以降何も喋らない、そのうえどこか様子のおかしいルートヴィッヒを、フェリシアーノは怪訝な顔で見上げる。ヴァイオリンケースは、フェリシアーノが担いでいた。
すっかり上の空になったルートヴィッヒを見て、ローデリヒが諦めたように本日の解散を言い渡したのがつい今しがたのことだ。手ぶらのままふらふらと練習室を後にしたルートヴィッヒに、ようやく追いついたのは学校と宿舎の間を繋ぐ、森の遊歩道の途中だった。
もうすっかり日の暮れて薄暗くなった道を、無言の人間と歩くのはひどく堪えた。夜の闇は不条理に怖い。フェリシアーノはお化けとか妖怪といった類のものが大の苦手だった。実在しようがしなかろうが、怖いものは怖い。いないことを証明するのは、いることを証明するよりも難しいのだと、昔読んだ本に書いてあった。だから、怖い。いっそ嘘でもいないと言い切ってくれれば、世の大半の人の心の平穏を得られるのではないかと、フェリシアーノは真剣に考えている。こんなことルッツに言ったら怒られるんだろうな。ルッツは嘘が大嫌いだし、科学的根拠のない発言を嫌うから。
「でも今はどんな話も耳に入ってないんだろうね」
試しに声に出してみても、やはりルートヴィッヒは反応せず、フェリシアーノの数歩先を足早に歩き続ける。しかたないから歌うことにした。楽しい歌を歌えばきっと、怖くなんてなくなるだろう。陽気な歌にしよう。フェリシアーノは口ずさんだ。子どもの頃から慣れ親しんだ歌を。
”昨日の夜 すっごいのに乗ったんだ こんな気持ち初めてさ”
控えめな歌声は薄暗い森の木々のざわめきに吸い込まれるように消えてゆく。葉擦れの音が歌を遮ぎるのだ。負けじと声を張りあげて、フェリシアーノは歌った。さあ行こう! さあ行こう! 同じフレーズをひたすら繰り返す。
とうとうルートヴィッヒが足を止め、苦々しい顔で後ろを振り返った。眉間の皺がぐっと深くなる。
「フェリシアーノ、少しうるさいぞ」
やっとこちらを見てくれたことには安堵したが、彼の発言は少々、フェリシアーノにとって面白くないものだった。仮にもソリストを捕まえて、うるさいだなんて! しかし先ほどから、自分の歌に対して感想すらないことに、だんだんと不安を覚え始めたのもたしかだった。
「ねえルッツ、俺の歌どうだった? 悪くないでしょ? よくなかった?」
「……いや、すばらしかった。ほんとうに、すばらしかった」
「……ほんと? ほんとに?」
「ああ、まるで情景が目に浮かぶようだった。低音から高音にうつる違和感のないファルセットはすばらしい。伸びのいい声だ」
「ひゃっほう、ルッツに褒められた!」
嬉しさにぴょんぴょんと跳ね回りながら、勢いでルートヴィッヒの腕に絡み付く。夜に浮かび上がる碧の瞳が二つ、冷え冷えとした空気をたたえ、フェリシアーノの身を震わせた。しかしすぐにそれは氷解し、今度は正午の空の色に変化した。優しくて、長閑な色。
なんだ、怖いことなんて何もないじゃないか。ここに夜などなかった。それだけで、先ほどまで蟠っていた腑に落ちない恐怖が、霧散してゆくように思えた。
「お前は……」
呆れているのか、どこか気の抜けた彼の声が森に響く。耳心地のよい低い声。ふと、彼は歌わないのだろうかと、フェリシアーノは考えた。彼も歌を歌えばいいのに。きっと腹を撫でるように、身体を包み込むように、聴くものの感覚を刺激するのだろう。それはいっそ官能的なまでに。
「――まあいい。早く帰ろう……お前に渡さないといけないものがある」
フェリシアーノの甘美な妄想は、当のルートヴィッヒの声によって遮られた。
フランシスのところに寄るというルートヴィッヒとは、一階下の階段で別れた。ひとりぷらぷらと、ルートヴィッヒのヴァイオリンケースを揺らす。
彼と初めて出会った日、このヴァイオリンに触れてたいそう怒られたのを思い出す。あの日そういえば、俺の歌にヴァイオリンをあわせて弾いている人がいたっけ。フェリシアーノにとっては日常茶飯事だ。どこかで歌えば、誰かがそれに協奏する。フェリシアーノの声には、演奏者を惹き付ける何かがあるのだろう。宿舎の方からかすかに聞こえた素晴らしいヴァイオリンの音色。あの演奏はとても気持ちがよかった。そうだ、それで触れてみたくなったのだ。無造作に部屋に放り出されたヴァイオリン。ほとんど無意識だった。しかしあの、重厚で腹に響く、まるで彼の声のような音色は、どうしても自分では出せなかった。フェリシアーノの奏でる音は、なぜだかいつも、泣きそうな色をしている。何も悲しくなどないのに。
