猫のキョンは縁側で庭先の一点をひたすら見つめている。朝起きがけに見かけたときからであるから、おそらく一時間は尤に過ぎており、その間まったく微動だにしていない。ときおり床板を叩くみたいに、長い尻尾をとんとん揺らすのみだ。何かいるのかと目を凝らしてみても、そこには何があるようにも見えない。視軸の先には、ただ痩せた竜胆の花がひとつ、寂しげに秋風に吹かれているだけである。人の目に見えぬが猫の目に見えるものはそれなりにあろうが、どこか不気味に思えてしかたがなかった。
古泉氏は障子越しに遠慮がちな声を掛けた。朝餉の時間なのだ。すると彼のとんがった耳だけがぴくと動く。聞こえているのだけは確かだった。しかし返事はない。何度か繰り返したのち、古泉氏は諦めて小さく嘆息した。
ひたひたと音もたてず、床冷えする廊下を踏みしめ、古泉氏は台所に戻った。食器棚の脇に並べられた猫専用器に、今朝炊いたばかりの白飯と鰹節、それからやわらかく茹でたキャベツを混ぜたものを盛る。あまり猫の身体によい食事ではないと省みてはいる。教授に言えば、結石にかかるから止めておけとしこたま怒られるだろう。だが仔猫の頃に一度味を覚えてからというもの、キョンはこの特製猫まんましか口にしなくなってしまったのだ。贅沢者なのである。それに今さら彼に、猫用の餌を与える気にもならなかった。かちかちと、匙と皿のぶつかる音をわざとらしく鳴らして混ぜていると、やはり硝子扉の向こうから、黒い毛並みがひょこりと姿を現した。背丈にして百七十ほどあろうか、彼は青年の姿になっていた。寝間着は古泉氏のお下がりを身に付けているので、少々不格好だ。
「飯か」
猫であれば今彼は、丸々と瞳孔を開いているだろうと思えたが、何せ人の姿、人の目をしているから、ほんとうのところは分からない。いつもは助走をつけて飛び乗る椅子に、今は悠々と腰掛け、彼はいまかと配膳を待ちわびている。
「さきほど朝ご飯だと声を掛けましたが」
「なんとなく聞こえたような気はした」
「どうやらこの音のほうが、あなたの本能に訴えかけるようですね」
かんかん、混ぜ終わった匙で皿を叩くと、今はないはずの彼の高い耳が反応を見せた気がした。くんと鼻をならした彼の前に、できたての猫まんまを置く。皿に顔をぎりぎりまで近づけ、そのまま口を突っ込むかと思えば、姿勢をただした彼はきちんと一緒に置かれた箸を手に取った。いまだに握り箸しか使えない彼であるが、それでも器用に手を動かし、ひとくちずつ口に運ぶ。彼が無表情にがつがつと貪る風から、だんだんと満足げに目を細めるようになるまでを、古泉氏はゆっくりと眺めながら、塩昆布のまぶした白湯漬けを啜る。朝食はあまり量を摂らない古泉氏である。
食事が片付いた後は、食器洗いも等閑に、二人分の茶を淹れる。古泉氏とっときの献上深蒸茶だ。低めの温度でさっと出して、甘みだけを抽出するのがよい。煎茶に熱湯をぶっかけて飲むような者は、日本茶をたしなむべきではないと、古泉氏は半ば本気で考えている。同じように、紅茶を淹れるのに沸騰したばかりの湯を使わないのも、コーヒー豆を挽いたまま置きっぱなしにしておくのも、古泉氏にとってはそれらへの冒涜に他ならない。彼は様式美というものを愛していた。何事も、型に嵌ればうつくしく形を維持できるではないか。
そうしてふと、古泉氏はとある高校時代の友人のことを思い出した。型に嵌らずともうつくしかったがため、型に嵌るのを何よりも嫌った人だ。とても気高く、それでいて自己中心的で、かわいらしい人だった。同時につい先頃に彼女から届いた手紙のことを思い出し、少々気が滅入ってきた。そろそろ返事を出さなければいけないのだが、どうもそんな気分にはなれない。また明日考えよう。しかしそうやって先延ばしにし続け、とうとう手紙を受け取った日から半月経っている。沈みがちに吐息がこぼれた。湯呑みになみなみ注がれた鶸色にじっと目を落とす。すると茶柱の浮かんでいるのに気がついた。珍しいものだが、当然そんなことで気が晴れはしない。
