毎日がおだやかに過ぎる中で、時折暴れ出したいほどの衝動の訪れることがあった。その説明のつかない感情が生まれた時期だが、これはもうはっきりと分かっていて、俺が度々口上に乗せる「夏の終わり頃」がそれにあたる。
たとえばぐずぐずと鬱陶しい空模様を見て、清々しさを覚える人間がいないように、萎縮した人間と一緒にいるときにフラストレーションを溜めるのは、まっとうな感覚だと思う。真実を隠すことを美徳としている人種は稀に存在するが、俺は現時点で、そんな人種が世界一嫌いだと言い切れる。
脈絡のない思考は決まってマイナスに向かい、陰鬱な心地を引き出すだけ引き出して去ってゆく。すでに跡形もなく消えた、身の内にうずまく泥土のような汚濁は、いつも俺を叩きのめすが、同じだけ甘美なかぐわしさを持っているのだ。
皆と駅で別れる頃にはすっかり日が落ち、あたりは薄闇に包まれ始めていた。空が濃い水色をしている。ビルの合間から申し訳程度に覗くマゼンタの淡いグラデーションも、もう間もなく本格的な夜の内にたち消えるだろう。
線路脇の駐輪場はすでに残った自転車もまばらだ。雨にさらされたせいで、サドルには玉のような水滴が乗っていた。拭くものもないのでそのまま跨ったら、尻のあたりがしっとりと湿り気を帯びて気色が悪い。
我慢して駅からの帰り道を走らせていると、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
家の方向は一緒だったか? 古泉の個人情報などいちいち覚えてはいないし、それ以前に古泉が自ら俺に自宅の場所など教える義理もない。したがって、今この道を古泉が歩いている理由は、俺の想像しうる範囲にはないってことだ。
このまま無視して走り去って、謂われのない罪悪感に苛まれるのもごめんだったので、俺は背後から張り上げ気味に声を掛けた。
「おまえの家はこっちの方面か」
頼りなさげな肩が小さく揺れ、無表情な目が気怠げにこちらを向いた。それとともに足が止まる。
「お疲れさまです」
わずかに頭を下げて、古泉は再び前に向き直った。俺は自転車を降りて、歩きながら隣に並んだ。
水たまりをタイヤがかすめ、飛沫をあげる。足元にかからないよう注意して進み、俺はさて何を言うべきか、はたと考え込んだ。しかし思案したところで、言うべきことは何も見つからない。
沈黙は長くは続かなかった。
「心配なさらなくとも、涼宮さんは以前のように、強奪を考えているわけではありませんよ」
古泉がぽつりと言った。一瞬何のことだか思い至らず、何度か頭の中で反芻して、ようやく意味を飲み込めた。俺が先ほどハルヒに問いただそうとしたことに対する答えだ。だがこのタイミングで、あいつがどこから暖房器具を入手してくるかなど、憂慮する気も起きない。
「今さら、そこまで心配もしてねえよ。あの頃に比べりゃ、だいぶまともな思考回路を手に入れてるだろ、あいつも」
俺は正直なところを口にした。なんだかんだ言って、あいつだってほんの数ミクロン程度は、成長のきざしを見せている。いくらなんでも今のハルヒがあんな、犯罪すれすれの行為を再び実行するなどとは、俺だって本気で思っちゃいない。
「それに、今さら俺が文句一つくらい言ったところで、あいつが機嫌を損ねることもないだろ」
古泉の心配の種はいつだって芽吹かず杞憂に終わる。それを知らしめてやりたい。しかしそう言うと、古泉は鼻で笑った。
「あなたは、あなたがどれほど涼宮さんの精神に影響を与えているか知っていますか? あなたが少しでも優しくした日の、彼女の精神がどれだけ安らかになるか、反対にあなたと喧嘩をした日の彼女がどれだけ落ち込み、不安定になるか──その重要性を考えたことは?」
古泉の目はまっすぐ前を見据えている。日の沈み切った薄暗い道のその先は闇に溶け込み、古泉の目に何が映っているかは分からない。声だけが驚くほど真剣な色味をもって響いた。
