男同士の秘密会議は、団活終了後の部室で行われる運びとなった。帰り際、やけににやついた顔と妙に照れた顔と普段通りの顔をした三人が、こちらをちらちら伺っていたのが分かったが、あえて追求はされなかった。ハルヒといえど、気づかない振りをするやさしさくらいは持ち合わせているようだ。
「さて、どうしましょうね」
「何かいい案はないのか。ハルヒが満足するくらいに派手で、かつ面白いお返しだ」
「僕にはまったくちっとも思い浮かびません」
「おまえ、端から考える気ないだろう。くそ、期待するんじゃなかったぜ」
「いえ、決してそんなことは」
長机に向かい合い、はあ、と二人同時にため息を吐く。会議は初っ端から難航の兆しを見せていた。
今まで縁がなかったから仕方ないとはいえ、ホワイトデーがこんなに頭を抱えなければいけないイベントだとは知らなかった。美女三人へのお返しについてなんて、世にも贅沢な悩みと男どもから怒りを買いそうであるが、しかし悩ましいものは悩ましいのである。変わってもらえるものなら変わってもらいたいね。
「そうだ、古泉なら今までの経験であるだろう、喜ばれたお返しの一つや二つ」
「残念ながら、二つどころか一つもありませんね」
古泉は苦笑して肩をすくめた。
「こら、嘘をつくな」
「嫌だな、まったくの嘘偽りなしですよ。僕は今までバレンタインにチョコを受け取ったことがなかったものですから、必然的にお返しをしたこともないというわけです」
甚だしく意外な事実が明らかに。どういうことだ。俺はすぐに古泉の言葉を反芻し、はたと思い至った。受け取ったことがないってのは、差し出されたものを受け取らなかったとも取れる。恐らく、いや間違いなく、そういうことだろう。
まったく、どこまでも嫌味な野郎だ。
「ああそういえば、小学校の頃ならば何度かいただいたことがありますが……さすがに参考にはなりませんね」
小学校の頃なら俺だってもらったことがある。ただしほとんどが親同士の付き合いの延長で、オマケ半分に手にしたものに過ぎない。しかもお返しに至っては、母親の買ってきた明らかに子供向けの、キャンディやらマシュマロやらのギフトセットを、お決まりのように渡していただけだ。もちろんたいした意味も含ませず。
困ったように眉毛を八の字にするハンサム野郎に目を向けながら、やはり納得がいかず、俺は再び尋ねた。
「しかしな、言うのも癪だが、おまえモテるだろう。ほんとうに中学のときも、まったく受け取らなかったのか?」
俺の顔を見て、古泉は口元に手を当てながら可笑しげに微笑む。
「あなたはどうも、僕をかいかぶり過ぎのようですね。それはあなたの目から見た僕の評価が高い、という解釈でよろしいのでしょうか?」
「アホか。おまえの外見的な面のみを掬って、モテるやつだと結論づけるのは、至極一般平均的な意見だ。評価云々の問題じゃない」
「いえ、その一般的というのが曲者なんですよ。人は様々な要因で他人を判断するものですからね。一口に外見といっても、顔の美しさ、頭身のバランス、洋服のセンス、多くの判断材料があります。またそこにプラスして内面のパラメータも影響すると考えれば、実は好みというものに、それほど偏りは起こらないのではないかと思えるのですよ。女性の異性選択の判断は偏に、どれだけその異性の遺伝子を残したいかという、本能的な欲求からくるものですから、その女性が深層でどの部分を求めているかが全てなのです」
呆れた男だ。開いた口がなかなか塞がらず、口内が乾燥してくる。古泉はすっかりそのよく回る口と、そこから湧き出る調子のいい言葉の数々を取り戻していた。
「ですから僕がモテるだろうという発想は、詰まるところあなたが僕に抱く評価から導き出されていると考えてよいでしょう」
言い切るとともに、妙に達成感を思わせる笑みを古泉は見せた。悪いが俺は、全然言いくるめられていないぞ。むしろおまえのその理論には大きな穴がある。
「古泉、いいことを教えてやろう。異性からの評価でプラスであるところは、同性からの評価だとまんまマイナスに変化するんだ。顔がいいのもスタイルがいいのも頭がいいのも、同性からすりゃ全部、腹の立つ要因でしかないんだよ」
古泉はまるで初めてヘールボップ彗星の存在を知った田舎の中学生みたいに、目を丸くして驚きを示していた。
「……それは知りませんでした」
「ああ、そういうところがますますむかつくんだよな」
冗談に聞こえる程度に棘っぽく言うと、今度はまなじりを下げて笑う古泉が目に入る。目を逸らすように俺は、すっかり冷めきった朝比奈さん謹製甜茶に手を伸ばし、ゆっくりそれを飲み下した。
