伝えるためのいくつかのこと


 大学四年の夏、キョンは小さなワンルームのアパートに引っ越しをした。
 初めての一人暮らしにしては、不安の一つもなかった。まず一人暮らしにとって一番の懸念事項である隣人問題は、ないも同然だ。なぜなら、二階の角部屋であるその家の唯一の隣人は既によく知った人物で、つまりこれまた一人暮らしになくてはならない、緊急の際に頼れる近所の友人も、同時に確保したことになる。彼の新生活は順風満帆といってよかった。
 キョンの新居は、元々は隣人であり友人である古泉の住んでいた部屋だ。まだここに引っ越してくる前、とある理由から古泉の留守を預かり始めたら、なぜだかそのまま居着くことになってしまった。ちなみに古泉が隣人なのは偶然ではなく、彼のまっすぐすぎてねじ曲がってしまった情熱のもたらした結果である。
 新居は六畳一間フローリングに、小さいけれどそれなりに使えるキッチンスペースがついている。風呂トイレ別で、駅から徒歩数分のところであるが、意外なほど家賃が安い。
 それというのも、おそらく駅自体が不便極まりないからであろうことは、いつでも閑散とした駅前ロータリーから想像がつく。改札を降り立つと、驚く程に何もない。かろうじてバスとタクシーは止まっているが、コンビニも、スーパーも、店らしき店は一つもないのだ。駅から少しだけ歩いたところに、一軒看板が出ているかと思えば、それは近所の老人が趣味にまかせてやっているらしき古書店だったりする。
 駅からまっすぐに続く目抜き通りには桜がたくさん植わっていて、季節にはそれなりに花見目当ての地元住民がうろついているのだが、時期を過ぎると途端に閑散とする。キョンの住むアパートは、そういう場所にあった。
 キョンは引っ越したと同時に自転車を一台買い、それを使って最寄りの駅ではなく、一つ先の駅を利用していた。そちらの駅にはスーパーもあるしコンビニもあるし、何より急行停車駅だからそれなりに賑やかだ。一駅違うだけでどうしてこんなにも差があるのだと、キョンはいつも不思議に思うが、私鉄沿線なんてそんなものなのかもしれない。キョンの実家の近くにも私鉄の単線が走っていて、どの駅も店は多いものの、駅前は恐ろしく地味だ。
 でも──久しぶりに最寄り駅から目抜き通りを歩くキョンは思う。
 何年も通い続けていたこの町の、住み心地は決して悪くない。


 隣人の友人とは、ただの友人と称すべき関係ではなかった。だからといって、友人でないなら何だと問われれば、そう簡単には答えられない、言葉にしづらい関係だった。
 古泉とキョンは、キスをしたことがある。それ以上のことも。キスは二度、それ以上のことは一度だけ。どちらも幻みたいなものだった。ほんとうは、現実じゃなかったのではないかと思えるほどに。特に後者は明らかに、双方合意の上ではなかった。現実でなかったのならばどんなにいいだろうと、思わなかったこともない。
 しかし古泉はキョンにしたことを、泣きながら謝った。たくさんの謝罪の言葉は、古泉の気を軽くしたのだろうか。キョンは何度か古泉の心情を想像してみたが、やはりよく分からない。
 謝ってほしいわけではなかった。無理矢理開かされたそこはとても痛くて恐ろしかったけれど、だからといって謝られてはまるで、自分たちの関係が「被害者」と「加害者」だと、いっているようなものではないか。
 キョンにとっては、許す、許さないの問題ではなかったのだが、そのまま許さずにいたら、古泉はとうとうキョンの前から姿を消した。
 キョンは古泉の弱さを侮っていた。三年間ずっと虚勢を張り続けていた古泉の、その反動のような弱さも、暴走も、実際簡単に受け入れられるようなものではなかった。
 だから追いかけて、捕まえて、許すのに、随分時間がかかってしまった。
 もう絶対に手離したくないな、とキョンは強く思う。
 今は誰よりも近くにいるはずだ。薄い壁を一枚隔てた向こう側に、いつでも古泉はいる。安心してもいいはずなのに、いつでも心のどこかで、ちりと小さく燻る不安があるのも確かだ。
 どうしてだろうといくら考えても、キョンは答えに辿り着けない。


