both sides, now


intro

 最初は、手だった。
 無性に、その手に触れたくなった。細やかに動く、細い指。子どもっぽさの残る温かな体温を想像して訪れたのは、今までに味わったことのない感情だった。
 その次は、頬。 
 薄桃色をしたその頬に、自分の手が触れるシーンを想像した。そうすることで、柔らかな殻に包まれたような安心感を手に入れられた。そうして次の瞬間には、それが想像の産物でしかないことに絶望感を覚えた。
 それからのオレは、おかしかった。次々とエスカレートする欲求に、まるで自分を制御できない。彼が目の前に現れる度に、抑えていた様々な感情が体中から溢れ出す。
 今まで味わったことのないこの感覚に、オレはまだ名前をつけることもできなかった。それほどまでに、自分でも、訳の分からない、どうしようもない感覚なのだ。
 寸でのところで自我を抑えることもあれば、抑えきれず思わず手を触れてしまうこともあった。
 そんな風に、少しずつ、でも確実に、感覚に侵されていった。

*****
 
 彼は、おれに触れたがる。
 その手はまるで壊れ物に触れるようにおどおどとしていて、決して安心感のあるものではない。おれがその手を握りしめると、やっと安心したように、おれの手を握り返すのだ。
 ひんやりとした手のひらが、おれの頬を包み込む。ただ10分かそこら、彼はおれに触れ、それから何事もなかったかのように、いつも通りの彼に戻る。

 最初は正直、ぎょっとした。
 例えば山本の肩を抱くようなスキンシップとは、まるで違っていたのだから。例えると彼のそれは、初めて動物に触れようとする子どものものに似ていた。
 だから不思議と、気持ち悪いとは思わなかった。あまりに不器用な仕草が、うちにいる子ども達を思い出させて、愛おしささえ感じた。
 彼に触れられる度、おれは懐かしさと恥ずかしさが綯い交ぜになった感覚に襲われる。
 目の前にいる彼は、数年前の自分とそっくりだった。




 教室から見える景色は、何も変わらないというのに。遠く見える校庭を眺めながら、おれはそんな事を考える。放課後の教室は不思議だ。たかだか三十人程の人間がいなくなるだけで、こんなにも広く、寂しく見えるのだから。
 校庭では、野球部の面々が練習試合をしていた。ボールを打つ金属音は、ここまで届く程に大きな音で響いている。あの音はきっと、山本がホームランを打ったものだろう。
 おれは机に目を落とし、一人で補習の宿題を片付けにかかる。補習仲間の山本は、試合が近いということで今回は特別にそれを免れていた。この夏の大会が最後の試合だから特別にね、と担任が笑って言うのを聞いて、嫌でも現実に目を向けさせられる。
(おれは、どうしたいんだろう……)
 小さな家庭教師は、おれの判断に全てを委ねると言った。それはつまり、高校を出てからイタリアに行くか、中学を卒業してすぐにイタリアに行くか──という選択肢のない二択から選べということだ。
(考えたくも、ない)
 もう夕方だというのに、大きく開けた窓から入ってくる風は生温くて、教室内はとても勉強などしていられる環境ではない。考え事など尚更で、考えれば考える程、頭がぼやけてくる。その上、流れてくる汗で張り付いたシャツが気持ち悪い。
(もう帰ってしまおうかな……)
「10代目!宿題終わりました?」
 がらり、と扉を開ける音が静かな教室に響き渡る。プリントを仕舞って立ち上がろうとしたおれは、吃驚して椅子に逆戻りしてしまった。
「獄寺君か……びっくりしたあ」
 胸を撫で下ろしながら再び立ち上がると、獄寺君がしゅんとした様子で、驚かせてすみません、と呟いた。気にしないで、とおれは笑いかける。そうすれば、彼はすぐに笑顔に戻るのだ。
「もう、帰るところなんだ。獄寺君は?」
「10代目が帰るんでしたら、オレも」
 にかっと音がしそうな位、口角を上げて獄寺君は笑う。彼はいつも、用があったからとか寝てたからとか言って、結局おれの補習が終わるまで待ってくれている。とても不器用な彼の物言いが、おれは少しだけ好きだ。
 学校からの帰り道、他愛もない話をして過ごす道すがら。もうすぐ終わってしまうのかもしれない、でもまだ続くのかもしれないこの日常が、いつもより眩しく思える。
「獄寺君は、どうするの?中学を卒業したら、」
 おれは、隣を歩く彼に聞いた。
「もちろん、10代目についていきます!」
 想像通りの答えが返ってきて、呆れると同時に、ほっとする。イタリアに行くにせよ、高校に行くにせよ、一人きりではないのだ。
 おれはもう、一人ぼっちでは生きてゆけなくなっていた。

