午后の図書室に向かうと、いつも彼が一人で本を読んでいる。彼と古泉は同学年であるが、同級ではない。実際のところ、彼の本名すら古泉は知らない。しかし休み時間や移動教室で、彼を見かける機会は多く、それはなんともなしに、彼の居立ち振る舞いが目立って見受けられたからだった。
古泉はことあるごとに彼に目を留めた。彼は級友達から親しげに「キョン」という渾名で呼ばれていた。口にしてみれば不思議な響きを持っていて、まるで異国の言葉のようだと、古泉はいつも思う。そんな風に級友に囲まれており、見たところ友人がいないわけでは決してないのに、放課後になると彼は必ず一人でその場所にいた。
裏の林を臨む窓際の、閲覧机の一番端が彼の指定席だ。はらはらと捲れる頁をまるで気にせず、開け放した窓から入る風に、洗いざらしの真っ白な、開襟の半袖が揺れる。さながら活動写真の一場面を思わせる光景を、瞼の裏にまで焼き付ける。わざと彼の座る対岸逆端の席を取り、本を眺める振りをしては、時折窓際の彼を盗み見るのが古泉の日課だった。彼の持つ漆黒の髪は、古泉の憧れだった。彼の髪色も眼も、闇夜に紛れた烏の羽を思い起こさせた。夜露に濡れたように光るそれは艶やかで、瑠璃色混じりの硝子玉みたいに不思議な色をしている。
夏休暇も終わり、そろそろ半袖の制服では肌寒さを覚える九月の半ば。今年は例年よりも気温の上り下りが激しく、古泉は二学期に入ってからすでに二度も、体調を崩して学校を休んだ。
二度目の病明けは半休の土曜だった。その日の午后、古泉が図書室に来たのには理由があった。貸出予約をしていた本が、ようやく返却されたという連絡が入ったのだ。そういった旨の連絡は、学生課の掲示板に貼り出される決まりとなっている。それを目にして折、古泉は口元が緩まるのを抑えられなかった。
件の本はすでに絶版になっている宗教画の画集で、一目見たいとは思うものの、古泉の小遣いではとうてい買える代物ではなかった。そこで図書室に頼る他なかったのだが、いつまで経っても貸出中のまま、一向に却ってくる気配がない。待ちに待たされ諦めてかけている頃だったのだから、喜びも一入だった。
浮き足立ち図書室に向かったところ、しかし司書室には誰もいなかった。貸出カウンターも勿論無人で、いったい誰に訊ねたものかと、古泉は途方に暮れた。仕方なしに、新刊棚から小説文庫を一冊抜き取り、閲覧机のいつもの席に腰を下ろす。係の者が来るまで、暇をつぶす算段だった。対岸向こうには、やはり漆黒の彼が座していた。古泉は横目でちらと彼の姿を捉え、それからすぐさま手元の本に視線を落とした。
「古泉一樹?」
それから十分ほどして、声が掛けられた。適当に手に取った小説が意外と面白く、夢中になっていたものだから、突如現実へと引き戻された感覚に陥り、わずかに反応が遅れた。
顔を上げると、あの烏羽色の眼が古泉を見下ろしていて、思わず身が引き締まった。続いて彼が自分の名前を知っていることへの、驚きを感じるよりも早く、彼の声を初めてまともに耳にしたことに、古泉はかすかに胸のざわめくのを感じた。硬質で少し低めの声は、古泉の思い描いていたものよりいくらか違っていたが、古泉の想像の中の声よりも、本物はよほどしっくりと耳に馴染む。妙なる声とは言い過ぎだろうが、鼓膜を優しく震わす音色だ。黙したままじっと顔を見つめていたせいか、彼は苛立ったように眉根を寄せ、もう一度言った。
「お前、古泉一樹だろう?」
「……はい」
古泉は、恐る恐るといった風に返答した。
「貸出予約の本を、受け取りにきたんだろう」
さっきと同じ表情のまま、彼はぶっきらぼうに言葉を投げかける。どうやら怒っているわけではなく、元々こういった話し方のようだった。古泉は黙って頷いた。どうして彼がそのことを知っているのか、驚きのあまり咄嗟に声を発することができなかったのだ。
