この複雑怪奇な箱の中を迷いなく歩いていると、大概の人物は驚きとともに賞賛を口にする。自分で作ったももの設計書を隅から隅まで頭に入れておくのは、技術者として当然のことだ。そう言うと、賞賛を口にしていた者の顔が、ほんの僅か歪む。
僕は地図もなしに、僕の箱の中を行き、そしてある一室へ辿り着く。小さくノック。返事はない。いつものことだ。
「入るよ」
扉をそっと開き、中に体を滑り込ませた。むっとする油と鉄の匂い。部屋の中にはところ狭しと、巨大な機械が並べられている。それらを機械と呼ぶと、彼は何も言わずに眉だけをひそめる。
部屋の主ーースパナはこちらに背を向けたまま、黙って片手をあげた。どうやら取り込み中のようだ。とは言えいつ訪れても、彼が取り込み中でなかったことなど一度もないが。
僕は部屋の片隅に腰を下ろし、スパナが手を動かす様子を黙って見ていた。
魔法使いの手だ、と僕はいつも思う。彼の手にかかれば、ただの無生物であるはずの鉄の塊は、命を吹き込まれたかのごとく活き活きと動き出す。
機械いじりが得意と言っても僕の専門は計算や設計で、実際に機械を弄る契機など、今ではないに等しい。苦手というわけではないが、単純に必要性を感じないのだ。僕がやらずとも、彼が全てやってくれる。スパナのほうが遥かに器用に、僕の設計を理想通り組み立ててくれる。彼はそのためにここにいるのだ。
それにしても彼の手は、傍目にも油まみれだというのに、なぜあんな風に美しいのだろうか。こんな機械だらけの部屋、まるで似合わない。風を撫でさするように、ピアノを奏でるように、無尽に自由に動き回る指。そんな彼に似合うのは、きっともっと色鮮やかで美しい、こことは違う世界に違いない。
「正一」
彼があの指で作り出す音を想像する。なめらかで艶めかしく、きっと天上からひとしずくだけこぼれ落ちた、朝露の響きだ。とても気持ちのいい、沁みいる感覚を呼び覚ますものだ。
ぽつり、ぽつりと、そう、こんな風に。
「正一、起きてる?」
それはやけにべたべたとした、生ぬるいしずくだった。腹のあたりからじわりと沁みてくる。心なしか茶色がかったその液体は、僕の着ていた真っ白な制服を容赦なく汚していた。
「あ、あぶら、油垂れてるよ!」
「あ、ほんとだ、ゴメン」
スパナは目の前で、中腰になって僕の顔を覗き込んでいた。注意がこちらに向いていたせいか、油差しを強く握りしめていることに気づいていない。まったく悪びれた様子もなく、手にしていた油差しを持ち上げる。そのせいで先についていた油がはね、僕の顔に飛沫がかかった。
「う……」
仕方なしに袖口で拭う。顔周りが油臭い。どうして油差しに汚れた油が入っているのだ。腹立たしさより先に、これから起こりうる憂いごとを考えただけで気が滅入った。
「ああ最悪……おろしたての制服が油まみれだ。またあいつらに口うるさく言われる……」
きりきりと胃が痛みだし、僕は思わず腹部を押さえた。垂れた油の感触が手に纏わりつく。確かにこの手触りは嫌いじゃないが、現場を離れて久しい僕には、既に馴染まなくなった不快さだった。
「正一、着替えを貸そうか」
「……いいよ、君の持ってる服は全部ソレだろ」
そう言って指差すと、スパナはくつくつと声を立て笑う。
「いいじゃん、ツナギ。動きやすいし汚れても平気だ。正一だって普段から、そんな格好で作業してるわけじゃないだろ」
「僕はもうほとんど、実製作には関わっていないよ。知ってるだろう」
「なんだ、趣味でもやってないの」
ぞんざいに答えると、スパナは器用に片眉を上げて、驚いた、というジェスチャーをしてみせた。どうやらスパナは、僕が未だ個人的には機械いじりを続けているのだと思っていたらしい。
「そんな時間ないよ」
スパナのまっすぐな目を見ているのが嫌になり、僕はついと視線を落とした。
部屋の床にはアクチュエータだのエンジンだの、または細かい部品があちらこちらに散らばっており、うっかり歩き回れば転んで怪我はまぬがれなさそうだ。スパナは器用にその間をすり抜け、「チャブダイ」とペンキで書かれたドラム缶の前に歩み寄る。手慣れた様子で急須に茶葉を開け、湯を注いでいる後ろ姿は滑稽だ。こぽこぽと小気味よい音が響き、まもなく部屋中に、緑茶の爽やかな香りが広がった。
