雨をみくびるな


 例えばその日、沢田綱吉が偶然にも朝の天気予報を目にした上、午後からの雨に備え、傘を持参するという計画性を発揮していたとすれば、今現在置かれている状況は訪れなかっただろう。
 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。綱吉は窓の外を恨めしそうに眺めた。時間的にはまだ夕暮れ前だというのに、空は夜のように暗く、教室の中までじめじめとした空気が漂っている。
 今日何回目か分からない溜め息をまた一つ吐いて、綱吉は机の上に突っ伏した。そのまま首を横に傾げると隣の席には、あらんばかりの笑みを浮かべた獄寺隼人が、同じポーズでこちらを見ている。
「10代目、雨止まないっすね」
 どうしてこんなに嬉しそうな声なのか。綱吉は疑問を覚える。ただでさえ、気の滅入るような天気の上、この雨のせいで下校の足止めを食らっているのだ。普通ならば不機嫌になるか、綱吉のように、溜め息を吐きつつ気怠い気分を我慢するか──そんなところだろう。
 綱吉には、獄寺隼人という男の、何もかもが理解できないでいた。

 この妙な転校生と、どのように接すれば良いのか、綱吉は未だに分からない。出会った途端に目の敵にされ、殺されかけた後、勝手な勘違いの末に異常な慕い方をしてくる獄寺に、ほとほと困り果てていた。何せ今まで一度だって誰からも、このような手厚い扱いを受けたことがなかったのだ。いつだって居るのか居ないのか分からないような扱い、ダメツナと言われれば、自分でも納得してしまうくらい、何もかもを諦めていたような少年にとっては、獄寺から向けられる尊敬も忠誠も、冗談を通り越して迷惑でしかなかった。
 再び獄寺の方を見遣ると、相変わらずの笑顔だ。さっきからずっと視線を感じているが、恐ろしくて目を合わせることすらしたくない。
「ね、ねえ獄寺君、早く帰りたくない?走って帰っちゃおうか」
 恐る恐る、今日何度目かの提案をしてみれば、獄寺はがばっと音がしそうな程大仰なアクションで起き上がると、だめですだめです、と叫び声をあげた。
「風邪ひいたらどうするんすか!そんなことになったら、オレはボンゴレに顔向けできねえっす」
 あまりの必死の形相に、綱吉の方が引きつった顔を浮かべる。
 そう、綱吉は授業が終わってすぐ──その時はまだ小雨だった──に、走って帰ろうとした所を、獄寺に止められたのだった。それからずっと、雨が止むまで待ちましょう、と言われて待ってみれば、この様だ。
 雨はますます激しくなって、跳ね返った飛沫が白い霧のように見えるほどにまでなっていた。
「あーあ、やっぱり小雨の時に帰ってればよかった」
 こうなれば、嫌味の一つも言いたくなる。綱吉は、わざと獄寺に聞こえるくらいの声で呟いた。教室内があまりにも静かだったせいで、声は想像以上に大きく響いた。どしゃ降りとはいっても、中までは雨音も入って来ないせいか、外さえ見えなければ、まるで小雨が降っているかのようなか細い音しか聞こえない。
 大きく椅子をひいた音が、天井まで届く。綱吉はびっくりして顔を上げた。もしかして怒っているのだろうかと、恐る恐る獄寺を盗み見ると、彼は立ち上がったまま、綱吉を凝視していた。その顔は、ものすごく怖い。
「わ、ご、獄寺君、ごめん、うそ、ちょっとした冗だ、」
「申し訳ありませんでした!」
 顔を両腕で覆いながら、殴られやしないかとびくびくしながら謝ろうとした瞬間、目の前には半分に折れた──良く見ると前屈のように礼をしていた獄寺が見えた。
「まさか10代目がそんなにも早く帰りたいと思われていたとは……気が利かず申し訳ありません。すぐに、近くのコンビニで傘買って来ます」
 そう言うや否や、教室を出ようとした獄寺の腕を、綱吉は思わず力一杯掴んでいた。獄寺がびっくりしたような顔でそちらを見ている。
「いいよ!……だって、そしたら獄寺君が風邪引いちゃうじゃん」
「オレはいいんすよ、風邪くらいひいたって。それよりも10代目の早急な帰宅の方が大事っす!」
「もういいってば!別に大事な用があるとかじゃないから、ね、せめてましになるまで待とうよ」
「そうっすか……」
 止められた獄寺は、渋々元いた場所に座り直した。
 外を見れば、まさにバケツをひっくり返したような、という形容通りのどしゃ降りで、こんな中外に出れば、ものの五秒で濡れ鼠になるのは間違いなしだ。それでもこの忠実な男は、綱吉が命令さえすれば、ずぶ濡れになることも厭わず、寧ろそれを誇りと思って、傘を買いに走るだろう。
 ──そんな恐ろしいこと出来っこない。
 最初はほんの冗談だと思っていたのだ。弱くて情けない自分をからかっているだけだろうと、そう綱吉は思っていた。どうせすぐに化けの皮が剥がれるだろうと、正直、高を括ってすらいた。
 しかしそれは間違いだった。獄寺は本当に本気で、綱吉に心酔していた。"10代目"のこととなると、周りが全く見えなくなる程。
 そして綱吉は、それが心底恐ろしかった。自分の言動一つで、彼を生かすも殺すも出来るということに気付いた時、人の上に立つということの恐ろしさも、同時に理解したのだった。
 ただでさえ言動や物腰に恐怖を抱いている獄寺の、人生そのものまで背負わされるなんて、絶対に御免だ──それが綱吉の、正直なところだった。
 だから出来る限り、獄寺とは距離感を持って付き合おう、綱吉はそう心に決めていた。

