十月が訪れ、外の空気はますます肌寒さを増した。彼と初めて言葉を交わした日以来、古泉は図書室には行っていない。嘘を吐いてしまった罪悪感が理由の一つであったが、何より彼の発言に、ほんの少しだけ不気味さを感じていたのもたしかだった。
ある日の放課後、古泉は図書室から見える林の入り口で、銀木犀の花弁を拾い集めていた。この学校に一樹だけ植えられた銀木犀はすっかり花を咲かせ、その甘美な芳香をつつましやかに振りまいている。根元には練色の小さな花弁が無数に散っていた。それを一つ一つ丁寧に選別し、花の潰れていない綺麗なものだけを拾って籠に収めてゆく。
どうしてそんなことをしているかといえば、従兄弟の園生に頼まれたからだった。匂袋を作る材料にするのだそうだ。園生もこの学校の卒業生であるから、古泉の学校に銀木犀の咲くのをよく知っている。二つおさげの園生は、朴訥とした見目の割には言葉が辛辣で、古泉は度々言い負かされてきた。
吹きすさぶ風が冷たく、古泉は手を休めた。両手のひらを頬にあてるが、どちらも冷えきっていて、温める役には立ちそうもない。結局冷気を分け合っただけで、余計に寒気を覚えた。身を包む濃紺のマントには、いつの間にか雄蕊の花粉が散り散りに付着していた。はたはたとそれを手で払い、古泉は立ち上がってふと上を見上げた。
二階の図書室の窓から、彼の姿が見えた。今日もあの席で本を読んでいる。精悍な横顔は、やはり古泉の憧れるそれだった。目を逸らせなくなる。結局のところ彼の佇まいが、古泉の心を攫んで放さないのには違いないのだ。その内、彼がこちらに気づき、しっかりと目が合ってしまう。驚いた古泉は挙動不審に辺りを見回すが、意にも介さぬ様子で、彼は窓の外に向かって手招きをした。つまり、古泉に上がって来いと言っているのだ。どうしても抗えず、古泉は踵を返した。
図書室に入ると、彼はわずかに眉を顰めた。
「えらく甘ったるい匂いがする」
「ああ、これです」
古泉は藤籠に入った銀木犀を見せた。
「へえ、銀木犀か。何に使うんだ、これ」
「僕の従兄弟が、匂袋を作るのだそうです。銀木犀は金木犀よりも匂いが穏やかでしょう。主張が強くないから調香にいいらしい」
「なるほどねえ」
彼は古泉の持つ籠に鼻を近づかせ、すんと匂いを嗅ぐ。古泉は恥ずかしさのあまり籠を放り出したい衝動に狩られたが、すんでのところで我慢をした。
「それで、どうしましたか」
古泉が訊くと、彼は突然、声を潜めて古泉に耳打ちをした。
「入り口が解ったんだ」
吐息のかかるくすぐったさに身をよじりながら、古泉は考えを巡らす。入り口――それが以前彼の言っていた「学校の秘密」の入り口であることは、すぐに解った。
「お前は、どの辺りまで秘密を知っているんだ? この間は答えてくれなかっただろう」
この問いには困った。実のところ古泉は、学校の秘密とやらがどんなものか、少しだって知らないのだ。
「ご、ごめんなさい、実は何も知らないんです、あの、嘘を吐いたわけじゃあなくて、」
古泉の返答はしどろもどろだった。彼は束の間怪訝な顔で古泉を伺っていたが、やおら頭をがしがし強く掻き回すと、なんだ、俺の早とちりか、しまったな、などとひとりごちた。
「まあいい。とりあえず誰か連れがいるだけでも心強い。行くだろう?」
訊かれて、古泉は反射的に首を横に振りたくなった。そんな得体の知れないようなところ、正直に言って行きたくはない。しかし、もしかして僕が行かないと言ったら、彼は彼女を連れていくんじゃないだろうか、古泉はそう思い直して、なんとか頷いた。どうして彼女を誘うのが厭なのか、その理由までは思い至らない。
「よし、決まりだ。出発は夜じゃないといけない。それまでここでじっとしているんだ。どうせ司書は施錠に来るだけだから、そいつの目さえ向けさせなければ平気だ。見回りだってそうそう来ないからな。ああ、そのマントは脱ぐなよ。夜の闇にまぎれやすい」
