リセット


4

 夏が過ぎるのなんてあっという間だった。
 秋というにはあまりにも短い期間に、俺たちは一本の映画を撮った。アレを映画と称すれば、もれなく映画協会から苦情と叱咤はまぬがれないだろうというふざけた出来のもので、製作に関わっておきながらできれば二度と目にしたくないほどだ。俺にとっちゃ黒歴史である。見所といえば朝比奈さんの愛らしいコスプレの数々のみ、それ以外は二度と衆目に触れぬようフィルムを燃やしてしまえ、と言いたいところだが、すべてデジタル機器で撮影したためそれも叶わない。これほど文明の発達を憎く思ったことはないね。

 備品室での一件があった以降、古泉の頑さは鋼鉄を通り越し、ダイヤモンドの硬度を誇れるまでに、進行の一途を辿っていた。
 あの日、俺は古泉が目を覚ますまでずっと、隣に居続けた。
 ハルヒは怒ってんだろうなあ、と考えながら、窓から差し込む夕日の色をした波を、ずっと見続けていた。単純な反復運動は、頭をぼうっとさせる。波はゆらゆらと揺れ続け、それが風になびく白いカーテンの作り出す影だと気づいたのは、日の沈みかける直前だった。
「もうすぐここも光がなくなります」
 いきなり声が聞こえてきたのに、俺は驚いて反射的に首を回した。
 目を覚ました古泉は、いつの間にか体を起こしていた。何を、と言いかけたところで古泉の携帯が音を鳴らしはじめ、すぐに言葉の意味を理解した。あれが来る。
 避けようと思っても無理だった。古泉は素早く俺の手首を掴み、それとともに周りの景色は様変わりした。前回みたいに目をつぶっていなかったから、変化は如実に感じられた。物質的な変化はなにもなく、視覚的な影響はまるで一瞬だったが、世界がそのまんま裏返しにされたような気味の悪い感覚が、そのとき意識を支配した。
 世界が色をなくすのは、瞬く間だった。
 手首から温もりが消える。古泉が膝をついて立ち上がるのを、俺は呆然と見ていた。不自然な灰色。何もかもが濁った空間。古泉の目すらも濁っていた。普段と変わらないはずなのに、向けられた視線はやけに冷ややかに感じられた。
 やはりここは好きになれない。何もかもが不気味だった。
「どうです、久しぶりに訪れたここは」
「どうもこうも……なんで俺を連れてきた」
「偶然、この地点が入り口でした。あなたがここから戻ってこなかったからでしょうか? せっかくのチャンスですからね。ここで高見の見物でもしていてください。ああ、前回と違って、ここはビルの屋上ではありませんが」
 口元を歪めてそう言うと、古泉は窓枠に足を掛けそのまま外へと飛び降りた。すぐに赤い玉に変身して、あっという間に見えなくなる。
 追いかけるようにして窓に張りついてはみたが、ここからでは何も見えない。唸るような音と地響き、かすかな揺れが伝わってくる以外、何が起こっているのかすら分からなかった。咆哮めいた声が聞こえ思わずそちらに目をやると、青白い炎みたいな微光が、崩れかけた校舎の合間から覗いていた。
 足が力をなくし、ずるりとその場にくずおれた。変な汗が吹き出る。気分が悪かった。
 あの、夢か幻かどこまでも不明瞭な出来事が、フラッシュバックのように蘇る。あのときは、一人ではなかった。隣には楽しくてたまらないといった笑顔を浮かべたハルヒがいて、俺はあの場所から帰りたくて必死だった。目的に意識は狭窄し、高揚感の前に、沈み込んでいる暇もなかった。
 今はここから出られることを知っているからこそ、この空間の異質さを嫌というほど肌に感じられる。
 こんなところで、いつもいつも、破壊と再生を繰り返しているのか。なんでもないような顔をして。
 つくづく歪んでるよ、古泉も、そしてハルヒも。
