ポストに遠い国の絵葉書がカタンと音を立てて落ちる。そんな風にして、それは突然やってきた。掌中の林檎が落ちたことにも少年は気付かなかった。赤い実は渡り廊下の陰影のあいだを転がって、誰かの足元の前でちょうど止まる。
「はい」
白い手だった。
「わるい」
少年はことさらぶっきらぼうに言って、それを受け取った。白い手の主が微笑んでいるのがそれとは対照的だった。年の頃なら同じ。けれども、まるで違う世界を生きているようだ。この世のものでない。触れた指があまりに冷たく白かったせいだろうか。
どういたしまして、と白い手の彼は異国語で言い、去ってゆく。
「キョン!」
少年は名前を呼ばれたが、しばらく振り返られないでいた。林檎を齧るとひどく酸っぱくて、くそ、と吐き捨てた。
転校生の名を古泉一樹と言う。五月に転入してからこっち、教師の人望を瞬く間に集め、生徒には遠巻きにされている。何でも丘の上の屋敷で使用人に囲まれた暮らしをしていて、以前は外国にいたらしい。色素が薄く、整った目鼻立ちのわけは外国の血が混じっているとかいないとか。
「あの蜂蜜色の髪のやろうは」
とキョンが言い出すやいなや、生徒たちは次々に口を開いた。嘘かまことか。中には「同性愛者らしい。この間、二年の先輩と藤棚の下で……」とか、「吸血鬼らしい。この間、隣の女学校の生徒とはずれの墓地で……」とか、眉唾ものの話もあった。彼がこの学校に来て以来約半年経つが、誰もが彼のことを「転校生」という代名詞ありきで語る。それが古泉一樹という少年をわかりやすく示していた。
「転校生ももちろん不思議だけど、僕はそれ以上にそんな転校生の存在に今の今まで気が付かなかったキョン、君のほうが不思議だよ」
国木田はナイフで鉛筆を削りながら、言った。仕上げにふうっと息を吹きかけ、それを机の上に等間隔に並べていく。キョンはそのひとつを手に取り、窓の陽にかざして見た。針のように芯は尖っている。国木田が吹き落とせなかった屑が半ズボンの膝に落ちた。
「今日は先に帰っていいぜ」
「あれ、今日、妹さんの迎えの日だっけ」
キョンは答えず、席を立った。椅子の背にかけてあった外套を簡単にまとって教室を出る。窓からは校門がよく見渡せた。紺色の外套の波の中、ひとり真っ黒な外套を着た生徒が歩いていくところだった。
一雨来るな、とキョンが呟いたのは、墓地を過ぎ、丘の中腹に差し掛かろうかという頃だった。それと同時か、その直後に、前を歩いていた転校生も本から顔をあげたので、キョンは驚いた。すっかり本に夢中で、空模様など目に入っていないと思っていたからだ。よもや尾行にも気付かれちゃいまいな、と不安になる。が、それも一瞬だった。転校生は再び本に視線を落とす。
丘は町のはずれにある。裾には西洋風の墓地があり、そこからはひと気のない坂道が延々続いていた。転校生は慣れた風に悠然と読書しながら歩き、キョンはその後に続いた。よくもまあ本を読みながら坂道を歩けるものである。後ろからこそこそとそんな姿を見つめているうちに、キョンは急に馬鹿らしくなってきた。
俺は一体何をしてるんだ。転校生の後なんかつけて。気になるんだったら声をかければいいだけの話だ。それに転校生も転校生である。あれだけこの世のものでないような香りをふりまいておきながら、疎すぎる。急に姿を消すなり、怪しげな呪文を唱えるなり、墓地で「みーたーなー」と振り返ってみるなりしてもいいではないか。
そんなことをもやもや考える自分もまた馬鹿らしい。胡桃の木陰で、ふと足を止めた。
白い手だったな、と思う。
目をつむると、もはやそれは遠い夢の中の出来事だったかのように思われた。しゅんと林檎の酸味が舌に蘇る。キョンは首を振った。頭上で葉が揺らぐのが見えた。やがて鼠色の空から雨粒がほてほてと落ちてくる。
晩秋のどこかうら寂しい配色のなかで、やみ夜のような転校生の外套はよく映えた。頁に落ちた滴に気付いのだろう、素早い動作で転校生は本を外套の中にしまう。そしてフードをかぶると、来た道を引き返してきた。胡桃の木まで来ると、はあ、と息をつく。先客に気付くと、
「やあ」
と言った。
「お邪魔しますね」
フードの陰で、飴色の瞳がきらりと光った。
キョンはなぜかどぎまぎして、自分の外套にフードがなかったことを悔やんだ。雨の具合を確かめるふりで視線を逸らす。言葉は出てこなかった。外国にいたらしい、同性愛者らしい、吸血鬼らしい、級友たちの声が頭の中で響いた。放課後は図書室で、ドイツ語の本を読んでいるらしい。いやフランス語だったか、ラテン語だったか。板書も流麗なアルファベットで筆写しているらしいぜ。
