庭が何やら騒々しい。犬猫でも入り込んだのか、それとも見も知らぬ大きな獣か。
顕微鏡を覗いていた顔を上げ、膝立ちで丸窓へと身を寄せた。厚い暗幕を人差し指でひょいと捲れば、女中達の賑やか且つ喧しい声に背を押されるようにして庭を突っ切る男が見えた。紺の筒袖の単衣に浅黄の帯を一重にまわし、尻下がりに結ばれた格好は、名高い公爵の若君とは到底思えぬ。文官や代議士、博士等位の高い男性の殆どが背広や毛皮襟の外套を着込み、舶来風を気取っているにも関わらず、男は車夫と変わらぬ程、粗末な格好を貫いていた。
草履も下駄も履かぬ足の裏から跳ねる泥粒が宙を舞う。眩しげに目を細めている間に、男が勢い良く駆け込んで来た。
「気分はどうだ」
ばたんと扉を後ろで閉めると共に女中達の「暗幕を!」と張り上げる声が消えた。
「存外良いかと」
答えた者はこの離れの主、県知事の一粒種である古泉一樹である。木綿の開襟シャツに夏羽織をふわりと肩に掛けた書生風の美丈夫は浮世絵から抜け出て来た歌舞伎役者の如く整った顔立ちをしているが、透き通るように白い肌から病弱であることが知れる。
しかし頬の色から見て、言葉通り、どうやら気分は良いらしい。男は人知れず安堵の息を吐き、顔を上げた。
「ここは相変わらず、口喧しいのが揃っていやがる」
口を尖らせ、「この格好を汚らしいと罵るが、礼服よりも動き易いと言わあな」と続ける男に古泉は首を傾げて微笑を浮かべる。そして椅子に腰掛けるように勧めたが、若君は性に合わぬと断り、地べたに胡坐を掻いた。
所作を見るにつけ、人の位が分かると言うが男は公爵の出自と思えぬ程乱暴で話し振りも荒々しい。それもその筈、八つの時分、父に手を引かれて邸に来るまで浅草下町で育った生粋の江戸っ子である。
懐に片手を突っ込み、取り出だしたのは厚紙一枚。畳に放り出し、「どうだい」と口角を上げた。
古泉も床に腰を据え、桜貝のような爪でそれを拾う。表を向けると、男が誇らしげに携えて来たものが、多色刷りの引札であると知れた。
「受け取ってくんねえ。ちったあおめえに似ているだろう。薬煙草屋の引札でな、小野道風が題材らしい」
確かに、肩幅大の引札には柳と枝垂桜の間に立ち、唐傘を手に、烏帽子を頭に頂いた男は美丈夫である。色白の細面、切れ長の眼といい、似てると言われればそれ相応に納得のいく顔立ちをしていた。
藤色の着物を纏った絵を見ていると「花札よりも色男だ」と茶化すようにわらった。つられて微笑む。
すると、今まで調子の良かった喉が急激に痛み出し、激しい咳が込み上げて来た。胎児のように体を丸めて咳き込み始めた古泉の背を、手馴れた手つきで男がやさしく擦った。
「床は冷える。椅子に腰掛けろ、な」
肩を抱かれて畳摺りの椅子に腰掛けるとぴたりと咳は止んだ。
「風もきつくなってきた、夜半も冷える。あったかくして居ろ」
厚手の毛布を掛ける手を掴む。びくりと肩を震わせたものの、「どうした」とやさしい口調で男は呟く。
まだ日は暮れてもいないにも関わらず、暗幕に囲まれた室内は夜分の頃のように暗い。それでも男の褐色がかった目は梟のようにしっかりと古泉を捉えていた。
「瞼を閉じて、寝てろ」
「話を」
「馬鹿言うない。それじゃあおめえが寝つけねえ」
その言葉にがっかりしたような風情で古泉は微かに瞼を伏せる。
「そんな顔すんな。若君に風邪でも引かれちゃあ事だ。コレラの次は結核たあ、世も末な話ばかりがあちこちで飛び交ってんだぜ」
「コレラには避病院という感染者の収容施設があったそうですね。ですが、そことこことで何の違いがございましょうか」
薄っすらと微笑む様には覇気が無い。しかし穏やかな表情からは己の運命を呪うようには見受けられなかった。
「伝染病かもしれぬと、あなた以外、最近では誰も近づかないようになってしまったというのに」
なまっちろい肌だと、男は思った。
十の頃、父親同士に引き合わされて以来、ずっとこの離れに引き篭もっている幼馴染みは光に弱く、太陽光を数時間浴び続けると肌が爛れ、炎症を起こす。
一度、強引に外に連れ出し、同じく幼馴染みの一人である涼宮家の長女とめんこや輪まわし遊びをして遊び呆けた時など、古泉は夜半に高熱を出し、危うく失明する寸前までに陥った。謝るべく邸に向かったが、県知事にもう二度と息子とは付き合ってくれるなと閉め出され、家に帰るなり父親に拳骨で殴られた。
それでも諦めず、離れに忍び込んだ時だ。全身を包帯で巻かれた幼子は仰向けのまま眠っていた。枕元まで近づいても重く閉ざされた瞼は開かず、一生目覚めないのではないかという不安が体中を巡り、気付けば相手の痛みすら考えずにその手を握り締めていた。瞼がそうっと開く瞬間は今でも覚えている。
誰かの悪戯ですよ、きっとそう。