 赤玉でなくなった古泉が戻ってくるまで、俺は壁際に座り込んだまま、動けなかった。空が割れる光景も、何もかも、目に入らなかった。

 そんなことがあって、俺は古泉と距離をおきはじめた。表向きはまったく変化がなかったと思う。古泉の鉄仮面のごときポーカーフェイスのおかげといえよう。
 古泉は変わらなかった。皆といようが、二人きりであろうが、いつも同じ表情で、空気のようにそこにいた。それは映画撮影の間も変わらず、たまにハルヒとのことに口出ししてきはしたが、それでも不気味なほど、古泉は古泉であり続けた。
 俺はもう懲りていた。古泉に必要以上に関わることに。薮はつつくほうが馬鹿なのだし、パンドラの箱はやっぱり開けてはいけなかったのだ。
 そんな風に時間を過ごしてみれば、意外と他人のことなど気にならなくなってくる。笑顔を貼付けた古泉の顔も、嘘ばかり紡ぐその口も、不健全とは思いやしても、別にどうってことはない。いったい俺は何をああまで、古泉の内側を覗こうと躍起になっていたのだろう。
 やはり一過性の熱に浮かされていただけなのかもしれない。
 あの頃は夏で、きっと暑かったせいだ。
 まるで真夜中のカーニバルみたいに浮ついていた熱気は、文化祭を終えた頃から急速に治まっていった。いつの間にか中庭の植樹は、鮮やかな色の葉をその身から失っていた。俺は制服の下にセーターを着込むようになり、その頃からハルヒはしきりに、この部屋に暖房器具が欲しいわ、などと戯れを言いはじめた。
「まさか俺が買いに行かされることになるんじゃないだろうな」
「もしそうなったら、よろしくお願いしますとしか、言いようがありませんね」
 最近は日の落ちるのも早く、帰宅の途を辿る頃には、真っ赤な夕日を背に受けることになる。学校からの坂道の途中、十メートルほど先には、先陣を切って歩くハルヒと、その横を引きずられるようにして歩く朝比奈さんが並んでいる。そこから五メートルほど後ろ、俺から見て前方には、器用にも文庫本を黙読する長門が一定の早さで歩を進めている。最後尾は俺と古泉で、二人して箸にも棒にもかからん話をしながら、だらだらと坂を下っている。
 高台に立つ学校へと続くこの道からは、街の姿がよく見えた。遠目には海面の、光を受けてきらきらと輝く様が見とれるし、いよいよ日が下れば、宝石箱みたいな夜景だって楽しめる。ただし他には何もないし、てっぺんまで歩けば登山一回分くらいの体力消費は免れない。
 隣を歩く古泉を盗み見ると、相変わらず精悍でありながら、どこか覇気のない笑顔で、暖房器具メーカー各社のエコ対策へのこだわりなどを訥々と語っている。あまりにどうでもいい内容なので、俺の耳は自動的に、右から左へと聞き流すよう設定された。生返事を繰り返し、表面上は男子高校生二人の雑談としか伺えないだろう風景を意識する。
「──というわけなのですが、ご理解いただけましたか?」
「温暖化が問題視されエコロジーが叫ばれている昨今においてでも、いまだ暖房メーカーが数多くあるのはよく分かったよ。恐るるべくは人間だな。俺は今年から、部屋のエアコンの温度を四度下げる努力をしよう」
 すでに話など一ミリたりとも聞いちゃいなかったので、適当な返答をすると、古泉はわざと困ったような顔を作り出し、
「おそらく、そろそろ涼宮さんは行動に移そうとしている頃ですよ。今日は金曜日でしたね。もしかすると明日あたり、」
 そう言ったところで、遥か前方にいたはずのハルヒたちがすぐ近くまで迫ってきているのに気づいた。正確には、立ち止まっていたハルヒたちに俺たちが追いついたのだが。
 ハルヒは実にいい笑顔で、こちらを向いて仁王立ちしていた。朝比奈さんと長門を両隣にはべらし、まるで従者を従えたバカ殿様のようだ。
「明日十時、北口駅前で待ち合わせよ。遅れたら死刑だから!」