俺は困惑した。まるで理解不能な事象を、理不尽に叱られた子どものような気分だった。
「なん、だよ。最近あの訳わからん空間が出てないっつったのはおまえだろう。あれは嘘だったのか」
俺の言葉を受け、古泉はふっと笑みを向ける。どう見ても、好意的な感情が込められている風ではない。
「嘘じゃありませんよ。確かにここ半年で、閉鎖空間の出現回数は劇的に減少しました。もっと正確にいえば、あなたと二人、あの場所から帰ってきて以降ね。しかしだからといって彼女の精神がまったくの平穏を保っているかといえば、そうではありません」
やけに早口にそう言い切ると、古泉は小さく息を吐いた。
「彼女の内面はいつも不安定です。狂った磁場に置かれた方位磁針のように、ふらふらと定まらず、プラスとマイナスを行ったり来たりしている。おそらく普通の人よりも振り幅は大きいでしょう。ただし激情のまま突き動かされることもなくなった。彼女の理性がそうさせないのです」
闇に溶け込みそうなほど、低い声だった。いつの間にか周囲には完全な夜が訪れていて、古泉の顔はうっすらとしか見えない。俺は前輪に手を伸ばし、自転車ライトのスイッチを倒した。暗い道にぽっかりと、満月のような丸い光が落とされる。その光を道しるべに追っているかのように、俺たちはただ黙って歩き続けた。
続く沈黙の中、ライトの発電器を擦るタイヤのスポークが、羽虫みたいな耳障りな音をたてている。その音は募る苛立ちを余計に増幅させた。
だからか、以前から頭の隅にちらついていた疑問が、はっきりとした疑惑となって口をついてでた。
「おまえに、どうして分かるんだよ。ハルヒがほんとうのところ何を考えてどう思ってるかなんて、他人のおまえに分かるはずないだろうが。それをまるでおまえは、小説の主人公の心理描写でも読んでるみたいに──」
そこで俺の言葉を遮るように、古泉は立ち止まった。つられて思わず足を止める。同時に耳障りな音はやみ、ほのかな明かりも立ち消えた。数歩前に進んでいた俺からは、古泉の顔が見えない。だからといって、後ろを振り向く勇気もない。ただただ次の言葉を待ち続ける。
そのうち耳に届いてきたのは、意外なほどはっきりとした声音だった。
「分かるんですよ。僕には、彼女の思っていることが。言ったでしょう?」
怖いものみたさで、俺はようやく古泉のほうに視線を向ける。
背後に立つ古泉は、穏やかに笑んでいた。
「僕の心は、彼女に繋がっているんです」
何を言っているのか分からなかった。言葉の意味は分かる。しかしその、ある種のセンチメンタリズムに浸食された、まるで比喩めいた古泉の言葉が、実際真実のみを言い表しているなどと、俺には考えも及ばなかった。それは俺の耳には、ただ、思いを告げる言葉として届いたのだ。
「……それは、おまえの告白か? ハルヒが好きだとかそういう意味の」
どう受け取るべきか困惑した末の発言に、古泉は鼻を鳴らすことで応えた。
「あなたは随分とロマンチストのようですね。告白もなにも、言葉通りの意味ですよ」
「いや、言葉通りと言われてもな」
「僕の精神は、彼女の精神に感応しているんですよ。彼女が不安になれば僕も不安になる。彼女が高揚すれば、僕の気も高揚する。焦燥、歓喜、感傷、僕の気分はすべて、彼女の気分にひきずられるかたちで訪れるのです」
想像の範疇を超えた感覚をかいつまんで説明されたところで、俺には理解もできなければ、どういった感想を抱けばいいのかも分からない。そのせいで古泉が辛い思いをしているのか、はたまた特に問題なく受け入れているのかも、さだかではない。
かけるべき言葉を探して目を泳がせていると、突っ立ったままの古泉が俺の視線を絡めとった。怒ったような困ったような、夏以降何度か目にしている不可思議な表情。この表情を引き出す感情も、ハルヒの精神に感応してのことなんだろうか。
そんなはずはない。自分以外の人間の感情に動かされることなんて、あり得ない。
古泉が口を開く。
「だから、」