「10代目は、ボスになられた暁には、どんなファミリーを作る予定っすか?」
 獄寺がうきうきと軽やかな声でそう尋ねる。
「そんなこと考えたこともないよ、ていうか考えたくもないよ」
 対する綱吉の声は、地獄を這うように暗い。
「なるほど、10代目は一人でも十分だとお考えなんすね?でも、10代目の配下に付きたい人間はゴマンといますからねえ、そうは言ってられないっすよ。まあオレもその内の一人っすけど」
 そう言って笑う獄寺の余りにも的外れな答えに、綱吉はますます低い唸り声をあげた。
「まあオレは右腕決定としてですね、山本?あいつもまさかファミリーに入れるつもりなんてないで……」
「もういい加減にしてよ。そんな話したくない」
 綱吉の強い口調に、獄寺は眉尻を下げて黙り込んだ。
 その内、雨音だけが周りに響き始めた。静かすぎる教室の中で、二人はひたすら何も話さずにいた。綱吉は、口を開けばきっと文句しか出てこないと思っているし、獄寺は、綱吉の機嫌を損ねたくないと、ひたすら話題を出すのを躊躇っていた。
 ひと際大きく雨音が響き渡る。耳の錯覚かと思うほど、周りを埋め尽くすスコールのような雨が、突然訪れた。
 一瞬にして、目の前が真っ暗になった。大きく心臓が跳ね上がる。
「うわ、何!?」
 動悸を抑えて綱吉が声を上げると、獄寺の冷静な声が聞こえてくる。
「……停電みたいっすね。ブレーカーどこだっけな……」
 椅子を大きく引く音がしたので、綱吉は思わず宙に手を伸ばした。さっき見えていた時の感覚から、そこに獄寺がいることは分かっていたので、意外とがっしりとした腕の感触はすぐに見つかった。手のひらに小さな震えが襲ってきて、それは掴まれた腕から、獄寺へと伝わってゆく。
「ま、待って、置いてかないでよ」
「いや、でも、」
「どうせブレーカーいじっても無駄だって、停電だし、だ、だから、電気付くまで、動かないでおこうよ」
 腕を掴む力が、段々と弱くなってゆくのが分かって、獄寺は椅子に腰を下ろした。ポケットからライターを出して火を着けると、柔らかな炎が二人の顔を照らしだす。
「ああ、よかった。10代目の顔が見えて安心しました」
「おれも。今ほど獄寺君を頼もしいと思ったことないよ」
「10代目、ひどいっす……」
 獄寺ががくりと肩を落とすのを見て、綱吉は小さく笑った。
 ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、まるで催眠にかかったように何も考えられなくなる。ふと見上げれば、そこには炎を映した獄寺の目があって、綱吉は心臓を揺さぶられたような気がした。
 彼の目が余りにも綺麗だったせいだ。
 獄寺は、いつにもなく真剣な眼差しを綱吉に向けていた。
「10代目、あの、今みたいに、もっとオレを頼ってくださいね」
「え、」
「オレ、もっと10代目の力になりたいんです。でも、普段は10代目、オレに頼み事したりとか、しないじゃないっすか」
「それはだって……悪いし」
「悪くないっすよ。オレは10代目の右腕になる男なんです。10代目の信頼を得られたら、オレは何より幸せです」
 炎の向こうで、獄寺が目一杯の笑みを浮かべる。
 こんなに優しい顔が出来る人だったんだ。今、目の前にいる彼は、怖くないし、嫌いじゃない。出来ることなら、もうしばらく、電気が点かないままでいてくれてもいい──そう思っていることに気付いて、綱吉は訳も無く恥ずかしさを覚えた。恥ずかしさの対象が、自分の現金さになのか、別の理由なのかは、まだ分からない。
「だから、何かあった時は、すぐにオレを頼ってくださいね。どこにいても飛んでいきますから。山本なんかよりもずっと、オレは10代目を守る自信があります」
 綱吉は何も考えず頷いた。何よりも、彼の言葉は綱吉の心を動かした。誰よりも切実で、美しい心の中を、獄寺は持っていたし、それには全く嘘が無かった。
 少なくとも、獄寺に裏切られることなんて絶対にないだろうと、綱吉は確信を持った。
「ありがとう、獄寺君」
 きっと炎の魔力だ、明日になれば、また忘れてしまう位の気持ちなのだ。それでも綱吉は、精一杯の気持ちを込めて、ありがとうという言葉を口にした。