部屋に戻って、久々に彼のヴァイオリンを手に取った。一度許可をもらって以来、フェリシアーノが勝手に触れても怒られることはない。それどころか彼の前で演奏を披露すると喜ばれた。自分とは違う、面白いと言ってルートヴィッヒは笑うのだ。
彼の体躯で持つとまるで玩具のように見えるヴァイオリンは、フェリシアーノには誂えたかのようにぴったりだ。音叉と調律のAを聴く、それから柔らかい弦の音を奏で出す。
あのとき耳にした音は、ルートヴィッヒの出す音に少しだけ似ていた。あれが彼だったらいいのに。そうずっと望んでいた。だからフェリシアーノは彼に訊ねることはなかった。否定さえされなければ、それはフェリシアーノのなかで肯定と同じだ。
いつのまにか夢中になって弾いていた。気がついたら開け放したドアの前に、ルートヴィッヒが佇んでいた。そこには柔らかな笑みが浮かんでいる。それから彼の差し出された両手に、見覚えのあるものが。
「これをお前に返さなければと思って。あのとき、置き去りにされていたものだ」
フェリシアーノは目を見開いた。まさか、と小さく声をもらす。震える手を伸ばすと、それはしっかりとした手つきで手渡された。もうふた月近く経っているはずなのに、あのときのままの色と、姿をしていた。
シロツメクサの花冠。ほんの戯れに作ったものだった。ただの習慣であり、彼にとってのまじないでもあった。歌いながら花の冠を編んで、メッセージを残す。相手は様々だ。自分の祖父だったり、兄だったり、仲のよい友人だったり、そのとき好きになったかわいい女の子だったり。フェリシアーノの大切な人たちに、少しの思いを込めて作ったそれを、その場に供える。そうして祈るのだ。ほんの少しだけその人と仲よくなれるよう。会えなくなった人には、再び出会えるようにと。
すぐに朽ちて消えてしまうもののはずだった。雨に流され、土に還り、そうしてささやかに成就されるはずのものだった。
それがどうしてこんなところに?
「ルッツ……これ、どうしたの……」
手渡された花は、かさかさとした手触りだった。生きている花ではなかった。だからといって、偽物というわけでもない。これはたしかに、フェリシアーノの花冠に違いなかった。彼のために編んだ花。あのとき、フェリシアーノが思い浮かべていたのは、もう二度と会うことのない人の姿だった。直後顔を合わせたルームメイトが彼に少しだけ似ていたのは、きっとおまじないの効力なんだと、冗談まじりに思っていた、はずだった。
「どうしたも何も、お前が裏庭に置いていったものだろう。大事なひとに渡すものじゃないのか。どういう技術かはまったく分からんが、フランシスに保管を頼んでいたら、まるで防腐処理でもされたみたいにそのままの姿で帰ってきた。もう二度と枯れんらしいぞ。だからその渡したい人が現れるまで、ちゃんと仕舞っておけ」
信じられない思いだった。じっさいフェリシアーノはつぶやいた。信じられない。もう薄れかけた記憶のなかの碧い瞳が、彼の瞳に重なる。正午の空の色、夜の闇を追い出す色をした瞳。
それと同時にこみあげてくるものがあった。泣きたくなる、懐かしい、愛おしい感情が。
「ルッツ。これ、ルッツが受け取って」
返されたばかりの花を再びルートヴィッヒの手に収めようとすると、彼は怪訝な顔で首を傾げる。
「なぜだ」
「いいんだ、これ、ルッツにあげるつもりだったんだから……それから、ごめんね。俺、ルッツのこと、友だちだって言ったけど、撤回していい?」
「え……」
ルートヴィッヒは困惑のさなかに、かすかに傷ついたような表情を浮かべた。そこに畳み掛けるように、フェリシアーノは続けた。自分のなかで、いちばん最高だと思える笑顔を作りながら。
「あのね、俺、分かったんだ。ルッツは友だちなんかじゃなくって、運命のひとだって。おれ、友だちじゃなくて、ルッツと恋人同士になりたい」
ルートヴィッヒは言葉の意味を捉えられない風でしばらく固まっていたが、フェリシアーノが受け取った花冠ごと両手を包み込んだことで、ようやく反応を示した。見る見る耳の先まで真っ赤に染まってゆく。その様子をかわいらしいと、フェリシアーノは思う。抱きしめたいと思い、それから次に、キスをしたいと思った。耳元に手を伸ばすと、ルートヴィッヒの睫毛が驚きにゆらいだ。金色にひかるそれは、フェリシアーノの持つ色とはまったく違う。フェリシアーノにはそれが、とてもはかないものであるように見えた。
「ルッツの目、すごくきれい、睫毛も、瞼も、ぜんぶきれいだね。触ると消えちゃいそう……」
