THE END OF THE WORLD


 私には好きな人がいた。本当は、今でも好きだ。その人は、普通より少し背が高くて、普通より少し野球が上手で、普通より少し、おかしな人だった。
 私と彼は中学からの腐れ縁で、だからつき合ってはいなかった。けれど、ほんの数ヶ月の間、一緒に暮らしたことがある。どうしてそうなったのか、あまり良く覚えていない。確か彼が当時住んでいたアパートの床を抜いて、大家に追い出されたとか、そういう下らない理由だったように思う。それで彼は私の家に転がり込んで来たのだった。
 一緒に暮らしていた数ヶ月間、私たちは一度だって、キスもセックスもしなかった。年頃の男女が二人同じ屋根の下で暮らしていて、肉体関係に至らなかったなんて、奇跡に近い。しかしそれは偏に、彼が私のことを好きではなかったというだけのことだ。もちろん、親愛の情は持ってくれていたはずだし、そうでなければ、一緒に暮らすという選択だってしなかっただろう。それでも、私の抱いていた感情と、彼の抱いていた感情は、とても似ているようで全く違う、見事に交差しない思いだった。


「なあ黒川、俺明日からイタリアに行くんだわ」
 数週間ぶりに呼び出されたかと思ったら、スターバックスの喫煙席テラスで、山本はいきなりそんなことを言いだした。ああ、なんていい天気なんだろう。私は冗談だと思いたくて、ホットのラテを啜りながら、何泊行くの、と尋ねた。
「旅行じゃねえよ」
 笑ってそう言った彼の目が、いつになく真剣だったので、私は、ああ、とうとうこの日が来たのだ、と覚悟を決めた。頬を叩く冷たい風がどうにか涙を流させようとするのを、一生懸命我慢しながら、泣きも笑いもせず、私は小さく返事を返す。
 沢田と獄寺という、彼の大切な友達が海の向こうへ渡ったその日から、いつか山本は彼らを追いかけて行くのだろう、私はいつもそう考えていた。あの二人が何故イタリアへ渡ったのかは知らない。知りたくもない。けれど、それは山本の人生を大きく変える転機だった。
 そういえば、あの時期だった。彼が私と暮らし始めたのは。あの時山本は、一人でいることがとてつもなく辛かったのだろう。彼の口から発せられたどうでもいい退去理由を、私は知らない振りで鵜呑みにしたけれど、あの時山本に、追いかけて行けば、とでも言っていれば、この空白の数年はきっと存在しなかったはずだ。彼はその言葉に背中を押され、すぐにイタリアに向かっただろうし、私はきっとずっと一人で、あの六畳一間のアパートで暮らしていた。
 ほんの数年だけでも、山本を独り占め出来たことを、不謹慎ながら私は喜んでいた。沢田と獄寺が二人だけで渡伊してくれたことに、感謝すらした。出来ることならこのまま、ずっと山本が彼らのことを思い出さずに、この小さな街で生活を続けてくれたならいいというあり得ない希望と、いつかその生活が消えてなくなるのだという不安。真反対の二つの気持ちを抱いて過ごしていた毎日が今日、終わってしまう。どうしようか。山本がいなくなった後の私が、一体どうなってしまうのか、想像もつかない。
「黒川には随分世話になったなあ。ほんとに色々、サンキューな」
「なによ、もう二度と会えないみたいに」
 さよならの挨拶の常套句なはずなのに、山本の口ぶりは、まるで今生の別れを告げたかのようだった。私が茶化すと、山本は寂しそうな目をこちらに向けた。
「そうだよな、悪ぃ、やっぱさあ、イタリアって遠いって思っちゃうのな」
 それは実感のこもった一言だった。私は何も言えずに俯く。たかだか飛行機で十時間程度のところじゃない、とか、一日で行けるじゃない、とか、思いついた言葉は喉の奥で詰まってしまって、全く出てこなかった。
 テラス席に風が吹きすさぶ。ひゅうひゅうと、甲高い音を立てている。見上げると真っ青な空を、ちょうど飛行機が軌道を描きながら通り過ぎたので、私と山本は黙ったままそれを目で追った。
 私は言った。
「最後に、わがままを言ってもいい?」
 山本は目を大きく見開いてから、照れ臭そうに笑った。
「黒川にわがままを言われるなんて、初めてだ」
 私のわがままがそんなに嬉しかったのだろうか。にこにこしながら、なんでも聞くぞ、二万円以内なら、プレゼントだっていいぞ、そう彼は言った。
「遊園地に行きたい」
「……遊園地?今から?」
「そう、今から。最後に一度だけ、山本とデートしたいの」
 山本は最初、拍子抜けしたようにぽかんと口を開けていたが、切り替えの早い彼は、すぐに立ち上がって、トールカップをくしゃりと握りつぶすとゴミ箱に投げ捨てた。
「そうと決まったら、さっさと行くかあ。早くしねえと閉まっちまう」
 そう言って、山本は私の手を取ったのだった。