古泉とは、なんとなく妙な感じになっていた。もちろん、俺たちの関係にこれといって目立った変化は見られない。関係といっても、時々俺が古泉の家を訪れるってだけだ。そのことに最初は戸惑っていただろう古泉も、訪問を重ねるごとに状況に慣れたらしく、だんだん普段と変わらない態度をとるようになってきた。ひと月前、朝比奈さんとのミッション実行中に、変なちょっかいをかけてきたりわざと不穏なことを言ってきたのも、まあ普段通りといや普段通り。
それでも確実に、何かが変化しているのだ。ハルヒがクラスメイトと打ち解けはじめたり、長門が自分の意志で同期を止めたり。そういった些細だけれど目に見える変化は、もちろん古泉にだって感じられる。それはきっと成長だとか経験だとか、そういった類のものだ。
しかしそんな如実な変化ではなくて、もっと別の――深い部分での小さな変化。それが何なのか、はっきりとは分からない。俺が勝手に古泉に対して違和感を覚えているだけで、古泉は以前から何も変わっていないのかもしれない。
けれど違和感の正体は分かっている。おそらく、今の古泉があまりにも「普通過ぎる」せいだ。俺と一緒にいるときの取り繕い方をすっかり思い出したみたいに、あの夏の日の以前に戻ったみたいに、古泉は笑い、ほんの少しの偽悪的で自虐的な皮肉を込めて、俺との距離を測っている――今の古泉はそんな風に見えた。
いや、たとえそうだとしても、別に問題はない。問題はないはずなのだ。
不用意に内側に近づいたことは何度も後悔している。ハルヒ消失事件以降再び古泉に近づいたのも、あのとき俺はわずかばかり弱っていただけなのだ。
だからきっと、これでいい。そのはずだ。
「で、話が逸れたが、お返しだよお返し。実戦経験のありそうなおまえに期待してたのに、さてどうしたもんかな」
「そうですねえ。三十倍ですか……」
「何もほんとに三十倍のものを返せとは言わんだろうが……もういっそのこと、もらったチョコレートケーキの三十倍サイズのケーキを返すとかな」
俺の投げやりな提案に、古泉はなぜか食いついた。
「ああ、それは面白いかもしれませんね。ただ三十倍――といっても実際三十倍もの量は用意できませんが――返すだけではなく、僕たちも手作りでお返しするというのはどうでしょう。男子高校生が二人でケーキを作るという状況を、涼宮さんも面白いと捉えてくださるなら、ですが」
不思議と少々興奮気味に言葉を紡ぐと、古泉は俺の許可を待つかのように首を軽く傾げる。悪くない案だ。確かに俺たちがわざわざ菓子を手作りするとは、ハルヒも思うまい。そしてその状況を想像して、破顔一笑してくれそうではある。それに実質三十倍サイズは無理としても、十倍程度のものを用意していれば、きっと長門のブラックホールなストマックにも満足してもらえよう。朝比奈さんはまあ、何を差し上げても喜んでくれそうだ。
「他に案もないしな。手間はかかるが作るとするか……あ、」
せっかくの妙案ではあるが、一つ問題がある。
「ケーキを作れる場所がない」
考え込む俺に、古泉がきょとんとした顔で言う。
「僕の家で構わないでしょう」
「おまえの家にオーブンレンジがあるのか」
「……ないですね。あなたの家はどうです?」
「あのな、オフクロや妹の前で俺たち二人でケーキなんか拵えてみろ。そりゃもう何事かと追求されて針のムシロだぜ」
「用法を間違えている気もしますが、そうですね。僕は構わなくとも、あなたのその後を思うと無理強いはできません」
ああ、ぜひしないでほしいね。しかしどうしたものか。特大サイズのケーキを作ろうというのだ、必要なオーブンだって通常サイズとはいくまい。できれば備え付けの二段オーブンくらいは欲しいところだ。
「困りましたね。あなたさえよければ、僕の伝手を使ってどうにか、といきたいところですが」
「……それは最終手段として取っておいてくれ。ああ、うちも家の人間が留守だったら使えるんだがなあ」
その後しばらく二人で顔をつき合わせて考えてはみたものの、答えが出るはずもなく、とりあえずと土日のどちらかで準備をする旨だけ決定し、開けっぴろげな秘密会議は解散した。
そして訪れた日曜日。俺たちは市郊外の偉いばかでかい洋館の前に立っていた。鉄製の門かられんが造りの囲いから、そこかしこに鬱蒼と蔦の生い茂る、まさに洋館としか言い様のない建物である。おそらくご近所ではお化け屋敷と噂され、たまにガキ共が忍び込んでいるのだろう、門の閂は簡単に外れるようになっており、よく見りゃ鍵も壊されている。
ここが何なのかと問われたら、俺にはどうとも答えられない。古泉に訊くしかないが、うっすらと笑みを浮かべるだけで、さっきから一向に答えを教えてくれようとはしない。
俺は結局最終手段に頼ってしまったのだった。
秘密会議のあった日の晩、古泉から一通のメールが届いた。内容は簡素なもので、要は『機関』で用意した場所に現在使用していない家があり、そこならば大型のオーブンもあるからよければどうか、と。