こわごわ指を触れると、指先にあまやかなしびれが走る。それが何かは分からない。しかし身体の奥が、もっともっとと欲している。箍の外れる音がした。そうして次の際には、掌にじんとした痛みが走った。
半分無意識に伸ばした手を、見事叩き落とされた痛みだった。おかげでフェリシアーノは我に返った。
「ッ……な、何をやっているんだ! 自分をしっかり持て! それとも何かの冗談か? 悪いが冗談は通じないと最初に言っておいたはずだ」
フェリシアーノの額を押し返すルートヴィッヒは、怒ったような照れたような、おかしな表情をしていた。それを見て思わず笑ってしまったフェリシアーノに、重ねて怒号が飛ぶ。
「まったく、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
いけない、これは本気で怒り始めている。へそを曲げたルートヴィッヒに、このまま最低の冗談として流されてしまうのはご免だった。
「違うよ! 冗談でも馬鹿にしてるんでもないよ、俺本気なんだ……本気で言ってるんだよ。分かって、ルートヴィッヒ」
愛称ではなく名前で呼ぶと、ルートヴィッヒはなぜだか隙を見せることを、フェリシアーノは知っていた。案の定ルートヴィッヒの表情は困りきったそれに変わり、真一文字にむすばれた口がそのうち、言葉を探るように開かれた。
「……悪いが、その、よく分からない。もちろん差別をするつもりはないが、俺はそういった性癖はないし、お前が、そういうあれなら、他に適役がいるんじゃないのか」
「俺別に同性愛者じゃないよ。女の子大好きだもん」
「お、俺は女じゃないぞ。いや分かるか。分かるよな、そんなこと」
「男とか女とか、そんなの関係ないよ。ルッツだからいいんだ」
「だ、大体、今までそうした素振りもみせずに、いきなり言われてもだな、今いち現実味がないというか、ああ、くそ、信じられん」
ルートヴィッヒはずいぶん混乱しているようだった。可哀想なことをしたかな、ちらりとそんな思いが過る。しかし突然降ってきたこの運命的な再会は、きっと神様がくれた奇跡に違いないと思っていた。絶対に逃してはだめだと。
「じゃあ俺、お前に信じてもらえるまでずっと伝えるよ。毎日愛してるって囁く。だからお前も俺のこと考えて。考えて考えて、それで俺のこと、好きか嫌いかちゃんと教えてよ」
ルートヴィッヒは答えない。その表情にいつもの厳格な雰囲気はなく、眉尻は下がり、今にも泣き出しそうにすら見えた。困らせるのは本意ではない。けれど、譲るつもりもなかった。じっと空の色をした瞳を見つめた。
「……お前と俺は友だちではないのか」
不意にルートヴィッヒがそう漏らした。心なしか寂しげに、口元にはやんわりと笑みが浮かんでいる。ルートヴィッヒの不安に彩られた目を見ると、それだけで心がくじけそうになる。
「そうだね、俺はルッツと恋人同士になりたいんだもの」
「今、このときから?」
「だって、愛してるんだ、ルートヴィッヒ。友だちじゃ足りないよ」
たじろぐ瞳の奥から視線を逸らさず固定する。黙り込んだルートヴィッヒの首に腕を回し、軽く額にキスをする。彼はまんじりともしない。フェリシアーノは調子に乗って、次に唇へとキスを落とした。さすがに今度は額を叩かれた。
「調子に乗るな」
顔を赤らめたルートヴィッヒは、ちいさく溜息をついた。構わず続けようとしたフェリシアーノの顔を、大きな掌が覆う。
「く、くるひいでふルッフはん」
「俺は……初めてできた友だちが嬉しかったのだが、」
お前はそうではなかったんだな。
その、ルートヴィッヒのいじましい言葉に、フェリシアーノはどうしようもなく、愛おしさを感じた。だからつい、言ってしまったのだった。
「じゃあさ、お前が俺に応えてくれるまでは、俺たちは友だち。それでどう? 友だちだけど、口説くし、毎日愛してるっていうけどね」
ルートヴィッヒは唸った。だが結局彼は、小さく頷くことで肯定の返事を寄せた。
「それでいい」
「うん、分かった。それじゃあ俺たち、友だちだよ」
(馬鹿なルートヴィッヒ。そして馬鹿な俺。友人同士が愛を囁くなんて、きっとそのうちにどうしようもなく辛くなる。心が折れるのはどっちが先かってだけの話だ)
それでもフェリシアーノは彼の思いを無下にはできなかった。なんといっても、ルートヴィッヒのことを愛しているのだ。愛するひとの願いを叶えるのは、フェリシアーノにとって当然のことだった。
ルートヴィッヒの性格を考えれば、それが最前の方法などでは決してないことが、明白であったというのに。
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