 

 真冬の、平日の遊園地には、見事に人っ子一人いなかった。良くもまあ営業していたものだ。ジェットコースターは運休しているかのように止まっているし、いつもは賑やかに聞こえてくるはずの嬌声も全くない。ただ、遠くに見える観覧車が、ゆっくりと回転を止めずに動いているだけだ。
「まるで、世界の終わりが来たみたいだ」
 山本は私の手を握りながら、無感動にそう言った。彼の視線の先には観覧車があって、私はそれを見ながら、世界が終わっても、この観覧車は回り続けるのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えた。
 チケット売り場で千円札を四枚手渡すと、無表情なおばさんは何も言わずチケットを二枚差し出した。いってらっしゃいも、ありがとうございますも、何もなし。もしかしたら平日の一番暇な時間帯にだけ彼女はここにいて、誰も来ない遊園地を背に一日を過ごしているのだろうかと想像すると、思わずぞっとした。
 ゲートを抜けると、色あせた看板が出迎える。「ようこそ夢の国、なみもり遊園地へ」と書かれたそれは、所々ペンキがはげ落ちていている上、描かれたテディベアやピエロの笑顔も不気味だ。これを最初に目にした子どもは泣き出してしまうのではないかと心配になるが、天気の良い初夏の日曜日だったなら、きっとこの不気味さも、ここまで増長されないのだろう。
「なんかすげえな、この看板。子どもが見たら泣くぞ」
 山本も全く同じことを考えていたのが可笑しくて、少しだけ気分が晴れたような気がした。
 私たちはまず、ジェットコースターへと向かった。まるで動いていないから、強風のせいで運休しているのかと思いきや、ただ乗る人がいなかっただけだった。一日パスを差し出すと、退屈そうな顔をした従業員は、面倒くさげに、どうぞ、と安全バーを持ち上げた。
 七年ぶりに乗ったジェットコースターは、子ども騙しでつまらないものだった。こんなものに、きゃあきゃあ言いながら何度も乗っていた、昔の自分が信じられないくらいに。ただただ向かってくる風が冷たくて、顔中が痛かった。それだけだった。ゆっくりとコースターが乗り場へと戻っている間、隣の山本を盗み見ると、ひどく優しく、それでいて心細い表情を称えていたので、私はびっくりして、思わず目を逸らした。
 それから私たちは、次々と園内を駆け回った。日が短いせいで、もう太陽は随分と低い位置に降りてきていたから、余計に急かされた気分になる。どうしてここまでして、遊園地に来たかったのか、自分でも分からない。デートといえば遊園地、と短絡的に結びつけたせいだろうか。それとも、七年前を思い出したくて、私はここを選んだのだろうか。