 その声は意気揚々とはずんでいた。さも当然と、社会的義務でも口にするかのごときハルヒに、文句を言うのも馬鹿馬鹿しい。しかし言わずにおけば増長するのは目に見えている。ハルヒの更正は、俺の常々なる目標なのだ。何せここにいるメンバーの誰も、ハルヒに反論も意見もしない。このままじゃほんとうに、ハルヒはバカ殿扱いである。
「……おまえは予定をたてる前に、人の都合というものを訊く気はないのか」
「あら、みくるちゃんも有希も大丈夫だって。あんたたちもどうせ暇でしょ。ね、古泉くん」
 呆れた視線をやると、ハルヒは意にも介さぬ様子で古泉に水を向けた。
「ええ、何もない週末、一人でどうしようかと思っていたところです」
 聞けよ、この完璧なまでの口から出任せを。嘘で塗り固められた、たおやかな笑顔で、古泉は首を傾げる仕草を見せた。清々しいほどに恐ろしい。やっぱり相手にしていられるか、こんなやつ。
 そしてやっぱり、俺の予定は端から訊く気がないんだな、ハルヒ。
「じゃあまた明日!」
 坂を下り終えた駅の前で俺たちは別れた。調子外れな歌を口ずさむハルヒは朝比奈さんの腕を引っ張ってホームに入ってゆき、それを見送った長門も何も言わず、自宅マンションの方角へと消えていった。
 残った俺と古泉の周りにあるのは、沈黙だけという状況。言うべきことは何も思い当たらず、なので俺はおざなりに別れの挨拶を告げた。一端は古泉も生返事を寄越してきたものの、そのまま駐輪場へと向かおうとしたところで、再び背後から抑揚のない声が漏れ聞こえてきた。
「明日ほんとうは、図書館へ行く予定でした。どうしても本屋で見つけられない小説があって、それを探しに行こうと思っていたんです」
 ひどく心もとなげな言葉尻に、俺は思わず後ろを振り向いた。棒のように突っ立った古泉は、顔から上だけが不自然なほど、雄弁に微笑んでいる。その姿はまるで、首をすげ替えられた人形のようだった。
 すべてが作り物めいていて、俺は無性に苛々した。
「それで。その予定を俺に言って、どうしろっていうんだ。ハルヒに言えよ、そういうことは」
 頭をかきむしりながらそう言うと、古泉はまた笑った。くつくつと喉を鳴らしながら、仕草はどこまでも無感情だ。さも可笑しそうな表情をしているはずなのに、目の色だけは驚くほど冷たい。
 その目が、俺を射抜いた。まっすぐな視線の先に俺を映し、そうしてあたかも人を馬鹿にしたような口調で紡ぐ。
「まさか。言えるはずないじゃないですか」
 その瞬間、俺は古泉の意図を汲み取った。
 今こいつは俺に、八つ当たりをしているのだ。
 訪れた感情は、意外にも怒りではなかった。それよりも俺がまず覚えたのは、戸惑いの感情だ。古泉の分かりやすい隙を見せるような真似は、さして珍しいことではない。特に疲れているときなど、古泉の口からは明らかな嫌味や、笑えない冗談が頻発する。それにいちいち突っかかっていたのも昔の話で、今では軽く受け流すスキルだって、俺は身につけた。
 しかし、今回のは違った。話の流れでも何でもなく、ただ古泉の口から漏れたそれは明らかに、嫌味でも、冗談でもなく──愚痴だった。
 おそらく最初に口にした「明日の予定」とやらは、俺に向けて発せられたものではない。自然と口から零れた、心のわだかまりの吐露だったんじゃないか。少なくとも俺にはそう聞こえた。
 だから俺には、何も言えなかった。だって今耳にした古泉の愚痴は、風邪をひいた子どもが遠足に行きたいと言っているようなものだろう。しかし古泉の風邪は、今のところ治る気配を見せない。俺にはどうしようもない。
 だいたいそれを言うなら、俺も長門も朝比奈さんも、ハルヒのわがままに付き合っている。それはおそらくSOS団全員の、共通の悩みであり、愚痴であるはずなのだ。