 七月の夕暮れ前は、なんて美しいのだろう。秋の夕暮れの寂しさや、冬の夕暮れの侘しさとは違う、暖かさと希望を含んだようなオレンジの光。この光に包み込まれていたなら、きっと一生、温もりの中だけで生きてゆけるんだろう。
 落ちかけた太陽を背に、長い影を追って並んで歩く。
「ちょっとだけ寄り道しません?」
 そう言って獄寺君は神社を指差した。
「いいね」
 入り口脇の自販機で冷たいソーダを買って、社の石段に腰掛ける。社の横の大きな楠が、ざわざわと音を立てて風に靡いた。そこには大きな影が出来て、ひんやりとした空気が溜まっていた。
 おれも、獄寺君も、一言も発しないままだった。二人して前を向いて並んで座っていると、段々と、一人きりでここに居るような気がしてくる。不安を覚えて横を見ると、彼もまた、こちらを向いてほっとした笑いを浮かべていた。
 ああ、なんておれ達は似ているんだろう。
「触っても、いいですか」
 少しの躊躇が言葉から見て取れた。おれは笑って、いいよ、と言う。
 彼の冷たく汗ばんだ手が、おれの手に触れる。最初は遠慮がちに、指と指とを触れ合わせるだけのスキンシップとも呼べないもの。おれは指を絡ませる。そして大きな手のひらをぎゅっと包み込む。彼の手はやっと力を取り戻し、おれの手のひらを握りしめる。そのままその手は、おれの頬に移動する。始めは指の先から、睫毛と、こめかみと、鼻筋と、唇を順繰りに、そうしてからやっと、頬全体を包み込む。それはまるで、目の見えない人が、顔の形を確かめるかのようだ。
 おれは彼の目をじっと見つめる。灰色の瞳はそこにおれの姿だけを映していた。
 彼はおれだけしか見ていない!
 ああ、今、彼の世界にはおれしかいないのだ。
 優しい手の感触は、徐々に、二人の境界を融かしてゆく。もうどこからがおれで、どこからが獄寺君なのか、分からない程に。これは、最初に獄寺君に触れられた時から、ずっと同じだった。人に触れられることがこんなに気持ちのよいことだなんて、おれは知らなかった。
 瞳に映ったおれが、段々と近づいてくる。長い睫毛と、おでこの生え際が目に入る。聴こえるのは、葉擦れの音、それから、獄寺君の心臓の音。血色の良い真っ赤な唇が、おれの瞼をかすめる。ひんやりとしていて、少し固い。頬に、鼻に、彼はゆっくりとキスを落とす。それから、最後に、唇に。
「す、すみません!」
 突然の大声に、ふと我に返ると、目の前には真っ赤な顔をした獄寺君がいた。眉毛は下がりきっていて、今にも泣き出しそうな目で、こちらを見つめている。
「オ、オレ、今、10代目に、なんてことを……!」
「獄寺君、大丈夫だよ、」
 今にも土下座しそうな勢いで謝る獄寺君を宥めながら、落ち着いた態度とは裏腹の焦りがおれの頭の中を支配する。
 一線を、越えてしまったような気がした。
 今まで、おれが彼を受け入れてこられたのは、彼の欲求が「触る」ということのみだったからだ。おれに触れることで獄寺君の情緒は安定したように思えたし、実際、そうだったのだろう。彼がおれに触れたがったのは、いつでも、目に見えないくらい小さな不安を抱えていた時だったし、それはいつでも、おれだけに見えていた。そしてそれを少しだけ、誇りに思ってもいた。
 でも、今のが──キスというものが、どういう位置づけなのか、おれには分からない。それがスキンシップの延長上なのか、欲求がエスカレートした結果なのか。
 パニックに陥った獄寺君を落ち着かせようと、腕を回して背中をさする。すみません、すみません、と涙声で呟く獄寺君は、いつにもまして不安定で、ああ、今しがたの精神安定剤が無駄になっちゃったな、とおれは頭の片隅で考えていた。
 獄寺君は自分で自分を貶めているようで、自らを責めるような言葉を小さな、小さな声で囁き、言い聞かせる。おれはいよいよまずいと思い、思わず目を宙に彷徨わせる。
 ふと視線を感じた。獄寺君には気付かれないよう、目だけをそちらに泳がせる。
 視線の主は、神社の入り口に佇んでこちらを見ていた。それはまぎれもなく、唯一無二の親友の姿だった。
 彼は驚いたように目を見開いていた。
 夕日が、そこまで沈みかけている。
 目を逸らし走り去った親友を見て、おれは小さな後悔を抱いた。



