結論から言うと、俺がつっ突いたのは蛇のしっぽの先であった。それを鋭敏に察知した蛇は、目にも留まらぬ早さで薮のずっと奥まで逃げてしまい、その後なかなか姿を現そうとはしなかった。
古泉は以降ますます、粉飾といってもいいほどに「古泉一樹」を演じる意識を怠らず、その緊張感たるや、まるでサバンナで草を食むガゼルのごとしであった。四方八方に神経をはり巡らせているのが、嫌というほど伝わってくる。まるで演技が過剰すぎて、逆に嘘くさくなってしまった大根役者のようだ。
それほど俺に素の自分を見られたことを、後悔しているのだろうか。しかしいったいあれにどんな問題があるというのか。ハルヒが一緒だったのならまだしも、あの場にいたのは俺だけだ。それ以前にハルヒが挙動不審な古泉を見たところで、今更失望するとも思えないが。
まあ確かに、普段見せたことのない一面を見せるのは、恥ずかしいといえば恥ずかしいかもしれない。俺だって妹と一緒のところを、SOS団や友人連中に見せるのはいささか抵抗があるしな。
それにしたって、少し頑なすぎやしないか。
「古泉よ」
「はい、なんでしょう」
「いいかげん正体を現せ。楽になるぞ」
「あなたは僕を、妖怪かなにかと勘違いしていらっしゃるようですね」
のらりくらり。古泉はそれはもう依怙地に、笑みを崩さず俺の言葉を躱し続ける。
会話終了とばかりに、対岸の古泉は考える仕草を見せたのち、手にしたカードの束から一枚を場に捨てた。代わりに場にあるカードの山から、一枚を抜き取る。
二人で大富豪などやってもなんら面白くはない。それでもゲームをしていなければ、古泉は俺と目を合わせようともしないのだから、仕方なしに付き合っているのだ。二人きりで話すのを嫌がる割に、ゲームの誘いだけはかけてくるこの男が、いったい何を考えているのだか、俺にはさっぱり分からない。
どうせハルヒ達は帰り際ぎりぎりまで、ここには戻ってこないのだ。さっさと帰ればいいものを。今日だっておそらく、部室に二人で居残っていることに意味などない。
女子三人は近頃、部室を空けっぱなしの出ずっぱりである。九月中旬も過ぎた今、もうプールという季節でもないのに、相変わらずハルヒがプール占拠にご執心のせいだ。このまま水泳部の活動するぎりぎりの時期まで続けるんじゃないだろうかと、気が気ではない。水泳部(被害を被っているのはおそらく男子水泳部であろう)のみなさんも可哀想に。ただでさえ夏の間だけしか活動できないだろうに、その貴重な活動期間をあの電波女に奪われるとは、同情を禁じ得ない。
可哀想なのは朝比奈さんも一緒で、最初のうちは案外楽しそうに水遊びに興じていたようだが、最近は気温も水温もめっきり下がってきたせいか、部室に帰ってくる頃には唇を真っ青にしてがたがた震えている有様だ。そして疲れきっている。そのせいでお茶も淹れてもらえない。それはいいとして、そろそろ本気で止めないと、朝比奈さんが本格的に体調を崩してしまうのではないだろうか。ハルヒと長門に関しては元から心配などしていない。必要もない。
ふと窓の外を見遣れば、どんよりと暗い雲が空を覆い尽くしている。こりゃひと雨くるかもしれん。開けっぱなしの窓から冷たい空気が流れ込み、俺は思わず半袖から伸びた腕を抱いて身を震わせた。寒さを堪えて窓際に立つと、新校舎の隙間からプールサイドのフェンスが小さく見える。こんな中プールに入っていたんじゃ、間違いなく風邪をひくな。二人はともかく、朝比奈さんが。
とりあえずと窓を閉め、さて連れ戻しに行くべきかと逡巡していたら、聞き慣れた着信音が胸ポケットから鳴り響いた。携帯を取り出すと、新着メールの知らせが点滅している。送信者はハルヒで、『雨がきそうだから帰るわ! あんたたちも残ってるなら、降られる前にさっさと帰りなさいよね』とあった。どこまでも自分勝手。しかしここから意外と距離のあるプールまで足を運ばずに済んだのには助かる。
