リセット


6-やみよからす


 にぎやかな冬の入り口、悪夢の三日間は訪れた。
 今では思い出したくもない出来事だらけだったその悪夢は、俺のわずかばかり残っていた常識と、くだらない意地を打ち砕くには充分だったように、今では思う。
 夢のような現実から醒めて最初に聞こえてきたのは、耳慣れた甘い声音だった。何が嘘で何が本当か分からない場所にいた俺にとって、そのいつも通りの──それでいて震えるほど小さな安堵の含まれた声は、絶大な効力を持っていた。
 混乱のさなか、その声はただ「ああ、戻ってきたんだな」と、俺に切実な実感をもたらすためのものだった。
 自分で思うよりもずっと、あのとき俺は参っていたのだ。
 だから、なんでもないような全てのことが、俺を安心させた。
 ハルヒの減らず口と朝比奈さんの心配、長門の固い謝罪の言葉。どれもがあっという間に俺の前を通り過ぎ、しかしそれで充分だった。
 そのなかで、古泉の笑みと視線だけが、不意な違和感となって残った。
 ハルヒ消失事件の詳細を話してから以降、古泉はことあるごとに、俺に気遣わしげな視線を向けるようになった。どうも、俺が随分ひどい目にあって、心に傷でも負っているのだと、古泉は思い込んでいるようだ。だからか、なかば癖みたいに見せていた嫌みったらしい微笑みも、しばらくなりを潜めていた。
 古泉の笑みは不気味なほどやさしい。その表情を見るたび、もう一つの世界で見た古泉の面影が重なった。
 あの古泉はなんだったのだろうと、未だに考える。超能力者ではない普通の人間。もしこの世界の古泉が馬鹿馬鹿しい力を得ず、一般人類としてのうのうと暮らしていたら、あんな風に普通の生活を送っていたのだろうか。どこか別の街で、ただの高校一年生として。それともこの街にいながら、「向こう側」の世界と同じように、ハルヒの後ろを金魚のフンみたいについて回って、財布代わりになって──それでもハルヒが好きだと、「向こう側」のあいつと同じことを言ったのだろうか。
 思い出すと、胸の奥がつきりと痛んだ。


 倒れた古泉を介抱して以来、俺は時折、奴の部屋を訪ねるようになった。苦労して片づけた部屋を再度散らかしたら承知せんと、俺は滔々と言い含め、その確認をするという言い訳を用意しては、狭いワンルームに上がり込んだ。誰に言い訳をしているかといえば、それは自分に対してとしか言いようがなく、俺にとってそこは、理由がなくては足を運べない場所だった。そう思い込んでいた。
 古泉は何も言わず、何も聞かずに俺を迎え入れた。だから俺は心のなかに用意したその理由を、ただの一度も古泉に伝えることをしなかった。必要がなかったのだ。そんな古泉の気遣いは、いつでもありありと伝わってきた。
 部屋に通されるとまずは必ず、赤い花のマグカップと青い花のマグカップがテーブルの上に並べられた。カップの中身は決まって、丁寧にドリップされたコーヒー。ちなみに青い花のほうが来客用なのだそうだ。正直、古泉の家に俺以外の来客があるという事実に驚いた。そう伝えると古泉は苦笑して、「ここに来るのはあなた以外に、森さんくらいのものです」と言った。そうして言葉を続けたのだ──あなたも物好きな人だ、と。
 古泉の淹れるコーヒーはものすごく苦く、けれども後口のそこはかとない甘さが癖になる。もしかしたら俺は古泉のコーヒーが飲みたくて、ここを何度も訪れてしまうのかもしれない。いや、これもまた言い訳だろうか。
「おまえは将来食うに困ったら、喫茶店でも開けばいい」
「僕のコーヒーがそんなにお気に召していただけたとは光栄ですね」
 まんざらでもないといった顔で、古泉は笑う。喜んでいるのだか照れているのだか、そういう細かい違いまではさすがに分からない。
 最初にここに訪れたときとは明確に違う居心地が、やけにくすぐったさを掻き立てる。それはひとえに古泉の不器用な気遣いから生まれているものだろうが、そうと説明し切れない感情もまた、俺のなかに湧き出ては消えてゆくのだ。
 もたれかかるベッドの端は、弾力よく俺の身を押し返す。スプリングの固いベッドは、背もたれ代わりにちょうどいい。古泉も同じような体勢で、隣でコーヒーを啜っている。この部屋では、俺たちはいつも定位置に並んで、沈黙とともに刺激的な苦みを味わう。ただそれだけの時間を、何の気概なく過ごすのだ。たまらない心地よさと、ほんのわずかばかりの胸騒ぎを連れて。
 ときどき、すぐ傍にいる古泉からの視線を感じることがあった。その視線は必ずといっていいほど消極的で、そうかと思えばごくまれに不躾だったりもする。それを跳ね返すように見返すと、古泉はすぐにさっと目を逸らした。分かりやすいくらいの熱視線を寄越しておきながら、あの器用な古泉とは思えないほど下手なごまかしを見せるのがおかしく、俺はしばしば隣を振り向いた。もちろん、視線になんてまったく気づいていない振りで。
 あれほど苛々を募らせていた、古泉の何か言いたげな視線は、今の俺にとって決して悪い感情を呼び覚ますものではない。いったいどんな心境の変化なのか、自分で自分に尋ねたくなるってものだ。
 いや、ほんとうのところ薄々感づいてはいるのだが──ただ、あまり認めたくはない。認めてしまえば、自分の意気地なさや、臆面のなさを、嫌ほど自覚しなくてはいけないからだ。
 認める度胸はないが、それでも、言い訳くらいはしておきたい。
 元をただせば、すべてはあの、夢現の三日間のせいだってことを。
 向こうの世界の古泉が俺にぶつけた視線。奴の目が雄弁に物語っていたのは、マイナスの感情でしかなかった。紛れ込んだ異物を蔑むようなそれは、この世界におまえなど不必要だと、強く訴えていた。
 俺の知らない古泉が、俺を要らないものだと認識している。それは言葉よりも明らかに、まるで耳元で罵りの言葉を繰り返されるみたいに、俺に意識を向けさせ続けた。
 朝比奈さんの怯えるような目より、ハルヒの警戒するような目より、何よりもあれが辛かったことは否めない。
 俺は、恐ろしかったのだ。思い出すだけで身が震えるほど、あのときの古泉の目が。


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