「悪かったな。俺、図書委員なんだ。カウンターを覗き込んでたのは気配で解ったんだが、どうしてもこれだけ読み終えたかったから、声を掛けるのが遅れた」
これ、と言って彼が掲げたのは、最近文庫で復刊された古典SF小説だった。古泉はすでに読了しているものだ。彼の言い分はなるほど尤もで、ついと笑みが零れる。
「ああ、それでしたら仕方がないですね。最後の百頁ほどは、どうしても目が離せない」
古泉の返事に、彼はようやく眉間に入れた力を崩し、少年らしい笑みを覗かせた。
「ちょっと待ってな」
彼はそう言うと、司書室奥の蔵書庫へと向かった。オープンスペースである司書室とは違い、蔵書庫は専用の鍵がないと入れない。稀少本や絶版本など、表には出せない本が眠っているのだと、噂には聞いている。それは十中八九真実に違いないが、時折耳にする、本物の魔術書や開くと死んでしまうという本の噂は、さすがに本気で信じている者もいないだろう。
しばらくして蔵書庫から戻ってきた彼は、三十センチ四方の分厚い画集を、両腕で抱えるように持っていた。
「これでよかったか? ああしかし、重くてかなわん。本当にこれ、持って帰れるのか」
手渡された画集の表紙はたしかに、古泉の心待ちにしていたそれに違いなく、自然と顔の綻ぶのが、自分でも解るほどだった。黴臭い匂いが鼻につく。それすらも贅沢な装飾物のように思えた。
「貸出カードに記入するから、もう少し待っていてくれ」
古泉は大事そうに画集を抱えながら、彼の背中を目で追った。貸出カウンターに入った彼は、抽き出しを掻き回しながら、声を投げ掛けてきた。
「古泉、九組だったよな。出席番号は」
「十二番です」
古泉はそう答えてから、また驚きに目を丸くした。彼が自分のクラスを知っていたことが、不思議でならなかったのだ。
「僕をご存知なんですか」
「ああ、そりゃあだって、」
言葉は後には続かなかった。古泉のカードが見つかったのか、彼はカウンターの椅子に納まると、何やら書き込みを始めた。カツカツと、硬芯の走り書く音が鳴る。古泉はその様子をじっと眺めていた。彼がそれ以上の答えを話し出すのを、期待してのことだった。つまり古泉が知りたいのは、だって、の後に続くはずの何かだ。ただひたすら、その時を待った。
そのうちに期待通り、古泉の視線を避けるかのごとく瞼を落としたまま、彼は口を開いた。
「時期外れの転校生」
「え、」
「五月の頃は、お前の噂で持ち切りだった」
それは古泉にとって、なんとも拍子抜けのする返答だった。聞いたことをほんの少しだけ後悔する。黙り込んだ古泉をどう思ったのか、彼は無感情に言葉を続けた。
「それにお前、目立ってるぜ」
「まさか。あなたのほうがよほど、」
瞬間、言い淀んだ古泉の言葉に、今度は彼が目を丸くする番だった。
「お前こそ、俺を知ってるってのか?」
あまり答えたくはなかった。ずっと盗み見を繰り返していたことなど知れたら、気味悪がられても仕方がない。けれども烏羽色の眼が無言で訊ねてくる圧力に、とうとう古泉は観念した。
「……キョン、と呼ばれているのを、僕は知っています。それから、いつもここで、本を読んでいることも」
「……ああ」
彼は納得したとでも言いたげに、目を眇めた。そこには呆れに混じって、ほのかな親しみが込められている。
「あの莫迦が、いっつも俺を大声で呼びやがるからだな。恥ずかしいんだよ、余所の教室の前で遠慮の一つもありゃしない」
あの莫迦、と呼ばれた人間には心当たりがあった。彼と一緒にいるところをよく見かける女生徒だ。彼女は古泉とは違った意味で、この学校の有名人だった。
一言でいえば、彼女は奇人だ。古泉が転校して間もない頃、一度彼女が教室に訪ねてきたことがある。第一印象は悪くなかった。誰もが一目見て惹き付けられるような、殊更美しい容姿をした女生徒だ。彼女は、古泉の姿をみとめたかと思うと、開口一番言った。