 家に帰ると、珍しくビアンキが玄関先に出迎えにきた。
「皆は?」
「ママンと買い物。私は留守番」
 ビアンキは退屈そうにあくびをひとつして、台所に引っ込む。おれも飲み物を取りに行こうと後に続いた。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを、一気に飲み干す。夕日が反射したピンク色の水は、きらきらと光っている。
 あの後、おかしな程不安定になった獄寺君は、やっと落ち着きを取り戻したと思えば、頭冷やします、と言ったまま一人で去って行った。おれは一人神社に取り残されて、呆然と、坂の上からオレンジに染まりゆく街を見下ろしていた。
 バイバイ、すら言えなかったことを思い出す。
「ねえビアンキ、獄寺君はさ、不器用だね」
 なんとなく誰かと話したかったおれは、ビアンキに話しかけた。それに今なら、なんでもいいから知りたかった、獄寺君のことを。
「隼人?そうね、あの子はとっても不器用なの。一人じゃなんにもできない癖に、自立心ばっかり強くて……。小さい頃から、そう」
「獄寺君の小さい頃って、どんなだったの?」
 興味が湧いて思わず聞き返す。
「可哀想な子、だったわ。あの子のママンは隼人を産んですぐ城を出ていってしまったし、そんな彼女を恨んでたパパンも、隼人には冷たかった。表面上は愛してるとか言ってたけれど、隼人は彼に抱きしめられたことなんて一度もなかったの。私たち他に兄弟もいなかったし、パパンの部下も使用人も、心のどこかで、隼人を疎ましがっているのが分かったわ」
「そうだったの……」
「だんだんひねくれちゃって、終いには城を飛び出してしまった……それから先は聞いた話だけど、東洋人とのハーフだからって、ひどい扱いも受けたようね」
 ビアンキは、遠い目をして台所の窓から空を見ていた。イタリアの空を、昔の家を思い出しているんだろうか。イタリアの空と、日本の空が、できれば全然似ていなければ良いと、おれは願った。
「ツナ、あの子と手をつないだことがある?」
 突然、ビアンキがそんなことを聞く。おれが頷くと、彼女はふっと笑った。
「変でしょう。びくびくしていて、不安げで。昔、一度だけ、パパンの手を握ろうとして伸ばした手を、ひっ叩かれたことがあるの。それから、怖くて、人の手に触れられなくなっちゃったのよ」
「え、じゃあ、どうしておれには……」
 不思議に思っておれは聞く。
「さあ?でも、ツナは裏切らないだろうって思ったんじゃない。隼人は随分あなたを信頼しているみたい。信頼というより……もはや依存に近いんじゃないかしら」
 ふと真剣な顔に戻ったビアンキは、言う。
「ねえツナ、もし隼人が疎ましかったら、早めに切り捨ててね。ツナへの依存心が大きくなればなるほど──最後に裏切られた隼人は、めちゃくちゃになってしまうから。もし、今捨てる事ができないなら、一生、あの子の居場所になるって約束して」
 射抜くようにこちらを見つめる目に、おれはたじろぐ。
 正直おれは子どもで、人一人の人生丸ごと背負うなんてこと、考えたこともなかったし、もしかしたら知らない内に、獄寺君を傷つけることがこれから先あるかもしれないと思うと、簡単に頷ける約束ではなかった。
 だからおれは、黙りこくった。
 ビアンキは、少し悲しそうな顔で、笑う。
「ごめんね、ツナ、私の弟が、あなたの重荷になっているの分かってる。でも、今までずっと裏切られ続けたあの子のたった一つの居場所、これ以上無くしてほしくないの……」
 気晴らしのはずのお喋りは、余計におれの心を沈ませた。

