このまま帰るのも悔しくて、私は花と山本君の通う高校に足を伸ばした。駅から徒歩十五分程度のそこは、私立の学校らしく広々とした校庭と、設備の整ったクラブハウスが並び、校舎は新しくて真っ白だった。緑も多くて、葉擦れの音が耳に心地良い。フェンスの向こうに部活動中の生徒が現れては消える。
「あれ、笹川?」
聞き覚えのある声に驚いてそちらを見遣ると、私の思考の中の主役であった張本人が呆けた顔で突っ立っている。まさか会えるとは思っていなかったから、私も相当間の抜けた顔をしていたはずだ。
「山本君……」
私たちはしばらくの間、フェンス越しに無言で見つめ合った。色っぽい意味なんて何もなく、ただ、お互い腹の探り合いをするみたいに顔色を窺っていた。
最初に口火を切ったのは、山本君の方だった。
「久しぶりだな。なんでこんなとこにいるんだ?」
「うん、今まで花と会ってたんだ。山本君は元気?春のセンバツ応援してたんだよ。惜しかったね。もうちょっとだったのに」
とりあえずの世間話に、私たちはなんとか肩の力を抜いて話始められた。元クラスメイトと久しぶりの会話をするだけで、どうして緊張しなくてはいけないんだろう。さっきまでの感情が途端、馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
「ああ、サンキューな。そうなんだよなあ、あんときカーブにしてればなあ。でも今年の夏はやるぜ。部員全員、優勝って書いたハチマキ巻いてやってっからさ」
山本君もほっとしたように笑って話を続ける。
本当は、彼に花のことを問いただしたかった。でもそんなことをしたら、きっと花は怒るだろう。彼女は、自分のせいで他人に迷惑が掛かることを、とても恐れていたから。
だから私は今まで、花の秘密も心の中も何もかも、気付かないふりをしてやり過ごしてきた。私にとって、どうでもいいことだと思い込んで、知りたい欲求を押し殺してきた。
私は花のことを何も知らない。それどころか、山本君やツナ君や獄寺君にハルちゃん、誰のことも、何一つ、知らない。
どうして行ったの。どうして一緒に暮らすの。そんな簡単なことも聞けないくらい、誰も彼も、遠すぎる。私と皆との間には大きくて分厚いガラスが立ちふさがっていて、皆の姿は見えるけれど、誰の声も聞こえないのだ。皆が仲良く笑っているのを、私はただ見ていることしか出来ない。時々、にっこり笑って手を振る向こう側の人たちに、私も笑って手を振り返す。それだけの関係。
私の意識はすでに会話には向かっていなかった。笑いながら相づちをうつ私は、もう甲子園のことも野球のことも考えてなんていなかった。だから突然、山本君が鋭い目をこちらに向けて発した一言は、私の思考を唐突にストップさせた。
「黒川に、聞いたのか?」
一瞬、時間が止まったかのように私は山本君の顔をじっと見ていた。正確には、目が山本君の顔の方を向いていただけで、それを認識してはいなかった。
驚いたのもつかの間、私がわざわざこんなところへ来ていることを考えれば一目瞭然だろう。肯定すべきか否定すべきか悩んでいる私を見て、質問の意味を掴みかねたのだと勘違いした彼は、再度口を開く。
「俺が、あいつん家に転がり込んでること」
私は観念して、無言で頷いた。山本君はバツの悪そうな笑みを浮かべて、髪の毛を勢いよくかき乱す。
「そっか、うん。悪ぃな。……あのさ、俺、黒川に手ぇ出そうとか、思ってる訳じゃないから……だから、ちょっとだけ、あそこに居させてくれねえかな」
そう言った山本君の目は、何かに縋り付きたいと思っている人のそれだった。やっぱりツナ君は彼に何も言わず行ってしまったのだと、直感的に思った。
「なんかさ、自分がこんなに弱ぇなんて、思ってもなかったわ。……どうせ高校だって別々だったしさ、俺も部活忙しくてあいつらと頻繁に会ってた訳じゃないから、最初は平気だって思ってたんだよな。そりゃ、黙って行ったのは腹立ったし、幾ら俺のためだって分かっててもすげー寂しかったけど、イタリアだったらその内会いに行けんじゃね、とか思ったし」
山本君は、淡々と話す。それでいて、今にも泣きそうな目でどこか遠くを見ている。きっと私が想像しているよりもずっと、彼は打ちのめされている。
「でもやっぱ、きっついわ。一人残されるのってさ。……笹川は、平気なのか?」
彼の目が寂しげに問う。ツナ君と離ればなれになって、もう二度と会えないかもしれないというのに、どうして私は平気でいられるのかと。
「……うん、私は、ツナ君のこと応援してるから。向こうでがんばってくれてればいいんだ」
私はまた嘘をつく。嘘をつきすぎて、もうこれが自分の本心じゃないかって思い込めるくらい。私は平気。ずっと、そう暗示をかけてきた。嘘をつきながら、笑えるようにもなった。私は意識して山本君に笑いかける。私の顔を不思議そうに見つめる彼の目は、まるで、花の、あのなんだか良く分からない目のようだ。