彼は早口で捲し立てると、自分も持っていた黒のマントを羽織った。上等のツイードであるのが、一目でよく解る。その風合いはまるで闇に融けてしまいそうなほど、彼によく似合っていた。
一見隠れるのに都合のよさそうな、司書室とそこから続く蔵書庫は、司書が確認のために訪れるから危険らしい。貸出カウンターの奥へと身を潜めるように、彼は言った。
「司書が来たら、絶対に声を出すなよ」
彼は人差し指を口にあて囁いた。そうは言ってもまだ時刻は午后五時、日が落ちきるのには少し早い。現に見上げた窓から見える空は東雲色に潤み、懐には未だ夕日を抱え込んでいる。刻々と落ちる時刻を待って、二人は抽出を背もたれに肩を並べ、床に座り込んでいた。空調が効いていないとは彼の言った通りで、床と密着した部分から、だんだんと体が冷えてくる。寒さに思わず身を震わすと、彼は古泉の方へと幾らか身を寄せた。肩が触れ合い、そこからじわりと温もりが生まれる。
「入り口はいったいどこにあるのです」
「ああ、蔵書庫の中だ。一番奥の本棚の、一番下の段が外れるようになっていて、そこから背板を外すと、扉が隠されている」
彼は方角を指差しながら、抑えた声で言った。
「たしかめたんですか」
「ああ、誰もいない隙を狙ってな。といってもここに誰かいることなんてざらだったが……お前くらいのものだった、ここで本を読んでいるのなんて」
自分のせいで彼が動けずにいたことを、古泉は初めて知った。彼が図書委員になったのは、もしかしたら思惑があったからなのだろうか、それとも図書委員になったせいで、秘密の存在を知るに至ったのだろうか? 古泉はすぐさま、考えても詮無いことだと思い直す。そして思いついたことを口にした。
「ああ、それでようやく見つかったんですね、入り口が。僕が最近ここに来なかったから」
「いや、お前には探すのも手伝ってもらいたかったんだけどな。折角秘密を共有できる仲間ができたってのに」
古泉は不思議に思った。それならばどうして、あの日の内に誘ってこなかったのか。沈黙の圧迫感に逃げ出してしまったのは古泉の方だが、きちんと説明してくれれば、手伝うのも吝かではなかった。
「言ってくだされば、手伝ったのに」
「だって、なあ。事が事だ。俺も警戒してたが、お前も警戒してたろう」
古泉の抱いていたのは決して警戒ではなかったが、否定をする間もなく、彼は話を続ける。
「さっき裏の林にお前の姿を見つけた時は、しめたと思ったよ。これで誘いに乗ったら、こいつは仲間だと思うことにした。そうしたら見事に乗ってくるんだもんな」
くつくつと、彼が押し殺した笑い声をあげる。古泉はつい眉を顰めた。
「……彼女は仲間じゃないんですか」
「彼女? ああ、あいつはだめだ。秘密なんて五分と黙っちゃいれないからな。それに口ではなんとでも言うが、実際あいつは信じちゃいないのさ。不思議だとか秘密だとか、何もかも本心では疑っている」
彼は言いながら、苦々しげに口元を歪めた。彼女が存在を否定すれば、それらがたちどころに消失してしまうとでも言いたげに。
そこで彼が何かに気づいたように顔を上げた。
「そうだお前、その匂いのもと、頼むからマントの下にでも隠しておいてくれ。司書に不審に思われたら困る」
すでに慣れて鼻が麻痺していた古泉にとっては、思いも寄らない指摘だった。すぐさまマントの下に銀木犀の入った籠を滑り込ませる。芳香は間もなく立ち消え、辺りには漂わなくなったが、代わりに古泉の首筋からむっと匂い立つようになった。
肩を寄せていた彼が匂いを感じ取ったのか、古泉の首筋に鼻を近づけた。彼の行動は時々妙に動物的になる。古泉は困惑しながらも、彼の好きにさせた。
「さっきはしとやかに薫っていたのに、やっぱり狭いところに満たすと、あまやかさが増すな」
耳元で彼が言う。彼の黒髪が首筋を掠り、花の薫りも相まって、頭がくらくらとする。古泉は膝に顔を埋めて、ひたすら時間の経つのを祈った。