横顔をそっと盗み見る。
目が合った。
「キョンというのは、本名ですか」
転校生は笑っている。尾行も気付かれていたに違いない。なぜかキョンはそう確信した。
「あだ名だよ」
ふいと顔を背けてキョンは言う。転校生は気にした様子もなく、笑顔のまま続けた。
「そうですか。申し遅れましたが、僕は……」
「いい。知ってる。古泉一樹、だろ」
そこでようやく古泉は笑うことをやめた。ほんの少し口をひらくようにして、驚いているようにも見えた。覗いた舌に、薄い氷のような半透明のかけらがのっている。すん、とキョンが鼻を鳴らすと、
「はい」
古泉はどこから取り出したのやら掌に飴をのせている。薄荷だったら遠慮願いたいとキョンは内心思っていたが、なんとなく口に出すことはできなかった。薄荷の香りを漂わせ、古泉はキョンを見つめている。キョンは息をのんで、ええいままよ、と飴を口の中へと放り込んだ。
甘い。それから、酸っぱい。
「林檎?」
キョンが尋ねると、古泉は「うん」とだけ答えた。大人びた話し方をするものだとばかり思っていたから、キョンは呆気にとられた。
「いつも林檎食べているでしょう、中庭の木の下で。教室からよく見えるんです」
古泉は下を向いていて、フードで顔は見えなかった。ただ濡れた蜂蜜色の髪に滴が光っていた。きっと舐めたら甘いだろうとキョンは思った。胡桃の実がぽとり、と落ちる音がした。
キョンの奴ついに禁断の果実を齧っちまったらしい、えっキョンってあのキョンか、そうあのキョンだよそれ以外に何のキョンがあるっていうんだ、あっほら噂をすればなんとやらだ。口さがない生徒たちのおしゃべりが聞こえてくる。放課後、校門を見下ろす窓の前にはいくつかの人影がある。校門脇の銀杏の下には、黒い外套の古泉が佇んでいる。歩いてくるキョンに気付くと、やにわに顔をあげ、近付いてゆく……。
「こんにちは」
キョンは気付かないふりで通り過ぎようとした。早足で校門をくぐる。後ろから控え目な足音は聞こえてきていたが、振り返ることはなかった。そそくさというにふさわしい動きで、並木道を抜ける。生徒のささやき、笑い声。
「待ってください」
と古泉がキョンの肩に手を伸ばせば、それはいっそう大きくなった。思わず、ぱしん、と手をはねのけてしまう。振り返ると、古泉は俯き、足を止めていた。
「ああ、もう、くそ」
忌々しい、とキョンは呟く。こうなりゃやけだ、とも思った。ずんずんと古泉のところまで戻り、手首を掴むと、そのまま駆け出した。丘の方の道へ行く生徒は滅多にいない。苛々と恥ずかしさもあいまって息はすぐ切れたが、自分の呼吸で周囲の音が聞こえないのは助かった。
墓地の前まで来ると、キョンは足を止めた。
「古泉、お前ってやろうは」
と続けようとしてやめる。古泉は上半身を折りたたむようにして小刻みに震えていた。掴んでいる手首がそれと分かるほど脈打っている。キョンはハッと手を放して、古泉の顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か。もしかして具合でも悪い……」
「く」
くるしい、と息も切れ切れに古泉が言う。転校生は不治の病を患っているという噂があるのをキョンは思い出した。なんでもよく胸の辺りを押さえては苦しげな表情をしているとかいないとか。この発作は無理やりに走らせたからに違いない。
頭の中が真っ白になった。
「古泉、死ぬな。お願いだから死んでくれるな。いくらここが墓地だからとはいえ、死の影に惑わされるな。お前はまだ若い身空だ。な! 頼むから生きろ、生きてくれ、死ぬな」
とにかくまくしたてる。
その間にも古泉は「く」とか「うう」とか漏らしながら、身を縮こませていった。
「く、くく……く……は」
何やら様子がおかしいとキョンが気付いたのは、古泉の漏らす声に「は」が混ざり始めたころである。やがて「は」ばかりが続くようになった。
古泉は目に涙まで浮かべて、笑っていたのだった。
失礼いたします、と近付いてくる気配にもキョンは顔をあげることはなかった。軽く腰掛けているだけなのに、やけに深く沈む長椅子さえ今は腹立たしい。キョンはおろか古泉すら喋らないので、聞こえる音といえば、かちゃかちゃと陶器の触れあう音くらいのものであるが、それもすぐにやんだ。給仕の女性は入室してきたときと同じくらいの気配の無さで退室する。そこは丘の上の屋敷の一室だった。