 ──ああ、そうか。
 俺は唐突に理解した。
 その不満を本人に遠慮なくぶつけられるのは、俺だけなんだ。
 俺だけが、それを言える。皆はそれを言えない。皆それぞれに立場があって、それが皆の口をふさいでいる。自分の意志とはまったく別のところで。
 だから古泉は、俺を射るんだろうか。
 その視線の奥にあるのはもしかしたら、羨望なのかもしれない。

 土曜日は朝から曇り空だった。自転車を使うのは不安だったが、駅まで歩くとなるとひどく骨が折れる。降らないことを祈りつつサドルにまたがると、俺は待ち合わせ五十分前に家を出た。
 しかし待ち合わせ場所に着いたら当然のように四人揃って立っていて、もちろん当然のように奢らされることになった。もしかして俺だけ、一時間遅くずらした時間を教えられているんじゃないか? などと、テーブルの上に並ぶ五つのコーヒーカップを眺めながら考えてしまうのも致し方ない。なにせこちとら全戦全敗中だからな。
「今日は、電器屋に電気ヒーターを下見に行くわ!」
 もはや出発地点となってしまったいつもの喫茶店の、いつもの席でハルヒは言った。
「おまえ、金はあるのか」
「だから下見だって言ったじゃない。平均幾らくらいするのか調べて、部費で賄えそうだったら改めて買いに来ましょう。無理そうなら、ちょっと伝手を使うことを考えてみるから」
 正しくは、ハルヒの使おうとしている部費はSOS団の所有金ではない。あくまでも文芸部に配分された金である。したがってハルヒにどうにかできる権限はない。まあ、建前上「文芸部室」に置くことになる備品を買うのだから、生徒会に咎められる謂れなどないのかもしれないが。
 息巻くハルヒの横で、穏やかな笑みを絶やさない古泉をちらりと見遣る。俺の視線に気づいているのかいないのか、古泉はこちらを向こうとしなかった。にこやかに目の前のカップを手に取り、ホットコーヒーを啜るその姿は、昼ドラの登場人物みたいに実体感がない。もちろん役柄的には、ヒロインに無理矢理結婚をせまる社長御曹司的な、噛ませ犬ポジションだ。
 昨日の古泉の台詞を思い出す。ハルヒがそろそろ行動に移すとかなんとか言っていたが、結局こいつの予言通りの展開になったということか。自称ハルヒマスターの古泉はハルヒのバイオリズムに敏感らしく、たしかに前々から思考を読んだり、行動を予測したりということはままあった。しかしそのハルヒ感知センサー、最近ますます冴え渡っているではないか。そりゃもう不気味なほどに。
 五人分のコーヒー代を支払い、俺の財布が身軽になったところで、全員揃って駅前まで戻った。喫茶店のある出口から駅ビルを抜け、少し歩いたところにある大型の電化製品量販店を目指す。
 ちょうど季節ともあり、暖房器具コーナーの品揃えはかなり充実していた。ハルヒはしかつめらしい顔を作り、コーナーの端から端までじっくりと検分している。なぜか朝比奈さんまでもが一緒になって、割引率と燃費の計算をしているらしい。貼り出されたポップを覗き込むたび揺れる、朝比奈さんの後ろ髪はたいそう愛くるしく、見ていて飽きない。が、いかんせん、店頭で立ち尽くす高校生五人組というのは、店にしてみりゃ迷惑極まりないはずだ。気のせいか店員の視線が痛く、非常に居心地が悪い。
 俺と古泉、長門は二人の背中を見つめながら、手持ち無沙汰に並んでいた。隣の長門からかすかに届く呟きが気になり、耳を澄ませてみると、「全機種を解析の結果、右から三番目、上から二段目に置かれた電器ヒーターの熱交換効率が一番高く、また不燃性加熱源を使用しているため安全性も高い。急速昇温を可能にしているのは……」などという意味不明の内容だったため、俺はあえて何も聞かなかったふりをした。
