それもきっと幸せ


 その日、珍しくリボーンさんが学校に顔を出した。
 以前のように校内に秘密基地を作って、毎日のように10代目の様子を窺うこともなくなった彼は、高校になってからというものすっかり姿を見せなくなっていたので、オレは不思議に思いながらも、大したことだとは考えなかった。
 誰もいなくなった教室に音も立てずに入ってきたリボーンさんは、全く気配を感じさせないものだから、声をかけられた瞬間、オレはあやうく隠し持ったダイナマイトに手を伸ばすところだった。
「よう獄寺、久しぶりだな」
 相変わらず、どう見ても赤ん坊にしか見えないクールな殺し屋は、帽子のつばを持ち上げながら、鋭い眼光でもってこちらを見上げてくる。
「どうしたんすか、急に。学校まで来るなんて珍しいっすね」
 オレも負けじと、訝しげな目つきで見下ろすと、何を考えているのか全く分からないポーカーフェイスが口を開く。
「今日は特別だ。ツナは明後日イタリアに行く。お前も一緒だ」
「は?」
「別れの挨拶は明日中にしとけよ」
 あまりに唐突で、思考が停止する。どうも今、オレの目には何も映っていないようだと、他人事のように考える。それからやっと言葉の意味を理解した後、気付くといつの間にか、目の前からリボーンさんは消えていた。本当に誰もいなくなった教室で、オレは呆然と突っ立ったまま動けない。
 10代目が、イタリアに行くと、確かに今リボーンさんは言った。
 ということは、10代目はとうとう、ボンゴレのボスに就任するのか。
 寒くもないのに、全身がぶるりと震えた。


 次の朝が来て、一番に顔を合わせた10代目は、いつもと何も変わらないように見えた。オレがいつも通り、玄関先まで迎えに行くと、五分程早く準備を終えた彼が出てくる。にこやかに手を振るお母様は、本当に明日、息子と離ればなれになるのだろうか、と疑わしさを覚えるほど楽しそうに笑っていて、オレはますます不思議に感じる。
 何もかもが、同じなのだ。今日が最後の日だというのに、何も変わらない。もしかして、リボーンさんに担がれているんだろうか。明日も明後日も、オレと10代目は、並盛で普通の毎日を過ごしているのでは。思いついてから、ふと、それはオレの希望ではないのかと気付く。
 オレはどうも、10代目がイタリアへ行くことを、心から望んでいないようなのだ。
「10代目、あの、本当なんですか……明日」
「うん」
「いいんすか、本当に」
「うん」
 オレが一番に望んでいたのは、沢田さんがボンゴレの10代目ボスになって、オレはその右腕となることだ。そして少なくとも明日、確実に片一方の願いが叶う。もしかしたら、両方叶うかもしれない。本来ならば歓喜に満ちた気分で、10代目を祝福しただろう。嬉しくないはずがない。
 それがどうしたというのだろう。どうして今自分が喜んでいないのか、理解できない。
「あの、おめでとうございます」
 精一杯笑顔を作って、オレは10代目に祝いの言葉をかける。10代目は少しだけ目を見開いてから、まるで明日からマフィアになるとは思えないような笑みをオレに向けて、ありがとう、と言った。
「おれ、分かんないことだらけだから……獄寺君だけが頼りなんだ。明日から、よろしくね。右腕の力、期待してるから」
 ほら、おかしいじゃないか。オレは今、世界で一番嬉しい言葉をいただけたはずなのだ。それなのにどうして、心が躍らないんだろう。まるで明日が地球の最後の日だと告げられたような、妙な喪失感が空っぽの胸を襲う。今まであんなにも右腕右腕と大騒ぎしていたというのに、今のオレを10代目も、おかしいと思っているだろうか。
「イタリアってどんなとこ?きっとご飯が美味いんだろうね。楽しみだなあ、本場のピザとかパスタとか……」
 10代目はそう言ってオレに笑いかける。本当に、この人は分かっているのか。明日からオレたちが向かう先は、いつ命を失ってもおかしくない世界なのだ。まるで旅行にでも行くかのような言い草に、オレは不安を覚える。本当に、彼をイタリアへ連れて行っても良いのか?それは彼を不幸にするのではないだろうか?
 横顔を盗み見ると、彼の目は朝日を受けて光を宿していた。丸い目が、この小さな町の風景を隅々まで映し込む。それは優しい視線だった。まるで宝物を眺める子どものように、その二つの目はきらきらと輝いていて、全てを頼りない記憶の一番深いところに、残しておこうとする意思に満ちていた。
 この人は、覚悟をしている。そう思った。