そのメールを目にしてまず抱いた印象といえば、んな胡散臭い、であったのだが、背に腹は代えられないし、たかがケーキを作るくらいのことでいちいち相手を疑いたくもないという思いもあり、俺は渋々オーケーを出した。
まさかこんなリアル廃墟みたいな場所だとは思ってもみなかったのだ。知っていたなら、どうあがいてでも阻止していた。
古泉は軽々と重そうな門を開け、玄関までの長い道のりを颯爽と歩きはじめた。門の前で入るのを躊躇していると、振り向いて手招きされる。なまじ儚げな美形であるからして、まるで冥界への誘い役にも見えて余計に足を進めたくなくなったが、こうしていても仕方がない。
入ってみれば、家の中は想像以上に綺麗だった。明らかに人の手によって管理されている。物珍しげにきょろきょろとしてしまったのを見とめられたのか、古泉が口を開いた。
「使っていないと言いましても、一応持ち物ですからね。いつ使うときが来てもいいように準備だけは怠っておりません」
「つうか、何に使うんだよこんな大層な建物」
「……それは禁則事項、と言っておきましょう」
笑みを含んだ声で言うが、冗談にしては表情が明るくない。ほんとうに何かを隠しているようにも見え、その上あまり追求しないでくれと、暗に訴えられている気がした。
「台所はこちらです」
案内されたそこは、これまた外観からは想像できないような、小綺麗なキッチンだった。さすがに今風のシステムキッチンとはいかないが、目の前の風景によく似たものを、昔アメリカのホームドラマで目にした記憶がある。大きな木製ダイニングテーブルが真ん中に鎮座しており、壁際いっぱい端から端まで、シンク、ガスコンロ、調理台と連なっていた。目的のオーブンはコンロの下、備え付け型のビッグサイズ。これならば大きめのケーキだって充分焼けそうだ。
俺はさっそくと、持ってきた鞄の中から一冊の本を取り出した。『簡単てづくりケーキレシピ』と表されたその本のページを開くと、チョコレートケーキの作り方が懇切丁寧に載ってある。恥ずかしながら、来る前に近くの本屋で手に入れたものだ。一番分かりやすいのを選ぶのに意外と手間取ってしまった。必要な材料を確認したその足でスーパーに向かい、きっちり用意もした。
「用具は一通り揃っているはずです。時間もないことですし、始めましょうか」
まるでどこに何が入っているのか分かっているみたいに、次々と調理器具を取り出しながら古泉は言う。
現在使っていないと言っていたが、室内がこれだけ手入れされているのだから、つい最近までは誰か住んでいたのかもしれない。古泉もここに来たことがあるのだろうか。
しかし妙な話だ。『機関』で用意された家ったって、いったいこんな場所何に使うっていうんだ。孤島の別荘みたいなエンターテイメント提供場所候補地にでもなっているのか。確かにこのお化け屋敷っぷり、ハルヒなら眼を輝かせて喜びそうだしな。まあ、もしそんな企画を立てているのだとしても、俺を面子に勘定しないでくれよな。化け物役をやらされるのはごめんだぜ。
古泉の準備した大きなボウルに卵を割りながら、その光景を想像して、俺はまた溜息をついた。
さて作りはじめてから数時間、俺と古泉はすっかり途方にくれていた。いくら作っても一向にうまく焼き上がる気配がないのだ。本の通りに分量を量っているし、正しい手順も踏んでいるはずなのに、ケーキはことごとくぺしゃんこの出来損ない。
それでも祈るようにオーブンの中を覗き込んだ本日四度目のチャレンジの最終段階、やはり俺は肩を落とすこととなった。
「やっぱりダメでしたか」
俺の肩越しに失敗作を見とめたのか、古泉は疲れの滲む声で呟いた。もう何度となく同じ作業を繰り返し、そのたび無駄骨となっているのだ。特に感じる疲労はおそらく精神的なものだが、体のほうも驚く程疲弊しきっている。
正直言おう、俺は菓子作りをなめていた。こんなにも体力を使うものだとは思ってもなかった。特に卵の泡立て、あれは腕立て伏せをするよりも効果的に腕の筋肉を鍛えられるのではなかろうか? 菓子職人に男性が多いことにも納得できる。
「はあ、少し休憩しますか」
古泉が冷蔵庫から、先ほど買っておいたお茶のペットボトルを取り出し、手渡してきた。山のように積まれた失敗作のチョコレートケーキを、おやつ代わりとつまみながら一息つく。失敗するたびこれだから、さすがに胸焼けがしてきた。甘ったるい匂いも気分の悪さを助長する。
「……ハルヒたちもあのケーキに、こんだけ苦労したのかな」
こんなに大変な作業を、あいつらも頑張っていたのか――俺たちのために。そういえばあの日、三人して疲れきった表情をしていたことを思い出す。夜通し作って寝不足だったのか、あくびの数も半端ではなかった。俺たちを喜ばせるために、必死で作ってくれたんだろうな。
「そうですね、きっと一生懸命頑張ってくださったのでしょう」
