大人の山本は、やっぱり十年前の山本とは違うのだと、この数日を一緒に過ごして分かった。あの日彼の降らせた大粒の雨は、その後すぐに止んでしまって、あの雨で少しでも、何かが洗い流されていればいいのにとおれは望んだけれど、そんなことはありえなかった。ただ寒さが、余計に身体を強ばらせただけだった。
時折二人きりになると、山本は今まで見たこともないような表情でおれをじっと見ていた。これはおれの知らない山本なのだと、嫌でも実感させられる。おれの知らない十年間に、彼がその目で見てきた様々な、得たものと失ったものを、おれは想像する。彼の父親の死、野球、リング、マフィアの一員としての暮らし。そしてすぐに、詮無いことだと思考を振り払う。
変わってしまった並盛の町の、地下に眠る無機質な空間は、ただでさえ急な環境変化で参ってしまった、おれの気分を余計に滅入らせた。
「ツナ、疲れたか?」
そう言って山本が差し出したホットミルクは、手のひらをじんわりと温めてくれる。おれは息を吹きかけ冷ましながら、少しずつそれを口に運ぶ。おれの一挙手一頭足を、山本は眺める。一瞬も見逃さないのではないかと思うほど。
「うん、正直ね。でも身体を動かしてると、余計なこと考えないで済むから」
一緒に十年後の世界へと連れて来られた獄寺君も相当疲れているようで、今日もこの場へ戻った途端、倒れ込むように眠りについた。彼の気遣いや優しさは、こちらへ来てからというもの痛い程に伝わってきて、もし獄寺君が一緒でなかったなら、おれはもっとずっと参っていただろう。きっと今、同じ目線で同じことを考えられるのは、この時代では、獄寺君しかいないのだ。
目の前にいる十年後の山本は、やっぱりまるで知らない人のようだ。出会ってすぐは、全然変わっていないと思ったけれど、しかしそんな訳はないのだと、すぐに気付いた。彼の経験した十年は、きっとおれが思っているよりもずっと長くて、濃密だったのだろう。
「ツナ、ごめんな。本当は、お前らを巻き込むなんてしちゃいけねえんだろうな。でも今は緊急事態だし、そうも言ってらんねえ。もしお前らが何もせず過去に戻ったら、結局、どうしょうもねえ未来が待ってるんだ。……だから、頼む。未来の自分を助けると思って、今は我慢してくれないか」
「うん、分かってる」
おれの返事に、山本はほっとしたように笑う。でも山本の笑顔はまるで笑顔に見えなくて、彼にこんな表情をさせているこの未来は、絶対にあってはならないのだと、おれは強く思った。
十年後の彼はいつも、こんな風に笑っているのだろうか。辛い時、ちゃんと泣いるのだろうか。
「あー、なんか今の俺の言ったこと、」
「え?」
突然、やけに響く声で話しだしたと思ったら、山本はすぐに言い淀む。おれが聞き返すと、彼は困ったように、笑顔によく似た表情を湛える。
「なんか、嫌な感じだなって。今、俺、わざとお前が断れないような言い方をした。お前が絶対断らないと分かってて、その上で予防線まで張ってた。ほんと、ずりいな、俺。いつの間にこんな狡っこくなっちまったんだろうな」
おれは何も言えなかった。そんなことないよ、そう言えば山本の気は晴れただろうかと考えかけ、でもそんなはずはないのだと思い直す。代わりに、おれの口からは無意識に、別の言葉が漏れていた。
「山本は、大人だから」
山本は弾かれたように顔をあげ、驚いた目でおれを見る。そして額に手をやり、力ない笑みを浮かべた。
「大人か……そっか、そうだな。まだまだ自分を子どもだって思ってたけど、んな訳ねえよな。あーあ……大人なんて、なるもんじゃねえなあ」
なあチビのツナ、そう言って山本はおれの頭を力一杯撫でくり回した。
