今は遠くへいる人 つまみぐい本文サンプル



彼と彼の猫の話 | エトランゼ | 同じ空の下

彼と彼の猫の話

 彼の家には猫がいる。彼の猫は世にも珍しい、オスの三毛猫だ。

 彼の猫は、最初から彼の家にいたわけではない。彼と彼の猫が初めて出会ったとき、それは僕と彼の猫との、最初の出会いでもある。彼の猫を僕らの元に連れてきたのは、世界を創り出すことのできる、愛すべき僕らのリーダーだ。野良猫の群からあの奇跡の猫を引き当てたのは、間違いなく彼女の力であり、不思議というには、あまりに壮大すぎる力をもった彼女――涼宮ハルヒのおかげで、彼の猫は彼の家に居をかまえることとなったのだ。
 彼の猫は、名をシャミセンという。この、猫に対して最高に不適切な名前をつけたのは涼宮さんだが、彼も彼の猫も名前に関して、特に不満はないらしい。だから僕も遠慮なく、シャミセンと呼ばせてもらっている。

 今日も彼の部屋のベッドの上で溶けたアイスみたいに丸まって眠る彼の猫の背中を撫でながら、僕は夕飯について思いを巡らせている最中だった。温かな毛の感触が眠気を誘うが、机の上に広げられた彼のノートは未だ真っ白のままだ。役目を果たすまでは、居眠りなどもってのほかだった。
 僕がなぜ彼の部屋で彼の猫とくつろいでいるかといえば、これもまた、涼宮さんの提案にほかならない。
 涼宮さんいわく、彼の成績はとうとう低空飛行から空中浮遊程度にまでソフトランディングしてしまい、このままでは進級も危ういのだそうだ。今度の期末テストで平均点以上取らなければ死刑、と言い放った彼女はここ数日、部活中つきっきりで彼の勉強をみているのだが、さすがに彼の家にまで上がりこむのは気がひけたのか、僕に彼の家庭教師を依頼してきたのだ。
 その提案に最初、思い切り顔をしかめた彼だったが、彼女のもはや恐喝に近い説得に折れ、とうとう彼の首は縦にふられたのだった。

 部屋の主である彼は現在ここにはいない。彼は今、彼の妹に強くねだられて、階下でおやつのホットケーキを作らされている。ホットケーキミックスを使うからそんなに時間はかからないだろうと彼は言い、しかしそれからすでに三十分程度経過していた。
 彼はよくよく、妹に対して甘いのだ。もしかしたら勉強から逃げるための、体のいい口実なのかもしれないが。
 甲高い彼の妹の声、それから泡立て器とボウルのぶつかる音が、フェードアウトの瞬間のように控えめに耳に届く。ああ、いい家の音だな、そう思う。
 僕は彼の家が好きだ。柔らかで温かで、居心地のいい家というのは、きっとこういうものなのだろう。
 だからどんな理由であろうと、彼の家でこうやって、ひとときでも過ごせるように取り計らってくれた涼宮さんには感謝していた。その一方で、もったいないなとも思う。彼女が自ら彼の家庭教師を買って出ていたならば、彼女こそが今の僕のような気分を抱いていただろうし、そうなれば彼女の心の平静は、ますます保たれただろうに。
 彼のベッドにもたれ掛かかり、柔らかな羽布団に頭を埋めたら、鼻先を動物特有の細長いひげがくすぐった。彼の猫がとぐろを巻いているところに、僕は顔を近づける。彼の猫の体は、ミルクのような甘い匂いがした。数ヶ月に一度、満身創痍になりながらシャンプーをするのだと、以前彼が言っていたのを思い出す。のんきに寝こける彼の猫は、なんにも考えていないように見えた。それはもう、幸せそうに。
「あなたはいいですね、この家はとてもいい。あなたは涼宮さんに感謝すべきです」
 僕は冗談まじりに呟いた。もちろん、受け答えなど万に一つも期待せずに。彼の猫は耳をぴくりと動かして、面倒くさそうにこちらに顔を向ける。そうしてあくびを一つ。
「ふむ、そうかもしれん。私がここにいる要因の一つは間違いなく、彼女が私を選択したからに他ならないだろう。しかし果たして私が感謝をすることで、彼女に何か恩恵をもたらすのだろうか」
 ばちばちと油のはねる音、それから彼の妹の嬌声が、階下から小さく聞こえてくる。
 僕はとりあえず、無意味に部屋を見回した。当たり前だが誰もいない。彼の部屋のテレビは画面に何も映してはおらず、またラジオも無線も見たところ置かれてはいない。大体、テレビやラジオから万が一の確率でも、自分の独り言に対する答えが返ってくるとも思えない。
 目の前には猫が一匹。それだけだ。そして僕は、猫が人語を話す可能性がゼロパーセントではないことを、よく知っている。