少し言い淀み、それから覚悟を決めたように、言った。
「つまり──きっと僕があなたに見せた数々の失態は、僕の意志ではないんです」
言い切ると、古泉はすぐに目を伏せた。反論は受けつけない、そう言いたいらしい。
「……おまえはアホか」
あまりの馬鹿らしさに、俺は思わず脱力して呟いた。なんだそりゃ。小学生の言い訳か。
「ハルヒは雷を怖がったりしないぞ。泣いて抱きついてきたりもしない」
からかい口調でそう言ったら、古泉はぱっと顔を赤らめた。そのまま憮然とした様子で、眉根を寄せ俺を睨みつける。
「そういうことではなくて、その……あなたの前で赤面したり、いきなり泣き出したり、情緒不安定になるのは、僕の本意ではないということです」
語尾は言いにくげにか細っていく。街灯の明かりが作り出す、伏せられた睫毛の影を、俺はじっと見ていた。その仕草は、甚だ苛立たしい。
「ふうん、じゃあその、おまえが嫌だと言っていた綻びってやつは、ハルヒのもたらしたものってことか。俺が揺るがしているのは、おまえじゃなくてハルヒだってことだよな」
備品室での古泉の発言を、俺は一言一句よく覚えている。だから多少の嫌味を込めて吐いた台詞だったのだが、それが通じたかどうか、古泉の返事からは判別できなかった。
「そうです」
そこで話は終わりとばかりに、古泉は口を閉ざす。目を合わせようとしない古泉の視線を探り当てるように、俺は古泉から目を逸らさなかった。
自転車の重さを感じないほど、俺はいつしか、古泉に気を取られていた。
しかし古泉の背後が俄に明るさを帯びたところで、気づいたのだ。二人して車道のど真ん中で、ずっと立ち止まっていたことに。
「古泉、危ない」
俺は焦って古泉の腕をひっぱると、自転車と一緒に側道へと寄せた。間一髪で車のヘッドライトが俺たちの横を通り過ぎ、古泉は今気づいたとばかりに口をぽかんと開けて呆然としている。再び薄暗さと静けさが訪れる頃にやっと、古泉は一言「すみません」と謝った。
俺はといえば、安堵に肩の力を抜きながらも、どうしても掴んだ古泉の腕を離せないでいた。手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる。それはいっそ熱いほどで、冬も近いというのに、俺の手はじとりと汗ばみはじめた。
「熱い」
おかしい。いくらなんでも、普通じゃない熱さだ。
「おい古泉、なんか熱くないか?」
ふとジャケットの隙間から覗いた首筋が目に入り、手を伸ばした。見ているだけでは分からなかったが、そこはじっとりと嫌な湿り気を帯びている。高熱を出したときに滲む、悪い汗の感触。
「えっ……」
驚いた古泉は勢いづいてこちらを振り向き──そしてそのまま、倒れた。
意識を朦朧とさせた古泉を背負い、奴の部屋に辿り着いた頃には、俺の疲弊も結構なところにまで達していた。何の変哲もないこのワンルームのマンションに、足を踏み入れたのはもちろん初めてで、それどころか所在地だって、つい今しがた知ったところだ。
目の前で人が倒れるという経験は、さすがにしたことがなかった。現場を目の当たりにした俺は相当焦って、保健体育の授業で習った意識不明の人間の救助方法を、必死で思い出そうとした。とりあえずと名前を呼びかけてみると、古泉はすぐに意識を取り戻し、意外とあっさりと身を起こした。
救急車を呼ぶかという問いに、古泉は青い顔をしながら、「やめてください」と言った。「申し訳ないのですが、僕を家まで運んでください」とも。だから俺は背中に乗せた古泉のナビのもと、この部屋まで急いだ。
古泉をベッドに降ろすと、そのままずるずると倒れ込んだ。せめて着替えろといっても、指一つ動かそうとしない。「医者を呼ぶぞ」と言うと、やっとこさ緩慢な動作で起き上がり、手近にあったTシャツをひきよせ着替えはじめた。