 

 ぱちん、と音がしたかと思ったら、ちかちかと光が瞬いて、一斉に教室の電気が点った。二人はほっと一息吐いて、顔を見合わせる。
「やっと点いた」
「結構長かったっすね。ライターが保つか心配でしたけど、良かったっす」
「あ、雨、小降りになってる」
「本当だ。やっと帰れますね」
「うん、帰ろっか」
 明るさがやけに気恥ずかしくて、目を合わせることが出来ずに、綱吉は誤摩化しの笑みを浮かべる。獄寺はそんなことにも気付かず、さっさと帰りましょう、と鼻唄を唄いながら帰る準備を始めていた。
 廊下は冷え冷えとしていて、意外と寒かった。セーターとブレザーを着込んでいても、その寒さは堪える。
「さっびー」
「10代目寒いっすか?これどうぞ」
 白い息を吐いた途端、獄寺がいきなり着ていたカーデガンを脱ぎだしたので、綱吉はびっくりしてストップをかける。
「いいってば!ほんとに困った時は言うから、変な気回さないでよ」
「そうっすか?絶対言ってくださいね?」
 渋々脱いだものを着直しながらも、獄寺はどこか嬉しそうに言う。
 もしもその時が来たとして、本当に頼ってくれるかは分からない。けれど、そう約束してくれたことが、獄寺にとっては最高に嬉しいことだった。それもこれも、この雨と停電のお陰だ、と心の中で感謝の礼を送る。
 そして炎越しに少しだけ縮まった二人の距離を、頭の中で計算したのだった。




>>back to main