緩やかに日が沈み、窓の外には夜の帳が落ち始める。六時の鐘が鳴ると同時に、司書が扉を開ける音が聞こえた。がさがさと物音が聞こえ、いくらもしない内に足音は立ち去った。どうにもおざなりな確認しかしていないようだ。まさか図書室に生徒が身を隠しているなどと、想像もしていまい。
カウンターから顔を覗かせ、誰もいないのを確認してのち、彼はようやく身を起こした。
「よし、さっさと動くぞ。花は置いて行くなよ、匂いが残ると不審がられる」
言われた通りマントの下に籠を隠し持ったまま、古泉も後に続いた。一度入ってみたかった蔵書庫には、裸電球が一つ天井からぶらさがっているのみで、本棚の様子はほとんど伺えなかった。目印をつけていたのか、彼はすぐさまその場所を探し当て、下段の本を全て抜き取ると、底板と背板を外した。
うわあ、と古泉は思わず声を上げた。見事に、そこには扉が隠されていた。当然普通の扉のサイズではない。人の胴がどうにかくぐり抜けられるほど小さく、木製の随分と古くさいものだ。太った大人ならばまず入れないだろう。
「気をつけろよ。俺が先に行くから、何か異変があったらすぐに引っ張ってくれ」
答えるように小さく頷く。古泉は息を凝らして、扉をくぐる彼を見つめた。小さく手が震えている。体を全て通してしまった彼が、扉の向こうから古泉を呼んだ。どうやら問題はないようだ。およそここで待っていたいとの心持ちは強くあったが、古泉は薄氷を踏む思いで、恐る恐る扉に身を通した。
扉の向こうの世界に立ち、二人は真っ先に首をひねった。
見える風景が、扉をくぐる前となんら変化していなかったからだ。
「なんだこりゃ……?」
どう見ても、蔵書庫と同じ間取りで設えた部屋にしか見えない。いわゆる隠し部屋というやつだ。
「もしかして、こちらの部屋には、本当に稀少の本が眠っているのでしょうか……噂の禁忌の魔術書だとか、開くと死ぬ本なんかが」
「まさか。あんなの迷信だろ」
学校の秘密の方がよほど迷信めいていると、古泉は思った。しかしそれすらも実際に存在していたのだ。怪しい蔵書の実在だって、すでに古泉は信じかけていた。
しかしたしかめるように本棚を見回していた彼の顔が、見る見るうちに青ざめ始める。聞こえてきた彼の声はかすかに震えていた。
「なあ、ここにある本、向こうの棚にあるものと、一個だって違ってないんだが」
「まさか!」
古泉は驚いて本の背表紙を見遣るが、元々どんな蔵書があるのかも知らないのだから役に立たない。そこらを見渡していると、蔵書庫と同じ位置に、外に出るための扉を見つけた。
「あちらから外に出られるようですよ」
連れ立って恐る恐る歩を進め、扉に手をかける。その先の光景に、二人は再び絶句することとなった。
そこはまぎれもなく、先ほど通った司書室だった。続いて司書室から続く扉を開く。この辺りで、古泉には予感があった。ぎい、と蝶番の鳴る音が響く。おそらくこの扉を出たら、そこにあるのは、
「図書室……」
二人は同時に呟いた。先刻と何も変わらない、真っ暗な図書室。しんと静かな、物音一つしない空間はまさに古泉のよく知る図書室そのもののはずだった。しかし妙な違和感がつきまとう。闇にまぎれた彼が、一歩先へと踏み出した。古泉は訳も解らず恐ろしくなって、彼のマントの裾をつまんだ。
「外……外も見てみよう」
図書室の扉を開け放ち、彼は外に飛び出す。置いて行かれないように、古泉は彼に手を伸ばしたまま必死に走った。片手で彼のマントをつまみ、片手で花の籠を抱えてでは、ひどく走り辛い。転びそうになる古泉の腕を彼が支える。そのまま手を繋ぎあって、二人は廊下を駆け足で通り抜けた。教室の扉の硝子窓から、中を覗きながら行く。リノリウムの床に二人分の足音だけがうるさく反響する。どれだけ進んでも、彼らのよく知る風景ばかりが続いた。しかし違和感はますます強く何かを訴える。闇に追い立てられるように階段を下り、昇降口から外へと飛び出す。
急に開けた視界へと飛び込んできた空は、気のせいかやけに灰色がかっていた。