エトランゼ

 冬だというのに、庭には黄色い小さな花が一輪咲いている。縁側に腰掛けた古泉一樹は、それを茫洋とした面持ちで眺めていた。
 荒れ果てた庭は伸びきった雑草に埋め尽くされていて、とても「庭」と呼べる代物ではない。それでもこの家の主人が「庭」と呼ぶものだから、無下に否定はできなかった。
 あの花はなんというのだろうか。ふと古泉の頭の中の二割ほどをその疑問が占め、残りの八割はほどよく混沌としている。まもなく疑問は霧散し、十割の混沌が訪れるだろうことが分かっていながら、古泉の視線は黄色の花に向けられたまま微動だにしない。
 そのうちに、奥の間から張り上げられた声が、古泉の耳に届いた。
「飯ができたぞー」
 声の主はこの家の主人である。どこか達観したその物言いを、古泉はよく知っていた。しかしすぐのち部屋へと顔を覗かせたその姿は、確かに古泉の知る彼そのものとは言えなかった。
「早くしないと冷めるぞ」
 続けて聞こえてきた言葉とともに漂ってくる、かぐわしい出汁の匂いに、すぐさま古泉の意識は十割がた奪われた。奥に引き返そうとする男の背に、古泉もそのまま続いた。
 奥の間といっても、ただ台所と地続きの板の間である食堂である。木造平屋建ての家は内装も古くさく、昔よく遊びに行った田舎の祖母の家を思い出させた。食堂には年代物であろうマホガニーのテーブルが備えられ、食事はいつもこの場所でとる。時折どこかからごうごうと耳障りな騒音が聞こえるかと思えば、それは台所の換気扇が回る音だったりする。初めて目にしたときには、未だに羽根式の換気扇があるのかと、古泉は無意味に感動を覚えた。
 卓上に用意されている朝食は豪勢だ。際立って客人をもてなそうという気概もなく、元々毎日きちんとした食事を作っているらしい。炊きたての白米に、豆腐とワカメのみそ汁、ぶりの照り焼き、わけぎのぬた和え、出汁巻き卵、自家製の浅漬け。それらが二人分、ずらりと並ぶ食卓は壮観だ。少なくとも古泉はここ数年、このような見事な朝食など食べたことはなかった。
 見た目だけではなく、味もいい。この家に世話になって五日目であるが、家の主は全日とも、朝昼晩の三食を丁寧に拵えている。
「男が一人暮らし始めると、たいがい料理が趣味になるんだよ。それを三十年近く続けてみろ、へたな料理屋よりよっぽどうまくなる」
 男はそう言って笑った。
 席に着くとどちらからともなく合掌し、「いただきます」と言いあった。古泉は早速、湯気を立てる照り焼きに箸をのばす。少し甘めの味付けがご飯によくあうのだ。照り焼きは数ある男の手料理のなかでも、特に古泉の気に入りの好物だった。
「古泉は好きなものから先に食うタイプだよな」
 すぐに言い当てられ、恥ずかしくなる。たったの一度だって古泉は、男に好物を告げたことはなかった。
「ぶりの照り焼き、ハンバーグ、からあげ、添え物のコーン、それからイチゴ」
 いささか子どもっぽいとも思えるメニューを指折り挙げてゆく男の口元は、昔を懐かしんでいるかのように緩んでいる。口調は少しのからかいを込めてもいる。しかし古泉は反対に、恥ずかしさを通り越して、男の記憶力に動揺を覚えていた。
「……どうしてそんなことまで覚えてるんですか」
 それらはすべて、今の古泉の好物――つまり、男から見ればもう三十年も前の記憶であるはずなのだ。