そう言って笑う古泉も、そこはかとなく嬉しそうに見えた。
ハルヒの万能さから考えても、今の俺たちほど失敗を重ねちゃいないだろうが、それでも自分のために何かをしてもらえるってのは、嬉しいもんだな。じんわりと心に沁み入るものがある。少しは頑張ろうって気にもなるってもんだ。
「よっしゃ、また最初っからやり直すか」
立ち上がって思い切り伸びをした。背筋をぴんと伸ばすと、気持ちがすっきりと切り替わった気がする。
ぐだぐだ続ける前に少し考えよう。さすがにこれだけ失敗を繰り返しているのだから、俺たちのやり方に問題があるのかもしれない。今参考にしている本は一応初心者向けと書いてあるが、手順がある程度簡略化されているところを見ると、本当に基礎的な作法については明記されていないのではないか。例えば泡立て方とか材料の混ぜ方といった、初歩の初歩について、だ。
「古泉、ここインターネットは使えるか」
俺の言葉に、材料の準備を始めていた古泉は瞠目して振り向いた。
「え、どうしてです?」
「ケーキの作り方のコツを調べるのさ。初心者もいいところの俺たちが、一冊本を読んだだけで成功するって考えるほうがおかしいんだ。もっとちゃんとした作り方を調べるべきだと思わんか」
「ああ、なるほど」
感心の声をあげた古泉が、ぽんと音がしそうな仕草で手のひらに拳を乗せる。それから少し考え込む様子を見せると、
「書斎にパソコンを一つ置いていますが……回線は引いてないので、僕のPCカードを使ってください」
静かにダイニングのドアを開け、こちらです、と廊下の向こうを指さした。その先には玄関を入ってすぐ横の階段がある。どうやら書斎は上階のようだ。
二階に続く階段は踏みしめるたび、ぎしぎしと音を鳴らした。手入れされているといっても、建物自体が相当古いものなのだろう。木材の独特の冷たさが、靴下越しに伝わってくる。一般的な住宅より幅の広い階段を昇りきると、外側に蔦の這った木枠の窓と、三つの扉の並ぶ廊下に続いていた。
古泉はまっすぐ最奥まで向かうと、オリーブ色をした扉を開いた。途端、むっとするような埃っぽい匂いが、こちらまで漂ってくる。先に入った古泉が閉め切られていた窓を開け、ようやく部屋に新鮮な空気が満たされた。後に続いて、書斎に足を踏み入れる。まだ部屋に残る空中の埃を払いながら、俺はしばし絶句することとなった。
部屋の中には、文字通り上から下までびっしりと、本が詰まっていた。備え付けの本棚では場所が足りず、床の上にも人の背の高さほどまで、大小様々なサイズの本が積み重ねられている。おそらく八畳以上はある部屋なのに、人の立てる範囲はわずか二畳ほどしか残っていない。窓のすぐ下、小さめのライティングデスクが本に囲まれ置かれており、目的のパソコンはその机上に載っていた。
隅々まで並んだ本の背表紙を見ても、読めるタイトルのものはほとんどなかった。だいたいが英語をはじめとした、よその国の言語だったからだ。専門書か何かだろうか。しかし無造作に置かれている割には、どの本も綺麗なものだ。そりゃ埃は積もっているし、本自体の古さからくる傷みだって多少あるが、それでも愛情を持って保管されていたことが、ありありと分かる。
「すげえな……これも『機関』の持ち物か?」
何気なく尋ねた俺の疑問に、パソコンに目を落としたまま古泉は、ほんの少しだけ時間をかけてから応えた。
「……これは前の持ち主のものです」
「前の持ち主って、この家の?」
「ええ」
「どうして置きっぱなしにしてるんだ? 『機関』の関係者か何かだったのか、前の持ち主」
「いえ。運び出すのが大変なので、置きっぱなしにしているだけですよ」
感情の籠らない声で、古泉はぼそりと呟く。しかしそれは激情を無理矢理押し殺しているようにも思えて、俺は思わず古泉の横顔を凝視した。古泉の口元は薄らと笑みをかたどっている。なんら意味をなさない、表情ともいえない表情だった。
「ああ、見つけましたよ、ケーキのコツ」
いきなり場にそぐわない、奇妙なほど明るい声が聞こえ、俺は驚いて顔を上げた。パソコンのモニタには、ファンシーなデザインのホームページが映し出されている。そこに書かれた内容を丁寧に読み上げる古泉の声は、まるで普段通りのものに聞こえた。
「ああやはり、混ぜ方、特に小麦粉を入れる際のタイミングが悪かったみたいですね。今度はこの通りに作ってみましょう。きっと成功しますよ」
振り向いた古泉は、すっかりいつもの笑顔に戻っていた。それを見て意味もなく安堵を覚える。こいつの胡散臭い笑顔に、これほどほっとさせられるときが来るとはな。古泉の様子がおかしいってことは、つまり取り繕うこともできないほど動揺しているってことで、俺はもう充分すぎるほどそれを実感してきたのだ。