「ツナ、ビアンキの言ったことは気にするな」
 真っ暗な部屋に足音もなく入ってきた小さな殺し屋は、ベッドに寝転がるおれに向かって言う。
 ビアンキとの会話の後、食欲も湧かず、ずうっと横になって転がっていた。ごろごろと、転がるうちに頭はシェイクされて、一時でも思考を停止させられる気がしたから。勿論そんな訳もなく、それどころか暗い部屋はいつもより神経を鋭くさせて、余計なことまで考えてしまう。
「あいつはただの部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。お前の命が危険に晒されたとき、真っ先に盾になって死ぬのが、あいつの運命だ」
「そんなことない!」
 マフィアの殺し屋の冷酷な言葉に、おれは思わず反論する。
「おれは死なないし、獄寺君も死なない。誰も死なない。もし、おれが、マフィアのボスになったとしても──」
「それは違うぞ、ツナ。お前は甘い。マフィアの世界はそんなに甘くねえぞ。それを一番よく分かっているのは──獄寺だ。あいつはいつでも、お前のために命を捨てることができる。幾ら、命の大切さが分かったって、それはお前が死なないっていう前提があってのことだ。もしお前が死にそうになったなら、間違いなく、あいつは死ぬ。その覚悟がないなら、あいつを右腕にしようなんて考えるな」
 幾らリボーンがそう言おうと、おれは、彼が死ぬところなど想像もできない。全く見えない。獄寺君のことを考えたとき、目に浮かぶのは、思い切り笑い、思い切り動く、生きている彼だけなのだ。
 そんなことを割り切れるほど、おれは大人じゃない。
 いつでも隣にいる人の死を考えて生きて行く生活なんて、いらない。
「リボーン、おれ、やめるよ、イタリア行くの。ボスになるのも」
「それは無理だ」
「どうして、」
「もう、決まったことだ。お前が選べるのは、いつ行くか、だけだ」
「いやだよ、」
「お前に選択肢はない」
 リボーンはそう言って、おれに背を向けた。と同時に、小さな寝息が聴こえ始める。
「……ずるいよ、リボーン……」
 真っ暗闇の中、おれとリボーンの、背中だけが向き合っていた。



 目覚めは最悪だった。
 瞼は腫れて目が開かないし、頭は金槌で殴られたような鈍痛が止まらない。飲んだこともないけれど、お酒の二日酔いってこんな感じだろうか?なんて下らないことを考えて、お茶を濁す。
 恐る恐る玄関を開けると、そこにはいつも通りの、道路と、電柱だけが見えた。ほっと息をつく。ああでも今、満面の笑みを浮かべた彼がここに立っていたならば、おれはきっとこの寝不足の体すら気にならずに、彼に笑いかけることができただろう。
 学校までの道のりが、昨日まであんなにきらきらと輝いていた道のりが、今日は世界の終わりに続く道のように思える。
「うはよっ、ツナ」
 思い切り肩を叩かれて振り向くと、そこにはいつも通りの山本の姿があった。おれは、どうしていいか分からずに、ただ薄ら笑いを浮かべるだけだった。
「あの、さ、昨日の……悪かったな、っつっても覗き見した訳じゃねーぞ」
 遠慮がちに途切れ途切れの言葉を発する山本が可笑しくて、おれはつい笑ってしまう。あんなに器用な癖に、変なところが不器用なのだ。そこが彼の魅力なのだろう。
「気にしないで。でも、気持ち悪いって、思っただろ?」
 もう開き直ってしまおうと、おれはわざと明るく話題を振る。
「思ってねーよ。ただ、ちょっとびっくりはしたけどなー」
 ははは、と笑っておれの頭を小突く。おれは腕の隙間から彼の横顔を盗み見る。よく見ると目の下が、うっすらと暗い。
「なあ、お前らってさ、えと、いわゆる……そういう関係なのか?」
 聞きにくそうに、山本は一晩悩んで考えたのだろう質問──晩かけた割に不躾なのが彼らしい──を投げかけてくる。おれは困った。そういう関係というのが、つまり、同性愛のことを差しているのならば、それは少し違うからだ。
 おれと獄寺君の関係は、言葉で言い表そうとしたって、とてもじゃないけれど出来ないような、複雑で、不思議なものだ。
「多分、山本が想像してるようなのとは、違う。けど、周りから見れば一緒なのかも」
「ふうん、複雑なのな」
「うん、ちょっと、複雑」
 山本は、それ以上何も聞こうとはしなかった。
 なんとなくだけれど、きっと山本には分かったのだ、と思った。おれの抱える矛盾も、どうにもできない中で、もがくだけだということも。
「で、今日は獄寺、一緒じゃないのか」
 いつも一緒に登校しているのだから、まるでいない方が不自然だとも言いたげに、山本はきょろきょろと辺りを見回す。
「うん、実は昨日のあれね、ちょっとアクシデントでさ」
「あ、そーなのか。なんか、獄寺ってさ、一人で悩んでうじうじしてそうだからさ、心配だよなあ」
 山本は本当に不思議だ。
 おれとは別のところで、獄寺君のことを分かっている。おれのこともきっと、自分ですら気付かないような部分で分かっているのだろう。
 話してみようか、という気になった。