 最後の日は、ゆっくりと過ぎていった。リボーンさんに別れの挨拶をしておけと言われたものの、渡伊を伝えたい人間などいなかったので、オレはいつも通りの生活を過ごした。それは10代目も一緒だったようで、彼は誰にも、明日から自分がいなくなるということを言わなかった。
「山本とか、笹川とかに、言わなくっていいんスか」
 オレがそれとなく尋ねると、10代目は曖昧に笑った。山本も笹川もオレたちとは別の高校へ進んだから、そう頻繁に会うこともなくなっていた。もしかしたら、既に伝えているのかもしれないし、彼らにすら黙ったままなのかもしれない。
 大きな窓からの日差しが眩しい。まだ四月だというのに、既に初夏の気温を記録していて、制服の袖をまくり上げた10代目は、はたはたと下敷きを揺らしながら校庭を眺めている。
 10代目は、出会った頃よりずっと、大きくなっていた。身体だけの話ではなく、全てが大きく広く感じるのだ。
 あの一見弱々しくも思える狭い肩にのしかかる重圧とか、既に知ってしまった、危険と隣り合わせの世界への恐怖とか、友達という存在に対しての小さな困惑とか、そういう全てのことを肯定も否定もせず、自身の内で受け止めて、そして困ったように笑う彼は、誰よりも優しくて、強い。そして美しくて眩しくて、昔絵本で見た、サバンナに独りぼっちで立つ大きなダチョウを思い出させた。友達を守るために、一人大きな木になってしまったダチョウ。


 学校からの帰り道、駄菓子屋の前、神社の境内、川縁の道、毎日通るその道のりを、時折、とても愛おしそうに眺めている彼に気付く度、オレはいつも、いたたまれない気持ちになった。
 彼は知っていた。なんでもない毎日は、ある日突然終わりが来るということを。だからいつここから離れても良いように、全ての日常を記録していたのだ。いつも10代目となることを否定していた本人も気付かぬ内に、最初から彼はどこかで覚悟を決めていた。
 一体どれほどの覚悟を以て、彼はイタリア行きを決めたのだろう。オレには知る由もないし、きっと本人に聞いてもはぐらかされるだろう。10代目は大げさに反応されることを嫌っていたし、オレは黙って理解する振りをするのが右腕の役目だと思っていた。

 帰り道、いつも別れる橋の上で、10代目は小さく手を振った。
「獄寺君、また明日」
 毎日交わしていた挨拶が、別の意味を持ってオレの耳に届く。また明日、イタリアで。そんな下らない冗談を口にしそうになって、すぐに思いとどまる。
「はい、また明日……」
 オレは言いながら、10代目の右手を取った。彼の小指には、小さな指輪が嵌っている。オレが中学の頃、無理矢理にプレゼントしたものだった。
 昔は薬指に、オレと会う時だけそれを付けていた。それを見る度、オレは心が弾んだし、10代目は照れたように笑って、時折指輪を眺めては、ありがとうと言った。段々と彼の手が大きくなって、薬指には嵌らなくなってしまったせいか、いつの間にかそれは小指へと移動していた。その頃には、それを見ても何の感慨も湧かず、10代目は気にする素振りすら見せなくなった。馴染みすぎて、身体の一部になったみたいだった。
 時間は流れているのだ。確かにオレたち二人は同じ時間を共有してきたはずなのに、たった今、面と向かい合っているというのに、お互い別の星にいるみたいに果てしない距離を感じた。その距離は明日からの全く前の見えない世界をオレに気付かせて、大きな黒い雲に飲み込まれるような、遠近感のない不安を呼び起こす。

「獄寺君、おれは、嫌々イタリアに渡るとか、そういうんじゃないからね」
 10代目の声が突然耳に入ってきたのに驚いて、オレは顔を上げた。唇をぎゅっと噛んだ目の前のその人は、オレの顔を見て安心したように口元を緩める。
「おれは自分の意思で決めたんだ。君と一緒にイタリアへ渡って、ボンゴレのボスになって……別にそれが運命だとか必然だとか思ってない。これは自分で決めたことだから」
「どうして……あんなに嫌がってたじゃないですか」
 オレが困ったようにそう言うと、10代目はほんの少しだけ目を細めた。
「……分かってた癖に、君はずっと呼んでたんだね、おれのこと10代目って」
 10代目は、今にも泣き出しそうな顔で笑う。それでも、一滴も涙を流すことはない。
「いやあの、すみません……でも、オレには、それしかなかったから」
 自分で言っていて、泣きそうになる。オレには本当に、何もなかった。10代目との繋がりは、ボンゴレが全てで、それ以外に存在などしていなかった。オレはボンゴレ頼りに、必死に彼にしがみついていたのだ。好きだとか愛しているとか、とんちんかんな言葉を使ってまで。
「オレは山本みたいに、一緒になって肩を叩き合えるような親友にもなれなかったし、ランボみたいに何も考えずあなたを慕う、兄弟のような付き合い方だって出来なかった。オレがあなたのお側にいられる理由なんて、ボンゴレくらいしかなかったんです」
「……おれは、獄寺君は、どれだけおれを好きだとか言ってても、結局ボンゴレのことだけを一番に考えてるんだと思ってた。君はなんだかんだ言っても、おれのこと、ボンゴレを通してしか見てくれてなかったもんだから」
「な、そんなことないっス!寧ろオレ、10代目は、無理してオレに付き合ってくれてんだとずっと思ってました。だから怖かったんです。あなたがもし10代目にならなかったら……もしオレがボンゴレでなくなっちまったら……もう一緒にいられなかもしれないって」
 オレの声は少し涙ぐんでいた。必死に思いを伝えているというのに、10代目はオレの話を聞いた途端、ぷっと吹き出した。
「……なんだよ、獄寺君、君ほんとにバカだなあ……ほんとバカだよ」
 10代目はそう言ってくすくすと笑い続ける。何が面白いのか分からない。オレは呆気にとられて、ぽかんと口を開けたままだ。
「だってさ、それだけの繋がりだなんて、今まで一緒に過ごしてきて、それはないよ……。大体さ、誰がそれだけの関係の人間に貰った指輪を、サイズが合わなくなっても付け続けるっていうんだよ」
 そう言って、彼はオレの目の高さに、指の付け根を持って行く。そこには、既に手垢で輝きを失った小さなリングが、鈍い光を放って存在していた。
 目の前の光景に、妙な違和感を感じる。良く見ると、リングのサイズが合っていない。小指に付けるには、少し大きいのだ。
 ああなんだ、ちっとも馴染んでなんてなかったのか。