足下に転がっていた小さなビスを一つ拾って、手に乗せてみる。しっくりとくる感触。ほんの数年前のことなのに、こんな風に自らの手でものを作っていた記憶が、懐かしさを伴って胸に去来する。また何か、自分で作ってみようか。ほんの小さなものでいい、時間のかからない、簡単なもの。
ずっと無意識に眺めていた彼の背中が、やおらこちらを振り返った。僕は驚いたまま、彼から目を逸らせなかった。彼がずんずんとこちらに向かってき、手にしたマグカップを差し出したときも、すぐには受け取れないほど、なぜか僕は動揺していた。
「日本茶。飲んだら落ち着く」
「ありがと……」
ようやく受け取ったマグカップの中身を一口含む。香り高い茶の味が口一杯に広がった。
スパナは真実おかしなやつだ。日本を好きな理由が、ロボット技術が発達しているからってのは分かるが、どうしてそれで日本茶にまで傾倒するのだろう。茶を啜りながらそんなことを考えていると、目の前に腰を下ろしたスパナが、じっと僕の目を見ていた。
「正一、何か作りたくなったらここに来なよ。材料を用意しておくからさ」
スパナの目はまっすぐだ。限りなくまっすぐで、僕は不意に泣きたくなった。
やはり自分は疲れている。ファミリー内での二大勢力の対立だとか、他所のファミリーの殲滅だとかで、ここのところ毎日のように指揮系統の調整ばかり行っているせいで、いささか対人関係に疲れている自覚はあった。もともと僕などあまり人付きあいの上手いほうではない。実は今だって、彼と話をすることすら億劫なのだ。
「別にいいよ、ここを訪ねるときはどうせ、そんな元気ないし」
そう溜息とともに吐き出すと、スパナは目を丸くして、不思議そうに僕を見た。
「正一はなんでいつも、ここに来るんだ? 疲れてるなら、部屋で休んだほうがいい」
彼にとっては、おそらくまっとうな質問だ。しかし僕は虚をつかれ黙り込む。
どうして、僕はここに来るんだろう。会話すら煩わしいと思っている僕が、わざわざ忙しい合間をぬって他人の部屋にあがりこむのは。
深く考えたことはなかった。ただ、この無機質な空間の中、唯一油の匂いとゼンマイの音に埋められた小さな部屋が、ときどき無性に恋しくなる。香ばしい日本茶の香りが、昔家にあったような懐かしい模様の電化製品が、僕の胸のうちに眠る郷愁を呼び覚まし、どうしようもなく、ここへ帰りたくなるのだ。
結局僕が口にできたのは、ほんのつまらない一言だけだった。
「うまくいえない、けど、ここは落ち着く……」
それでもスパナは納得したのか、ふうん、と呟くと、やけに嬉しげに笑った。
「もしかして、僕がここに来るの、迷惑だった? それならごめん」
どうしてあんな質問をされたのか不思議に思い、僕は少し心配になって訊ねる。スパナは否定の意味か、勢いよく首を横に振り、そのせいで舐めていた棒つきキャンディーが口からすっぽ抜けて焦っていた。しばらく恨めしそうに床に落ちたキャンディーを見つめていたが、意を決したように、ゴミ箱に投げ入れた。
それから僕の前に座り込んで、新しいキャンディーを一つ、差し出して言った。
「正一さえよければ、いつでも来て。ウチはいつも、正一を待ってる」
いちごの香りがつんと鼻頭に纏わりつく。真っ赤なキャンディーを、僕は口にくわえた。目の前にある、ぱちりとまるで子どものような二つの瞳は、澄んだ空の色を思わせた。肩の力が抜けてゆく。張っていた気が、とろりと融けて流れていく感覚。
僕はしばしの間目を閉じた。油の匂い、お茶の匂い。かちりかちりと、歯車の噛みあう音。全てが僕を鎮める。視界の遮断された世界は、でもやはり、どこか物足りない。瞼の外側で豆球の光のゆらめくのが見えた。僕は再び視界を開けた。
スパナはいつの間にか、再び機械いじりに戻っていた。作業に没頭しているのか、小さく声を掛けてみても応えない。もう僕のことなどおかまいなしで、きっと僕の存在すら忘れているんじゃないかと思うほどだ。変なつなぎの背中が時折ゆれる。そのたびかちゃりと音がなる。不規則な動きと音に、なぜか瞼が重くなる。
それでぼくは、ああこれだ、と思ったのだ。匂いも、音も、大事だけれど、彼がいるから、ここは落ち着く。
すっかり冷めてしまった緑茶をすすり、僕はほうと一息を吐いた。明日も早いのだっけ。時計を見れば、もう日付を越えている。あたたかな匂いと音と彼が、リズムを刻む。
僕は今、眠りの淵にいる。