俺はまた何か、古泉の触れてはいけない箇所でもつっついてしまったのか? それともつっついたのは俺ではなく――この空間のほうか。
メモを取り終えた古泉が、さっさと書斎を出ようとする。俺がいつまでも動かずにいたら、咎めるみたいにこちらを伺ってきた。仕方なしに部屋を後にしようとしたところで、扉近くの本棚と本の隙間に挟まった、紙切れのようなものが目に留まった。
それがどうしてか、やけに気になった。先ほどからどことなく様子の変な古泉とその紙切れを、すぐに結びつけたわけではない。ただなんとなく、その正体を知りたくなっただけのことだった。扉の外から死角になっていたそこに手を伸ばし、古泉に見えないように紙切れを尻ポケットに忍ばせる。掴んだときの感触から、どうやら写真らしきものだとだけ分かった。すぐに何食わぬ顔で部屋の外に出る。古泉は何も気づいていないようだった。
階下に降りた俺たちは、早速さっきメモを取った「ケーキ作りのコツ」の通り、生地の作成に取りかかった。一番重要な小麦粉の振い入れは、俺が生地を混ぜる係、古泉が小麦粉の係と、完全なる分業で行う。さすがに五度目ともなれば手慣れたもので、やり方を修正しても、ものの二十分ほどで流し込み作業にまで移ることができた。
それでもやはりオーブンにかける三十分間は、緊張しっぱなしだ。神も仏も信じちゃいないくせに、こういうときだけ天に向かって祈るってのも現金な話である。
俺がそわそわと、オーブンの近くを行ったり来たりしているのを見て、古泉が笑う。
「きっとうまく焼き上がりますよ。今度こそ、正しい作り方をしたんですから」
珍しく直球な励まし。俺は多少の驚きとともに、素直に喜びを覚えた。
チン、という間の抜けた音が、ちょうど三十分を過ぎたことを知らせる。俺と古泉は息を飲み、顔を見合わせた。緊張の面持ちでオーブンの蓋を開け、そっと中を覗き込む。
「……やった」
「ええ」
「綺麗に膨らんでる」
「そうですね」
目の前には、綺麗に膨らみを描くスポンジがあった。焦げ茶色に輝く表面はきめ細やかに整い、あれほど辟易していた甘い香りも、食欲をそそる役目を見事に果たしていた。
一目見て分かる。これは大成功と言ってもいい。
大きな達成感が俺の気を高ぶらせていた。古泉のほうへと手のひらを向け目で促すと、照れたように古泉は、差し出した手をぱしんと叩いた。
スポンジを型から外し粗熱を取っている間、再びダイニングテーブルで短い休憩を取る。時間はあまりないのだ。
まだまだ日の落ちるのが早い三月、気づけば外はすっかり夜になっていた。キッチンの小窓を覗くと、小さく切り取られた墨色の空に、玩具みたいな満月がぽっかりと浮かぶのが見える。急がなくては、これからデコレーションとラッピングの作業が待っているのだ。
「とりあえずハルヒたちに貰ったのと同じようなのでいいよな」
「ええ、そのための材料もすでに買ってありますしね」
冷ましたスポンジにコーティング用チョコレートを湯煎してかける。チョコレートはすぐに固まり、そこにデコレーションペンで適当に文字を入れた。うん、見た目はなかなかどうして、悪くはない。
「むしろ結構美味そうじゃねえか?」
「まったくです。ここは自負しても構わないと思いますね」
俺たちはにやりと笑いあった。ああなんだっけな、この懐かしい感じ。そうだ、子どもの頃友だちと一緒に、下らない悪戯を成功させたときの高揚感によく似ている。
見れば古泉も、昔を懐かしむように遠い目をしていた。
ふと古泉にも、愛おしみたくなる過去の記憶があるんだろうかと考えた。
不器用な手つきでなんとか包装し終えたケーキは、意外と様になっていた。が、如何せんデカい。使用したのはスーパーで見つけた一番大きなサイズのケーキ型で、それには二十四センチと書かれていた。当然、箱に入れるとそれより一回り大きくなるわけで、このお返しがどれほど目立つかは自然と伺い知れよう。
これを学校に提げて行く勇気は、俺にはない。
「古泉、おまえに任せた。明日これ持って学校に来てくれ」
「嫌ですよ。あなたが持ってきたほうが、涼宮さんだって喜びます」
「絶対、嫌だ」
「ですから僕だって」
埒があかない。しばし無言で睨み合っていたが、古泉が何かを思いついたのか、手をポンと鳴らした。
「そうだ。今から学校に持って行って、部室に置いておけばいいんじゃないでしょうか」
「……古泉、おまえは天才だ。ああでも、今行っても校舎の中には入れないんじゃないか」
「それは問題ありません。鍵なら持っていますので」
微妙に不穏な台詞を吐き、古泉の口は弧を描いた。突っ込みたいのはやまやまだが、そうこうしている内に時間だけは過ぎる。もったいないのでさっさといくか。
「胡散臭い仕事はおまえに任せるよ」
呆れ眼で告げれば、慇懃無礼な仕草をした古泉は、冗談めかした口調で言った。