そんなにも医者が嫌か。そういえばさっきも救急車を呼ぶことを拒否したが、何か理由でもあるのだろうか。しかし熱があるだけに、素人判断で対処するのも心配だ。とりあえず熱が何度あるかだけでも知りたい。そう考え、あらためて部屋を見回したのだが、床中とんでもなく散らかっていて、体温計など探し出せそうもなかった。仕方なしに本人に訊く。言い渋るかと思えば、古泉は存外素直に口を開いた。
「ベッド脇のサイドボードに、乗ったままだと思います」
サイドボードは小さく、そのうえ天板には本だの書類だのが積み上げられ、山をなしている。言われた通りの場所に、たしかにそれはあった。山頂にぞんざいに載せられていたところを考えても、明らかに最近使用したとしか思えない。おそらく、今朝にでも。体温計を手渡しながら、俺は問うた。
「もしかして今日、熱があったのに来たのか?」
一分経って計測終了の電子音が聞こえても、古泉は体温計も返事も寄越さない。手に収めたまま、こちらに見えないようにデジタル表示を覗き込んでいるのを、俺は無理矢理奪い取った。見れば三十九度一分とある。ぶっ倒れるわけだ。
俺が強く睨みをきかせると、古泉はばつが悪そうに目を伏せた。
「……そうはいっても、休むわけにはいきませんから」
「ハルヒが体調の悪いやつにまで文句をつけるほど、薄情な奴だと思うか?」
「そういう問題ではありません」
「それよりも限界まで無理して倒れられたほうが、よっぽど迷惑だと思うがな」
はっとしたようにこちらに顔を向けた古泉が、じっとりとした視線を寄越してくる。
「あなたに、何が分かるんだ……」
それは静かな怒りをはらんだ呟きだった。古泉はそのまま布団を頭から被ると、俺に背を向け黙り込んだ。
病人に対しては過ぎた言葉だったかもしれない。しかし間違ったことは言っていない。辛いこと苦しいことを押し殺してまで見せる笑顔で、ハルヒを喜ばせられるなんて、こいつはほんとうに信じているのか? それこそ、ハルヒの一番嫌いな馬鹿のすることだ。
確かに俺には何も分からないさ。自己犠牲の精神はそりゃあ美しいことだろうよ。しかしそれで喜ぶのは、犠牲者を本心から愛していないものだけだ。自らが傷つくことで、心配する人間がいるってことを、古泉は分かっているのだろうか。もし分かってやっているのだとしたら、本気で救いようがない。
──くそ、さっきから微動だにしないが、この塊はほんとうに生きているのか?
ベッドの上の膨らんだ布団をぼうっと見つめながら、さすがにこのまま放っておけないと思い直す。
「薬と水を買ってくる。あと飯。何か食えるか。食えそうにないならレトルトのおかゆでも買ってくるが」
そう投げかけたが、返事はない。沈黙を了承と受け取り、俺は部屋を出た。
まずは倒れた地点まで、自転車を取りに戻った。幸いなことに古泉のマンションからそれほど遠くなかったため、身軽な状態だとほんの五分程度の距離である。自転車はぽつんと道の端に寄せられていた。俺はほっとして愛車を回収し、そのままコンビニまで走らせた。
水やらおかゆやらを買い込み、それから一番近いドラッグストアの場所を店員に尋ねる。親切にも一つ先の大きな国道沿いにある、大型チェーン店の場所を丁寧に教えてくれた。そこでとりあえず熱に効くというカプセルを買い、一応領収書を貰ってから、古泉宅に舞い戻る。
「ただいま」
相変わらず返答はない。俺が出ている間に電気を消したのか、中は真っ暗だった。まだむくれているのか? 玄関の明かりだけを点けベッドに近づくと、小さな寝息が聞こえてきた。
「寝たのか……」
ベッドサイドに腰を下ろす。改めて見回した部屋は、やはり雑然としている。脱ぎ散らかされた服はベッドの上に散在しているし、椅子の背にはカーディガンが数枚重ねて掛けられていた。パソコンデスクの周りは書類だらけ。『機関』関連のものだろうか。あまりじろじろと見るのも気がひける。