 引っ越してきてから一ヶ月ほど経った長い夏休みの入り口、その日は二人して何も予定がなかったので、とりあえずひいきにしているカレー屋まで出かけ、遅い昼食を取った。帰ってきたら、キョンの家のポストに宅配便の不在票が入っていた。
「お」
「どうしました」
「ハルヒからだ」
 途端古泉は片眉を上げ、驚きを示すような表情を作った。胡散くさい。どうしてか古泉はいまだに、己を偽ったような面持ちになることがある。キョンはそれがずっと気になっているのだが、「長年の癖というものはなかなか抜けないものですね」と言われたら返す言葉もない。
 とりあえずと古泉の部屋に行き、すぐにドライバー直通の電話に再配達を取りつけたら、ものの五分で届けにきた。どうやらほとんど入れ違いの連絡だったらしく、配達員はまだ近所にいたようだ。サインをして受け取った荷物は、A4サイズ程度の平箱だった。
 涼宮ハルヒは現在、アメリカのとある企業の研究部でチームリーダーの任についている。とはいっても実際は、助成金だけもらって好き勝手な研究をしているらしい。どんな研究をしているのか、キョンは何度教えてもらっても一向に理解できなかった。航空宇宙機器の制御装置を作っている会社だとは聞いている。キョンには耳にも目にも覚えのない企業名だったが、あるとき古泉に話したら本気で驚いていたところをみると、おそらく業界内では名の知れた企業なのだろう。
 ちなみに研究者といっても、日がな一日研究室で実験やら調査やらをしているわけではないらしく、ハルヒはせわしなく世界中を飛び回っている。時々日本にも仕事とはいえ帰ってきて、顔を合わせることもあるが、大体はヨーロッパか、直営工場のある中国への出張が多いらしい。
 そんな彼女からの突然の届け物に、キョンはわずかな疑問を覚えたものの、包みを開けてみればすぐに合点がいった。
 箱の真ん中には熨斗のつもりなのか白いコピー用紙が巻き付けられ、そこにばかでかい筆字で「御引越祝」と書かれていた。
 それを見て、隣にいた古泉が我慢できないといった風にぶっと吹き出す。キョンも呆れたように眉尻を下げ、それから思う存分笑った。
 箱の中身は意外にも、ただの焼菓子詰め合わせギフトだった。海の向こうでじわじわと人気の出てきている、新進気鋭の菓子職人のものだそうだ。そうカードに書かれていた。自由の女神の写真が入ったポストカードは、投げ売りでもされていたのか、色あせている上に四隅が折れ曲がっていて、綺麗なものではない。文面には走り書きの字で、ハルヒの近況と、今度日本に帰る予定ができたらすぐに連絡をするといった内容が記されていた。
 キョンにとって、いまだにハルヒは特別な存在だった。その認識は、きっと一生変わることはない。愛とか恋とか友情、そういったものを超えた部分で、キョンはハルヒの存在を捕らえていた。
 だからか、ハルヒからの手紙はいつも、むず痒くて照れくさい。手紙が届くたび、キョンは大切そうにそれを指でなぞり、何度も読み返したあと、本棚に添えつけた小さな引き出しの一番下の段に仕舞い込む。そこにはたくさんの手紙が入っている。ハルヒからの手紙と、それから、目の前にいる隣人が以前、数ヶ月に渡って送り続けてきた手紙が。
 コーヒーテーブルに置かれたカードを手に取り、懐かしげに眺めている古泉を見ながら、キョンはなんとなくおもはゆいなってきた。自分に宛てられた手紙を見られるのは、覗き見でもされているようで、やはりどうにも落ち着かない。キョンはなかば奪うように、古泉の手からカードを抜き取り、その行為をごまかすように言った。
「なあ、このあいだ妹が来たときに珍しい茶を持ってきたんだが、飲まないか? ジャスミン茶で、お湯を注ぐと花が開くんだとよ。せっかく菓子があるんだし、少し早いが三時のおやつってことで」
「ええ、ぜひいただきます」
 古泉は嬉しそうににっこりと笑う。
「じゃあ、俺の部屋に移動するか」
 しかしキョンがそう言うや否や、すぐにさっと顔を曇らせた。焦ったように腰を浮かせ、すぐに座り直すのを繰り返し、妙に落ち着きがなくなる。