 長い長い話に、山本は疲れも見せず、真剣に耳を傾けてくれた。公園のベンチに凭れ掛かり、すっかり授業をエスケープする体制で、おれはひたすら言葉を紡ぐ。山本は分かっている。話を聞いてしまえば、もう、知らない振りは出来ないということに。
 ちち、とヒヨドリの鳴き声がこだまする。緑の隙間から陽がこぼれ落ちて、シャワーのようにおれと、山本の体を、きらきらと光らせた。
 話し終えて一呼吸おく。山本は、沈黙したまま。
「ごめんね、急に変な話して。話したらなんかすっきりしたし、あんま気にしないで」
 おれはフォローにもならないようなことを言った。そんなことを言われて、気にしない訳ないことは分かっている。
 おれは狡いので、きっと山本はおれたちのことを考えてくれるだろうと、思ったのだ。
「なあ、ツナ、それって、本当に、獄寺に恋愛感情がないのかね?」
 山本は開口一番そう言った。
 おれは、一言一言、考えながら、話す。
「分からないよ……おれだって、今までは、ただ触れられていただけの時は、それだけなんだと思ってた。おれに触れることで、獄寺君は安心して、普通の中学生らしく無邪気に笑ってくれたし、それで十分だったもの」
「キスされるなんて、思ってもなかった、か」
「当たり前だよ。ねえ、獄寺君のキスは、触れることの延長線上なんだと思う?それとも、山本の言う通り、恋愛感情からくるものなのかな」
 おれは山本をじっと見つめた。どうか答えをくれ、と期待の眼差しを向けていただろう。それがどれだけ山本の重荷になるかも、思いつかないくらいに。
 だけど山本から帰ってきた答えは、意外なものだった。
「ううん、分かんねーなあ。俺、獄寺じゃないし、もちろん、ツナも」
 ああ、そりゃあ、そうだ。
 頬を撫でた風が、何かを運んで、何かを吹き飛ばしてくれた。
 以外とあっさりと、山本に切り捨てられておれは逆に、胸のもやもやが晴れた気がした。
 そうだ、山本は、おれだって、獄寺君じゃないのだ。
 獄寺君の本心はきっと、獄寺君にしか分からないだろう。
 おれや山本が幾ら、獄寺君を分かるといったって、ほんの一掬いの、スプーン一杯分くらいのことだけなのだ。
「そうだよね、うん。獄寺君にしか、分かる訳ないよね。うん、」
 おれの表情を見て、咄嗟に気付いたのだろう、山本は、ちゃんと聞きにいけよ、と言った。そうして、まじめな顔でおれを見据える。
「でも、もし、あいつが、本当にツナに恋愛感情を抱いてたとしても──逃げ出さないでいられるか?」
「え、」
「もしお前が、獄寺の気持ちを受け入れられないと、あいつはきっとお前の前から姿を消すだろ。もし獄寺がツナのことを好きだとしたら、そんで獄寺と離れたくなければ、ツナの取る答えは二つしか無い。
 ──全てを受け入れて傍にいるか、嘘をついて傍にいるかだ」
 ああ、どうしておれに与えられる2択はいつも、選択肢ですらないのだろう!

 だけどおれは走った。
 街の中の何もかもが見えなくなるくらい。
 喉の奥が乾いても、スニーカーに包まれた足が悲鳴を上げても、おれは彼の家までの道をひたすら走ったのだ。
 いつの間にか空には灰色の雲が立ちこめ、とうとう、冷たいひと雫が、頬を濡らした。

 一人暮らし用の小さなハイツに着いた頃には、雨脚はひどくなる一方だった。玄関を入ってすぐ、101号室が獄寺君の部屋だ。どうしてか最初、彼はおれが家に来ることを嫌がった。それでもおれが拝み倒せば、根負けした彼が入れてくれたのだけれど。理由を聞けば、こんな答えが返ってきた。
「あんなに素敵な家に住む10代目を、こんな寂しい場所になんて呼べません」、と。
 聞いた時は意味が分からなかったけれど、今ならば分かる。

 本当は独ぼっちの大嫌いな彼が、どれだけ我が家を愛してくれているかを。



 きっと、素直に出てくれはしないだろうと、おれはチャイムを鳴らして「宅急便です」とドア越しに叫んだ。
 返事はないまま、足音だけが向かってくる。ドアを開けてこちらを見た目は、みるみる内に見開いて、口は半開きのまま固まっていた。ふと我に返ってドアを閉めようとしたところを、必死で止める。
「待って、閉めないで!」
 これ以上困った顔は見た事がないという位、獄寺君は困りきった顔。
「入れて、くれるよね。おれ、雨にあっちゃってびしょ濡れなんだけど」
 おれは有無を言わさず、足をドアに挟み込んだ。端から見ればまるで新聞の勧誘のようだろう。
 そんなおれに、獄寺君が勝てる訳が無かった。
「どうぞ、」
 観念したようにドアを開け、中に招き入れてくれる。
 心の中でおれは、ファイティングポーズを取った。