意外と普通の部屋だ。正直もっと作り込まれた、モデルルームみたいなものを想像していたが、実物はたいして広くもなく、高校生が一人暮らしするにふさわしい。もしや「見た目に反してつつましやかな生活を送る苦学生」という設定でもあるのか。その割に中途半端なつつましやかさだ。もっとレトロなボロアパートだったなら、こいつの嫌味さも軽減されたものを。
そうだ、今度ここにハルヒを連れてきてやろう。そうしたら古泉も、体調不良を我慢するより、部屋の掃除をすることに、情熱を傾けるんじゃないだろうか。その想像は悪くない。
一息ついたら身体を駆使した疲れがどっと湧いてきて、俺は古泉の寝ている足下に突っ伏した。
肩のあたりに体温を感じる。温かい。何度か俺の名前を呼ぶ声が聞こえたが、遠く霞んで誰のものだか判別できない。だんだんと意識が覚醒しはじめる。どうやら肩に置かれた手に、身体を揺さぶられているらしい。
「起きてください」
はっきりとした声が耳に届き、俺はようやく自分が眠っていたことを自覚した。薄らと目を開ける。途端、眩しい光に目が痛み、俺は再び瞼を閉じた。
「朝……?」
「もう十時ですよ」
「やべえ、遅刻じゃねえか!!」
大仰に身を起こすと、カジュアルにシャツを着込んだ古泉が、俺の真正面にいた。
そのときの俺の混乱ぶりといったらなかったね。まず自室よりも数段汚い部屋に驚き、自分の不自然な体勢に驚き、極めつけの古泉の、忍び笑いを漏らしたやけに爽やかな顔が目の前に広がっているこの光景。どうも前にもあった気がするな、似たようなことが。
「もしかして、寝ぼけています? 今日は日曜日ですよ」
しばらく間抜け面をさらしていたであろう俺は、時間をかけて脳みそを回転させた。今日は日曜日。昨日は土曜日で、久々に町内散策があった。その後帰り道で一緒になった古泉がいきなり倒れ、そうだった、背負って家まで送ったのだ。
「あ……ああ、あれ、おまえ熱は? 起きて大丈夫なのか?」
「おかげさまで、すっかり熱は下がりましたよ。薬とおかゆいただきました。ありがとうございます」
ローテーブルの上には空っぽの茶碗と、開封された薬の箱が無造作に置かれていた。どうやら夜中のうちに自分で作って食べたらしい。寝入ってしまってまったく気づかなかった。
寝ぼけ眼をこすりながら凝り固まった首を回してほぐす。ようやく明るさに目が慣れてきた。台所に引っ込んだ古泉が、まもなくカップを二つ手にして戻った。
「悪ぃ。起こしてくれればよかったのに」
「いえ、とんでもない……ほんとうに助かりました」
芳ばしい香りが鼻孔を刺激する。テーブルの上から寄越されたコーヒーを一口すすり、心地よい苦味が舌の上を転がると、俄然頭が冴えだした。同時に昨日の出来事も思い出され、苦々しい気分までが一緒になって引き返してきたようだ。自然と眉間に力が入った。
向かいに腰を下ろした古泉が、何か言いたげにこちらにちらちらと視線を投げかける。やがて言い辛そうに口を開いた。
「あの、昨日僕が言ったことは忘れてください」
余程顔に出ていたのだろうが、思い出した矢先に「忘れろ」ときた。その様子があまりに情けないものだから、胸中に意地の悪い感情が湧き上がるのを止められない。
「昨日のおまえの失言は数えりゃきりがないが、いったいどれを忘れてほしいんだ?」
案の定、古泉はその小綺麗な顔を変な風に歪め、俺の笑いを誘った。表情はやがて、自嘲的な笑みに変わる。
「あなたはほんとうに人が悪いですね……全部です。全部忘れてください」
古泉は話しながらずっと、テーブルの上のマグカップを凝視していた。男の部屋に似合わない、真っ赤な花の絵が大きく入ったカップは、やけにこの場から浮いて見えた。
「これはおまえの趣味か?」
目の前のカップを持ち上げて訊くと、古泉は不思議そうに首を傾げてみせた。
「いえ、別にそういうわけでは……目について適当に買ったものです」
俺の手にしていたほうは、青い花の絵がついていた。
昨日から着替えていない服が気持ち悪く、そういえば風呂にも入っていないことを思い出す。そろそろ帰るか、と思い立ったところに、そうと察したかのごとく絶妙なタイミングで声が掛かった。