「仰せの通りに」
そんなもんまで絵にならんでいい。やっぱり存在自体が嫌味だこいつ。
学校までは電車を乗り継ぎ一時間近くかかった。北高の門をくぐった時分には、時刻はすでに九時を回り、校内は当たり前だが電気の一つもついちゃいない真っ暗闇だ。二つほど嫌な思い出が頭をよぎったが、気にせずおとなしく古泉について歩く。古泉は足取りも確かにある一点を目指し、到着したところは旧校舎の一階入り口の扉であった。
手慣れた様子で鍵を開ける。果たしてどこで手に入れたのやら。ハルヒの持ってきた備品室の鍵並みに、入手経路を知りたいような、知りたくないような。
上ばきがないので、仕方なく裸足でひたひたと廊下を歩く。夜の校舎はやはり不気味だ。好き好んで入り込みたい場所じゃないな。
「訊くのもバカバカしいが、部室の鍵も」
「ええ、それはもちろん」
ハルヒが知ったら怒るぞ。
「そんなへまはしませんよ」
部室前に着くと、古泉はもう一つの鍵を取り出し、楽々と施錠を外した。
誰もいない真っ暗な部室。夏の夜の部室で目を覚ましたのはついこの間のはずなのに、随分と昔のできごとのようにも思える。頭の中から追い出したいけれど、そんなことは不可能だ。絶対に忘れ得ない記憶。蘇る不安定な感覚に、ぶるりと身が震えた。
宿直の先生に見つかってはまずいから、電気はつけないまま中に入った。部室内を見回しながら、古泉は自分の鼻頭を撫でている。これは考えごとをするときの癖らしい。
「さて、どこに隠しておきましょう。ほんとうは冷蔵庫が望ましいのですが、万が一開けられて見つかる可能性が高いですからね。幸い今はまだ気温も上がらない季節ですし、常温に置いておいても問題はなさそうです」
「ボードゲームを置いてるところでいいだろう。あそこなら俺たち以外、触るやつもいないだろうし」
「ああ、なるほど」
スチル製の棚の引き戸を開け、ゲームの箱と箱の間に突っ込むと、ぱっと見ケーキが入っているようにはとても思えない。こりゃいい隠し場所だ。
「これでなんとかなったか」
「大丈夫でしょう」
長かった一日もこれで終了。安心感からかどっと疲れが訪れる。俺は壁にもたれかかり、その場に直に座り込んだ。古泉も同じようにして、隣に腰掛ける。
「おつかれさん」
さっき駅で買っておいたペットボトルを手渡してやると、古泉ははにかんで礼を言い、それを受け取った。のどを潤すと、ようやく一息つけたって感じだ。
「喜んでもらえるといいですね」
隣の古泉は悠然と笑みをたたえているが、他人事みたいにのんびり構えていられる立場か。言っておくが俺とおまえは一蓮托生、ハルヒがどんな判断を下そうが、全部連帯責任だからな。
「……でもまあ、心配ないだろ。あいつは絶対喜んでくれるさ。もちろん朝比奈さんも長門も。こんだけ、二人で力あわせて頑張ったんだからな」
古泉が目を丸くしてこちらを見る。言ってから気づいたが、もしかして俺は今、相当恥ずかしい台詞を口にしたんじゃないか。自覚すると余計に恥ずかしくなってきた。急激に体温が上昇したような錯覚を味わう。
どうにもバツが悪くなり、つま先に視線を落としていたら、横で古泉が体を動かす気配がした。足を伸ばしたのか、視界の隅に真っ白い靴下が映る。ほどなく、静穏な声が耳に届いた。
「そうですね、涼宮さんのことですから、きっと僕たちの苦労だってお見通しになるでしょう」
ふと自分の手元を見遣ると、マメやら切り傷やらができていて結構悲惨な状態である。確かにこの手を見りゃ一目瞭然って感じだな。古泉の手もおそらく同じようなものだろう。
ふと思い立つ。この完璧魔人の手が傷だらけっていうのも、かなりの珍事にあたるんじゃなかろうか。しかしその手は伸ばした膝に隠れてよく見えない。俺はそれを確かめたくなって、古泉の両手を思い切り引っ張り上げた。
途端、古泉は尋常じゃないほど身をびくつかせ、はっきりと息を飲んだ。持ち上げた手のひらから、何かが転がり落ちる。それはカタリと小さな音をたて、床にバウンドした。
「な、なんですか……」
掻き消えそうにか細い声が震えいている。古泉の顔は暗がりでよく見えない。動揺だけは痛い程伝わってき、まるで自分がうしろ暗い行為でもしちまったような気分になってきた。
「あ、悪い……」
半ば放心して手を離す。掴んだ古泉の手は冷たく、想像通り、俺と同じくらい傷だらけだった。俺はそれを確かめたかっただけなのだ。ここで冗談めかして、おまえの手もひどいことになってるな、とかなんとか言って笑い飛ばせば、きっとこの妙な空気は払拭される。しかし機能停止したみたいに、のどから言葉が出てこない。あの雷の日に訪れた感覚が、頭の中でフラッシュバックして再現される。意志が消え失せ、無意識に身を任せようとする感情と、それに抗う理性。今自分を支配していたのは、いったいどちらだった?