 たっぷり三十分かけて吟味していたものの、ハルヒは最後まで難しい顔を崩さず、結局俺たちは言葉少なに電器店を立ち去った。
 昼食を取ろうとハンバーガーショップに落ち着いたところで、眉根を寄せっぱなしのハルヒがようやく結論を口にする。
「だめね。たかがヒーターごときにあんなに部費はかけられないわ。ただでさえ、これからイベントシーズンで、他にも色々と入り用だもの。やっぱり別の方法を取りましょ!」
 予想通りの答えだった。だいたい一介の県立高校の、部活動以下の存在である俺たちにとって新品の電器ヒーターなど、奢侈の極みといっても過言ではないほどの贅沢品である。しかしあまりに自信満々で入手を確信しているハルヒを見ていると、いらぬ心配をしてしまうのが親心というものだ。いや率直にいえば、以前のパソコン強奪時のような方法を取られると非常に困るので、一応訊いておきたい。
「別の方法ってなんだよ」
「それは秘密。下っ端団員に明かせるほど簡単なことじゃないの」
 ますます心配がつのる。重ねて反論しようとしたところで、隣で古泉が小さく首を振りながら、こちらに妙なアイコンタクトを送ってくるのに気づいた。はいはい、どうせこれ以上突っ込んだこと訊いて機嫌を損ねるなと言いたいんだろう。返事の代わりに古泉を思い切り睨みつけ、俺は口を濁したが、当のハルヒはさして落胆しても、気を害してもいない風だ。もしかしてハルヒの中では最初から、購入という選択肢が除外されていたんじゃなかろうか。
「思ったより時間かからなかったし、午後はまるまる不思議探しに使えるわね!」
 ハルヒは言いながら、いつものように爪楊枝の先にペンで色を着けている。俺は窓の外を見て落胆、おそらくこの場にいるハルヒ以外の全員(ただし長門は除く)が同じ心持ちだっただろう。
 午後になってこらえきれずに降り出した雨が、静かに窓を叩いていた。線の細い雨粒は霧みたいに景色を薄暗く霞ませ、それは大雨でもないのに、外へ出る気をじわじわと削いでいく。こんな中を歩き回れば、もれなく買ったばかりの布製スニーカーは水分を吸収して、嫌な感じにじっとりとした不快感を与える存在となろう。想像しただけで気が滅入る。
 おまけに俺のひいた爪楊枝くじの先には赤色のマークが入っており、もう一本の当たりは古泉の手の中に収まっていた。まったくついていない。古泉の手元を眇めて見ると、嫌味ったらしいほどの笑顔が返ってくる。何を考えているんだかよく分からないのはいつものことだが、昨日の古泉の様子から鑑みると、この笑顔が本物ってことはまずあり得ないだろう。あの夏の頃に見た、どうやら本物らしき笑顔とはもちろん、様相も雰囲気も違っていた。
 そういえば結局あのときだけだったな、笑顔らしき笑顔を見たのは。
 本音を隠した人間と一緒にいるのは、非常に疲れる。ただ本音が分からないだけならばいい。しかし隠しているということは、覗き見られたくないということで、つまり見え隠れするそれから、わざわざ目を逸らして、見ないふりをしなくてはいけないのだ。これは神経を使う。そのうえ、うっかり本音を引っ張り出そうとすれば、結果的に余計な気を使う羽目になることは痛いほど体感している。
 面倒臭い人種だ。必死で隠すくせに、気を抜けばぽろりと襤褸を出す。それを見られたといって怒る。ふさぎ込む。取り繕い、最終的にますます虚飾に満ちた人間になる。
 ──気がつけば、また考えていた。古泉の嘘とか、笑顔とか、俺にとっちゃどうでもいいことをだ。
 畜生、忘れていたつもりだったのに。
 きっと繰り返すせいだ。本来の古泉が姿を現すたび、俺の忘れていた感覚も一緒につき戻ってくる。
「じゃ、行きましょう。男子ども、さぼったら承知しないんだからね」
「了解しました」