一体何が言いたいの。その目は、一体どういう意味なの。
彼の口がゆっくりと動くのを、私はじっと見ていた。
「笹川は、強ぇのな」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の中に張っていた一本の細い糸がぷつりと切れたような気がした。
「そんなこと、ないよ」
それだけ言うのがやっとだった。私はそのまま、逃げ出すように走り去った。フェンスの向こうで、山本君が何か叫んでいるのが聞こえたけれど、それも無視して私はひたすら走った。走りながらぼろぼろと涙をこぼした。次から次へと涙は溢れてきて、どうしても止まらない。鼻が詰まって息が出来ない。苦しくなって、私は近くの公園でやっと、足を止めた。
小さな児童公園の、カラフルなベンチに腰を下ろす。ベッドタウンにありがちな、ファンタジックな色合いの遊具があちこちに散らばっているその風景は、やけに非現実的で、いきなり異世界へ突き落とされたような錯覚に陥る。知らない町の作られた空間は、無茶苦茶にかき乱された心を余計にざわつかせて、落ち着くどころじゃなかった。
申し訳程度に植えられた細くて頼りない緑だけが、安心感を覚えさせてくれる。出来るだけこのおかしな空間が目に入らないように、私は上を向いて空を仰ぎ見た。太陽の反射と埃が目にしみて、涙はますます流れ落ちる。
私は強くない。強いもんか。私はだって、何とも向き合っていないんだもの。何も耐える必要はないし、悲しいことはすぐに忘れたふりをする。
だからツナ君と最後の別れを惜しんだすぐ後に、ケーキだって食べに行けるし、花が山本君と暮らすことにも、文句は言わない。だって、そうすれば楽だもの。最初から深入りしなければ、裏切られないし傷つかない。山本君やハルちゃんみたいに、辛い別れだって、しなくても済む。
「……私、ほんとは強くなんてない、」
「うん、知ってる」
死ぬかと思うほど、驚いた。
誰に言うともなく呟いた独り言に、答えが返ってきたせいだ。私の心臓はこれ以上ないくらい飛び跳ねた。
「いたぁっ」
「ちょっと京子、大丈夫?」
驚きすぎて上を向いていた首をつった。でもこれで、溢れた涙が痛みのせいだと言い訳できる。首筋を強く押さえてやっと正面に向き直ると、目の前には花が立っていた。
「花……なんで」
「なんでもなにもないよ。ついさっき、山本が血相変えて家に帰ってきたと思ったら、笹川がいきなりどっか行っちまった、って言うからさ。心配して手分けして探してたの」
花がずっと私の目を見て話すものだから、私はばつが悪くなって俯いた。自分の膝小僧を目に映しながら、何も言えずにいると、花が私の横に腰を下ろす。そして私の頭を優しく撫でてくれた。
「あんたはほんとに我慢強いんだから……たまには愚痴くらい言いなよ。なんのために親友ってもんがいると思ってるの」
「だって……花だって、そうだよ。花だって、何も言ってくれないじゃない」
「私は我慢してる訳じゃないよ。別に辛くないもん」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうすんのよ。大体ね、京子、こんな誰もいないとこで一人で泣くなんて、絶対ダメよ。涙はね、男に見せるために流すもんなの」
「あはっ、なあに、それ」
おおよそ花らしくない物言いに、私は思わず声を上げて笑った。花が男の人のために涙を流すところなんて、私には想像もできない。
「……なんてね、私もそんなこと出来ないけど。だって人に泣くとこ見られるのなんて、恥ずかしいもん。何お前そんなことで泣いてんの、とか思われたくないし」
花の分かりにくい冗談が、私のささくれ立った心を少しだけ落ち着かせてくれる。花は小器用そうにみえてその実、案外不器用なところがあるのだ。
「あはは、花らしい。私はちょっと違うなあ……目の前で泣いて、その人を心配させるのが嫌なのかも」
「京子らしいわ。あんたは、人のことを考えすぎてるの。もっと自分勝手になってもいいのに。ま、好きなときに好きなだけ泣くのって、案外難しいけどね」
花は真っ直ぐ前を見て話す。花の目には今、あのカラフルな世界がどんな風に映っているんだろう。
「うん、そうだね……難しいね」
私も、異世界の建物ような遊具を眺めながら、相づちをうった。花の目は私を見ている。不思議な表情をしたその目。
「京子、強さって、なんだろうね。京子は私を強いと思ってるでしょう?」
そう、私は花を強いと思っている。でも、花が強いだなんて、どうして私に分かるんだろう?山本君は、私を強いと言った。事実、彼の目に私は強く映っただろう。それが、私の逃げのもたらした結果だったとしても。