「ねえ山本、大人のおれも狡かった?」
おれの問いに、困ったように笑う山本は、しばらく無言でその質問の意味を考えている風だった。しっかり一分は考え込んだ後、ゆっくりと口を開き彼は答える。
「そうだな、昔よりはずっと。俺も獄寺も皆、ガキの頃とは変わっちまっただろうな」
それは当たり前のことだというのに、おれは無性に悲しくなって、思わず下を向く。涙こそ零れなかったものの、なんともいえない胸のざわめきがおれを襲った。山本が心配げに頭を何度も軽くたたき、こちらを覗き込む。
「どうした、ツナ。もう休むか。疲れたんだろ」
山本の気遣いを無視して、おれは訊いた。
「山本……おじさんが死んだ時、ちゃんと泣いた?」
頭上を動く大きな手が動きを止める。おれは上目遣いに、山本の目をしっかりと覗き込んだ。それは、薄暗い蛍光灯の光を映し、ゆらゆらと揺れていた。
「何言ってんだ、ツナ。やっぱ疲れてんだな、早く寝ろ、な」
山本は何かを誤魔化すように声をあげて笑う。それをおれは知らん振りで、明後日の方向を向いて言葉を続けた。
「どうせ、我慢してたんだろ?山本は昔っからそういうとこあったじゃん。なんで泣かないの。なんで我慢すんの。泣いちゃいけないなんて法律、無いだろ?泣きたい時に泣かないでいたら、いつか絶対後悔するよ。ていうか、そんな笑い方する山本見てると、なんかすげー悲しくなるんだ。それって未来のおれのせいだろ。なんで怒んないの。怒ればいいじゃん。お前のせいだって、おれに、」
山本の、困ったような、怒ったような表情が視界の端に映っていたけれど、おれの口は止まらなかった。それでもその表情は一瞬で身を隠し、さっきの、仮面のような笑顔がまた彼の顔に張り付く。
「ツナ、お前のせいじゃない。お前のせいじゃないよ」
大きな大きな山本は、おれをすっぽりと包み込むように抱きしめた。
違うんだ。おれは山本を、慰めたかっただけなんだ。どうして、おれの方が慰められているんだろう。おれはただ、山本が辛そうだったから、泣いて欲しかっただけなのに。感情を、もっとぶつけて欲しかっただけなのに。
「山本、ごめんね」
「なんで謝んだ。ツナはなんも悪くねー。悪いんは全部、大人だ」
寒さで強ばっていた身体が、彼の体温で溶けるように、力を失ってゆく。安心感が、身体の中を駆け抜けるように、おれの体温をゆっくりと上昇させる。やっぱり山本は大人だ。そしておれは子どもだ。こればっかりは、どうしようもないことなのだ。きっと今のおれでは、大人の山本を慰めることも、助けることも出来ないのだ。
扉の開く音で、二段ベッドの下段で眠りこけていた獄寺君が目を覚ました。薄暗い部屋の中、寝ぼけ眼をこすりながら、10代目どうしました、と掠れた声を投げかけてくる。それからおれの顔を見ると驚いたように目を見開いて、彼は言った。
「10代目……泣いてるんすか」
獄寺君は起き上がって、おれの顔に手を近づける。頬に溢れた涙を掠めると、何も言わずにおれの頭を抱きかかえた。
「大人になると、泣けなくなるから……今のうちに泣いておくんだ」
獄寺君は無言で頷く。さっきの山本の抱擁とはまるで違う、子ども同士のままごとのようなおれ達の抱擁は、不安定で不器用で、どうしようもなく自分勝手で、でも一番、心も身体も繋がり合えるものだ。痛いくらいおれを強く抱きしめる腕の力は、彼の強さも愛情も、全てを内包していて、溢れてしまいそうなほどだった。獄寺君の優しさが、彼の手の温度になる。
髪を何度も撫でる彼の仕草に、心がかき乱される。叫びたい衝動を堪えて、おれはまた涙を零した。
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