リセット


3

 古泉一樹という男は、とんでもなく嘘つきだ。いつでもにやにやとした薄笑いを浮かべ、思ってもいないことを平気で口にするようなやつだ。
 そんなことよく分かっているし、今更責める気にもなれない。
 しかし分かっちゃいるが割り切れない。
 いっそのこと完璧なまでに古泉が、「優等生でいつも胡散臭い笑みを浮かべているが実際のところ何を考えているか分からない本音の見えないいけ好かない男」を演じてくれでもしていたら、こうまで煮え切らない気分を抱えることはなかったのかもしれない。
 古泉一樹という男は、嘘つきのくせに、時折隠し切れない本音を見せるのだ。
 何度も何度も、繰り返し。
 

 激しい雷雨のあった翌日は、再び夏が訪れたのかと思うほどの快晴。三時限目の頃には、長袖のシャツを着てきたことを後悔するほど気温は上がり、そのせいで授業中も集中力が散漫になって参った。
「キョンは元々、授業中は注意力散漫だろうがよ」
 谷口が弁当のミニハンバーグを頬張りながら、俺におちょくりの言葉を投げかけると、
「人のこと言えるのかい?」
 すぐに国木田がつっこみを入れる。相変わらず絶妙のタイミングだ。この二人、さては俺の知らないうちにどこかで立ち稽古でもしているんじゃなかろうか。なんつうことを考えてしまうほど、俺の脳みそは暑さに煮えくり返っていた。
 昼休みには、ちょうど気温の上昇も最高潮に達したようだった。袖をまくり上げていても、暑いものは暑い。第三ボタンまで寛げて、襟元をはたつかせていたら、横を通りがかった女子に白い目で睨まれる。暑いんだよ、しょうがないだろう。体中から汗が流れて気持ちが悪いったらない。三時限目の終わりに我慢できず購買まで買いに走ったハンドタオルで拭いはするものの、後から後から吹き出すものだから、はっきり言ってきりがなかった。
「国木田、下敷き貸してくれ」
 言うとすぐに、自分の机から出した下敷きを国木田に手渡される。今日は国木田の机周りで昼飯を食っていた。廊下側でまだ窓際の俺の席よりは過ごしやすい。受け取った下敷きを仰ぎながら、俺は小さくうめき声をあげた。いくら仰いでも、纏わりつくような暑さはなかなか追い出せない。
「あー……やっぱ無理だ。ちょっと避暑に行ってくるわ」
 借りたばかりの下敷きを返し、俺はさっさと腰を上げた。とっさに反応したのは谷口で、俺の発言を鼻で笑い、ゆるゆる首を振っている。
「避暑だあ? どこ行っても暑いもんは暑いって。それとも……キョンまさかおまえ……」
 言ってる途中でだんだん口調が変わってきた。じとっとした視線まで向けられたが、そんな顔されても何を言いたいのだかまったく伝わらないぞ。
「なんだよ」
「こんの裏切りものがっ」
「意味が分からん。じゃあな」
 いきなり気の違った谷口は放っておこう。隣で国木田がにやにやとした笑みを浮かべているのも気になったがな。
 教室を出る俺の後方から、小さく国木田と谷口の会話が聞こえてきた。
「馬鹿だなあ、キョンが涼宮さんを差し置いてそんなことできるわけないじゃん」
「まあ、そうか、そうだよな。あいつにそんな度胸あるわけねえか、ははっ」
 そういうことか、谷口のどあほうが。つうかそれで納得してるんじゃねえ。
 あほには付き合ってられんとばかりに、俺は急いで歩を進めた。

 さて、俺がこの学校における格好の避暑地を発見することができたのは、なんと件の涼宮ハルヒのおかげである。しかし感謝はしない。これは決してハルヒの厚意によっての発見ではなく、むしろ厚かましさに端を発する偶然の上に成り立った、奇跡的な発見なのであった。
 その部屋は、旧校舎一階の最奥に存在していた。部室に保管されている鍵を取りに行っても、そこまで五分とかからない。錆びてうまく噛みあわない鍵を力いっぱい回し、古びた扉を開くと、埃っぽい匂いと、ひんやりとした空気が表に流れ出す。雑多にものが並べられた部屋の隅の窓際、大の字で寝転べる程度のスペースを作り出してから、そこに体を滑り込ませ、俺は一息ついた。
 汗でべたつくシャツのボタンを全て外し、素肌を外気に触れさせる。シャツの裾を仰いで空気を送ると、心地のよい涼しさに、徐々に汗がひいていくのを感じた。
 ざっと部屋を眺め回すと、相変わらず薄暗くて、ごちゃごちゃとしていた。大きなスチール製の棚が壁ぎわをぐるりと囲み、中央にも人が通れる程度の間隔を空け、五つ程それが並んでいる。棚には段ボール箱が所狭しと詰め込まれ、一つ一つに「電球」「コピー用紙」「インク類」「筆記類」などと太マジックで雑に走り書きされていた。
 いわゆる備品室である。この部屋の存在自体知ったのがつい数日前で、しかも先ほど言った通り、理由はハルヒの気まぐれによるものだった。あの馬鹿はプールに持ち込むビーチボールをふくらませるのが面倒くさいと、こともあろうに俺に向かって、備品室から空気入れを持ってこいと命令しやがったのだ。