「あの、ここで食べませんか。お茶を持ってきていただいて。僕が淹れますから」
「なんでだよ」
「いえ、あの、あ、うちにも今、貰いもののお菓子があるので、それも一緒に食べませんか。ほら、お菓子を抱えて移動するよりもこちらに茶葉だけ持ってきたほうが手間がないでしょう」
 しどろもどろに言い訳めいたことを述べる古泉の緊張した様子を、キョンは少しの苛立ちをもって眺めていた。
 ──またか。
 小さく嘆息すると、古泉がびくりと肩を揺らせたのが分かり、覚えた感情を無理矢理胸に仕舞い込む。
「……わかった。すぐに持ってくるから湯を沸かしててもらえるか」
「はい」
 あからさまに安堵の表情を浮かべ、古泉は再び微笑んだ。冷静に、冷静に。キョンはなんでもない風を装い、徒歩二十秒の自分の部屋へと辿り着く。扉を閉め、それからまっすぐに書棚の前まで来たところで、もう一度、大きく溜息をついた。
 実は、古泉がキョンの部屋への立ち入りを拒否したのは、これが初めてではない。それどころか引っ越しの片付けが一段落して以降は、一度たりともこちらへ来たことがないのだ。
 最初はたいした理由もないのだと思っていた。前に住んでいた家なのだし、単純に新鮮味がないことを厭っているだけだと。しかしここまで頑なに拒まれると、騙し騙し気にしないようにしているのも無理がでてくる。
 いつも通り引き出しに手紙をおさめると、キョンはふと壁際のベッドに目をやった。
 この部屋にある家具は、ほとんど古泉の所有していたものだ。元々この部屋にあったものを、キョンが譲り受けるかたちで使用している。現在の古泉の部屋にある家具は、古泉が新たに買い直したものだった。
「引っ越しで色々と入り用でしょう。僕はどうせ新しく買い揃えるつもりでしたから、この部屋のものはそのまま使ってくださって結構です」
 引っ越しが決まったとき、古泉はキョンに向かってそう言った。言葉通り一週間後には、古泉の何もなかった部屋にほとんどの生活用品が揃っていた。冷蔵庫などの家電はもちろん、ベッドも本棚も机も、それから前の部屋にはなかったエアコンやテレビまで。客用の布団も一セット、押し入れに備えられていた。
 そのときにもキョンは、古泉から家具を譲り受けたことなどなんとも思わなかった。古泉は新品に囲まれていてうらやましい、俺ももらわずに買えばよかった、とすら考えていた。
 ──しかし。
 キョンの部屋に入ろうとしない古泉。家具をすべて買い直してまで、自分の部屋に持ち込みたくない理由。
 思いついてしまった一つの理由に足が震え、キョンは力なくベッドの上に座り込んだ。頭を抱える。腹の奥で何かがわだかまっているような感覚。しかし一度思い当たると、まるでパズルのピースがかちりと嵌ったみたいに、何もかもがしっくりと、納得できてしまった。
(だから、古泉は俺に触れない)
 再会してから一度だって、古泉はキョンに触れようとしない。


 その日キョンは結局、古泉の部屋に戻ることができなかった。
 直接話すと動揺が伝わってしまいそうで、具合が悪くなったと携帯でメールを打ったら、心の底から心配しているらしき返信がきたものの、古泉がキョンの部屋を訪れることはなかった。
 二日ほどただ寝て過ごした。ぐるぐると考えて、考えすぎて、余計に疲れた。古泉からは何度かメールが届いたが、曖昧に返信をして濁していたら、三日経ってとうとう、『涼宮さんのお菓子が腐ってしまいます』という連絡が来た。
 こういうとき、隣に住んでいるというのは不便だ。何をしているのか、今部屋にいるのか、すぐに知ることができてしまう。ただでさえこのアパートは壁が薄く、隣の物音が届きやすい。
 いつまでもぐずぐずと避けることなどできず、考えもはっきりしないまま、キョンは観念して古泉の部屋のドアを叩いた。
 キョンの妹の持ってきたお茶は茉莉仙桃といって、固く閉じた球形をしたその茶葉に湯を注ぐと、まるで花が開くように広がるのがうつくしかった。それを見て、目の前の古泉が感嘆の声をあげるのを、キョンはどこか傍観しているような気分で眺めていた。