キョンは当然猫舌なので、湯呑みの淵に口を近づけ、ふうふうと息を吹きかけている。彼がぬるくなった茶に口をつける頃、たいてい古泉氏の湯呑みの中身は空になっていて、すると今度は二杯目を注ぎにゆく古泉氏をキョンのほうが待ってから、ようやく二人同時に茶にありつく。どうせ猫に茶の味など分かりはしないだろうと思っていたら、彼はちゃんと古泉氏の特別と、そうでないものの違いを、味の差として感じ取っているようだった。その証拠に今日は随分と機嫌がいい。無表情に見えるその実、こつさえ掴めば彼の感情を雄弁に物語る数々の仕草や表情を知ることができるはずだ。例えば今みたいに、好きな香りを嗅いで、目を細めているその恍惚の表情とか。ご機嫌なキョンはしかし、それを悟られることをよしとしないので、古泉氏はわざと気づかぬ振りをする。
「今日はどこか行くのか」
猫のキョンの声は甲高く雄弁なのだが、人のキョンの話し方はどこか抑揚がなく低い。
「そうですねえ、休みですし特に予定もないので、この間図書館で借りた本を返しに行こうかと」
湯呑みの中身の最後の一口を含み、古泉氏はほうと一息を吐いた。
「図書館。俺も行っていいか」
キョンはわずかに身体を前のめらせて訊いた。まさか食いつかれるとは古泉氏も思ってもいなかったので、驚きとともに疑問が浮かぶ。
「あなた本なんて読むんですか」
「読むさ。難しい漢字はまあ……飛ばしたりするが」
「いったいいつの間に」
「師匠が教えてくれた。師匠は人間が捨てた本をいっぱい持ってんだ」
彼の言う師匠とは、この辺りに居ついている野良猫である。なんとも珍しいオスの三毛猫で、誰が最初に付けたのか、街の人間は皆シャミセンという名で呼んでいた。古泉氏の隣人の話によれば、その人の越してきた十五年前から、当たり前のように今と変わらぬ姿でここにいたらしい。化け猫ではないかとの噂もあるが、今のところまだ尻尾は二又に割れていない。古泉氏はふと不安になり訊いた。
「シャミセン氏は人語も解せるのですか。さすがに話したりはできないですよね?」
「さあな、師匠の言葉が人間にどう聞こえているかは俺にも分からん」
人の姿でそんなことを言うから、古泉氏は狸にでも化かされているような気分になった。
図書館まで散歩がてら、遊歩道を通って行くことにした。大通りと並行するように続く遊歩道には、ちゃんと管理されているのだろう、いつ見ても季節の花々が色鮮やかに咲いている。先ほど庭先に自生しているのを見つけた、竜胆の姿もあった。
「そういえばさっき、じっと庭の一点を見ていたでしょう。いったい何を見ていたんです?」
「……亡霊だよ」
「え」
古泉氏の背筋にぞわりと悪寒が走った。古泉氏は霊感などないし、幽霊の類いを信じてもいないが、さすがに自宅の庭に何かいると聞いて、いい気分はしない。不気味に感じたのも間違いではなかったということだ。
古泉氏の青くなる顔を見て、キョンは無表情ながらも神妙な体を装っていたが、そのうち堪え切れなくなったのか、ぷっと吹き出した。
「ばあか、冗談だ。花が揺れてるのが面白くって、気がついたらずっと見てた」
「……止めてくださいよ、心臓に悪い」
木々から漏れる光が、笑うキョンの髪に葉の影を落とす。艶のあるのは猫の毛並みとそう変わらないなどと思う。目だけは三日月のない分、笑うと優しげに見えた。
遊歩道脇には小さな水路が整えられていて、魚こそいないが、水と餌を求めてやって来る、むくどりや百舌の姿があった。水流に現れる川藻や小虫を器用に嘴で啄む様子に、どうやらキョンの目は釘付けのようだった。足を進めながらも、視線はそちらを向きっぱなしである。
しかし彼は人の姿でいるとき、無闇に芝生へ入り込んだり羽虫を追いかけたり草を食んだりといった、要は猫における一般的な行動を取らない。もちろん最初はそうでなかった。なんでも匂いを嗅ぎ、他所の猫や犬に喧嘩をふっかけようとする彼を、古泉氏が必死になって矯正した結果なのだ。思えばその頃の彼はもう少し表情豊かであった気もする。今のような淡淡とした性格に変えてしまったのは自分のせいでないかと、古泉氏はほんの少しだけ気に病んでいた。
