最初に気づいたのはいつ頃だっただろう。
あれはたぶん、いや確か、夏の終わり頃だった。ばかばかしくも薄ら寒い夏休みループを抜けてしばらくたった、まだまだ残暑も厳しい二学期の頭だった。
いつものように二人で部室の長机で差し向かい、囲碁を打っていた。古泉は俺の数倍の時間をかけて碁石を動かしたり戻したりと、要は相当の長考を繰り返し、俺はいささか退屈だった。正直いって、あまり碁は好きではないのだ。外はうだるような暑さというほどでもなく、直接日のあたらない部室のなかには、開け放しの窓から時折涼しい風も入ってくる。窓枠に区切られた遠くの空に、飛行機雲の流れるのが見えた。
実力テストが終わったばかりのその日、ハルヒは水泳部からプールを強奪するのだと言って部室を飛び出した。長門と朝比奈さんを無理矢理連れていったところを見ると、端から色仕掛け作戦に出るつもりだったらしく、そしておそらくそれが成功したのだろう、そのまま帰ってこなかった。水遊びに夢中で、部室待機の俺たちの存在など、頭っから抜け落ちていたに違いない。俺も面倒くさいのはごめんだったのでちょうどよかった。水着も持っていなかったしな。
勝手に帰っても文句など言われなかっただろうが、どちらからともなく──いや、十中八九言い出したのは古泉だが──ゲームプレイの打診が行われ、間もなく机の上には碁盤が広げられたのだった。
幾度目かのあくびを漏らしたとき、古泉が口を開いた。
「お疲れのようですね」
疲れているのではなく退屈だからだ、などとさすがに本人を目の前にしては言えず、俺はなんのリアクションもせずに、言葉だけ返した。
「夏休みを繰り返した疲れがまだ取れてないらしい」
それも嘘ではなかった。九月に入ってからも、いまだ体のだるさが残っている。加えて、八月後半の怒濤の夏休みをひきずるかのごとく、涼宮ハルヒとその仲間たち──つまり俺たちは、二学期初日からめまぐるしく日々を過ごしていた。このくそ暑いなか、ハルヒは水を得た魚のように、新たな遊びをひっさげてはここにやって来る。ひどいときは朝から団員を駆り出させて一日中、異星人探索だのミステリーツアーだのといった訳の分からないことに付き合わせられるのだ。せっかくエンドレスな夏を抜けたというのに、やってることはさして変わらないという現在が、肉体だけでなく、ことのほか精神を摩耗させる。
「はあ、それも仕方のないことでしょう。何せ僕らは594年分、遊び続けていたのですから」
そう言った古泉も言葉の端々に、隠し切れない疲れが滲み出しているのが分かった。よく見ると、頬が軽くこけている。端正な印象の顔立ちの割に、意外とがっしりとした体格も、夏休みの終わりとともに、少しだけ肉がそぎ落とされた気がする。
俺にはよく分からんことだが、古泉は『機関』なる謎の組織の一員で、その組織はハルヒの力によって生み出され、そしてハルヒの精神が飼っている化け物を倒すことによって、世界を平和へと導いているらしい。どこの三流ファンタジー小説だってな荒唐無稽な物語の主役を、まさに地でいっている男なのだ、古泉一樹というやつは。その化け物はどうやらハルヒが不機嫌になると出現するようで、つまりハルヒがまた馬鹿をしでかさないように、古泉は神経をすり減らしながら笑顔を貼りつけがんばっているというわけである。
先日のループ事件について、『機関』と古泉がどのように対応していたか、その詳細は知らない。しかしおそらく例の化け物は、ループの間にだって何度も現れていただろう。そしてそれを倒すのは、空間限定超能力者である古泉の仕事、なんだそうだ。もしそうだとしたら、古泉の疲労度は俺とは比べ物にならないのではないだろうか。
なんてことを俺は思い、そう訊いた。返事の代わりに古泉は、虚をつかれたように目を丸く見開き、それから見慣れない表情を浮かべた。
「ご心配には及びません。慣れたものですから」
それは一見、いつもと変わらない古泉の笑顔だった。しかしなぜだろう。なんとなく、その笑顔がいつもの偽物ではなく、本当の表情のように、俺には思えた。疲れているせいで、いつもの「古泉一樹」を形づくるのすら億劫だっただけなのかもしれない。それでも、垣間見せたその表情が笑顔であるという事実が、俺の気にかかったのだ。
だからか、この労い攻撃をしばらく続けてやろうという気になった。人知れずがんばっている人間をいたわることは、退屈な長考囲碁であくびをかみ殺すより、はるかに有意義な選択だ。もっと言えば、単純に興味が湧いたせいもあるのだが──このままつっつき続けたら、薮から何かが現れるかもしれないと。
