ここ数日ですっかり冷え込みが厳しくなってきた今日この頃。窓の外では赤とんぼが求愛のダンスを踊っていたり、カラスが四部混声合唱団を結成していたり、鈴だの松だのの優美な名を冠した昆虫どもが自己表現を極めていたりする、今はまさに秋まっただ中だ。
いつも騒がしい文芸部室は、本日に限ってやけに静かなのである。その理由の一端は単に物理的なものであり、つまり普段騒音の元凶となっている人間が約一名現在この場におらず、次いでその約一名の騒音を誘発する他二名も時を同じくして留守にしているからだ。ただし静かだからといって丸っきり無音という訳ではなく、時折硬質なプラスチック音が室内にこだましているのは、俺と残り一名の団員とで向かい合い、プラスチック製のテーブルゲームをプレイしているせいだと補足しておこう。
長々と語ってはみたが、現状を一言で説明すると、古泉と二人っきり、というたった八文字に尽きる。
この憎たらしくも見目麗しき副団長殿と二人きりという状況はしかしさして珍しくもなく、したがってほぼいつも通りの光景を目の当たりにしつつも、この時俺はもしかしたらほんの少しだけ、頭のネジが緩んでいたのやもしれん。
そうでなけりゃ、突然こんな奇抜な質問など思いつくはずないだろう。
「どうして唇ってもんが付いてるのか、お前は不思議に思ったことはないか?」
俺の急な問いかけに、古泉は目を丸く見開いてこちらを凝視する。視線の主は一言も発することなく、俺は何かまずい質問でもかましたのかと焦りを覚えた。古泉はあたかも電車に乗り合わせたばあさんが目の前で倒れたみたいな困惑っぷりをその表情にあますことなく映し込んでおり、別に深い意味のない俺の疑問が、突如とてつもなく恥ずかしい発想であるかのごとく思えてくる。何故だ。俺はただ単純に、人間の身体の不思議に対する解答を知りたがっているだけじゃないか。いわゆる知的好奇心というものだ。なのに何故そこでその反応なのだ古泉。
だが一瞬表情を崩した古泉はあっと言う間に元の笑顔をキープし始め、こいつの顔は形状記憶合金ででもできているのかなどと思っていた矢先、男にしてはやけに艶やかな色をした唇をゆっくりと開くと、ボイスアクターにでもなれそうな美声を発した。
「あなたの唐突さ加減は時折予想もつかない方向に発揮されますね。僕としては非常に対応に困る訳ですが、今回はどうしてまたそんな疑問を? いえ、それ以前に、ほんとうにそれは疑問と呼べるのでしょうか」
どういう意味だそれは。しかし、うん、やっぱりその唇の赤さは異常だ。実は口紅でも塗っているんじゃないか。赤い、赤すぎるぞ。いつもより腫れぼったく見えるその赤い唇をひとなめして、俺の答えを待っているかのように古泉は視線を絡ませる。その仕草を見たせいか、自分の唇の乾燥までが妙に気になって、俺は古泉の真似して舌でそれを潤した。
「だって、人間の唇ってこう、外側にめくれてるじゃないか。他の動物でこんな形態してるやつがいるか? なんのためにこんな形してるんだろうかって、急に気になったんだよ」
自分の唇を指差しながらそう言うと、古泉は複雑そうに唇を歪めてこんな解説を始める。
「それは、人間が進化の過程で言語機能を有するようになったためではないでしょうか。口唇がこの形をとっているからこそ我々は独自の複雑な言語体系を使いこなせているのですし、必要な器官だとは思いますよ。それに」
そこで言葉を一端区切り、古泉は自らの唇に指を当てると、口の端を微かに持ち上げ、笑みとも判別のつかないような形を作り出した。その目つきは不穏だ。まるで雷雲の訪れを予期させる空のような色をしている。
ここにきて俺はやっと、自分がとんでもなく馬鹿な質問をしてしまったのだと予感し始めていた。
「ご存知の通り、唇は性行為において重要な役割を果たします。古来から日本ではキスを交わすことは性行為の一部とされ、また唇による愛撫の方法も数多く存在している。口唇器官をそのような目的に使用するのは、勿論生物間では人間のみですからね。さて、人間がこのような形態の唇を持つに至ったのは、言語の発達を目的としてか、もしくは快楽へのあくなき欲求のためか、あなたはどちらだと思いますか?」
さてどちらかなんて俺に分かるはずもなく、それ以前にこの二択に正解が含まれているのかまず俺が訊きたい。大体質問に質問で返された理不尽さにもっと早く気づくべきだったのだが、悲しいかな、空気に気圧されるなどという失態を犯してしまった俺は、頭の回転が亀の回す車輪並みにスロウになっていた。
「それこそお前に訊きたいね。お前はどっちだと思うんだ」
馬鹿な質問だと、今ならば分かる。まるでマグロの群れに飛び込んだイワシのごときだ。自らみすみす餌として食われに向かうなど、自殺行為以外の何者でもない。古泉を見れば、想像通りの微笑がその口元に現れており、そこでまた俺は諦めとともに思うわけだ。ああ、俺はアホなのだと。
「試してみましょうか? まずは快楽のほうから」
そう言って歪められた古泉の唇の赤さが目に焼き付く。恨めしい、憎らしい、悔しい、次々と押し寄せてくるそれらの感情が、その赤によって封じ込められることなど明白で、さて俺はすでに自分の感情の変化を否定する気力も湧き起こっちゃいない。
成り行き任せに目を閉じると、すぐにあたたかな感触が唇に触れた。見えずとも、網膜に残る赤色は触覚を敏感に刺激する。不思議なほど、ぞくぞくと背筋に走るものを感じる。自分の欲求が言うことを聞かないのはいつものことだが、今日はさらにひどい。名残惜しげに舌が追いかけるのを、古泉は丁寧に応える。水音がささやかに響くのを聞きながら、意識は遠く天上を彷徨っていた。
ようやく離れた唇が、言葉を紡ぐのを目に映しながら、俺はまた考える。赤い、やっぱり赤いのだ。
「僕はいつも思うんですよ。あなたのそれは、確信犯なのではないかと」
ひどく赤い唇は、やわらかく弧を描いて、再び薄く開かれた。
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「部室でキス」ネタをくださったかた