「お昼をご一緒しませんか」
すぐ目先にいる優男の、精神構造が理解できない一言だった。ついさっきまでは、これ以上話したくないってオーラをびしびしと発していたくせに。浮かべた人畜無害そうな笑顔は、昨日見せた悪辣なそれと似ているようでいて、まったく違う。そういえば俺はいつの間に、こいつの笑顔バリエーションに対し細かな見分けをつけられるようになったのだろうか。慣れというやつは恐ろしい。
「そりゃ構わんが、その前にシャワーを借りてもいいか?」
「ああ、これは気がつかず失礼しました。すぐにタオルを用意します。着替えはどうしますか?」
「サイズの合いそうなやつがあったら、上だけ頼む」
「了解しました」
すぐさま遠慮なく洗面所横のドアを開け、中に収まる。コックをひねったところで、古泉が外から声を掛けてきた。タオルと着替えを用意してくれたらしい。
トイレと別になった浴室は、狭いながらもバスタブのついた、使い心地よいものだった。よく見りゃ追い炊き機能もついている。うちの家にだって最近導入されたばかりだというのに、贅沢者め。
古泉の部屋は一見普通のようでいて、その実細かなところにこだわり抜かれている気がする。窓だって南向きだし、室内洗濯機置き場もあるし、小さいがベランダもついている。自分で部屋を借りたことなどないから確かではないが、こういう絶妙なバランスの物件を見つけるのは、意外と難しいのではなかろうか。
おそらく部屋を用意したのは『機関』に違いない。これがただ単に古泉への僅かながらの気遣いなのであれば、少しくらいはあの胡散臭い団体を、信用してもいいかって気になってくる。
しかしあの散らかりようは、いささか勿体ないな。昨晩は動転していたこともあって、それほど気にならなかった部屋の汚さだが、改めて朝日に晒された光景を目にするとひどいものだった。あれは気力を根こそぎ奪う、恐ろしい空間だ。
飯を食ったら、風呂の礼に部屋の片付けでも手伝ってやるか。熱い湯を肌に弾きながら、俺はそう考えた。
風呂から上がると、古泉がつけっぱなしのテレビを呆けた面で眺めていた。ベッドにもたれ掛かり弛緩した様子は結構新鮮だ。さすがの古泉も、家にいるときくらいは気が抜けるらしい。
俺に気づいた古泉がやんわりと顔を上げた。すぐにいつもの表情を取り戻したのに、なんとなく名残惜しさを覚える。
「風呂と着替えありがとうな。すぐ出れるが、もう行くか」
「ええ、行きましょう」
礼を告げると、その笑みにほんの僅か、はにかみが漏れたようにも感じた。気を取り直したように立ち上がる古泉にタオルを手渡し、一緒に玄関先へと向かう。
「何が食べたいですか。このあたりだと、有名なカレー屋と、あと安くておいしい定食屋もありますよ」
「どっちもいい。それより一番近いスーパーの場所を教えろ」
「は、」
靴を履きながら、古泉ははじかれたようにこちらを向いた。固まった古泉の背を押して外に追い出し、自分もスニーカーをつっかける。せっかくの新品が昨日の雨で薄汚れてしまった。
「シャワーの礼だ、飯は作る。それに俺はあんまり金がないんだ。それともまさか、おまえの家には調理器具がまったくない、なんて言わないよな」
「一応一揃えはありますが、っていえ、そうではなくて。むしろお礼をしなくてはいけないのはこちらのほうです。そこまでしていただく義理はありませんし、お昼はごちそうさせてください」
二階の古泉の部屋から階段を下り、ようやく横並びに歩き出した。
「男の手料理なんか食えないってか」
冗談めかして言ったのに、どうやら古泉にはまったく通じていないようだった。しどろもどろになりながら、いえ、とか、そうではなくて、とか、言い訳のような言葉を次々と口にする。目に見えて焦っている姿は面白いが、あまり挙動不審になられても困る。俺は自分より高い位置にある、柔らかそうな頭に手を伸ばした。ぽんぽんと、軽く二度ほど叩く。