いや、空どころではない。まるで鈍色の大陽に照らされているかのように、どこもかしこも色彩がない。夜の闇とは質が違う。その証拠に、彼の姿はまったくこの風景に馴染んでいない。気味が悪い。空を見上げながら視線を巡らせていた彼が、呆然と呟いた。
「月がない」
古泉もつられて首をもたげる。彼の言う通り、先刻まで空に浮かんでいたはずの三日月が、どこにも見当たらなかった。それどころか、星の一つも見えない。光を発するものが何もないのだ。校舎の周りをぐるりと歩き回りながら、だんだんとこの世界に、はっきりとした恐怖を覚えだした。
ちょうど図書室の裏の林まで来たところで、違和感は完全なものになった。
「銀木犀の匂いも……まったくしない」
どうやらこの世界には、匂いすらも存在していないようだった。つい数時間前この場所に流れていた、つつましやかな薫りの存在を知っているだけに、その不気味さは際立つ。
古泉は今度こそ、止められないほどに震えの起こるのを感じた。ここはいったい何だ。アリスの迷い込んだ鏡写しの世界のようでいて、しかし無彩色の絵の具で塗り固められた世界。学校の秘密なんて小さなものとは思えなかった。
これは世界の秘密なのではないか。遠くに見える山なみも空も、すべては同じように鈍色に染められ続いているのだから。このおかしな場所から、もしも二度と出ることが叶わなかったら?
繋いだままの彼の手を、ぎゅっと強く握りしめると、優しく握り返される。それでも抜けきらない恐怖に、古泉の片方の手がとうとう力を失った。
「あっ」
ふわりと、辺り一面に白い花弁が散らばる。明々とした練色は瞬く間に鈍灰へと変化してしまったが、思い出したように、濃厚な薫りが解き放たれた。お陰で、ほんの少し古泉の恐怖心が和らぎ、おかしなほどの手の震えもましになった。そのかわり、足下からぞわぞわと背筋を駆け上がる気配を感じた。辺りは相変わらず静かすぎるほどに何もない。厭な胸騒ぎだけがどくどくと、古泉の心臓を打ちつける。
次の間、視界が揺れ、どん、と大きな地響きの音が聞こえた。
「え、なんだ?」
「わ、解りません」
彼がきょろきょろと視線を巡らせる。再び襲ってきた異常事態に、古泉はすっかりパニックを起こしていた。それでも繋がれた手が、いくらか古泉を安心させる。時折たしかめるように、繋ぐ力が強まるのを、お互いに感じていた。
「あ、あれ、見ろ」
空を見上げた彼が頓狂な声を上げたのに、古泉は吃驚してその視線を追った。すぐに古泉の口からも、似たような叫び声が発せられる。
それもそのはずで、何せ目に映る光景は異様なものだった。水平線の向こうが青白く光り、その光を追うように、空の中心から一筋の大きなひびが入っている。ここが作られたテーマパークで、プラネタリウムの天井が真二つに割れてしまったのだと聞いたら、丸きり信じてしまいそうな光景だった。ぱらぱらと、ひっきりなしに天から降ってくるものがある。ひび割れた箇所からそれは落ちてきていた。手に取ってみても何だかよく解らない。透明のクリスタルのような、光を蓄え七色に輝くような、おかしな硝子片だ。古泉はそれをひどく綺麗だと思った。あまりの出来事に、先ほどまでのわななきも何もかも、麻痺したみたいだった。
「古泉、急げ、走るぞ! ここ、壊れるかもしれない」
彼が必死の形相で、古泉の手を攫み直し、走り出す。古泉は縺れる足をどうにか動かしながら、背後の情景を目に焼き付けていた。ひび割れはすでに空全体を覆っていた。ボイルドエッグの殻みたいに、細かなヒビがぼろぼろと崩れだす。隙間から強い光が溢れ出して、まるで空全体が発光しているみたいだ。空がだんだんと落ちて来る。世界の生まれ変わりとは、こんな風に起るのかもしれない。古泉はそんなことを考える。恐怖も忘れその光景を、古泉はただただ美しく感じていた。