「慣れたといっても、大変なことには変わりないだろう。俺だって毎朝あの坂道を登校するのには慣れたが、疲れるもんは疲れるぞ」
「それは、まあそうですが」
古泉は複雑そうに笑顔を崩す。例の仕事とやらについて突っ込んで訊かれることがあまりないからか、どうリアクションしていいのか分からないといった風だ。その態度に取り繕った様子は微塵もなく、間違いなくこれが古泉の素の状態なのだろう。
「だいたいおまえは可愛げがない。いっつも馬鹿の一つ覚えみたいににこにこしやがって。たまには高一らしくだるそうな顔とか嫌そうな顔の一つでもしてみたらいいんだ」
「あなたに言われたくありませんね」
古泉がくつくつと笑う。
ああまただ。まるで谷口や国木田と話しているときみたいな、くだけた空気がこいつと二人きりの部室にだだようことなんて、今までなかった。嬉しいようで、むず痒い。もう少しつっ突けば、本当に何かが顔を出すかもしれない。願わくば蛇なんてものではなく、もっとかわいらしい生き物がいい。猫だとかハムスターだとかそういうのだ。
しかしそこで不意に空気が変わった。古泉が仮面をつけ直したのだ。すぐに自分のなかの冷静な部分がコントロールを開始する。気にしていない素振り。
「その先日の夏休みループのときもそうですが、あなたは基本的に取り乱すことがありません。僕と閉鎖空間に行ったときもそうだった。普通あんなに落ち着いていられないでしょう」
心なしか声も固い。さっきまで疲れを滲ませていたのに、それすら隠れてしまった。
「いや充分驚いてたぞ」
「僕にはとてもそんな風には見えませんでしたが」
「そりゃおまえの目が節穴だっただけだ」
今、古泉の内面でどういう変化があったのかはまったく予想しえない。が、もしかしたら気づいたのかもしれなかった。俺が薮をつっつこうとしていたことに。しくったな、と俺は考える。つっつき方を変えるか、とも。
「でもまあ、そう見えたんなら……おまえのせいだろうな」
「は、僕のせい、ですか」
方向転換はあっけなく成功した。古泉は再びぽかんとした顔でこちらを見遣っている。こいつ意外と分かりやすいな。馬鹿正直といってもいい。
「おまえが冷静に対処してくれたおかげだろう。最初朝比奈さんから話を聞いたときは、なんで俺じゃなく古泉のところに行ったんだと腹が立ったが、今となれば最良の判断だったって思うよ。あの取り乱した朝比奈さん一人から連絡がきてたら、たぶん俺にもあれが伝染してただろうしな。古泉がきちんと段階踏んで長門と俺に連絡を回したことで、話がこんがらがらずにすんだ。おかげで俺も冷静になれた。な、おまえのおかげだろ」
半分は意識的な甘言だが、半分はほんとうにそう思って言ったことだ。案の定古泉は、笑みを貼りつける振る舞いなど微塵も見せず、その考えごと頭から抜け落ちたみたいに動かない。困ったように視線を落ち着きなく動かし、何を思ったのか、存在すら忘れていた碁盤に黒の碁石を一つ置いた。
「──とんでもありません、僕は、まったく、そんなことはないのです」
口を開けば、果たして何を指して「そんなこと」なのか、いまいちよく分からないことを言う。声が震えているのも不可解だ。俺はつい目を眇め、古泉に顔を近づけた。
「おい、」
そして俺は信じられないものを目撃した。
紅潮した古泉の顔。困惑を含んだ目は伏せられ、長ったらしい睫毛に半分隠されている。口を開こうとして逡巡ののち、また沈黙。うすく開かれたままの口から、形のいい白い歯が覗く。そのうち、意を決したようにこちらに向けられた視線に射抜かれたとき、俺は不覚にも、思い切り心臓を跳ねさせてしまった。
──いくらなんでも、こいつの顔は、綺麗すぎる。そんな馬鹿なことを考えた。
「あの」
とがめるような声色にようやく、自分が身を乗り出し古泉の顔ぎりぎりにまで近づいていることに気づいた。どうしてそんなことをしたのか、自分でも不思議だった。ついと身をひくと、古泉はほっとしたように、いからせていた肩の力を抜いた。
「おまえ」
「は、はい、なんでしょう」
「なんでいつも、今みたいにしないんだ」
「今みたい、とは?」
「笑顔じゃない顔だよ。あの嘘くさい笑顔より、今みたいな顔のほうがよっぽどましだ」
俺の言葉に、古泉はさっきよりもひどく顔を赤らめた。眉間にしわをよせ、まるで怒っているようにもとれるが、肝心の目が泳ぎまくっているせいでまったく迫力がない。
その顔のまま、がたがたと音をたてて、古泉は立ち上がった。焦って何度も空を切る手がやっと鞄を掴み、
「帰ります」
それだけ言って、ものすごい勢いで部室を後にした。耳まで真っ赤になりながら。
「……なんだありゃ」