「嫌じゃないなら甘受しとけ。無理強いはしないけどな」
古泉は困ったように俺から視線をそらし、俯き加減に呟いた。
「では、お言葉に甘えて……すみません」
最寄りのスーパーまでは歩いて十分ほどだった。その道中、古泉は一言も言葉を交わそうとしなかった。自分から昼飯を誘っておいて、やはり思考の読めないやつだ。
さて大口を叩いてはみたが、俺の料理の腕などたかが知れている。チャーハンにでもしようかと思えば、家に米がないと言われた。仕方なしに、麺と野菜を買い込み、簡単なパスタを作ることにした。
普段から料理をしているわけではない。たまに妹と二人で留守番になったときに、必要にかられて作るようになったのは、どれも手間も暇もかからない簡単料理ばかりだ。買ったばかりの、小瓶のオリーブオイルでニンニクと唐辛子を炒め、トマトだのほうれん草だの、鉄分の多そうな野菜を大量に放り込んだ。味付けは塩とこしょうの簡単なもの。それでも部屋中に漂う、香ばしいニンニクの匂いは食欲を誘ったようで、古泉の腹の虫が盛大に鳴った。
「病み上がりとは思えないな」
はにかみ笑いを浮かべた古泉に、俺はからかいの言葉を投げかけた。
「もう健康体ですから」
しかしそう言った古泉の顔色は、あまり健康的だとは思えなかった。だからこその野菜多めメニューであったが、そうと口にはしなかった。
できあがったパスタをテーブルに並べると、古泉は口をぽかんと開いて、彩りの悪くないそれを束の間眺めた。
「すごい」
何がだ。ただ野菜を炒めてあえただけのものに感心されてもたいして嬉しくない。
「いただきます」
食べ始めると、フォークと皿のあたる音だけが静かに部屋に響いた。テレビの音も音楽もない空間。窓は閉め切られ、気温差に霜が降りている。カーテンを開けているからか、窓の傍には少し冷えた空気が溜まっている。古泉がリモコンに手を伸ばし、エアコンの温度を一度上げた。
「ごちそうさまです。おいしかったです。あなたは、いつも料理をしているんですか?」
空になった皿の隅には、丸ごとの唐辛子がよけられていた。
「たまにだ。両親が出かけてるときに、妹がぐずったら作ってやることもある」
「へえ……優しいんですね」
「普通だろう」
古泉はまたおかしな顔をして笑った。心もとなく、それでいてどこか、俺を責める風に。居心地が悪かった。自分が何か悪いことでもしてしまったみたいな、謂われなき罪悪感が胸に巣食う。
それを払拭するつもりで、俺は空の皿を持って立ち上がった。
「さて、食ったらもう一仕事だ」
古泉が虚をつかれたようにこちらを見上げる。皿を提げたまま台所に向かうと、何故か古泉が後を追ってきた。しかし俺が食器を洗いはじめても、手持ち無沙汰に横に突っ立っているだけだ。何をしにきたんだこいつは。シンクの隅に置かれていた布巾を持たせると、ようやく合点がいったようで、洗い終わったあとの皿を丁寧に乾拭きしはじめた。
「もう一仕事、というのはこれですか」
「違う、掃除だよ掃除。この散らかった部屋を片づけるぞ。こんなところで暮らしてるから、具合が悪くなるんだ。精神衛生上もよくない」
古泉は面食らった顔で首を振った。
「いえ、結構です。もうこれ以上何かしていただくわけには」
「いやむしろこっちからお願いしたいんだよ。頼むから片づけさせてくれ。正直耐えられん」
こちらも見ずに皿を拭いたまま、古泉はまた黙り込む。
あまりに否定的な様子だったら、俺も無理強いするつもりはなかった。見られたくないものもあろうし、どうにも秘密の多いこいつのことだ。しかし黙られちゃしようもない。こいつの、都合が悪くなると口を閉ざす癖はなんとかしたほうがいいな。
聞こえよがしに溜息を吐いたら、古泉はあからさまに萎縮してみせた。
「……だから嫌なら嫌って言え。遠慮してるような言い方じゃなくて、ちゃんと拒否しろよ。俺はおまえみたいに、人の心なんて読めないんだ」