 八畳のワンルームは、真ん中に大きな茶色の革張りのソファとコーヒーテーブルがあるだけの殺風景な部屋。初めて入った時は、ベッドすらないことに驚いた。きっとこのソファで寝ているんだろう。生活臭の無さが、彼の普段の生活を逆に伺わせた。
 真っ白な湯気が立ちこめるコーヒーとココアをテーブルに置くと、彼は居心地悪そうにおれの隣に腰を下ろした。一緒にタオルを手渡される。
「寒かったら、風呂湧いてるんで、入ってください」
 恐ろしく不安の入り交じった目でこちらを見る獄寺君を、おれは睨みつける。
「昨日のことで来たの、分かってるんだろ」
 そう言うと彼は、びくりと肩を揺らせた。
「あの、怒ってますか?」
 こういう時の獄寺君は、驚く程情けなくて、普段の気の強い彼は一体どこへ行ってしまったんだろうと思う。
「当たり前だろ、大体なんで急にキスなんて、」
「ほ、ほんとにすみません!申し訳ありません!謝っても謝りきれませ……」
「謝るんじゃなくて。理由を聞いてるの」
 謝り始めると止まらない獄寺君を無理矢理制止して、おれは訊く。真っ直ぐに目を見れば、彼はたちまち耳を下げた犬のようになった。
「なんで、キスしたの?」
「それは……」
 おれはとても意地悪だ。彼が何も言わないのは、理由を、言いたくないのではなくって、言えないからだと分かっているのに。きっとおれと同じように、説明の付かない感情に押し動かされているのだと、分かっているのに。
 言い篭る獄寺君は、コーヒーカップを握りしめたまま浮かんでは消える湯気をじっと見ているようだった。湯気越しには彼の下がった眉毛が見える。こんな薄暗い部屋では、おれは灰色の目にも映る事ができない。彼の空っぽの目を見るのは、辛かった。だから、おれは言った。
「もう一度、キスをしようか」
「え、」
 視界の一番外側に、獄寺君の困った顔が見える。
「そうすれば、分かるかもしれない」
 本当は、分かりたいのはおれの方だった。獄寺君を受け入れられるかどうかを。
 彼は答えに窮してまた黙り込む。そしてたっぷり一分は考え込んで、言った。
「そんなこと……できません」
 悲しげに呟くその人の両手を取って、きちんと向き合う。今日初めて、彼と膝を突き合わせて、真正面から彼の目を見た。
「もしまた同じ事をしてしまったら、もう10代目に会わす顔がありません」
 逸らすように目を伏せた獄寺君の顔を、おれは両手で包み込み、こちらに向ける。目を逸らさせないように、逃げ出さないように。
 これから彼が向き合わなくてはならないのは、おれではなく、彼の過去とこれからなのだ。
「だめだよ。今度は無意識じゃなく、ちゃんと自分の意思で、確認するんだ」
 一言一言を、ゆっくりと、言い聞かせるように、おれは言葉を発した。そして、目を閉じた。