 七年前に一度だけ、皆でこの遊園地に遊びに来たことがある。私と、京子と、ハルと、山本、沢田、獄寺の六人で。沢田はジェットコースターが怖いと言って、獄寺と一緒に、私たちが乗るのを、近くのベンチから眺めていた。女三人で、メリーゴーランドに乗っている間、男三人は参加型シューティングゲームに入ったまま、なかなか出て来なかったりした。沢田を無理矢理ゴーストハウスに連れ込んで、失神させてしまったことを思い出すと、今でも笑いが込み上げてくる。あの時の獄寺の怒りっぷりもすごかった。
「なんか、懐かしいなあ。思い出さない?六人でここに来たときのこと」
 コーヒーカップの横のベンチに二人で腰掛けて、味の薄いホットココアを啜りながら私はそう言う。山本は時折遠くをじっと見つめては、私の言葉で我に返って、苦笑いを浮かべる。
「ああ、懐かしいな。あんときは楽しかったなあ、ツナがひーひー言ってて、獄寺が訳分かんないキレ方しててさ。なあ、笹川やハルは元気か?」
「二人とも変わりないよ。京子は最近、彼氏の話ばっかり。ハルは四月から修士課程に進むみたい」
 京子とは同じ大学に進んだから、今でも週の半分は顔を合わせるし、良く一緒に遊びにも出かけている。ハルとはここ一年会っていない。京子から、間接的に話を聞くのみだ。
 ハルは修士課程を終えたら、イタリアに留学するのだという。それを知って以来、私はどうしてもハルと顔を合わせられなくなった。きっと会えば、ひどい言葉を投げつけてしまう気がしたのだ。
 男を追いかけるために将来を決めるなんて馬鹿みたい──それとも、どうせ付き合える訳でも、結婚できる訳でもないのに、本当にいいの?──そんなような言葉が、口を付いて出るだろう。
 それが私の真意な訳ではないのだ。ただ彼女を前に、冷静にいられる自信がない。いつでも素直で真っ直ぐな彼女を私は大好きだったけれど、素直さは時に人を傷つけるものだ。そして今の私は、素直さに傷つけられるような生き方をしている。
 私のそんな内心に気付かないまま、山本は話を続けていた。
「そっかあ、笹川も、彼氏出来たんだなあ。どんなやつ?」
 山本が気の抜けたような声で言う。彼も、京子が沢田を好きだったと知っているから、彼女が平穏無事な生活を送ることに安心しているのだろう。
 もしも京子までが、イタリアに沢田を追って向かうようなことがあれば、私はどうすれば良いのか、きっと分からなかった。彼女は、私たちと彼らの間にあった、見えない一本の境界線に、きちんと気付いていたのだ。京子は決してハルや私のように、その線を越えようとはしなかった。それが彼女の覚悟であり、確実に傷つかない方法だったのだろう。
「そうねえ、京子にお似合いの、とっても素敵な人よ」