 何故ただの生徒である──広義的な意味でいえば、ハルヒを称するのに「ただの」という修飾語を使用するのは間違っているのだろうが、ここではハルヒが必要以上に学校機関に関わっていないという意味で「ただの」を使用させてもらおう──ハルヒが備品室の存在を知っているのかは未だに疑問だ。そのうえ、どこからパクってきたのやら、あいつは鍵まで入手していやがった。計画的犯行である。もしかしたら以前から、無断借用を繰り返していたのかもしれん。道理で、妙に筆記具用紙の類に恵まれていると思っていたのだ。
 しかしそのお陰で、絶好のポイントを発見できたのだから僥倖である。過ぎたるは及ばざるがごとし、うん何か間違っている気もするがまあいい。
 ようやく訪れた快適に、俺は安心しきって、そして、いやに眠たくなってしまった。


 風だ。耳元に、風が通り抜ける感触。その風は暖かいが、不思議と心地よい。
 夢の中にいるのだと思った。小さい頃に遊んだ、田舎の菜の花畑で浴びた新風。夢の中できっと、俺はそこにいるのだ。傍にはまだ小さな妹がいて、年の近い従兄弟たちがいて、一緒にかくれんぼをしていた。そよぐ一面のあざやかな浅黄色に、目を奪われながら。背の高い菜の花は遠くのほうまで続いていて、なかなか皆を見つけられないでいた。心細いなどとは思わなかった。昔から、一人が怖いとか、寂しいとか、そんな風に感じたことがない。
 いや、どうだっただろう。ほんとうは寂しかったのに、寂しくないと思い込もうとしていただけなんだろうか。やはり昔のことだから、あまり覚えていない。
 近くに人の気配を感じて、俺は手を伸ばした。捕まえて安心したのなら、寂しいと思っていた証拠だ。
「す、すみません」
 見つけた従兄弟は何故か謝った。いや、年の近い従兄弟にしてはやけに声が低いし、それに掴んだ腕が妙に太くてがっしりしている。俺に敬語を使うのも変だ。おかしいとは感じるのだが、それもこれも「夢だから」の一言で片づけてしまえるのが、夢である所以だ。
「おまえ……太ったか?」
 冗談混じりにそう呟いた。相手が驚いたように身を竦めたのが、手の先から伝わってくる。
「あの……? いえ、僕の体重はここ数ヶ月変動していないと思いますが」
 この辺りで、俺の寝ぼけた頭もようやく、何かおかしい、と気づきはじめていた。だいたい、この暑さのなか、菜の花畑にいるわけがない。今は夏の終わりだ。埃っぽい匂いと、それに混じる爽やかな芳香も、田舎という場所にそぐわない。
 今いるところはどこだ。学校だ。学校の、旧校舎の、備品室だ。そしてここにいるのは誰だ。
 ゆるやかに頭の回転が始まり、俺はようやく目を開けた。そしてしっかりと見た。
 目の前には、古泉が座っていた。
 で、古泉の手首を、俺は掴んでいた。
「ひっ!」
「……失礼な反応ですね。どなたと間違われたのでしょう、僕は」
 思わず悲鳴をあげて手を離すと、古泉は俺の触れていた辺りをこれ見よがしに、もう片方の手で払った。俺は汚れ物か。一見にこやかな笑顔は、底冷えを覚えそうなほど冷やか。目が笑っていない。
「悪い、夢見てた……従兄弟とかくれんぼしてる夢だ。従兄弟を捕まえたと思ったら、おまえの手だった」
 口にしてみれば、随分と子どもじみていて恥ずかしい。寝ぼけて人違いをするなんてまるで小学生だ。ここが教室でなくてよかった。うっかり先生のことをお母さんと呼んでしまい、以降卒業までからかわれ続けた小学校の同級生を思い出し、しょっぱい気分になる。
 古泉はしばらく、大きな目をますます大きく見開いてこちらを見ていたのだが、徐々にその顔を崩してくすくすと笑い声を漏らしはじめた。
「ああ、そうでしたか、ふ、随分可愛らしい夢をご覧になられていたようで」
「うるさい。勘弁してくれ」
 くそ、生意気な。雷が怖いくせに。つい一日前、情けない顔して泣きながら俺に抱きついてきたくせに。もしや昨日の仕返しをされているのか、と思わないでもない。
 床に正座したまま背を丸めて笑う古泉を腹立ちまぎれに一瞥し、そういえばと俺は不思議に思った。
「いや待て、なんで古泉がここにいるんだ。もしかしてもう、昼休み終わりか?」
 ああ、と古泉は顔を上げた。まだ笑っていやがる。
「あれ、もしかして気づいていらっしゃいませんか? 今はもう放課後ですよ」
「なに!?」
 図らずも授業をサボるかたちになってしまったのか。しかも二時間分も。最悪だ。それよりも何よりも、俺の後ろの席のやつが俺不在の机を見て何を考えていたのか……想像するだに恐ろしい。
 しかしそれよりも恐ろしいことを、古泉はさらっと口にした。