「涼宮さんからですか?」
古泉が尋ねてくる。ハルヒのメールが開かれた画面を、俺は古泉の目の前にかざした。古泉はふんふんと頷くと、にっこり笑って、
「では僕らも帰りますか」
やけに嬉しそうに言った。
──なんというか、面白くない。古泉が俺をゲームに誘うわけが、なんとなく分かってしまった。
所詮、ハルヒ第一主義の古泉にとって、ハルヒの了承を得ずに部室を離れることは、神に背くことにも等しいという、それだけの話だったのだ。いないからといって勝手に帰るわけにはいかない、しかし俺と二人きりで何もしないのでは息が詰まる。だからゲームで場を濁していたってことだろう。
導き出された結論は、苦々しい気持ちを呼び起こすに値した。そうだろうな。俺と二人でいるときに、自身を取り繕う労力を無駄に消費するなどとは、なるほど馬鹿馬鹿しいことだろうと思う。だからといって嬉しそうにされると無性に腹立たしい。いやしかし、この嬉しそうな顔も演技なんだとしたら。結局古泉の本心は分からず仕舞だ。
考えても詮ないことばかりが頭を駆け巡り、このとき俺の表情はいかなるものだったか、考えたくもない。古泉は怪訝そうにこちらを見ていたが、やがて席を立ち、鞄を手にしかけたところで──それは起こった。
最初に聞こえてきたのは、耳をつんざくほどの轟音だった。
一瞬の閃光が走る。空気が震動している錯覚を覚えるほど、その音は激しく鳴り響いた。残響が消えかけた頃、それはゴロゴロと静かに地を這うような音に変わりだす。
「……雷か。やばいな、早く帰らないと……古泉?」
不穏な空に一瞥をくれ視線を目の前に戻すと、古泉は立ち上がりかけた状態のまま固まっていた。その姿はなんとも間抜けで、俺はつい吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。
「古泉」
もう一度呼びかける。するとようやく自分の様子に気づいたようで、古泉は力が抜けたみたいに再びパイプ椅子へと逆戻りした。口元こそ笑みを形作ってはいるものの、無表情といっても差し支えのない、青白い顔をしている。
「僕は、もう少ししてから帰ります」
明らかに様子のおかしいところに、古泉はそんなことを言い出した。ロボットみたいにぎくしゃくと口を動かし終え、そのまま動かなくなる。
「何言ってるんだ。早く帰らないとまじで帰れなくなるぞ。この様子じゃ、おそらく土砂降りになるのは免れんだろうし、今なら降り始めてもひどい雨にあわずに済む」
「いえ、大丈夫です。少々野暮用がありますので」
そんな馬鹿な、と言いかけて、こいつの数あるかもしれない正体のうち一つを思い出す。どうやら『機関』ってのが、ことある毎に学内でごそごそとやっているらしいことは、一番最初に聞かされた与太話で予想がついていた。その野暮用とやらが『機関』絡みであったとしたら、俺には口出しも深入もできない。
「そうかい。俺は帰るぞ、じゃあな」
「ええ、また明日」
追求説得の類いは早々に諦め、俺は鞄を取ると部室を後にした。旧校舎の廊下は夜みたいに暗い。まだまだ日が高いと油断して、電灯をつけていなかったらしい。今にも降り出しそうな厚い雲、雨の匂いが強くなる。暗雲を縫うように、幾つもの光の筋が見えた。さっきの雷はまだ随分と遠くに落ちたようだったが、そろそろと近づいてきているのかもしれない。雨が降り出す前なら自転車で帰れるが、万一電車を使う羽目になったら、今度は停電が心配だ。
なんてことを考えると、何の呪いか、現実になってしまうのである。