同じ空の下

 覚醒して最初に目に入ったのは、リビングの高い天井だった。ゆっくりとまばたきを繰り返すと、ぼやけていた視界がだんだんと鮮明になってゆく。どうやらソファに転がって本を読んでいる最中、まどろむまま午睡に向かったらしい。首がやけに痛いのは、おかしな体勢で居眠りをしてしまったせいだろう。アームレストに預けていた頭を持ち上げ、床に落ちてしまっていたクッションを引き寄せる。
 身体を横にしたまま、大きく伸びをした。壁にかかった時計を見遣る。針は午後三時半を指していた。そろそろ部屋の主が帰ってくる時間だ。ゆっくりと彷徨っていた眠りの淵を行き来しながら、僕は適当にカウントを始める。同居人の帰宅まであと十分程。ただの勘だ。だが僕の勘はよく当たる。その昔期間限定で得ていた、役立たずの超能力の賜物なのかもしれない。
 予感の通り十分が過ぎた頃、車のエンジン音が遠くかすかに聞こえてきた。それはどんどんと近づいてきて、間もなくアパートの窓を振動させながら停止した。それからしばらく鳴り続けていた唸り声のような音が止んで後、ドアの開閉音が小さく響いた。
 さわがしく階段をのぼってくる靴音に耳を傾ける。鳴り止むたび、残響音が鼓膜をくすぐるような錯覚を覚える。古いアパートの中心は吹き抜けになっており、床を踏みしめるたび硬質なリズムが、何倍にもなって部屋にまで届く。
 僕はソファに沈めていた身を起こした。胸の上に乗ったままの本がばさりと音をたてて落ちた。それを拾い上げてから窓際まで進み、格子窓からアパートの前庭を覗く。すると見慣れた赤のワーゲン・ゴルフ(車に詳しくないので詳細は分からないが、ずいぶんと古い型のものだ)が、植え込みにタイヤを食い込ませているのが目に入った。瞼を擦り、大きく腕を伸ばす。そうして次の瞬間を待つ。
 やがて騒音は鳴り止み、次に玄関の扉が大仰な音をたてて開かれた。リビングの入り口に現れた大男は、挨拶も何も口にせず、大股歩きで窓際に立つ僕の前へと歩み寄った。その大きな身体から発せられる威圧感に、僕はいつまで経っても慣れることがない。それを知ってか、男はいつも僕の前で、身丈をわずかに屈ませる。深く澄んだ碧の目が自分の姿を映す。異国の色。日本にはない湖の色だと、僕はいつも思う。
 男は僕の目の前へ、ずいと何かを差し出し言った。
「イツキ、お前宛に手紙が届いてる」
 それは和紙でできた封筒だった。流暢な異国語で発せられた言葉に、僕は片手をあげて答える。
「ありがとう」
「珍しいじゃないか、お前に日本からの便りだなんて」
 男は碧い目をしばたかせ、くつくつと笑う。その様子に一瞥をくれ、僕は受け取った封筒に目を落とした。宛先を記す拙い筆記体は、エアメイルを出し慣れていない日本人特有のものだった。裏返し差出人の名を確認する。思わず首を傾げた。同時に、まさか、とひとりごちた。封筒を持つ手がかすかに震える。まさか。もう一度、掠れた囁きを繰り返しす。
「なんだ、まさか昔の恋人からじゃないだろうな」
 僕の様子がよほどおかしいのか、男がからかいの言葉を投げかけてくる。たしかに僕は動揺していた。それはもう、ありえないほどに。男の興味津々な視線が、挙動不審な僕に容赦なく突き刺さる。
「……日本の友人からです」
 いたたまれなくなった僕は、できそこないの笑みをどうにか浮かべ、そそくさと自室に引き返した。扉を閉め、まっすぐにライティングデスクへと向かう。ペーパーカッターで封を切ったとたん、おそらく気のせいだろうが、懐かしい匂いがあたりに漂ったように感じた。この部屋になじまない匂い。故郷の空気のそれ。仕舞い込んでいたなつかしい感情が、堰を切ったように溢れ出す。椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと目を閉じた。便箋を開く勇気はまだ、湧かなかった。


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