 ハルヒが大声を上げて立ち上がり、まず古泉がそれに倣った。それから朝比奈さんと長門も遅れて続き、渋ったように椅子に張り付いたままだった俺も、ハルヒの苛々とした視線にようやく重い腰を上げた。

 俺と古泉は駅南側担当だそうだ。北側チーム女子三人と駅前で別れた俺たちは、さっそく途方にくれた。
「さて、どうしましょうね」
 古泉が腕組みしながら、明らかに真剣味のない声で言う。たしかにこの雨ではやる気も出まい。
「俺は動きたくないぞ。こんな雨の中。しかも寒い」
「僕もまったく同感ですが、さすがに動かないというのは……まずいのではないかと」
「じゃあせめて屋内だな」
 と、そこで俺は昨日の古泉の愚痴を思い出したのだった。なんの気もなく吐き出したであろう、なくなってしまった今日の予定。どうせ俺には行きたい場所などないし、それなら目的を持った者にあわせるのが一番だ。時間は有限であるから、せめて有効に使わなくてはいけない。
 俺は歩き出してから言った。古泉が慌てたようについてくる。
「行くか」
「どこへですか」
 さっきコンビニで買ったビニール傘は幅が広く、そのせいで狭い歩道を、距離を取って並びながら歩いた。ただでさえ雨音で声が届きにくいというのに、会話に一苦労だ。俺は声を張り上げた。
「図書館だよ。昨日行きたいって言ってただろう」
「いや、でも、そこまで行きたかったわけでもないのですが」
「何言ってんのか聞こえん。とにかく行くぞ」
 面倒くさいので聞こえなかったことにして、俺は足をはやめた。それ以上古泉は何も言わなかった。
 雨のビニールを叩く音が傘の内側から反響する。耳障りな代わりに周りの音が遮断されるのか、この空間がやけに静かに思える。霧がかった街の風景は数メートル先も見えない。こんな日に出歩いている人間も少なく、まるでこの世に一人きりになったような錯覚を覚えて、俺は思わず後ろを振り返った。すると古泉の怪訝そうな顔が透明のビニールに透けて見え、可笑しさとともに、妙な安心感に支配された。
 図書館はがらがらというほどでもなく、しかし天気のせいか適度に空いていた。しんとしたこの空間を、俺は嫌いじゃない。たしか一番最初の町内探索の日、午後の組で長門と一緒になったときにもここに来たんだったな。俺は待ち合わせ時間を寝過ごすわ、長門は本棚の前から動かないわで、ハルヒに大目玉を食らって大変だったと、懐かしい思い出に浸る。
 そんな俺の横で古泉は突っ立ったまま動かない。自分が来たいと言っていたくせに、どうしてか困惑しているらしいのだ。見かねて俺は声を掛けた。
「探してる本があるんだったよな」
「ええ、まあ」
「行ってくれば。俺はそのへんで適当にやっとくからさ」
 椅子の並ぶ閲覧コーナーを指さしながら言うと、古泉はますます困ったように眉尻を下げ、結局この顔しかできないといった風に微笑んだ。
「……ありがとうございます」
 そうして古泉はふらふらと日本の小説コーナーへと消えてゆき、俺はとりあえずと新刊コーナーから文庫本を一冊抜き取ると、閲覧用ソファーの一角を陣取った。今回は居眠りしないよう気をつけないとな。
 しかし凍えそうな屋外を歩いてきた身としては、この場所は天国そのものだ。窓際の席からは図書館脇の小路がよく見えた。雨に打たれた植樹の葉が小さく身を震わし、こぼれた水滴がぱたぱたと、小気味よいリズムを刻む。雨の日に暖かい部屋の中から外を眺めるのって、最高の贅沢だよな。
 雨音をBGMに読み進めた物語は意外と面白く、夢中になっていた俺は、いつの間にか古泉が目の前に立っていたことに驚く羽目になった。
「お待たせしました」
