モノクローム


 黒光りする表面に、夕暮れの赤が反射する。重い蓋は持ち上げると、ぎしりと音を立てた。白と黒の鍵盤を鳴らせば、世にも美しい音が流れだす。
 この箱は魔法の箱だ。心の奥底に必死で押し込め隠している気持ちを、いとも簡単に曝け出してしまう。オレの音はあまりにも弱く、不安定だ。だから誰の前でも、決してピアノを弾くことはなかった。
 ただ自分で自分の弱さを確かめるためだけに、オレはピアノを奏でるのだ。

 5時を過ぎればこの音楽室へはほとんど足を踏み入れる者が居ない。管理責任者であるはずの音楽の教諭は、この学校一やる気のない人間で、教室の扉は鍵もかけず、誰がいつ勝手に中に入ろうと、黙認していた。
 一人でピアノを弾くにはちょうどいい、最高の場所だ。その上この学校のピアノは、調律は悪いが良い音がする。オレは一番近くの窓を開け放して、大きく息を吸い込んだ。
 日本へ来た最初の頃は、まとわりつく空気と湿気に辟易したものだ。べたべたとして、音の響きが悪い。それに空の色といったら。あんなにも汚い、にごった空の色をオレは初めて見た。
 しかしそれは青空に限っての話だ。だって、この国の夕焼けの美しさは別格だった。それだけはきっと、どの国のものよりも美しいと、あの鮮やかな橙色の空を見て思った。
 Cの鍵盤を鳴らすと、かすかに空気がゆらぐ。狭い音楽室の防音壁にそれはすぐに吸い込まれ、オレは安心して音楽を奏でる。小さく、静かな音、雨つぶのようににじむ音、この曲は恐ろしいほど、オレの中を暴いてゆく。

「きれいな曲だね、それ」
 絶対に聞こえるはずのない声が不意に耳に入り、オレは驚いて演奏を止めた。真っ正面、グランドピアノの蓋の影から、鳶色の目が覗いている。
「じ、10代目、」
「獄寺君やっぱりピアノ上手いんじゃん。なんで今まで弾いてくれなかったんだよ」
 拗ねたように口をとがらせて、10代目はオレの隣に腰を下ろす。ピアノ用の椅子は長いと言っても、さすがに二人で座るには小さすぎるものだ。必然的に身を寄せ合うようになって、彼の栗色の髪がオレの鼻をくすぐる。オレはすっかり固まってしまい、ピアノどころではなくなってしまった。
「今の、なんていう曲?」
「あ……ええと、シューマンの、トロイメライです」
「とろい……?」
 どうやら言葉の意味が捉えられず、10代目は眉尻をさげて、困ったように苦笑いする。
「トロイメライ──夢を意味する言葉です。シューマンが書いた、大人のための子供の曲のひとつで、簡単な曲なんですけどね、オレは好きです。簡単だからこそ、複雑で」
 オレは鍵盤の上で指を運ぶ。確かにこの曲は演奏に関しては易しい。けれど、だからこそ、ひとつひとつの音から、何もかもが、こぼれ落ちるように流れ出すのだ。
 ああ、こんな音を、10代目に聞かせることになるなんて──。

 オレが短い演奏を終えたとき、10代目は後ろを向いて、夕日を眺めていた。
「……退屈でしたか?」
「んーん、全然。あんまり曲がきれいだから、夕日を見ながら聞きたいと思ったんだ」
 10代目の横顔が、夕日で照らされて、赤く染まっている。オレは心が無性にざわざわとして、どうにも落ち着かないのが苦しかったから、わざと大きな声で喋った。
「あーあ、情けないっす。オレの音、弱々しいでしょう。大嫌いなんすよ、自分のピアノ。だから聞かせたくなかったんです」
 10代目がオレを見る。驚いたような顔をして。
「何言ってんの!すげー綺麗なピアノなのに、どうして嫌いなんて言うんだよ。オレは好きだけどな、獄寺君のピアノ」
 好きという言葉に、思わず顔が赤く染まったのが自分でも分かった。オレの反応も見てか、つられて10代目まで赤くなったように見える。夕日の色が反射しているのでなければ。
「あ、その、ありがとうございます。なんか、ピアノを褒められると……自分自身を褒められたような気がして嬉しいっす」
 オレはしどろもどろになりながら、どうにか言葉をつなげる。あの恐ろしい発表会以来、オレは人にまともなピアノを聴かせることも、ましてや感想をもらうことなど決してなかったので、褒められることに慣れていないのだ。
「でも、やっぱ嫌いっす、オレの音。迷いがあるっつーか、自分の弱さがもろに出てて……でも、ピアノ弾くのはどうしても嫌いになれないんすよね」
 黒い鍵盤。白い鍵盤。交互に、そして複雑に音を絡ませてたたく。ここには、黒と白しかない。決して、灰色など存在しない。
「自分が灰色だからっすかね、こうして、きっちりと黒と白に分かれているものに憧れてんのかもしれません」
「灰色?」
 その言葉に、10代目は不思議そうな表情を浮かべる。
「小さい頃から……お前は東洋人とのハーフだから、髪も目も灰色をしていると、そう言われてきたので」
 言って思わず、目を伏せてしまったオレの頬を、10代目の両手が包み込む。10代目の色の薄い瞳に、夕日の色が写り込む。

「君の目は、きれいなみどり色じゃないか」
 まっすぐに、オレの目を見て、10代目は言う。
「オレ、音楽のことは全然分からないけど、ピアノは黒い鍵盤と、白い鍵盤両方で、音を奏でるんだろう?じゃあ、生まれてくる、あのきれいな音は、灰色なんじゃないの?それでさ、きっと、黒鍵盤だけでも、白鍵盤だけでも、きれいな音楽は生み出せないんじゃないかな」
 そう言って、10代目は笑う。ごめんね、素人が、なんて言いながら。
「獄寺君はさ、強そうに見えるよね。実は弱くって不安定で迷ってばっかりだけど。でも恐ろしくまっすぐで、信念を曲げないよね。ほら、そう考えたらさ、君の性格って訳分かんないよ。白とか黒とか、そんなのはっきり決められる訳ないじゃないか。おれだってそうだし、きっと皆そうだよ」
 10代目の言葉が、音楽室中に響き渡る。それは決して強い声ではなく、でも、耳にするりと入って、一生忘れられないような声だ。
「オレは、弱くって不安定で迷ってばっかりで、でも恐ろしくまっすぐで、信念を曲げない、今の君が好きだ」
 そう言って彼は、オレの灰色の髪を撫でた。心地よい体温の指先が、髪を梳いて、もてあそぶ。腕を伸ばして、何度も、何度も。
「10代目は……凄すぎます。オレのことを分かり過ぎです。本当に、なんて方だ」
 オレは10代目の手をとって、指を絡ませる。オレのものよりも少し小さなその手を、力いっぱい握りしめた。握る手の冷たさに驚いて、10代目が小さく震える。まぶたに唇を落とすと、目尻に皺をよせるように目を細めた。
 それから、ピアノのように美しく響く声でささやいた。
「今度から、ここでピアノを弾く時は、絶対に一人で弾かないでね」
 もちろんです。オレは耳元で囁き返した。





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