――ほんとうに、俺が知りたいと思ったのは、古泉の手の傷のあり方だけだったのか?
こめかみがうるさく脈打つ。脳に血の気だけが巡り、古泉の手から滑り落ちた何かが、やけに気に懸かった。俺は体をひねり、それに手を伸ばした。手に収まりそうなほど小さく、四角いもの。さらりとした手触りは、おそらく包装紙か何かだろう。持ち上げると、カタと音がなった。
「これ、なんだ?」
目の前に掲げると、窓際から入る月の明かりでその正体がよく見える。およそ五センチ四方の箱にリボンのかかったそれは、どう見てもプレゼントの体をとっていた。
横にいる古泉に目を遣る。表情の消え失せた顔が、そこにはあった。いや、消え失せたというのも語弊がある。
むしろ俺にはその表情が、感情を押し殺して、無理矢理作り出した無表情のように思えたのだ。
「……それを、あなたから涼宮さんに渡してほしいのです」
淡々と、古泉は言った。
「中身はなんだよ」
俺の疑問には応えず、そのまま言葉を続ける。
「あなたからの、ホワイトデーのお返しだと言って、渡してください」
「お返しならあるだろ、二人でケーキを作ったじゃねえか」
「ですから、二人きりのときに、涼宮さんだけに特別に用意したものだと言って、渡してください」
数秒かかって意味を飲み込む。そこから古泉の意図を汲み取った途端、いいようのない怒りがざわざわと、胸元を這い上がってきた。膝を抱えてやり過ごそうとしても痛憤はどんどんと増幅され、ついには言葉となって吐き出された。
「馬鹿にしてんのか」
床に落とした声はみっともなく震えているが、そんなこと構っていられない。古泉が驚いたように、こちらに向き直るのが分かった。
「おまえ、こんなことでほんとうに、ハルヒが喜ぶとでも思ってるのか?」
「ええ、思っているからこうして提案しているのです。僕には涼宮さんの望みが分かるのだと、言ったでしょう。お願いです、僕の言う通りにしてください」
考えるより先に体が動いた。古泉の胸倉を思い切り掴み、引き寄せる。極限まで顔を近づけ、強く睨みつけた。闇を反射して揺らぐ古泉の目は、まるで底なしの沼だ。波紋が広がるみたいに、あっという間に歪んだかと思えば、瞳の奥にひどく心もとない光が灯る。
おかしいだろう。どうしておまえが、そんな顔をするんだ。
痛みを我慢しているように苦しげに眉根を寄せ、きっと古泉は今、何かをやり過ごそうとしている。
俺は何も言えなくなってしまった。悔しいし腹立たしいのに、罵倒の一言すら口にはできなかった。古泉の行為は裏切りに等しい。俺に対してはもちろんのこと、ハルヒに対しても。それなのに責めきれないのは、古泉の見せた表情があまりにも頼りなく、今にも泣き出しそうだったからだろうか。
「くそっ」
腹立ちまぎれに床を蹴る。小箱を持つ手を力いっぱい握りしめると、外装がくしゃりとひずんだ。皺の寄った外箱では、もう贈り物の意味をなさない。出来損ないのプレゼントを思い切り叩きつけようとして、止めた。脱力とともに膝に頭を埋め、俺は動くことも喋ることも放棄した。
随分と長い間、沈黙は続いた。古泉は俺の隣で、身じろぎ一つしない。気配すら伝わってこないが、しかし確かにそこにいる。部室の床には、窓から零れた薄明かりの作り出す影が二人分、長く伸びている。
興奮が過ぎ去ると、様々な思考の波が頭をよぎり出した。先ほど自分の中で噴出した、古泉への怒りと苛立ち。古泉の行為の理由、このやり切れなさの理由。
こめかみを押さえつける痛みは次第に薄れ、代わりに限りなく鈍い痛みが体の奥そこかしこに生まれる。
俺もハルヒも、きっと古泉も、こんなことを望んじゃいない。分かっていながら、古泉は止めることをしない。プレゼントを用意した経緯が『機関』の命令なのか、それとも古泉の思いつきなのかは知らない。どちらにしろその結論は、誰の希望でもないのだ。それでも古泉は、実行せずにはいられなかったんだろう。
きっとそれは古泉の考える「正義」だ。疑うことすらできない、一途ともいえる感情。ハルヒの意向、強いては『機関』の意向を重んじるのが、絶対的な正しさなのだと、古泉は信じ込んでいる。いくら中立的な立場で物事を受け止めているつもりでも、結局のところ古泉は、『機関』側に立つしかないのだ。偽悪的な振る舞いで朝比奈さんに疑いの目を向け、ハルヒのために非常識な画策をする。ハルヒがそれを望んでいると確信して。