 私たちは他愛もない思い出話で、随分と時間を潰してしまった。気がつけば周りはすっかりオレンジ色の光に包まれていて、空気はますます冷え冷えと私たちの体を蝕んでいた。
「最後に、観覧車に乗りたい」
 そう言うと、山本はいつになく優しい顔で、私を見つめて頷いた。
 観覧車は園内の一番端っこにあるので、結構な距離を寒い中歩かされる。ここは大したアトラクションのない割に、敷地だけは日本でも五本の指に入る程に広いのだ。その内、山本は繋いだままの手を、コートのポケットに仕舞い込んだ。ポケットの中の温かさが、山本の体温のように感じられて、事実繋いだ手からはそれが伝わってきて、私はこの上なく寂しい気持ちが胸に込み上げてくるのが分かった。
 ああ神様、最後の日に、こんなにも幸せなひと時をくれるなんて、なんてあなたは意地悪なんだろう!
 七年ぶりにこの観覧車の前に立つ。あんなにも大きく感じていた観覧車は、今観るとなんとなくみすぼらしくて、小さかった。夕日の光のせいで、剥がれかけた塗装は余計に強調されていて、ゆっくりと動く姿は、死にかけた怪獣のようだ。
 私たちは向かい合わせに、狭い観覧車内に乗り込んだ。恋人たちにとって、これ程二人だけの世界になれる場所はないだろうと思える、何もかもを遮断する密室の中、目の前にいる人は恋人でも親友でもない、ただの男だ。
 この人が私の手に入ることは、一生ない。
「俺、ずっと黒川に礼を言いたかった」
 山本の顔は夕日に照らされて真っ赤に染まっていた。逆光で、表情が良く見えない。
「俺はずっとお前に甘えっぱなしだったから。中学ん時からずっと、俺のこと助けてくれてたもんな。ほんとうに、ありがとな」
「やめてよ」
「そんでもって、悪かったな」
「いいよ、もう」
「本当はさ、考えたんだ。黒川と恋人同士になってさ、結婚して、一緒に住んで、子ども作って、子どもに野球教えて、そんな人生もいいなあって。お前はしっかり者だし、俺みたいな抜けてるやつでもきっと、愛想つかさずに一生付き合ってくれんだろうなあ、なんて考えたりしてさ。そんで、お前の家に転がり込むまでしちまった。もしかしたら、一緒に住んじまえば、覚悟決められるかもしんねえ、なんて」
 聞きたくなかった。耳を塞ぎたい衝動にかられた。今の言葉は、きっと私に一生ついて回るだろうと、簡単に予想できたのだから。それでも、山本は話し続けた。なんて残酷な人なのだろう。この密室のどこにも、逃げ場はなかった。
「でも、やっぱ俺には無理だ、そんな生活。だって、想像出来ねえんだもん。きっと俺の頭の中には、そういう感覚が、最初っから入ってないんだ」
「知ってる、そんなこと知ってるの、だからもう」
「俺は黒川を恋人に出来なかった。ほんとうにごめん」
 分かってはいたけれど、改めて口に出して言われると、これ程胸に突き刺さる言葉はなかった。どうして十年もの間、それを言ってくれなかったのか、彼を思い切り殴りつけたい衝動に駆られた。
 今、私の十年越しの初恋が、とうとう失われたのだった。
「そんなこと、最初から分かってたよ……」
 こんなにも辛いのに、私は涙を流していなかった。もうとっくに涙は枯れきってしまっていた。山本のために流した涙は、きっともう一生分を使い果たしている。
「でも、俺ん中で、黒川は、恋人なんかよりも、ずっと大きな存在だった。大きすぎて、愛おしいとか、可愛いとか、そういう感情すら抱けないほどにさ。大切で大切で、きっと手を出したら、それが壊れちまうなあって、分かってたし。俺は、お前が、世界で一番大事で、きっと、俺、お前のことを、宝物だと思ってるんだ」
 枯れたと思っていたはずの涙が、するりと一筋こぼれ落ちた。今のは、愛の告白以上に、愛の告白だ。私は心のどこかで諦めた。ああ、もう、私は一生恋は出来ないと。だって、誰かの宝物になってしまったら、もう誰かの恋人になるなんて、出来るはずがない。きっと山本だって一緒だ。宝物を持ってしまった人間に、恋人は作れないだろう。
「……私たちきっと、一生独り身ね」
 そう言うと、山本はくしゃりと顔を綻ばせた。私の頬に彼の手が伸びる。ゆっくりと私の頬を撫でる手は、驚くほど温かい。手のひらの温かい人間は心が冷たいと、誰が言いだしたことだろう。あれは嘘だと、私はずっと前から知っていた。山本の手は、いつでも温かくて、とても優しい感触を持っていたのだから。
「最後にキスして」
 彼は何も言わず、唇を近づけた。小さく音をたてて、私たちは最初で最後のキスを交わした。目を開けると、山本の目が、泣きそうなその目が私を見ていた。
  私は言ってみた。
「行かないで」
 山本は、曖昧に笑っただけだった。
 私の世界は今日で終わりを告げた。
 そしてまた明日から、なんでもない毎日が始まるのだ。


 次の日、私は山本を見送りに行かなかった。もしかしたら、三日後くらいに、ばったりと街で会うかもしれないと、少しでも思っていたかったのだ。でも何日経っても一向に彼とは会えず、急に呼び出されることもない。携帯電話はもう繋がらなくなっていた。
 一週間経って、ようやく彼の存在しない日常を実感して、私は三日三晩泣き続けた。涙がすっかり枯れることなんてあり得ないと、私は身を以て知ったのだった。



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