墓地での出来事の後、そのまま踵を返そうとしたキョンの手を捕まえたのは古泉だった。平らな並木道とは違って丘だったので駆けはしなかったが、キョンは古泉に手を引かれ屋敷まで歩かされた。と思えば、部屋にまで通されてしまった。
ほわほわとのぼる湯気を隔てて、古泉はつとキョンを見る。
「お茶、もしよろしければどうぞ。冷めないうちに……」
言い終わらないうちに、キョンはカップに口をつけていた。ひとくち飲もうとして舌に触れた熱さに飛び上がる。
「あっつ」
ただもう熱いのと、情けないのとで涙が出た。
「なんでこんなに天井が高いんだ、この家は」
天井を見上げると、その分体はクッションに沈む。屋敷はとにかく広く、古かった。そして静かだった。
「僕も同感です。一人でいると全くいやになる」
「だから、夜な夜な誰かを連れ込んでるのか」
つまらない噂のひとつだった。
「残念ながら、誰かを連れ込んだことも、人の生き血をすする趣味もありませんよ」
古泉はいかにもつまらなそうに言う。
「学校のときとはえらく態度が違うんだな。つまらん噂を野放しにしてるのは、お前じゃないか」
「でも、少なくとも、あなたは信じていないでしょう」
それがどうした、とキョンは言いかけて口をつぐんだ。古泉は何か言いたげな目をしたが、結局それ以上は続けなかった。テーブルを指でひとつ叩き、沈黙する。大人びた仕草とはうらはらに、あの黒く、ものものしい外套を脱いだ古泉は今、ただの少年にしか見えなかった。
なんだってこんなとこに来ちまったのかと古泉の伏せられた睫毛を見ながら、キョンは思った。屋敷の天井は高く、墓地のように静かで、それこそ吸血鬼にはふさわしいかもしれないが、普通の人間には向かないように思えた。
「……お前の噂をたくさん聞いた。聞きたくもないが、耳に入ってくるからな」
キョンはふうふうとカップに息を吹きかける。波打つ表面からは林檎の香りがした。
「あなたが『そんなこと現実にあるわけがない』と級友達の囁きを一蹴しているのを見たことがある。あれはおかしかったな。木陰で物語の本を開きながら、あなたは言ったんですよ。『読書の邪魔だ。今一番いいところなんだ。牧師が吸血鬼を』って」
古泉は心底楽しげに、にこにこと笑いながら言った。
「物語を読んで、わるいか」
「いえ、なんだか、不思議な人だな、って思ったんです。普段のあなたの態度は、物語に入れ込むタイプにはとても見えませんでしたから」
「うわ、物語のそのものだ、と思ったがな」
「え?」
キョンは長い溜息をついた後、忌々しげに呟いた。
「どこの王子様かと思ったぜ」
アップルティーを飲み干し、カップを置くと、古泉が「それってほめことばなんでしょうか」と真剣な顔で聞いた。頭を小突いてやった。
使用人に見送られ、屋敷の玄関を出た後、門までの道を二人は歩いた。敷地内にはそこかしこに薔薇が咲いていた。垣根のようなもの、アーチに絡まったもの、温室のなかのもの。古泉もキョンも一言も喋らなかった。再び言葉が発されたのは、門を出て、二三歩進んだときだった。
「さっきの話の続きだが」
古泉は首を傾げる。キョンは「お前の噂の話だ」と付け加えた。
「九割くらいは嘘だと思うが、残りの一割は本当だって気がする。たとえば、『丘の屋敷で使用人に囲まれて、たったひとりで暮らしている』」
古泉は首を傾げたまま、笑った。
「さて、どうでしょう」
しばし見つめあう。先に視線を逸らしたのはキョンの方だった。
「……ま、いいけどな、別に。俺はどうだって」
見送りはいらん、とひとこと言い放つ。古泉はまたあの黒い外套を身につけていた。
「じゃあ最後にひとつだけ、本当のことを」
古泉は俯いてくぐもった声で言った。
「死ぬな、と言われてうれしかった。涙が出たんです、本当に」
「本当に、と言うのが、また嘘くさいな」
「判断はあなたに任せますよ」
俯く古泉のフードに黄色い何かがくっついているのをキョンは見つけて少し笑った。手を伸ばしてそっと摘まむと、銀杏の葉だ。古泉はずっと待っていたのだ、と思った。蜂蜜色の髪が揺れていた。おそるおそる触れると、予想通り柔らかく、どことなくあたたかい気がした。
「本当のことが、もうひとつだけあるのに、もう言えない」
古泉が言った。髪の毛をくしゃりと触るキョンの手を捕まえる。キョンの驚いた顔が古泉の瞳いっぱいに映った。銀杏の葉が風にさらわれる。黒と紺の外套が重なり合って、すぐに離れた。
初めてのくちづけは、林檎の味だった。