と、大人びた口調で幼子は言った。包帯を誰かの悪戯だと揶揄した強さが眩かった。男は強く握り締めた手に額を寄せ、誓うように何度も何度も謝ったのである。
それきり、病弱な幼馴染みの体調には人一倍過敏になっていた。また、彼の頼みには滅法弱い。
「仕方がねえ。瞼は閉じてろよ」
従うように伏せられた瞼には青い血管が薄っすらと浮かんで見えた。
帝大も夢でない明晰な頭脳を裏寂れた離れで埋もれさせるのも忍びないと運び込まれた様々な品(苔の生した岩石、植物の標本、顕微鏡、ピアノ等がだだっ広い室内に敷き詰められていた)も暗闇では魅力も半減する。この離れは人を感傷的にさせるらしい。
「ハルヒな、留学するってよ」
どんな遊びでも一等だった彼女には、青鞜創刊の辞である平塚らいてうではないが、「元始、女性は太陽であった」が如くの振舞いで立身出世を目指す屈強な男子であっても、異国の紳士であったとしても太刀打ち出来やしまい。
古泉がくすくすと笑い声を上げる。
「世界一周だって、意気込んでんだ」
「いつ、出発を?」
「明後日」
「また急ですね」
「いつもの思いつきだ。言い出したら聞きやしねえ」
「良いじゃあないですか。しかし先刻、鉱物を割った中に翡翠輝石を見つけたんです。是非、見て頂きたかった」
またふらりと戻って来るだろうぜ、と励ますように男が言う。古泉の瞼の裏には顕微鏡で覗いた翡翠輝石の光がちらりちらりと浮かんでいた。
「しっかし、鉱石等と相も変わらず爺臭せ趣味だ」
鉱物や植物の瓶詰めを長時間眺めている癖にその口振りだ。古泉はふわりと微笑み、「それはそれは」とおどけてみせた。
「若い時分、人は有機物に興味を持ち、年を経るにつれ、無機物に興味を抱くといいます。定例から言えば、仰る通り、僕はさながら老人だ」
肌理細やかな手をして何を言うのか。
「駄々ッ児じゃあるまいに、屁理屈はよしてくれ」
男は頭を振って諌める。
「何もおめえさんの趣味を批判してる訳でなし。ただ、ただな、少しは外に出れば良かろうと思ってのことだ。昼間はさておき、夜ならば幾分ましだろう」
椅子に深く腰掛けて瞼を瞑る姿を見ていると、今にも儚く消えてしまいそうに思えた。男は掴まれている手に、恐る恐る触れてみた。氷の如く冷え切った手である。
「うちの車夫はここいらで一等抜きん出た俊足だ、どこへだって行ける。活動写真を観に行くのも良い、それとも百貨店か」
「いいえ、」
「船も良い、一等を取ってやる。海外航路の豪奢な船には、理髪所や、ピアノをあつらえた談話室もあるそうだ。久し振りに弾いてくれろ」
「では、あなたはお得意の三味線を」
下町では女子は六歳になると師匠について長唄の稽古を始めるのが通例であり、教室に潜り込んで三味線を習った腕だ。悪くない、と男は答えたが、「それでも、やはり、いいえ」と古泉が目を瞑ったまま首を横に振った。
「いいえ、いいえ、と結局おめえはどこへ行きたい」
「どちらへでも、あなたのいらっしゃる処がようござんす」
似合わぬ江戸言葉に、目を瞠り、それからあどけない笑顔になった。古泉自身も、穏やかに微笑んでいる。
そうか、と男はしみじみと言った。
邸の前で国木田という法学生に出会った。彼もまた幼い頃からの付き合いであり、古泉を訪ねた帰りだったようだ。二言三言の会話を交わした別れ際、国木田は静かな声で「長くはないそうだ」と告げた。内容はなかなか頭に入って来ず、柳の如く、飄々とした彼にしては読み取り易い表情をしていたことにまず驚いた。そして今になって、「長くはないそうだ」という言葉を噛み締めている。
長くはないとは、一体どれくらいの期間を指すのか。
男の母親は結核だった。貧乏長屋に置き去りになった母は誰にも看取られずに世を去ったという。
「こいずみ、」
かつてのように、相手の掌を握り締め、男は呟いた。
「古泉、」
寝ちまったのかい、という問いに返答がない。口元に耳を寄せれば、微かだが寝息が届いた。ほっと胸を撫で下ろし、大分と伸びた前髪を耳に掛けてやる。そして暗闇の中、相手の顔をまじまじと眺めた。
頬とは違い、血色の良い唇は何かを求めるように薄く開かれている。自然とそれに己のものを合わせると、何故だか無性に泣きたくなった。
音も無く離れて、再びその造花のように良く出来た顔立ちを見つめた。
「おめえさんは、ここにいてくれるだけで良い」
出来ることならば、どこへだって連れて行きたかったが、幼馴染みが笑ってくれるならばどこでもいい。片意地を張らなくてもいいこの場所は唯一の憩いの場でもある。どんな格好をしていても、どれだけ口汚く話しても、古泉は何も言わずに受け入れてくれた。
長くはない等、真っ赤な嘘に違いない。目覚めたそのときには「誰かの悪戯ですよ、きっとそう」と再び言って貰おう。
日が暮れ、外と室内が同じ闇色になるまで、頬に落ちる睫毛の影を眺め続けていた。