「院の入試の準備は進んでいますか?」
「ああ、まあぼちぼち」
「でもまさかあなたも院に進むつもりだったとは、正直驚きました。人文でしたよね」
「アジア史。おまえの家があまりにも暇だったせいで、勉強ばっかりしてたら楽しくなってきてな」
「はは、それはそれは。僕の家があなたの将来を決めることになろうとは思ってもよりませんでした」
 近いのに遠い。
 確かに会話をしているはずなのに、ここに二人でいる感じがしなかった。言葉は素通りして、心の中に何も残らない。今自分がどれだけ上の空なのかを、キョンは嫌になるほど自覚していた。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。そういえば、とキョンは思い出す。古泉と偶然接触しそうになっても、不思議とぶつかったり触れあったりすることは今までなかった。おそらく古泉はさりげなく、しかし確実にそれを避けていたのだ。まったく疑いもしなかった。それほどまでに古泉の仕草は完璧だった。まるで誰にも考えを気取られぬよう、ずっと笑顔を貼付けていた高校の頃のように。
 騙されていたというわけではないが、今まで気づかずにいた事実が、キョンにとってひどく歯がゆかった。
 あんなにも泣いて、俺を好きだと書き連ねたくせに。
「なあ、おまえは俺が好きだって言ったよな」
 そう言葉にしてしまってから、キョンははっとして口を押さえた。テーブルを挟んで向かいに座っている古泉が、驚いて固まっているのを見て、ますますきまりが悪くなる。耳まで赤くなっているような気がしたが、よく見たら古泉の耳も頬もひどく赤い。
「あ、あの……はい、そうですね、言いました」
「じゃあたとえば、俺にキスをしたいとか、思わないのか」
 最初の一言ですらキョンにとって充分恥ずかしい発言だったはずなのに、再び口をついて出た言葉は、古泉のみならず、内心キョン自身も動揺させた。
 どうして勝手に口が動くのだ、と戦きながらも、もしかしたらこれは必要なことなのかもしれないと、思い直す。
 古泉はまだ殻をかぶっている。限りなく薄く透明で、でも弾力のあるゴムみたいに強くて、破れにくい殻を。
 古泉は何も言わずに、キョンの顔を凝視していた。マグカップを持つ手が震えている。開いた茉莉花は、きっと古泉の手のなかでゆらゆらと揺れているのだろう。
 しばらくしてやっと、恐る恐る古泉は口を開いた。
「……そういう感情ではありません。僕は、あなたをそんな風に浅ましい目で見ることなんて」
 浅ましいってなんだ。キョンは思わず眉根を寄せる。その気持ちを浅ましいというのなら。
「じゃあ、昔したあれはなんだったんだ。おまえは、俺にキスをして、触って、無理矢理繋げようとしたじゃねえか」
 どうしてかひどく腹立たしかった。一度は許すと言ったのだし、二度と蒸し返すつもりはなかったのに、だからといってなかったことにされるのだけはごめんだと、キョンは強くそう思った。
「それは」
 言い淀む古泉の手を、キョンは無理矢理取った。大きな音をたてマグカップが倒れたのにも構わず、握りしめたその手を、自分のほうへと引き寄せる。
「な……何を」
 困惑する古泉に何も言わないまま、キョンは引き寄せた手を、自身の胸に強く押し当てた。
「っ!」
 途端、思い切り振り払われ、反動でキョンは背中から倒れそうになった。見上げると対岸の古泉の顔はどうしようもないくらい歪んでいて、まるで泣く直前のようだが、そこに涙はない。ただただ戸惑いと、嫌悪感を露にしたような表情。
 頭の芯がすっと冷えていくのを感じた。こんな風に拒否されることなど、考えてもみなかった。
 キョンが無言で立ち上がるのを、追いかけるように古泉が見上げる。
「あ……の、今のは、違います、すみません」
 無意識なのか、すがるように伸ばされた手は、すぐに力なく垂れた。
「ごめんなさい」
 もう聞きたくなかった、謝罪の言葉。古泉の甘く低い声で紡がれるその言葉が、キョンは嫌いで仕様がなかった。耳を閉じたいのに、そんなことは叶わない。言葉は勝手にするりと入ってきて、人の心のなかを存分にかき乱し、そして何事もなかったように去っていくのだ。それは竜巻みたいに自然と消えて、発した古泉自身には何も返ってこない。