「あんた、この学校の秘密を暴くために潜入してきた超能力者なんでしょ!」
あまりに真剣な彼女の思い込みは、古泉に多大な恐怖を及ぼした。どう好意的に解釈しても、まともな人間の発想とは思えなかった。古泉は彼女と、でき得る限り関わりあいにならないでおこうと、心に決めたのだった。
そんな彼女と、彼は仲がいいのか、二人でいるところに頻繁に出交す。たしかに古泉が彼の渾名を知っているのは、彼女の口にするそれを、何度も耳にしているせいだ。「キョン」と呼ぶ、鈴を転がすような声を思い出す。
「あいつ、転校してきた当初、お前のところに来ただろう。莫迦なことを言っていただろうが、あまり気にしないでくれ。少し突っ走り気味ではあるが、気狂いではない」
彼はそう言って、ほんのわずか口角を持ち上げた。それは古泉の初めて目にする表情だった。笑顔というよりは、苦笑というに相応しいものだったが、そこには言いようのない優しさが滲んでいる。とある予感が脳裏によぎり、古泉は急に胸が苦しくなるような思いがした。
「あの方と、お付き合いをされているのですか」
息を詰めて古泉はそれを訊いた。彼はやにわに笑みを崩し、忌々しげに顔を歪める。
「冗談でもやめてくれ」
それきり口を閉ざし、彼は再び指定席へとついた。いつの間に手にしていたのか、新しい本を広げ、黙々と読み始める。彼の背には開き窓があり、大きな銀木犀が風に揺られているのが見える。まだ薫りだすには季節が早い。葉の色が渋緑に落ち着き、花の濃厚な甘い薫りを楽しめるようになるには、もう少し秋が深まらなくてはいけない。未だ若い色を残す葉の緑と、彼の持つ紫黒の髪のコントラストに暫しの間、古泉は目を奪われた。視線に気づいた彼が、すと顔を上げた。
「お前はほんとうは、何者だ?」
彼の問いの意味が飲み込めず、古泉は思わず首を傾げる。
「こんな誰も来ないような図書室で、いっつも本を読んでるじゃないか。ここの閲覧室には空調がないから、夏は暑いし冬は寒い。皆あんまり居心地が悪いもんだから、わざと使っていないんだぜ」
「え……」
虚をつかれたように古泉は目を見開いた。彼がこの場所でも自分の存在に気づいていたことに、少なからず驚いたのだ。てっきり本を読むのに夢中で、周りの様子など目にも入っていないのだとばかり思っていた。
「お前、知ってるんじゃないだろうな。この学校の秘密。あいつですら、図書室が入り口だなんて気づいてないってのに……」
彼が呆然と呟いている言葉の内に、重要な情報が含まれていることを、古泉はすぐさま見抜いた。図書室が入り口、そう彼は言った。いったい何のことだろう。学校の秘密というのが、よくある噂話なんかではなく真実であると、彼は思い込んでいるのか。古泉は驚いた。冷静そうな見た目とは裏腹に、彼はどうやら随分と夢想家であるらしい。
古泉は笑って否定しようとした。そんな馬鹿な話があるわけないじゃないかと。しかし内心とは裏腹に、声の一つも出すことができない。彼があまりにも真剣な表情を、自分に投げかけてくるからだ。きっと迷信だ、ただの噂に過ぎない、次々思いつく言葉を吐き出せない代わりに、古泉は何故だか黙って頷いていた。
「知ってるなら、教えてくれよ。秘密の正体。いったい秘密の入り口は、この図書室のどこにある」
彼は切羽詰まった様相で、古泉に迫った。どうして彼がこんなに必死になるのかは解らないが、今吐いてしまった嘘が、自分自身を追いつめたことだけは、古泉にも解った。
俯いたまま黙り込んだ古泉の態度をどう捉えたのか、彼は神妙な面持ちを作ると、まるで今までの会話が全てなかったかのように、手元の本へと意識を戻した。古泉は画集を抱えたまま、しばらくうつろと佇んでいたが、だんだんと足が竦みだし、逃げるようにその場から離れた。