古泉の胸に巣食っているらしいハルヒの感情ってのは、いったい何なんだ。感応なんてそんなもの、俺は信じない。古泉の思い込みに決まっている。それなのに何故、古泉は盲目的にそんなことを信じているのか。
膝を抱える腕を少しだけ緩めて、俺は足を崩した。気が抜けるのと同時に、堰き止めていた何かが溢れ出す。
「……おまえは何も分かっちゃいない、ハルヒのことも、俺のことも、くそ、何が感応だ、おまえは誰とも繋がってねえよ、ふざけやがって……」
途切れ途切れに口から滑り落ちた言葉はとりとめもなく、半ば独白めいて自分の耳に返ってくる。心と体がばらばらになったみたいだ。
古泉はこちらを見ようともしない。ただひたすら、動かない。まるで死人と同じだ。
「おまえは馬鹿だ、どうしようもない馬鹿だ」
俺は立ち上がり、その場から古泉の姿を見下ろした。濃く陰の刻まれた、青白い面持ち。表情の死んだ顔が、こちらをのろのろと見上げる。半開きの口からは、言葉にならない声が漏れ聞こえてくる。悔しさに顔が歪んだ。俺は古泉をねめつけ、無言のままその場を立ち去った。
後ろ手で扉を閉める。廊下に出て息をつけば、少しばかり冷静さを取り戻しはじめていた。
周囲を見回すと、視界に映るどこまでもがほの暗い。向かいから見える新校舎も真っ暗で、まるであの灰色の空間に迷い込んだ気分だ。
ハルヒと二人で、ここで大スペクタクルをやらかしたときの記憶が蘇る。
あのときもアダムとイブがどうとか、下らないことをぬかしてやがったな、あいつは。いつもいつも、古泉はそうだ。冗談めかしてことあるごとに、俺とハルヒの関係を変えたがるような発言ばっかりしていたじゃないか。プレゼントを用意していたのも、その延長だっただけなのかもしれない。
俺は今までそんな古泉の戯れ言を、受け流しきれずとも、適当に受け止めてきたはずだ。今回だってそうすればよかったのだ。
――俺はどうしてこんなにも、やり切れない気持ちになっている?
痛い。苦しい。古泉の言葉が、行為が、いちいち胸の一番無防備な部分に突き刺さり、我慢できなかった。異常なほどの苛立ちが、まるで自分の内から異分子を排除するためだけに湧き出したようだった。
自分が分からない。心の中に、何か別の生き物が浸食しているみたいだ。元々の俺を食い荒らして、何かがそこにストンと居座ってしまったみたいだ。
この感覚を、なんと言うんだっけな。
不意に、夏の終わりの出来事を思い出す。古泉が泣きながら言った一言。
(あいつといると、俺はおかしくなる。普段通りに接しているつもりなのに、どこかで綻びが出てしまう)
音一つない廊下に自分の足音だけが響く。歩きながらジーンズのポケットに手を突っ込んだら、昼間あの洋館からかっぱらってきた写真らしきを紙切れが指先に触れた。くしゃくしゃに皺の寄ったそれを取り出し、手の中に広げる。
(俺はそんな自分が嫌だ。見たくもない。だから不用意に近づくまいと思った。古泉の内側に入り込むことを避けようとした。でも、できなかった)
古い写真だった。カラー写真ではあるが、間違ってもデジカメ写真などではない。絹目の入った印画紙はL判よりも小さく、色あせたその画に映るのは、幸せそうに微笑む三人の人間だ。一見して家族写真だと見受けられる。少し厳しげな印象を与える中年の男性、優しげな目をしたロングヘアの女性、それから、聡明そうな目元をした子どもが、真ん中ではにかみ笑いを浮かべていた。
考えずとも分かった。この子どもが誰なのか。
あの家が、いったい誰の持ち物だったのか。
知ってしまった。
胸がじりじりと痛む。目尻に浮かぶ熱を、俺は耐え切れずに一筋こぼした。
どうして涙が出るのか、自分でも理解できない。訳も分からず、俺は泣くことを止められなかった。古泉の内側に、触れてしまった気がした。
(だから嫌だったんだ)
袖口で強く目をこする。それから深く深呼吸をする。少しもすれば、すぐに涙は止まった。
これも感応ってやつなんだろうか。古泉の内側を覗いてしまったせいで、古泉の痛みが乗り移っているんだろうか?
きっと違う。これは俺の中にだけある感情だ。ただ古泉の痛みを想像して、追体験しようとしているに過ぎない。感応なんてあり得ない。完全に理解なんてできるわけがない。
(俺を、これ以上、揺るがせないでくれ)
ほんとうは分かりすぎるくらいに分かっている。俺の中に巣食うこの気持ちの正体。
理解したいわけではない。救いたいなんてことも思っちゃいない。
ただ、覗き見た古泉の内に、もっと自らを触れ合わせたいという、もっとも本能的で、衝動的な欲求が、俺の内にあった。