校舎内に戻り、階段を一気に駆け上がる。図書室に滑り込む頃には二人の息は上がりきっており、地響きと揺れは一層ひどくなっていた。校舎の端からもぼろぼろと崩れ落ちるものがあるが、これは紛れもなくモルタルの一部だ。
「早く、早くこっちへ」
彼が半ば引っ張るように古泉を誘導する。司書室の扉を抜け、蔵書庫の小さな扉の前に立つ。お前から行け、と促されるまま、古泉はこの世界への入り口を逆行した。急いで扉を通り抜け、続いてくぐり抜けてきた彼の体を引っ張りだす。彼のつま先がこちらの世界に戻って来た瞬間、どん、とひと際大きな音が響き、その衝撃で大量の埃が舞い上がった。げほげほと咳き込みながらどうにか視界をクリアにすると、どうやら件の本棚の上の段が、丸々崩れて落ちてしまったようで、目の前には本の山が出来ていた。
「うわ……ひでえな、げほっ」
これ片づけなきゃいけねえんだろうな、と彼がぼやくのを聞きながら、古泉は今しがた起こったことが、全て夢だったのではないかと思い始めた。腕時計を見ると、午后六時四十五分を指している。あれがたった三十分程度の出来事だとは、どうしても信じられない。しかし、現に傍らの彼は、ぜいぜいと肩で息をしながら、崩れた本の山を端から片づけている。
「こら古泉、見てないで手伝え」
彼が睨みつけるのを古泉はやんわりと躱し、緩慢な動作で逆端から本を棚に収め直し始めた。
そこで気づく。先刻まで間違いなく扉があった箇所が、真っ平らな壁になっていた。
「あの、扉が、ありません……」
「え、」
彼が抱えた本を放り出し、古泉の背後に立つ。古泉は唖然となりながらも、壁にぺたりと手を触れるが、見た目通りそれはただの壁だった。そうして今さらながら、この壁の向こうが、隣の空き教室であることを思い出した。
ほんとうに、夢だったのではないだろうか。
彼もきつねにつままれたような顔をして、首をかしげている。
「なあ、俺たち今まで、夢でも見てたのかな。あれはほんとうにあったんだろうか」
「二人して同じ夢を?」
「あり得ない話じゃあないだろう。知らぬ間に、変な催眠でもかけられたんじゃないか。なんせどうにも記憶が曖昧だ」
言われてみれば、揺れる電球の明かりのように、どんどんと記憶が朧げになる。追いすがるように隣を見ると、彼の横顔に深く刻まれた影が、彼の輪郭をはっきりと映し出す。あの影も生み出さない世界で、彼はどんな風だっただろう? 古泉は懸命に思い出そうとするが、やはり思い出せなかった。未だ確りと古泉の中に残るのは、彼の手のひらの温度だけだった。古泉は自らの手のひらを開けた。じとりと汗ばんでいる。彼のマントを攫んでいた感触も、仄かに指先に残っていた。
なんとも不思議な感覚であった。夢の中でまで、そんな触れ合いを望んでいたかに思える。実は彼に触れたかったがために、古泉自らが作り出したものではないかという考えが不意に思いつき、しかしあまりの莫迦ばかしさに思わずかぶりを振った。
その様子を見て、どうかしたのか、と彼が訊ね、それからぎょっとしたように古泉の方へと手を伸ばした。マントの裾にかかった手が、何かをつまみあげる。
「落とし物」
彼は古泉の目の前に、それを見せつけるように掲げた。甘くゆかしい薫りが、古泉の鼻孔をかすめる。目が醒めた気分だ。そこにあるのは、練色の小さな花弁だった。その奥で、彼が口元を上げて笑うのが目に入る。
「明日、手伝ってやるよ。銀木犀の花を採りに行くんだろう」
「図書委員の方はいいんですか?」
「別にいいよ。どうせ誰も来ない」
くすくすと、どちらからともなく笑い出す。笑いながら本の山を等閑に片付け、二人は蔵書庫を出た。マントは薄らと白く見えるほど埃まみれで、どれだけ払ってもなかなか落ち切らなかった。明日の放課後の約束を取り付け、裏門の前で古泉は彼と別れた。坂道を下りながら、空を仰ぐ。猫の作った引っ掻き傷みたいな檸檬色の三日月と、彼のマントに落ちた埃のように細かな星屑。空にきちんと光があってよかった。誘蛾灯の明かりがちかちかと点滅するのを横目に、古泉は夜の坂道を一気に駆け下りた。