言って、俺がしてやりたかった事全部ツナにすんだ。あそこは、俺の場所だったのに──」
 山本の声が耳にこびりつく。
 悲しい、寂しい、くやしい、憎らしい、沢山の感情が綯い交ぜになって、彼の声を作り出す。その声はとてもみにくく、そして生きている人間のものだ。
 にせ物だった山本の抱えていたたまごはひび割れて、とうとう、ふ化をしたのだ。
 たまごの中には、本物の、まっさらな山本武という人間が入っていた。


 ぽろぽろと、小さな雫が頬を滑り落ちた。
「なんで泣くんだ?」
 山本は、困ったように眉毛を下げて、私の前に立っている。彼の声が、私の名前を呼ぶ。心地いいリズムで、歌うように。泣きたいのはこっちのほうだって、なんて言いながら、何度も、何度も、大きな手のひらが、私の髪を撫でる。
「黒川、黒川、ありがとな、」
 涙など一粒も流していないのに、山本はまるで泣いているように見えた。背の高い彼の頭に必死で手を伸ばし、私は少し固い黒髪に触れる。
「あんたも泣いてるんだね、」
「うん、」
「悲しい?」
「ちょっとだけな」
 二人でお互いの頭を撫で合っている様子が可笑しくて、私は涙を浮かべながら笑った。山本もつられて笑う。
「黒川はすげーなあ。なんで、俺のことがそんなに分かるんだ?」
 山本は柔らかな目で私を見ていた。さっきの殺し屋のような目でも、欲を称えた目でもないそれは、微かな優しさが生まれていた。
「さっきも言ったでしょ。私はずっと見てたの、山本のこと」
「ん、でも、それってなんでだ?」
「なんで、だろ。でも、きっかけは、多分、あれ。ほら、放課後に一度あったでしょ。沢田があんたを呼んで、あんたが教室に来たとき」
「ああ、あったあった。ん、あれでなんで俺の気持ちなんて分かるんだ?俺、自分でも気付いてなかった位なんだぞ」
「だって、沢田の声、聞こえたんでしょう?」
 私の問いに、山本は盛大に「はてな」を浮かべて不思議そうな顔をした。すぐに答えを教えてもいいけれど、彼の困惑した顔が見たくて、ついつい出し渋る。
「沢田の声って、すっごく通りが悪いんだよね。気付いてないと思うけど」
「え、それってさ、俺、耳がめっちゃくちゃ良いってこと?」
「ばーか。恋をするとね、好きな人のこと、どこにいても見つけられるの」
「え、俺、恋してたのか……?ツナに?」
 とうとう私はあまりの可笑しさに吹き出した。山本はむっとした表情でこちらを見ている。だって山本が、本当に何も気付いていなかったんだもの。こんなにも無自覚に、強い思いを抱くことが出来るなんて、本当に山本という男は、大馬鹿者だ。
 馬鹿で、とても愛おしい。
 そう、本当は、恋じゃないのかもしれない。全ての思いに、恋と名付ければ手っ取り早いけれど、本当のところは誰にも分からないのだ。
 ただ、こんなにも、みにくくて美しい、強い強い気持ちを、恋だと思うことが出来れば。
 私は恋という感情に期待を抱くことができる。
 恋は、辛くて苦しいけれど、同時にとても美しいものなのだ。
「いいじゃん、恋で。あんたの思い、綺麗だもの。とっても」
 私はとてもいい気分で、山本に笑いかける。
「そっか……じゃあ、あいつらも、ツナと獄寺も、恋してんだろーなあ」
 山本は、今までで一番綺麗な笑顔を浮かべて言った。
「あいつらも、すっげえ綺麗だから」

・・・

 今日は寒いね、なんて言いながら、教室の窓は開け放たれている。皆、秋の空気に少しでも触れていたくて、秋の匂いを感じていたくて、誰からともなくそうなった。
 ざわざわとした教室の中で、あの三人は今日も笑って、怒って、困っている。山本はあれ以来、少しだけだけれど、自分の気持ちを見せるようになった。沢田は驚きながらも、少しずつそれを受け入れているみたいだ。彼の恋は一生、一方通行だろうけれど、今幸せならば、それでも良いのかもしれない。
 気付けば隣で京子が、にこにこしながら私の顔をじっと見つめている。
「花、好きなひとが出来たんだね」
 いきなり突拍子もないことを言われて、私は飲んでいた紙パックのジュースを吹き出しそうになった。京子はそんな私を見て、また笑う。
 私の好きなひと?それって誰よ。
「えっと、なんでそう思う訳?」
 京子は目をまん丸くして、言った。
「だって花、恋している目をしてるよ?」



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