どん、と地響きのような音が鳴り、瞬間、ほんのわずか灯っていた、扉の窓から漏れ出す明かりまで失われた。電灯がついていたのは文芸部室だけだったから、途端辺りは本物の真っ暗闇に包まれる。古泉が消したのか、と思われたが、まだ出てくる様子はないし、窓から見える向いの校舎も真っ暗だ。ついさっきまでは、いくつか教室の明かりが点在していたことから考えても、停電が起こっているのに間違いないらしい。
ことごとくついていない日だ。思わず溜息が口から零れた。しかしおかしい。文芸部室からは物音一つしないが、真っ暗になった部室の中で古泉はいったい何をしているんだ。おそらく野暮用とやらも、この事態では全うできないだろうに。
妙に古泉のことが気にかかり、俺は踵を返すと部室の扉前に舞い戻った。扉越しにしても、内側は異様な程静まり返っている。どうも様子がおかしい。気持ち物音を立てずに扉を開こうとしたものの、裏切り者の蝶番は景気よく怪音を響かせた。真っ暗闇に鳴り響く物音、まるで幽霊屋敷のようでぞっとしない。まさか古泉のやつ、暗闇が怖くて震えてるんじゃないだろうな、などと薄笑いを浮かべながら部屋のなかをそっと覗き込む。
「……古泉?」
つかのま、視認ができずにいた。何せ真っ暗のなか、目も慣れていなかったのだ。ようやく周りが見え始めた頃、視界に入った状況に俺の目は点になった。
「おい、何してるんだ?」
古泉は、両手で頭を抱え込んで、机に突っ伏していた。寝ているのかと思ったがそうではない。その証拠に、体が小刻みに震えている。傍まで近づくと、椅子のかたかたと揺れる音がかすかに聞こえるようになった。こりゃますますもって様子が変だ。急病でも催したようにしか見えん。
まず意識があるのかを確認すべく、俺は古泉の肩を揺らし声を掛けた。
「古泉、おい、大丈夫か、気分でも悪いの……うおっ!」
驚きのあまり、頓狂な声が出てしまった。それというのも、古泉が、俺の腰に取りすがるように腕を巻き付けてきたからだ。さすがにぞわっときた。暗いせいでよくは見えないが、間違いなく今、俺の腕にはサブイボが現れているだろう。
「てめ、おい何やってるん、だ、よっ」
引きはがそうとしても、あまりに古泉の力が強すぎてびくともしない。それどころか余計に抑え込まれ、引き寄せられる。バランスを崩しそうになるのを、長机に手をかけ必死で支えているような状態だ。なんだこりゃ。何が起こっている。しばらく押しやる努力をしてみたが、すぐに無意味だと悟った。
困り果て窓に目をやると、空から大きく一筋、雷光が走った。またどこかに落ちたのだろう。時間差で大きな音がこちらまで届く。それとともに、古泉の腕の力が強められた。
「いってえええ!」
内臓がつぶされる! あまりの痛みに俺は泣きそうになった。それほどの怪力で胃の辺りを圧迫されて、体がきしむ。もし食事の後だったら絶対に内容物が逆流していただろう。しかしそれを訴えようにも、声を出すことすら辛い。
「こいずみ、いいかげんに、しろ」
掠れ声とともに頭やら肩やらを思い切り叩くと、古泉はようやく我に返ったようで、腕の力がわずかに緩められた。だが外されはしない。
「すみません……」
弱々しい声が、自分の腹の辺りから聞こえてくる。俺の腹部に顔を押さえつけたまま、古泉は謝罪を告げた。謝る前に離れろ。今度こそ古泉を引き離そうと肩に手をかけたところで、俺は目を瞠った。
古泉が抱きすがったままこちらを見上げている。両目からぼろぼろと涙を零しながら。
「なっ、おまえ、何泣いてるんだ」
さすがに焦った。焦って思わず、意味もなくきょろきょろしてしまう。
古泉の目を見ていられない。
潤んだ目尻は、暗がりでも分かるほどに上気していた。鼻頭まで赤らめ、まるですがるようにじっと見つめられてはたまらない。混乱して、どうしていいのやら思いもつかないのに、何故だか手だけが勝手に動こうとする。とりあえず頭を撫でようとする。母性本能? いや兄属性の発動か?