言ってしまってからはっとした。皮肉をこめたつもりはなかったが、結果的に古泉の耳にはそのように届いたらしい。洗い物を終え、手を拭えるものを探していると、古泉が使っていた布巾を無造作に投げつけてきた。向けられた視線が、無言で怒りを伝えようとする。
「別に嫌ではありません。好きにしてください」
言い捨てると古泉は、足音をたてて部屋に戻った。ぎしりと、ベッドのきしむ音がこちらまで届く。部屋を覗くと、古泉はベッドの隅で膝を抱え丸くなっていた。
俺は無言で、床の上を片づけはじめた。置かれていたのは大体が、雑誌と書類と衣服の類だった。雑誌や本はまとめて本棚に戻し、書類も揃えて机の上に置く。衣類は全部、洗濯機の中に放り込み、ついでに回した。
ゴミというほどのゴミも出ず、片づけにかかったのはほんの一時間程度だった。ただモノをその辺に出しっぱなしにしているのがまずかっただけで、床が見えてみれば小綺麗な部屋だ。埃だってそんなに溜まっているわけじゃない。掃除機のありかを訊くと、こちらをちらりとも見ないまま、押し入れを指さされた。さっと部屋中を掃除し、それから仕上がった洗濯物を干し終えても、外はまだまだ日が高かった。
洗濯干しにベランダに出ていたのは十五分くらいのものだったが、水仕事に指がかじかみ、そのうえ身体が冷えてしまった。部屋に入り、休憩とばかりにベッドに腰を下ろす。
「コーヒー勝手に淹れていいか」
古泉はようやくこちらに視線をやり、それから「僕が淹れます」と答えた。
台所でコーヒを淹れる古泉の背中をぼんやりと見遣る。インスタントかと思いきや、本格的なドリッパーとサーバーを前に、細口ポットを使って豆に湯を落としていた。優雅な仕草は、ヨーロッパのカフェの給仕を思わせる。部屋を片づけることを面倒がるくせに、それ以上に手間のかかることは進んでやるのが、やけに古泉らしいと思った。
古泉から受け取ったコーヒーにさっそく口をつける。きちんと抽出されたものだと意識すると、さっきよりもおいしく感じる自分の舌は現金だ。
「うん、うまい」
「豆は近所の喫茶店で挽いてもらったものです。最初は興味本位で始めたのですが、インスタントよりずっとおいしいし、それに、コーヒーを淹れているときは、余計なことを考えずに集中できますから」
マグカップの中ですんと鼻を鳴らし、古泉は気持ちよさそうに目を細めた。
「……片づけをしていただいて、ありがとうございます。先ほどはすみませんでした」
やけに素直に謝られ、逆に面映さを覚える。
「いや、こっちこそ勝手をして悪かった」
ベッドを背に、俺たちは並んで座っていた。時折隣に目をやると、古泉は視線に気づくたび俯いて、俺を決して見ようとはしなかった。俺は気づかれぬように嘆息した。
こと古泉に関しては、いつも行動を起こしてしまってから後悔する。あのとき、自分らしくもない気遣いを見せなければ。手を伸ばさなければ。声を掛けなければ。そのたび古泉の反応に苛つき、結局自分の行動の無意味さに呆れる。
消えてしまった元クラスメイトは、やって後悔したほうがいい、などと言っていたが、俺はそうは思わない。やろうが、やるまいが、後悔はただ後悔でしかない。それどころか行動に移したことで、余計な煩わしさすら引き起こされている気がする。
現実に、何が起こっているわけでもない。ただ俺の心のうちに、説明不可能なぐるぐるとした感情だけが、湧き出ては消えてゆくだけだ。だからこそ、この後悔には虚しさだけが残る。
俺が余計なちょっかいをかけなければ、古泉の心の平安は保たれていたのだろうか? 今の古泉のおぼつかなさを引き出してしまったのが、俺のつまらない思いつきのせいだとしたら。
古泉の心を大きく動かしているのが、ハルヒではなく俺だったとしたら。
そう考えた瞬間、心が震えた。不思議なほどの多幸感と、同時に言い様のない恐怖が、自分自身をどこかまったく別の場所に連れていくのではないかとすら、俺には思えたのだ。