「部室に入った途端、涼宮さんに頼まれましてね。『キョンのやつどうせ備品室で居眠りして寝過ごしてるに決まってるわ、ちょっと見てきてもらえる?』と。言われた通り向かえばほんとうにあなたが寝ているものだから驚きました。彼女はもしかすると僕よりも優秀な超能力者なのかもしれませんね」
 何故分かったのだろう。もしやハルヒもここの適温っぷりを知っていて、たまに避暑に来ていたのではなかろうか。そうだろうと思っておきたい。無意識の予知とか読心とか透視とか、そういうのは勘弁してくれよ。超能力者は一人で充分間に合っている。
「はー……しかし参った。昼休みの間だけのつもりだったのに、あんまり気持ちいいからつい寝過ぎた。耳元に風がきて、あったかくて……」
 夢うつつで感じた心地よさを思い出して、俺は目を細める。何気なく言った言葉だったが、対する古泉がとても見覚えのある反応を見せた。
 目を泳がせ、真っ赤に顔を染めた古泉は、ついこの間部室で見せた姿そのものだった。
「古泉?」
 膝の上で強く握りしめられた拳が小さく震えている。顔を見せたくないと言いたげに真下を向いてしまった古泉を前に、俺はまたも固まってしまった。
 ──こんな反応を見せられて、俺にどうしろと? 今の台詞のどこに、古泉をこうさせる内容が含まれていたというのだ。だいたいこれはなんだ。照れているのか、怒っているのか、恥ずかしいのか、悲しいのか、古泉の態度はいったい何を示している。
 困惑とともに、むくむくと湧きあがる好奇心を抑えられない。
 どうすればもっと、別の顔を引き出せる。この間みたいに逃げ帰られたらまた一からやり直しだ。問いただしたところで答えを得られるとは思えないが、何も言わないまま逃げられるよりは、捕まえてからつつき倒したほうが安全かもしれない。
 この時の俺の心情は、獲物を狩るハンターそのものだった。飼い猫が食うつもりもない鳥やネズミをいたぶるみたいなものだ。
 捕らえるつもりはない、ただ反応が見たい。それだけのつもりで、俺は行動に出た。
 壁にもたれかけていた体を勢いよく、バネみたいに起こす。膝立ちになったまま、古泉の前まで進むと、その肩に手をかけた。古泉が怪訝そうにこちらを見上げる。その顔は何かに怯えているようにも見えて、俺に芽生えてしまったハンター本能を存分に刺激した。
 少し強めに肩を押すと、古泉は体から力を抜いていたのか、意外と簡単に後ろに倒れた。肘で身を支えようとしたところを、強引に押し進める。俺の行動の突拍子のなさに、あっけにとられているようで、何の疑問も抱かずされるがままになっている様子がおかしい。肩を押さえたまま、腹に馬乗りになったところで、ようやく古泉は反応を示した。
「な、何をしているんですか」
「逃げないように押さえてるんだよ。この間みたいにな」
「ふざけないでください。いったい何のつもりですか」
 慌てて身を起こそうとする古泉だが、さすがに男一人腹に乗せた状態で、上手く体に力が入るわけもない。逃げられては元も子もないと、俺も肩を押さえる力を強めた。自然、古泉の顔に自分の顔を近づけることになる。しかし問いただすのにはちょうどよい。この程度の威圧感があったほうが、犯人の口を割るのには都合がいいのだ。いつの間にかハンターから敏腕刑事に宗旨替えしている自分の思考については、深く考えない。
「ふざけてないさ。なあ古泉、こうやってSOS団として一緒にやるようになって何ヶ月だっけな。色々あったよなあ、変な空間で変な化け物見せられるわ、カマドウマに追っかけられるわ、孤島で三文芝居に巻き込まれたり、夏休みを何百年も繰り返したのなんてついこの間だったよな。その間ずーっと、俺の知るおまえの表情といえば、あの何考えてんのか分からん嘘くさい笑顔だけだった」
 古泉は、何が言いたいのか分からない、といった顔で、目の前の俺の顔を見つめている。目を逸らしたら負ける、という刷り込みは、おそらく動物全てが共有するものなんだろう。だから今は逃げずにこちらを伺っている。しかしこちらが一瞬でも隙を見せれば、こいつは全速力で逃亡する心づもりだ。
「でも最近、俺は立て続けにおまえの笑顔以外の顔を見たよな。自分でも、どんな顔してたのか分かってるんだろ? だからあの時も、昨日も、逃げたんだよな。でも俺はそういうときのおまえの顔は嫌いじゃない。むしろもっと見たいんだよ。どうやったらいい? どうしたら、おまえは嘘の笑顔を止めるんだ」
 息継ぎもなしに一気に言い切った。自分の姿は自分で見ることができないが、この時の俺は結構必死で間抜けだったかもしれない。しかしなり振りなど構っていられなかった。この睨み合いを制しなくてはいけないと、俺は本気だったのだ。何故そうまでして古泉を追いつめたいかなんて分からないまま。
 だってそうだろう。猫がネズミを追いつめるのに、いちいち理由を言うか?