もうどうにでもなれと、俺はとりあえず本能に身を任せた。宥めるように頭から、髪をすき、そのまま背中に手のひらを下ろす。落ち着け、落ち着けと手で伝えるように、何度も上下に撫でさすった。片方の手で、その小さな頭を抱きかかえながら。
ずっと石みたいにこわばらせていた古泉の体から、だんだんと力が抜けていく。もたれ掛かるように俺の胸に頭を預け、古泉は薄く呼吸を繰り返していた。
雨の音がした。ふと顔を上げると、大きな雨つぶがいくつも窓ガラスに張。窓からの景色はばけつをひっくり返したような土砂降りの雨に遮られ、あっという間に遠くの山も何も見えなくなった。代わりに、ずっと唸っていた雷はなりをひそめたようだった。
すと、体を風が通る感覚。古泉が身を離したのだ。涙はもう止まっていた。
「……すみません、もう、大丈夫です」
はにかむように古泉の手が、俺の胸の辺りを押し返す。気恥ずかしさを抱えたまま、俺は古泉の隣の席に座り込んだ。さっきまで背を擦っていた手のひらには、まだ古泉の体温の感覚が残っている。ひどく熱く感じられた。何を言っていいものか、口を開いても言葉が出てこない。なんで泣いていたのか。どうしてあんなことをしたのか。訊きたいことは幾らでもあるというのに、口にはできなかった。同じように、古泉も黙りっぱなしだった。俺はひたすら、膝に投げ出した自分の手のひらを見つめていた。
随分経ってから、古泉がぽつりと零した。
「嫌いなんです」
一瞬、自分のことを言われているのかと思い、背筋がひやりとした。反射的に古泉を見遣ると、俺がどんな顔をしていたのだか、慌てたように言葉を続ける。
「僕は、雷が嫌いなんです。怖くて、足がすくんでしまうんです。だからさっきあなたが帰ろうと言ったとき、動けなかったんです。雷が落ちたから」
そう一気に話しきった後、古泉はさっと目を伏せた。
──なんだそりゃ。
そのときの俺の気持ちを表すのに、唖然という言葉が一番ぴったりだった。目をしばたかせ、古泉を数秒凝視。
それから、笑った。それはもう、窒息するんではないかってくらい、笑い転げた。実際、軽度の呼吸困難に陥った。
「ば、ばかじゃ、ねえの」
俺がひいひい言っている隣で、古泉は憮然とした顔を崩さない。怒っているのだというアピールなのか、横目でこちらを睨みつけてくる。が、同じくらい恥ずかしそうに身を縮こまらせているので、その姿は滑稽だ。それが余計におかしくて、なかなか笑いを止められそうになかった。
目に映る古泉の姿が新鮮で、おかしくて、ああどうやら俺は今、嬉しいと思っているらしい。
雷が怖いだって? あの古泉が。あんな不気味な空間で、不気味な化け物相手に平然と向かっていた、職業「超能力者」の男が、まるで子どもみたいに俺にしがみついて、涙まで流して。
間違いない。こんな古泉を見たのは、きっと俺が初めてだ。
「だから嫌だったんですよ……だから先に帰ってくださいと言ったのに」
さっきからまともにこちらに顔を向けようとしない古泉が、下向き加減でぼそりと呟いた。俺はまた吹き出した。
「おまえ、でも、俺が来なかったらずっと、あのまま頭抱えながら我慢してたのか?」
「……ええ、まあ」
「ふうん。別にハルヒに見られるわけでもなし、素直に俺に、雷が怖いから帰らないでくれって言えばいいものを」
「嫌ですね。むしろあなたにだけは知られたくありませんでした」
「なんで」
「馬鹿にされるからに決まっているじゃないですか。あれだけ人のことを笑っておきながら」
「ああ、そりゃ悪かった」
謝りながらついつい吹き出しそうになると、すぐさま古泉の突き刺さるような視線が飛んできた。しかめられた眉間はしかし、すぐに情けなく下がり、口からは力ない溜息がついてでている。
伏せられた睫毛は相変わらず長く、俺は不意に、つい二週間程前のあの日のことを思い出した。
つつき出そうとした蛇──そのしっぽが、また目の前に現れる。
古泉の口元は、薄く笑みをかたちどっていた。
「ほんとうに、最悪だ。あなたとゲームになんて興じていないで、さっさと帰っていればよかった」