「おれはさ、どこで何をして暮らしてたって、君がいれば幸せだし、君がいないと不幸なんだ。だから本当はどっちでもいいんだ。君がいてくれるんならさ。マフィアの世界がどれだけ泥臭くて恐ろしくって汚くっても、獄寺君さえいれば、構わないや」
 その時の10代目の笑顔は、嘘ではなかった。本当に、幸せそうな笑顔だった。おれはこれを今まで、見ようとしていなかったのか。いつだって10代目の笑顔は曇って見えていたし、指輪は馴染んで忘れ去られているように見えていた。
 本当は、怖かったのだ。獄寺隼人という一個人として、沢田綱吉さんという一人の人間と、付き合う自信も度胸もオレは持ち合わせていなかった。
 だからボンゴレに逃げていた。ボンゴレでさえあれば、どれだけオレが嫌われようと、きっと一生繋がりを持っていられるのだと、思い込んで逃げ場を作っていた。
 オレはとんでもなくバカだ。10代目の言う通り。
「……イタリアに着いたら、まず美味しいもん食べに行きましょう」
「そんならおれ、イタリア一美味いピザが食べたいな」
「ご案内しますよ。次の日は、イタリア一のパスタ食べに行きましょう。そんでその次の日は、海に行きましょう。今の時期、地中海は一番いい季節っスから」
「いいね、楽しみだね……楽しいだろうなあ」
 はい、10代目。せめてオレだけは、10代目を楽しませるようにしましょう。嫌な思いを味わっても、オレが側にいる時だけは、幸せを思い出せるように。 
 並盛のなんでもない町並や、毎日交わした下らない話、日本のきれいな夕焼け。しっかりと焼き付けた記憶を、思い出せるように。
 それがオレの存在理由になれば、オレは幸せなのです。


 出発の朝は、何の感慨もなく訪れた。寝ぼけ眼で少ない荷物を準備して、10代目の家へと向かう。
 沢田家前で顔を合わせた途端、緊張に包まれていた10代目の表情が和らいだ。オレはそれを見て、安心したように彼に駆け寄る。
「おはようございます、10代目」
「おはよう、獄寺君」
 このまま学校へ向かうかのような、普通の挨拶を交わすと、オレたちは顔を見合わせて吹き出した。それから、きょろきょろと辺りを見回す。どう見ても10代目は一人で、本来ここにいるはずのもう一人がいない。
「あれ、リボーンさんは。一緒に行かないんですか?」
「リボーンは一足先に向かったんだ。おれたちを受け入れる準備をするからって。なんか嫌な予感するよなあ……」
 そう言って10代目は顔を歪ませる。
「まあまあ、さすがのリボーンさんも、就任式で変なことやらかさないでしょう。……多分」
 タクシーを拾うために、大通りまでの道のりを並んで歩く。10代目の荷物も小さくて、ほとんど何も持っていないようなものだ。生活用品も衣類も、全て向こうに用意されているから当然なのだが。彼の格好はいつも通りの、パーカーにジーンズという出で立ちで、誰もまさか、この普通の青年がこれからイタリア一の勢力を持つマフィアの主となるとは思えないだろう。
「あれ」
 オレは彼の胸元に光る銀色のネックレスに気付いた。チェーンの先にぶらさがった小さな指輪。昨日まで、小指に付けていたあの指輪だった。
「10代目、その指輪」
「うん、これ、昨日リボーンに、そんなみすぼらしいものボスが付けるなって言われちゃったんだ。だから今日からこっちに移動。それに、もう小指に付ける必要もないしね」
 10代目は悪戯っ子のような笑みを浮かべて、チェーンを持ち上げた。
「もう獄寺君がちゃんと、おれを見てるって、分かったんだから」


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