 最悪だった。また一つ、キョンは気づきたくない事実に気づいた。
 こいつはきっと、ただ自分自身のために謝っている。
 これじゃ何のために許したのか分かりゃしない。
 馬鹿みたいだ。キョンは一人、戻った自室でひとりごちた。古泉はいつも一人でいる。いくら俺と一緒にいようが、結局一人でいる。だから対話しようとしない。
 古泉にひどい目にあわされたベッドの上で、キョンは何も感じない。まるで記憶に蓋をしたみたいに、恐怖も嫌悪も、思い出せない。
 許したのだから当たり前だ。
 キョンは許した。古泉のしたこと、一度逃げ出したこと、すべてを許したのだから、触れること、愛することすらも、許したつもりになっていた。
 それが伝わっていないことなど、考えもしなかったのだ。
 ただ古泉だけが、未だ自身を許さないまま、一人きりで自問自答を続けている。
 いつの間にか日は落ちて、部屋は真っ暗になっていた。電気をつけるのも億劫で、キョンはベッドに転がったまま、冷たい壁に体を押しつける。
 引っ越してきてからエアコンを取りつけたものの、ほとんど使っていない。部屋のなかは湿気で蒸されているが、開けっ放しの窓から入ってくる風のおかげで、過ごしにくい暑さというほどでもないからだ。水が近いせいだろうか。
 アパートの横には、小さいながら川が流れている。コンクリート整備された人工的な川だが、部屋にまで届くせせらぎの音が、キョンは気に入っていた。
 せめて自然の音で気を鎮めようと、耳をすませる。こじんまりとした潤しい瀬音がかすかに聞こえはじめ、いくらか気持ちが落ち着いてきたときだった。
 壁向こうから、ぎしりとベッドのしなる音が鳴った。ほんの小さな音、しかし壁に限りなく近づいていたせいか、古泉の動き一挙手一投足まで感じ取れそうなほど、それは詳細に耳に入ってくる。ああ今、寝転んで、寝返りを打った、とキョンには分かった。そんな音がした。キョンは無意識に、壁にぴったりと耳をくっつけていた。次の音を待つために。
 そうして次に聞こえてきたのは、嗚咽だった。苦しげに喉を揺らす音が、断続的にキョンの元に届く。かみ殺された泣き声は痛いほど切実に、古泉の心情を物語っているような気がした。
 キョンは思う。そんなに、涙を流すほどに辛いのなら、どうして手を振り払ったりしたのだ。どうして、触れることを拒む。
 古泉とおかしなことになってから、キョンは絶えず問いかけ続けた。何故、とか、どうして、とか、そんなことばかり考えていた。
 訊いたところで、誰も答えてはくれないというのに。
 近く隔たれた反対側で、古泉の声が、キョンの名を呼ぶ。
 掠れた、ほとんど聞こえないような声だが、確かに古泉が自分の名を呼んでいるのだと、キョンは気づいた。呼んでいるというよりは、呟いている、といったほうが正しいかもしれない。
 古泉はうわごとのように、何度もキョンの名を繰り返した。いつの間にか、声にはあまやかな色が混じっている。熱く吐き出される吐息の音がする。愛おしそうに、しかしそこはかとなく罪悪感を込めて、キョンの名は紡がれていく。
 熱い、とキョンは思った。自分がひどく熱を持っている。それとは正反対に、壁は残酷なほどに冷たく、二人の間を隔てている。堪ってゆく熱を追い出せない。手を伸ばしたところで、触れるのはざらりとした壁紙の感触だけで、ひどくもどかしい。
 もどかしくて、泣きたかった。熱くてたまらない自分のそれに触れる。快感なんて何もなく、ただ追い立てるためだけに、声を殺してひたすら自分の手を動かし続ける。苦しい、早く吐き出したい。何もかもをぶちまけたい。今の自分の欲望は、たった数枚の紙に包んで捨てるようなものではないのに、それでも止められない。相反する気持ちが、キョンの内側をぐちゃぐちゃに荒らしていった。

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