 いきなり声が聞こえたものだから、俺はつい身をわななかせてしまった。それを見て、古泉はまたおかしな面持ちをしていた。申し訳なさそうでいて、やっぱり困っている。古泉のこういう表情を見るたび、俺は妙な気に苛まれる。その嗜虐心とも好奇心ともつかない感情を抑え込むように、抑揚ない声を意識して俺は訊いた。
「探してた本は、あったのか」
 古泉はなかなか答えなかった。沈黙を守り、俺はそれを待った。ソファーに座り込み、視線を下げたまま。しばらくして顔を上げると、小さく眉をしかめた表情が目に入った。俺の視線に気づいたのか、それからやっと古泉の口から、ぼそぼそとした短い言葉が返ってきた。
「……ありませんでした」
 叱られた子どものようで、ひどく心もとない。俺には咎める言葉など一つも浮かんでこなかった。
 古泉の嘘つきはおそらくいつものことだろうが、珍しく今、こいつはそれを申し訳なく思っている。いっそ開き直ってくれればいいのに、こういうときに限って、やけに殊勝になるから困る。俺の前でだけわざと悪どく振る舞う古泉を知っているだけに、ここ数ヶ月で何度となく目にしている真・古泉には、自分でも一向に慣れる気がしなかった。
 呑まれるのも、ペースを乱されるのもごめんだ。しかし目を離せない。
 以前、古泉は言った。僕を揺るがせないでくれと。その言葉、そっくり返したいね、俺は。
 ──頼むから、俺を揺るがせないでくれ。

 駅まで戻る道すがら、また直列に並んだかたちで、俺たちは黙って歩いた。雨足はすでに遠のきかけ、ほとんど小降りといってもよかったが、俺は傘をたたまなかった。古泉も同じように、傘を差したままだった。
 しかしとうとう雨は完全に止んでしまい、道行く人はすでに誰も傘を開いてはいなかった。観念して傘を閉じてもなお、水たまりに石突を走らせながら、俺はただただ歩いた。そうしたらいつの間にか、古泉は隣に並んでいた。
 古泉の顔は、もうなんの感情も映していなかった。石仮面みたいな無表情を再び取り戻したこいつは、また俺にしっぽの先だけを見せて、素知らぬ振りで姿をくらます。もういい加減俺も慣れるべきだ。古泉と付き合うには割切が必要で、そのうえ決して妥協しない、根気も必要だってことに。まるで野生の動物を飼いならすみたいなそんな努力を、する必要があるのかは分からない。だいたいこちらがいくら努力しようとも、距離を置いたら近づいてくるし、こちらが近づけば逃げてしまう。これでは俺自身、進展も後退も選び取ることができない。その時点で、すでに向こうのペースにはまってしまっているのだ。
 それが無性に悔しく、腹立たしい。嫌味ともつかない言葉が口をついて出たのは、そのせいに違いない。
「古泉」
「なんでしょう」
「昨日のあれは結局、嘘だったのか? 愚痴だったのか?」
「……さあ」
 言葉を濁した古泉の声はどこまでも平坦で、その心のうちを覗き見ることはできなかった。すでに駅は近い。通りに人が増えてきたから、俺は古泉の背後について距離を取った。答えは返ってこないのだから、もう声が聞こえる必要もない。傘がなくても、隣を歩く必要はない。
 車道を走る車の騒音、道行く人の会話、街の喧噪が今はありがたくてたまらない。それらが俺の耳を塞いでいる限り、古泉の言葉がないことに、理由は用意されているはずだった。
 しかし、ざわめきの合間を縫って、か細く小さなそれは、確かに聞こえてきたのだ。
「強いていえば、弱音、でしょうか」
 あの夏の終わりに、うっかり首を突っ込んだのが運のつきだった。しっぽを掴めばそれは蛇より恐ろしい生き物で、窮鼠は噛みも逃げもしないかわりに睨み勝ち。
 ああ、何度後悔しても後悔しきれん。俺はやはり、とんでもないものに手を出してしまった。


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