一人部室に取り残され、しばらく呆然と、古泉の出て行った扉を見続けてしまった。冷静になってくると、珍しいものを見たな、という感想がまず浮かぶ。珍しいなんてものではない。古泉の、あの色素の薄い肌に色が差すなんて、思いもよらなかった。真夏の体育で準備運動のランニングをしているときだって、汗一つたらさず平然としていたのを、俺は自分の教室の窓から目撃している。もしかして超能力者という人種は得てして、そういう特殊体質の持ち主なのかとすら思っていたほどだ。
しかしそんなわけはない。古泉も体温調節に関しては、ただの人間だったのだ。予想と違えたことに、俺は少々安堵を覚えてすらいた。古泉だって普通の、高校生みたいな表情をすることもある。それは当たり前のことだ。きっと。
もう帰ってもいいというのに、俺はなかなか席から立ち上がることができなかった。部活仲間の見慣れない表情を目にしたせいか、自分までおかしな感覚に陥っているようで、時間が経つにつれ心臓がどくどくと早く脈打ちはじめる。真っ赤な古泉の顔が、何度も再生されては頭の中をぐるぐると回る。
これはどうしたことか。
考えようにも、元から解法も分からない問いを解けるはずがない。経験と実例をもってしても、古泉の顔を見て動悸が激しくなる理由など見つけられそうになかった。
俺は机に突っ伏した。息苦しさに、深く呼吸を繰り返す。規則正しく、吸い、そして吐く。だんだん呼吸とともに、脈が正常に戻ってゆくのを感じる。
さて、これでようやく動けるってときに、無情にも再び扉は開かれた。
ハルヒたちが帰ってきたのだ。塩素混じりの水の匂いがかすかに漂ってくるとともに、髪をしめらせた女子三名の内二名の、やけににこやかな声が耳に入った。残る一人は相変わらず無言、そしてなぜか髪がもう乾いている。もう少し人間らしくあれ、長門。
「ただいまです」
「あら、キョンまだいたの」
男二人ほっぽらかしたまま忘れていた癖に、ひどい言い草である。文句の一つでも言おうかと向き直ったが、屈託のない笑みで「楽しかったわね!」などと語らいあう三人娘に、水を差す気は起こらなかった。
「古泉くんは?」
「帰った」
「ふうん、そう。あ、プール占拠って最高に楽しいわね! 体育の授業なんて二クラス合同だもの、イモ洗い状態の水泳なんて水泳とは言えないわ。またやろうかしら。今度はあんたたちもちゃんと水着を用意していなさいよね」
ハルヒの気まぐれプール占拠を予想した上で水着を用意しろとは、さすがに高等技術すぎて俺には無理だ。古泉なら得意のハルヒ限定直感能力だかで虫の知らせを受けられるのかもしれないが。
髪の乾いた長門は、何事もなかったかのように指定席につくと、早速読書を開始している。普段通り過ぎて逆に異常だ。プールに入った後の人間とは思えない。人間じゃないから仕方がないのか。俺の背後では、ハルヒと朝比奈さんがきゃいきゃいと言いながらじゃれあっている──と言っていいものか。朝比奈さんの嬌声からすると、おそらくハルヒが朝比奈さんの胸をもみしだいているのだと思われる。恐ろしくて振り向けないので確認はできない。
その後一段落したのか、いや単にハルヒが飽きただけであろうが、ひいひい言いながら朝比奈さんは呼吸を整え、これまた何事もなかったかのように微笑みを向けてくれた。甚だ意外であるが、朝比奈さんは結構、順応性が高い。
「えと、キョンくん、お茶淹れましょうか? 冷たいの」
「いいわよみくるちゃん、甘やかさないでも」
せっかくの朝比奈さんの申し出を、ハルヒが弾んだ声で止めようとする。待て、それはおまえが決めることではない。そう制止しようとした瞬間だった。つと俺の肩越しに、ハルヒは机の上を覗き込んできた。視線の先には、打ちっぱなしで途中放棄された碁盤がある。
「あら」
「なんだよ」
「囲碁打ってたの? じじ臭いわね」
「古泉の趣味だ」
ハルヒはへえ、と唇に手を当てながら目を丸くする。しばらく盤面を眺めていたが、不意ににやりと口元をゆがめ、面白いおもちゃでも見つけたような笑顔を見せた。
「蛇ね」
「はあ?」
「ほら、黒い碁石の配置。蛇みたいな形になってるじゃない」
そのままハルヒが鼻歌を歌いながら、さっさと自分の団長席に腰を落ち着けるのを、俺は呆気にとらられた目で眺めていた。
どきりとした。まさかハルヒがさっきまでの俺と古泉のやり取りを、ましてや俺の考えていたことなど知る由もない。それでも俺には、まるでハルヒが言い当てたように聞こえたのだ。
つついた薮から出てきたのは、その蛇でしょう、なんてな。
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