邂逅


 目が覚めた時私は病院のベッドの上にいて、目の前には二人の男が並んでいた。目はずっと閉じられていたせいか白っぽく霞んでいて、うすらぼんやりとしか二人の姿を捉えられなかった。顔も見えず、知っている人間かそうでないかは分からない。
 今日から君はおれ達の家族だ、とその人は言った。
 私は何も覚えていなかった。何故病院で目覚めたのだとか、この人達が誰なのかとか、私には何も分からない。私が今何歳で、どんな姿をしているのかも。
 臥していた体を起こして、枕をクッション代わりにベッドの柵にもたれ掛かる。体はあまり辛くない。痛いところも特にない。一体どこが悪くて入院しているのだろう。
 シーツの上に投げ出した手はひどく小さく、私は自分がまだ子どもなのだと気づいた。
 ふと、声は出るのだろうか、という疑問を思いつく。しばしば精神的な病から声を出せなくなる症例があることは知っていたので、よもや自分がそれに当たるのではと、少し心配になったのだ。何せ、体に悪いところなどなさそうなのだから、疑うべきは心の病の方だと、私は思ったのだった。
「私の……」
 あっけなく声は出た。やはり子どもの、幼い舌足らずの声。二人の男性は驚いたように目を見開きこちらを凝視していた。言葉の続きを待っているようで、無言のまま視線でそう促す。私は、さっきからずっと知りたくてたまらなかったことを訊いた。
「私の、名前は?」
 私も二人をじっと見る。さっき最初に言葉を発した一人が、笑みを浮かべて言った。
「君の名前は凪」


 それからぽつぽつと、彼らは私と彼らについて話し始めた。彼らと言っても話しているのはサワダと名乗った一人で、ゴクデラという名前らしきもう一人はその後ろで微動だにせず立っていただけだ。彼らは頻りに自分たちの組織について言及していたが、私にはあまり興味のない話だったので、もう忘れてしまった。それこそ今の私には、どうでもいいことに思えた。
 二人は随分と若く見えた。特に今話しているサワダは、どう見ても高校生くらいとしか思えない。目が大きく華奢なせいだろうか。それでも口調はしっかりとしていて、老成な雰囲気を併せ持ってもいた。
 後ろに立つゴクデラの方は、幾らか大人びて見えた。彼の方が年上なのだろうかと考えたが、その態度は明らかに部下のそれだったし、しかしなんとなく二人の間に流れる空気はビジネスライクなものではなく、どちらかといえば友達然としていたから、きっと同い年なんだわ、と私は根拠もなくそう思った。
 彼らは話を終えると真剣な顔で向き直り、さあ一緒に帰ろうか、と言った。もう退院してもいいのかと、ぼんやりと考える。そのまま首を縦に揺らすと、二人はほっとしたように顔を見合わせ、静かに笑いあった。
 その瞬間、どうしてか私は懐かしさを覚えた。昔に見てストーリーも忘れきっていた映画を、夜中のロードショーで久しぶりに目にした時のような妙な感覚だった。
 私はもしかしてこの二人を知っているのかもしれない。
 私はほんとうに子どもなのだろうか。
 目が覚めるまで何度か夢を見た。その夢の中で私は、だだっ広い草原とも森とも判断のつかないような不可思議な場所にいて、ただただそのスクリーンに映されたような風景を虚ろげに眺めていた。私は夢の中で出会った妙な男を思い出す。何もかも真っ黒だった死に神みたいな男。不思議な目をした人だった。あの人を私は知っている。あの人は私の大切なものを持っているのだ。
 渡された洋服に着替えて、私は病室を見渡した。真っ白な部屋、前にも一度来たことがあるような気がする。病室を出ると二人が待っていた。さっきは気づかなかったが、彼らは真っ黒なスーツに身を包んでいる。あの死に神男の仲間なのかと、私は思う。思ったけれど口には出さない。出してはいけないのだと、なんとなく分かる。
 ふと右目に違和感を感じた。手を伸ばすと、眼帯らしきものが着けられている。どうして眼帯など。そうだ、さっきから右目は見えていなかった。右目の感覚など最初からなかった。どうして気づかなかったのだろう。ここが一体どうなっているのか、私は突然気になりはじめた。
 前を歩く二人に悟られぬよう、私は眼帯を外し、その場所にそっと触れる。
 そして私は悟った。
 自分はここにいるべき人間ではないのだ。


 いつの間にか立ち止まって、彼らはこちらを向いていた。私は急いで眼帯をつけ直す。見られてしまっただろうか。気づかれたのかもしれない。私はその場所から動けなくなった。足が竦んでしまったのだ。
「凪、おいで」
 サワダが言う。彼は優しく微笑んでいる。ゴクデラは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、早く来いとでも言いたげに、顎をかしげる。
 それでも私は動けなかった。右目の感触を思い出す。近づいて手を伸ばした瞬間、その手を払われないと誰が確証を持って言える? 否定されることへの恐怖が、私の心の一番深い部分に存在していて、私の足を止めた。
 私の逡巡を見てとったのか、サワダがもう一度言った。今度はゆっくりと、こちらに手を伸ばしながら。
「おいで」
 その手が、私の手を取った。
 その時見えた私の手は、小さくなどなかった。幾つも時を重ねた、長く伸びた大きな男の手のひらに見えた。でもそれは一瞬の出来事で、次に見た時には元の小さな手に戻っていた。
 繋がった彼の手は猫のお腹のように温かくて、私は眠気を覚えた。ずっと眠り続けていたというのに、人というものはまだ眠ることが出来るのか。降りてくるまぶたを必死に持ち上げようと左目をこすっていると、サワダは笑って、目の前にしゃがみ込んだ。
「ほら、おぶってあげるから」
 私は吸い込まれるように彼の背中に身を預ける。次の瞬間にはぷっつりと意識は途絶えた。背中の温もりだけを感じながら私はまた夢を見た。

 草原のど真ん中に、あの黒い男が立っている。今日は眩しい位真っ白なシャツを着ている。彼は何も言わず、ただうっすらと口元に笑みをたたえながら、白いシャツを風に靡かせ私をじっと見ていた。
「あの人たちを信じてもいいの?」
 私は彼に訊く。彼ならばきっと知っているはずだ。そうして答えてくれるはずだ。
 男は静かに頷く。私は安心して、夢の中でゆっくりと眠りに落ちた。きっと目覚めた時、私は一人ではないだろう。



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