 古泉の目はこれ以上ないくらいに真ん丸になり、内に俺の姿を映している。さっきからずっと、そこに偽物の表情は存在していなかったが、だからと言って古泉が今何を思っているか俺には読めない。苦しげに眉をひそめる泣き出しそうな表情は、悲しい顔とも違う。怒っているようにも思えない。
「──そんなことを、言われても」
 無理矢理絞り出したような声で、古泉はそう告げた。目を逸らさぬまま、小さく首を振る。
「僕には分かりません、そんなこと、僕が知りたいくらいだ」
 限界まで歪められた顔が、堪え切れずに涙を零しはじめても、俺は見つめることを止めなかった。肩に触れた手の指先にまで力を込める。古泉の口調は、だんだんと悲痛に満ちたものに変化してゆく。
「……あなたといると僕はおかしくなる。完璧に取り繕っているつもりなのに、どこかで綻びが出てしまう。僕は、そんな自分が嫌なんです。見たくもないんです。どうしてこんな風に、僕を追いつめるのですか。お願いですから、僕を、これ以上、揺らがせないでください……」
 とうとう古泉は本格的に泣きはじめた。子どもみたいにしゃくり上げ、ひくひくと喉を揺らす。
 その姿を見ていられず、俺は思わず真正面から視線を外した。弱いものいじめでもしているような気分になり、どうにも居心地が悪い。良心の呵責に耐え切れなくなり、押さえていた肩からも手を離した。途端古泉は両手で顔を覆い、さめざめとした泣き声を漏らしだす。
 さっきまでの嗜虐心はすっかりとどこかに行ってしまった。胸の中に次々と訪れるのは、罪悪感を含んだ困惑のみだ。俺はどうしようもなくなり、ついに古泉の腹の上から身をよけた。
 もういい。逃げようが、逆襲されようが、構わない。こんな風に泣かれるくらいなら、恨み言の一つでも言われたほうがましだ。俺にはどうやらサド気質は備わっていないらしい。それが分かっただけでもよしとすべきか。
 古泉はまだ体を起こさず、くの字に折れ曲がったまま床に突っ伏している。時折鼻をすする音が聞こえる以外は、静かなものだ。俺は隣に並んで座り込み、古泉の髪に手を伸ばした。さらりと柔らかな猫っ毛は、ほのかな光を透かし、その色素の薄さを露呈している。気持ちのよい手触りに、何度も繰り返し頭を撫でた。
 こいつの頭を撫でるのは嫌いじゃないと、昨日も思った。
 まだずっと小さかった頃、寝るのを嫌がりぐずっていた妹の頭を、宥めるように撫でていたときのことを思い出すのだ。
 古泉は何も言わなかった。嫌がる素振りも特には見せない。そのうち、鼻をすする音の代わりに聞こえはじめたのは、規則正しい呼吸音。
 ──こいつ、寝てやがる。
 泣き疲れて眠りに落ちるとは、ほんとうに、まるで子どもだ。古泉という生き物は。
 思わず笑いが零れた。俺よりずっと大人びているかと思えば、えらく子どもっぽい部分もある。前々から掴みどころのないやつだとは思っていたが、ここまで扱いが難しいとは予想外だ。放っぽりだしたい気持ちが半分、後の半分は──興味なのか、意地なのか。
 どちらにしろ俺は、うっかり手を出してしまったネズミの見せた、意外な反応に捕らえられた猫のごとく、古泉から目が離せなくなってしまったのは確かだ。いっそのこと古泉が、窮した時点で俺を噛んででも逃げ出してくれれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
 さっき目を逸らしてしまった時点で、気づいておくべきだった。
 俺はこのときから、敗者になっていたのである。

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