突然の、吐き出すようなその言い草に、胸の内がかすかにうずいたのも一瞬のことで、それを上書きするみたいに、次第に苛立ちが込み上げてきた。古泉が俺と二人きりになろうが帰らない理由を分かっていながら、それに付き合わされている自分が、途端ものすごくお人好しの馬鹿やろうに思えてきたのだ。自分のストレスに俺を巻き込むな。自分が縛られている神とやらに不満があるなら、自分でどうにかすればいい。
「じゃあ、さっさと帰ればよかっただろう。いつもいつも、二人でゲームしてることになんの意味がある。おまえは別に俺とゲームがしたいわけじゃないし、俺もそうだ。帰りたきゃ帰ればいい。なのにどうして、わざわざ俺に声を掛けるんだ」
古泉がアナログゲームをたいして好きではないことなど、端から分かっていた。ただ何かを挟んでいないと、向き合うことすらできないから、だから俺たちの前にはいつも、ゲームがあった。それだけのことだ。
机の上には、さっきまで広げられていたトランプが、山をなしている。そういえば片付けるのを忘れていた。何も言わない古泉の横で居心地の悪さを感じ、俺は手元に散らばったカードを引き寄せ、きれいに揃えるのに集中した。机を軽快に叩く音が響く。電気はまだつかない。まだ校舎内に残っている人間はいるのだろうか。
あっけなく片付けは終わった。時間にして数十秒といったところだ。トランプをしまったケースをいたずらに手でもてあそびながら、いい加減何か喋れ、と目で訴えようと古泉に向き直る。向き直って、見てしまった。
俺は一瞬にして、訊いてはいけないことを訊いたのだと悟った。
なんて顔をしてやがるのだ、こいつは。
古泉は顔を歪めて、今にも泣きそうな目をしながら、救いを求めているような、そんな表情で俺を見ていた。どこかで俺を拒否して、でもどこかで俺に、全てを知れと訴えている。
目を逸らせなかった。逃げ出したいという感情と、手を差し伸べたいという感情が、ごっちゃになって胸に渦巻く。
しかし無意識が勝った。俺は自分の意志ではないみたいに、古泉に手を伸ばした。長身にしては細身の手首を掴み、それから、引き寄せられるように、古泉の目の内を見続けた。何かに操られたみたいに、ずっと。
「あ……」
古泉が小さく声をあげたのと、ぱちぱちと小さな静電気音とともに電気がついたのは、ほとんど同時であった。
催眠が解けたように、何かが弾け、俺はいきなり我に返った。
「あっ……いや、あ、うん」
言い訳じみたうなり声を繰り返し、掴んでいた古泉の手を離した。自分でも、何がしたかったのだか、思わずじっと手を見てしまう。古泉も同じように、惚けた面で掴まれた手首を見つめていた。
もし通電があと少し遅れていたら、俺は何かをしていたのだろうか。
何かっていったい何を?
考えたくもない。
「雨が」
ぼうっとしたままの古泉がぽつと漏らした。目で促され窓を見遣ると、いつの間か雨足はほとんど去ってしまったようで、霧雨みたいな小降りのものになっている。どうやら少し大袈裟な通り雨だったらしい。
そのうち古泉は言葉もなく立ち上がり、ふらふらとドアのほうへと向かい始めた。鞄も持たずに。
「古泉、帰るのか」
背後から声を掛けると、古泉ははっとしたように振り向いた。机の上に放りっぱなしだった鞄を差し出すと、ばつが悪そうにそれを受け取り、また顔をそむける。そのまま足早に立ち去るのを、俺は見送るしかなかった。
俺も帰りたい。
しかし古泉の背中は、無言で「ついてくるな」と語っている。
今度は俺が、ここから動けなくなる番だった。
ここいらで俺はうすうす感づきはじめていた。俺が薮からつつきだそうとしていたものは、もしかして蛇なんて可愛らしいものでは、全くないのではないのかと。
好奇心は猫を殺す。賢人のごとく我をわきまえるべきだと俺は思ったね。開けてはいけない箱を開けるなど、愚の骨頂である。
しかし俺のなけなしの好奇心は、自制を知らないまま、薮に棒どころか首をも突っ込もうとしていた。
正直に言おう。俺は知りたかったのだ。
ほんの少し覗き見ることのできた、古泉の本当の姿を。
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