「私だって、強くなんかないよ。強かったら、きっと山本と一緒に住むなんてしなかった。ちゃんと、山本の背中を押してたはずだわ。イタリアへ行けって」
そうなんだろう。全部、私が勝手に思い込んでいただけなのだ。分からないからこそ、強い花という理想像を作り上げていたのかもしれない。
「私狡いよ。山本の気持ち考えるよりも、私が山本と一緒にいたいから、受け入れちゃったんだあ。ほんとはだめだって分かってるんだけどさ。でも、これは神様がくれた時間だとでも思って、甘えることにするわ。どうせこんな生活、長くは持たないだろうし」
そう言って笑った花は、ちっとも醜くなんてなかった。美しい、恋する女性の顔をしていた。
「だからさ、京子も無理しないで。もうちょっと狡く生きようよ」
花の方を向くと、包み込むような笑顔をくれた。私はゆるく首を縦にふる。
「ありがとう、花」
不思議なくらい、自然と笑みがこぼれた。こんなにも普通に笑ったのは、どれくらいぶりだっただろう。ツナ君がいなくなってから、いつも張り付いていた偽物の笑顔は、私の顔を変な風に歪ませていた。その時の私は醜かった。花はずっと、そんな私を見ていたんだ。私を見るあの目──醜い私の笑顔を見て、花はどんな感情を抱いていたんだろう。
「良かった、京子、顔が戻った」
花が私の頬を両手で挟み込んで、嬉しそうに言う。そのまま両頬を思いきり引っ張られて、私は笑いながら、痛い痛い、と叫んだ。頬を緩めながら私を見る花の目は、優しくて暖かくて、まるでお母さんのようで、私はとても幸せな気持ちにる。
遠くから声が聞こえる。花はそれに気付いて、すぐに大声をあげた。立ち上がると大きく両手を振って、自分の居場所をアピールする。声の主はすぐに気付いて、公園の入り口に姿を現した。こちらに走りよった山本君は、額に汗を浮かべてぜいぜいと肩で息をしている。
「笹川いたのか!よかった、この辺り、道がややこしいから迷ってたらまじぃなって。いやー、ほんとよかった」
そう言って、山本君は満面の笑みを浮かべた。お日様のような笑顔だと、私は思った。花が好きになるのがなんとなく分かる。彼の笑顔を見ると、風のない日の海辺にいるような、穏やかな気分になれるのだ。
私は本当の顔で笑う。
「ごめんね、山本君。花も。心配かけちゃったね。私は大丈夫」
山本君も花も、ほっとしたように口元を緩める。もう二人とも、あの目で私を見てはいなかった。
お母さんとお日様に見守られて、この日私はベッドタウンを後にした。駅前のロータリーで、二人並んで寄り添う姿が、長年連れ添った夫婦のように見えて、私は心の奥がじわりと温もった気がした。
高架を走る電車に揺られて、私はうとうとと眠りに誘われる。春の日差しは日に日に強くなってゆく。気がついたら、もう半袖を着ている人がいる。もうすぐ夏がやって来て、周りも受験一色になる。時間は止まってくれない。前に進まないと。でも時々後ろを振り返って、昔を懐かしむことも、忘れちゃいけないのだ。
結局、最初の経緯も分からないまま、いつの間にか二人は同居を解消していた。だからと言って、別れたのだとか、そういう訳でもないらしい。元々付き合ってはいない、と本人が言うのを最初は信じていなかったけれど、それが嘘ではなかったのだと、今ならば分かる。
「なーんも変わらないんだもん。どうせなら襲っときゃよかった」
そう言って花は笑っていた。山本君がここを出てから三日後のことだ。数ヶ月ぶりに花は、私を家に招いてくれた。部屋を見渡すと、台所や洗面所、そこかしこに、山本君の痕跡がまだ残っていて、花はこんな状態で住んでいて、辛くならないんだろうかと私は思う。
花は時折彼の痕跡を、大切そうに見つめては、ゆっくりと目を閉じる。まるでその場に山本君の姿を思い描いているかのように、ゆっくりと。
花は、やっぱり強い。私はもう、ツナ君を思い出すこともできない。
きっと花は、思い出す時の辛さだって受け止められるほど、彼のことを強く思っているのだ。彼の存在それ自体が、花にとって必要なことなのだ。
私には無理だったけれど、花ならば、この恋を叶えることができるかもしれない。そうであってほしい。
「ねえ花、恋って叶うものだと思う?」
私は少しの希望でもって、彼女に尋ねた。
「わかんない。私はでも、期待なんてしてないわ。恋って、叶わないほうが美しいと思わない?」
それは花の精一杯の強がりだったはずだ。それでも私たちは、その言葉に心を軽くして、思い切り笑い合った。今、彼女はとてもきれいだ。まるで、何度も恋を重ねた大人の女性のように。その美しい横顔を眺めながら私は、叶わない恋を、宝物のように胸に仕舞い込んでおくのも悪くないかな、なんて考えた。
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