 それは暖かい感触だった。
 昨日のそれとはまるで違う、柔らかくて、優しくて、少しだけ不安げで、ああ、彼の考えるキスというものは──まるで、沈みゆく夕暮れの終わりの方の、ピンク色と青色の混じった不思議な色の空のようだ。
 唇を合わせるだけで、こんなにも色とりどりの思いが伝わるなんて。それは手の先っぽをくっ付けるよりも遥かに雄弁で、おれは恋人というものの存在を思った。閉じた目の先に、ふわふわとしたものが見えて、それに手を近づければ、もう少しで何かが、分かりそうだと、
「10代目……」
 目を開けると、もう唇に乗る感触はなく、その代わり獄寺君の瞳の奥に映った自分が見えた。灰色の瞳がやけにきらきらしていると思ったら、いつの間にか雨は止んで、西の窓から光が射していた。獄寺君の髪も、耳のピアスも、唇も、光を受けて輝く。
「オレ、あなたの傍にいてもいいんでしょうか」
「どうして」
「オレ、今、どうしようもなく、10代目を抱きしめたいし、頬を寄せたいし、もっともっとキスをしたいと思ってしまいました。そうすれば、10代目のことがもっと分かるかもなんて、おこがましいことまで考えました。ほんとは、初めて触れた時からずっと、思ってました。10代目に触れながら、あなたを分かった気になってました。オレ、こんなこと初めてで……どうしていいのか、分かりません」
 どうにもできない感情の揺れにとうとう、獄寺君は涙を零した。その涙があまりにも綺麗で、切なかったので、おれは一緒になって泣いた。泣きながら、彼の涙を指で拭った。
 彼は、おれが考えていたよりもずっと、純粋で、脆くて、弱かったのだ。胸の奥がじんわりと温かく、とても優しい気持ちになったような気がした。
「獄寺君、それでいいんだよ、もっとおれに触れて、おれのこと分かってくれていいんだ」
 涙がずっと頬を伝い続るので、おれ達は互いの涙を拭い合う。
「おれ達、今まであまりに人と触れ合わなかったから、知らなかったんだ。触れ合って、分かり合うことは、決して悪いことじゃないんだよね」
 おれは頬を濡らしながら微笑みかけた。なんだか鼻の詰まった変な声だ。
「おれは、獄寺君のことを、もっと分かりたい。獄寺君は違う?」
 そう聞くと、彼は音が鳴りそうな位、大きく首を左右に振った。
「違いません。おれも、10代目のことをもっと、分かりたいです」
 獄寺君はおれの両手を握りしめて言った。それからおでこをひっ付け合って、頬を寄せ合って、最後にもう一度キスを交わした。
 おれ達は不器用で、他の人のようにはきっと上手く出来ないだろう。おれも獄寺君も、人と向き合い、対話することに慣れていないし、自分の中に踏み込まれたことなどなかったから。
 でも、分かり合うことは、心地良い。そして、触れ合うことは気持ち良い。甘ったるくて生温くて、それでいて少し怖い。おれは何もかもが綯い交ぜになったこの不思議な感覚に酔いしれていたし、きっと彼もそうだった。
 おれ達は何度も唇を、腕を、手を、足を、心も、絡ませた。
 自分がこれほどまでに、彼を分かりたいのだと、どん欲に思っていたなんて、気付いていなかった。本当はいつも、獄寺君に触れられる度、もっと触れてほしいと、触れたいと思っていたのに。
 何が獄寺君を受け入れるだ。受け入れてほしかったのは、おれの方だったのだ。

「ああ、お腹が減った」
 おれは言う。あまりにも突然に、そう思ったら、口に出さずにはいられなかった。思い出せば、昨日の夜から、何も口にしていなかったのだ。獄寺君は少し驚いてこちらを見たあと、ふわりと微笑んで言った。
「食べましょう。何か作りましょう」
 そう決めたら早かった。次の瞬間にはキッチンで、二人で並んで準備を始めた。冷蔵庫の中、ストックケース、あるだけの材料を全部シンクに並べる。キッチン脇の小窓からはすっかりと西日が差し込んでいて、それはいっぱいの食物をまたたく光で埋め尽くした。
 母さんが料理をする姿を思い出しながら、おれは下手くそながらも、タマネギを刻んで、にんじんをスライスして、ピーマンの種をむしり取った。獄寺君は相変わらず水仕事が苦手で、お皿を1枚割ってしまったけれど、タマネギの皮を剥く仕草が何故だかとても美しく見えた。大きな鍋にたっぷりの湯を沸かすと、部屋中真っ白な蒸気に包まれる。フライパンにひいた油は香ばしい匂いを放って、食欲を余計に湧かせる。用意した食材は全部そこへ放り込んで、思いっきり強火で炒めた。それはもう、親の敵のように炒めた。少し固めに茹で上がったパスタは、そのまま一緒にフライパンへ。ケチャップは、入れすぎな位入れて、炒め過ぎな位炒めるのがポイント。
 全部、母さんが言っていたことだ。

