横顔


 いつも座る席の隣の隣。彼は一人でそこに座っていた。
 とりたてて、人の印象に残るような容姿では決してないその人は、しかし私の心をなんともなく揺さぶったのだった。
 
 この高校の学食は縦に長く、机の列数はそれほど多くない代わりに、ひたすら横側に椅子が並んでいるような状態だった。味もそれほど美味しくなく、いつもがらがらで、私はなんとなくこの食堂中が自分のもののように思えて、お気に入りの場所だった。
 私はちらりと隣の隣を盗み見る。格好良くもなく、比較的小柄なその人は、私と同じ学年の組章を付けている。何組かまでは見えないけれど、今まで会ったことがないということは、きっと近くのクラスではないのだろう。
 柔らかそうな栗色の癖毛がふわりと揺れる。テーブルに置かれたA定食をじっと眺めたまま、箸を持つ手は止まっていた。
(どうして食べないんだろう)
 私の興味はますます惹かれる。このテーブルには、私と彼の他誰一人と座っていない。この世界にたった二人だけ生き残ったような、妙な錯覚に襲われる。親近感?この誰も好き好んではやって来ない学食を、自らの居場所として選んだ者同士なのだと、私は勝手に仲間意識を芽生えさせていた。
 結局、彼はそのまま、A定食に口をつけることはなく、チャイムの音と同時に席を立った。

 次の日も、また次の日も、彼はその席にやって来た。最初の日と同じように、頼んだ昼食を食べもせず、眺めたまま昼休みを過ごしている。時折、クラスメイトとおぼしき男子生徒に話しかけられ二言三言話しては、またぼうっと一点を見つめていた。
 そのうち、私は気付いた。彼は別に昼食を眺めている訳ではなくて、どこも見てはいないのだ。横顔からはその目はよく見えないけれど、とても寂しそうで、ひとりぼっちの野良猫のようだった。それは彼が毎日一人でここへ来ることと同じ理由に思えた。

 一週間程たったある日、彼の隣の席が埋まることとなった。
 少し癖のある赤まじりの銀髪を、顎の辺りまで伸ばしたその男子生徒は、この学校で一番の有名人だった。この地域で一番レベルの高い高校を蹴って、この平凡な公立の一高校への入学を希望した変わり者。そして柄の悪いまるで不良のような振る舞い。彼の事を噂するものは皆、尊敬と畏怖を込めた目で話す。
 しかしそこにいたのは、噂に聞いていた人間とは違い、こぼれ落ちそうな笑顔で隣に座った友人を眺める優しげな一高校生だった。
 二人になった途端、彼の空気はがらりと変わった。よく笑い、よく喋る。何も映していなかった瞳には、窓から光がきらきらと反射していて、その鮮やかな笑顔が、横顔を盗み見るだけでも分かった。
 その不思議な友人は、彼を「じゅうだいめ」と呼ぶ。まるで神様の名前を呼ぶように、柔らかな、春の風のような声で。そうして呼ばれた彼は、春風に吹かれたしろつめ草のように、ふわりと笑顔を浮かべて、返事をするのだ。
 それから私は時折、一人きりの時に、小さな声で「じゅうだいめ」と呟いた。まるで小さな頃に覚えた魔法の呪文のように。彼の友人があまりにも愛おしそうにその名を呼ぶので、私には「じゅうだいめ」がとても美しい言葉に思えたのだ。

 春が過ぎて夏が来て、それから秋が訪れても、私はずっと彼を眺めていた。食堂で、廊下で、校庭で、帰り道で。彼の隣にはいつもその友人がいた。二人は並んで歩いているようで、その実いつも友人が一歩下がって歩く。そして必ず右側に立っていた。ああ、この二人はただの友達ではないのだ、と私は、私だけが気付いていた。
 彼らの世界には、彼らしかいないのだ。きっと二人だけの世界で、ただお互いだけを認識して生きているのだ。彼の儚げな背中、その背中を愛おしそうに見つめる友人の姿を見て、そう気付いたとき、私は少しだけ寂しくなり、小さな雫を頬に零した。

 秋はあっという間に過ぎ去った。十年ぶりの暖冬が終わり、新学期を迎えてすぐ、突然二人は消えてしまった。彼らと同じクラスの友達に聞いても、誰もその行き先を知らなかった。ただ転校する事になった、とだけ、担任に説明されたと。
 ひっそりと、誰にも気にされることなく、いつの間にか二人がいなくなってしまったことを、私は妙に納得した。
 私は彼らの担任の先生に、二人の引っ越し先を聞いた。紙に書いた住所を手渡されて中を見ると、読み方の分からない地名が筆記体で記されていた。国名だけはなんとか解読できて、そこにはItalyとあった。
 やはり彼らは違う世界の人たちだったのだ。二人が具体的にどういう理由でイタリアに渡ったのかは全く分からないけれど、ただ静かに暮らすだけの高校生活で、泡沫のように消えてしまいそうな彼らをきっとその内思い出せなくなるだろう。
 私はすぐにエアメイル用の封筒を買ってきて、先生からもらった住所をそのまま書き写した。そして中に『さようなら、あなたたちのいた生活は私の宝物です』とだけ書いた小さなカードと、しろつめ草の造花を入れて封をした。それは190円で海を越えて、遠い海の匂いのする小さな国へと運ばれた。

 いつの間に夏服に着替えたのかと思っていたら、すぐに半袖では寒い季節がやって来て、私はそのままだらだらと一年を過ごした。時折、小さな彼と、彼を守るように立っていた大きな友人を思い出しては、行ったこともないイタリアの生温い海の風や、街の埃っぽい空気を想像していた。
 ある日小さな封筒が家に届いた。宛名はなく、封筒にはAIR MAILと記されていた。消印は全く読めない程潰れていて、辛うじて海外のものとだけ分かる。私はぴんときて、急いで封を開けた。
 封筒の中には、小さな貝殻と、『おれたちもずっと忘れません』というメッセージが書かれたポストカードが入っていた。ポストカードは、シチリアの海の写真だった。
 それらを抱きしめながら、私は一年ぶりに涙を流した。貝殻からは、私が想像していた通りの海の匂いがふわりと漂っていた。




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