 出来上がったのは、真っ赤な色をしたナポリタン。懐かしい匂いが部屋中に満ちる。大きな1枚のお皿に全部盛れば、小さなコーヒーテーブルは、それだけで埋まってしまった。小皿に好きなだけ取って、二人して食べた。ひたすら食べた。
「おいしい」
「うん、おいしい」
 お皿がすっかり空になるまで、おれ達はそれしか言わなかった。それ位夢中になる程、ナポリタンは美味しかった。今まで食べたどの料理よりも、愛おしい美味しさに溢れていた。
「ああ。こんなにおいしくできるなんて、思ってもみなかった」
 おれは空腹が満たされた幸福で、頬が緩みっぱなしだった。獄寺君もそのようで、先刻の緊張しきった顔はすっかり成りを潜めていて、にこにこと、いつものように笑う。口元がケチャップで真っ赤に染まっていて、それが余計に子どもっぽさを際立たせた。
「10代目、さすがですね!料理まで上手でいらっしゃる」
 普段通りに戻った獄寺君の口調は、相変わらず変な敬語混じりで苦笑してしまう。
「これ、小さい頃母さんがよく作ってくれたんだよね。だから、思い出しながら作ったら、上手く出来たんだ」
「へえ、お母様が……。いわゆる、おふくろの味ってやつですね」
 そう言った獄寺君は笑顔なはずなのに、どこか寂しげに見えた。おれは彼の母親についてをふと思い出す。そうして幸福の中にある、ぽっかりと小さく空いた虫食い穴のような悲しさが、彼を今襲っているのだと気付いた。その悲しさを少しだけでも分かち合えたらいいと、おれは彼に触れた。
 きっと一生埋まることのないその小さな穴を、少しの間だけでも忘れさせる事ができたなら。その為だけに彼の傍にいなければと、おれは思う。
 彼がどうか一生、暖かい手を触れ合って、美味しいご飯を食べて、生きて行けますようにと、いるのかいないのか分からない神様に願った。
 それらは全て生きる意味であり、おれと獄寺君が離れる事のない理由となるのだ。

 おれは、今、言わなければと思った。
「もしマフィアのボスになったとしても、おれは死なない。おじいちゃんになって、君と一緒に庭に咲く花を見ながら、ああ今年も綺麗に咲いたね、なんて話しながら、そのまま眠るように死んでしまうまでは。だから、獄寺君も、死なないと約束して。右腕として死ぬことは許さない。もっと大切な、死ぬ寸前に、ああ、この人と最後まで一緒に生きてきてよかった、って思えるような相手として、一緒に幸せを噛み締めながら死ぬんだ」
 きっと守られることのない約束を、おれは心を込めて言った。そうして小指と小指を絡めて、彼が頷くのを待った。その細い首が小さく傾くのを確かめてからおれは、小さくありがとう、と呟いた。彼の肩越しに窓を覗けば、群青色の空に一番星がきらりとまたたいていた。

 近い将来、きっとリボーンの言う通り、おれはイタリアでボスとして一生を過ごすことになるだろう。そして遠いイタリアの空の下、今日食べたナポリタンの味や、夏の夕暮れと蝉の声や、野球の音の響く校庭、家の壁の小さな傷を思い出しては、獄寺君と他愛も無いお喋りをしているのだろう。そうであればいい。
 家までの帰り道をひとり歩きながらおれは、明日山本に何て言おうか、と考えた。
 空には見事な満月がぽっかりと浮かんでいた。



「おれ、決めたんだ。とりあえず高校へ行く。そんで、17になったらイタリアに行くよ」
 自作のハンモックに横たわったリボーンは、こちらを一瞥するとすぐ、元の姿勢に戻って寝息を立て始めた。おれは苦笑して、学校へ行く準備を始める。
 今日はとても晴れていた。空が嘘みたいに真っ青で、よくもまあこんなに空は広いものだ!と思わせる。窓から見える庭木の木漏れ日が、ベッドの上にゆったりと波を作っていた。
 窓から外を覗くと、玄関先に、煙草の煙がゆらりと揺れていた。今度は苦笑ではなく、笑みが漏れる。急いで制服に着替え、鞄を取って下に向かおうとした。
「せいぜい、今のうちに甘い事言っておくんだな。どうせイタリアに行きゃあ、何もかも、180度変わっちまうんだ」
 ハンモックから聴こえる、容赦のない言葉。それでもおれは笑って言える。
「おれも獄寺君も、意外と強いんだ。もちろんお前もね」
「ばかなやつ」
 きっと今この小さな殺し屋は、満面の笑みを浮かべていることだろう。
 その顔を想像すると可笑しくて、おれは笑いをかみ殺して階段を駆け下りた。
「おはようございます!」
「おはよう」
 ドアを開けた途端、背筋を思い切り伸ばしながら、獄寺君は笑いかけてきた。おれも微笑みを返す。
 ただの朝の挨拶を交わすだけなのに、とても幸せな気持ちになる。どうしてこんなにも小さな幸せというのは、どこにでも転がっているものなんだろう。
 ただ見つけるのが難しいだけで、きっと、どこにでもあるのだ。
 おれ達は並んで歩きだす。その足取りは軽い。
 今日もこの道は、きらきらと輝いている。
 きっともう、小さな穴を自らこじ開けるように、悲しみを呼ぶような日々は終わったのだ。おれも、彼も。



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