余所見しながら器用に歩いていたキョンがふと足を止めた。
「どっかから盗ってきやがったな」
そうぼそりと忌々しげな声を漏らすものだから、古泉氏も一緒になって思わずそちらを振り向いた。見ると植木の陰に、魚を丸ごと咥えた黒ブチの猫がこちらを伺うように、腰をあげて座っている。警戒心の塊といった様子だ。やはり猫には彼が同類だと分かるのだろうかと、古泉氏は考えた。
「見ろよ、あいつ魚を尾から食べてやがる」
キョンは目を眇めて相手を見た。黒ブチは目を逸らさぬまま、彼の言う通りひたすら魚を尾の側から腹に収めてゆく。
「魚を尾から食うやつは、ずる賢くて狡猾なのさ。だから人間からものを盗る」
言って腹から息を吸い、キョンはかっと声なく口を開いた。すると黒ブチは背中を逆立てながら、食べかけの魚を残したまま脱兎のごとく逃げ出した。人間には分からない、威嚇の手だった。ふんと鼻を鳴らして、彼は消え去る尻尾の先を満足げに見やった。それから再び歩き出した後は、もう水路の小鳥を見ることはなかった。
——まずいのではないだろうか。
古泉氏は真剣に、キョンが猫として生きてゆく今後の人生について思いを馳せていた。彼にしてみれば余計なお世話だろう。彼は生きたいように生きている。しかし古泉氏は思わずにいられないのだ。
彼は少し、人に寄り過ぎてはいないだろうかと。
猫が獲物を獲るのは当たり前のことだ。狩猟本能である。飼い猫が猫じゃらしにじゃれつくのも、キョンが無意識に動くものを見つめるのも、動物ならば当然そうあるべきだ。
しかし彼はそれを否定する。人からものを盗ったと同類を怒る。鳥に飛びついたりもしない。それどころか、本を読みたいなどと言い出す。
古泉氏は類い稀なる偶然によって、猫のキョンと出会ったわけだが、例えば教授が彼を自分に預けず教授自身で育てていたら、今と同じような、勝手に人の姿で出歩くような猫になったであろうかと、考えることがある。彼が猫としていっとう変わっているのも、それを見て見ぬ振りして受け入れている自分も、おかしいのだとは自覚している。
やはり最初に人の食べるものなど与えてしまったせいだろうか。古泉氏はそうやってまた、見当外れな後悔をするのである。
本の返却を済ませて、キョンがどうしても読みたいといった本を探しに行った。彼が読みたがっていたのは、古泉氏でも題名を聞いたことのある、とても有名な絵本だった。何度も死んでは生まれ変わる猫の話だ。猫にはずっと探しているものがある。それを見つけたとき、ようやく一生を繰り返す必要がなくなり、彼はしあわせに死ぬのだ。
これを猫が読んで楽しいのだろうか、とか、猫に生れ変わりやらの概念はあるのだろうか、などと古泉氏は思わんでもない。だからといって、例えばサルトルを持ってこられるよりは幾らかましだ。古泉氏は何も言わずそれを手にした。
レポート資料に使おうと借りた自分用の本とともに、絵本の貸出手続きを終えた。その頃にはもう、彼は図書館に飽きたのか、ロビーのベンチでぼうっと座り込んでいた。
「お待たせしました、帰りましょうか」
絵本を差し出すと、彼はさして嬉しげな様子もなく、それを両手で受け取った。
来たときと同じ遊歩道を通って、家まで戻る。途中、さっき泥棒猫のいた箇所にさしかかった。植え込みの下には落ちているはずの食べかけの残骸はなく、きっと彼らが立ち去った後すぐに戻ってきて、急いでその場で食べるか持ち逃げるかしたのだろう。
「ほうら、やっぱり意地汚いやつだったろう」
猫のキョンは得意げに言った。
古泉氏はそれを聞いて、なんとなく焼き魚が食べたくなった。ちょうど季節だし、粗塩だけをふった、秋刀魚を焼いたのがよい。ぱりぱりと焦げた秋刀魚の皮に油の絡むのが、古泉氏には何よりのご馳走だ。それならば大根おろし用に、三浦の大根を買って帰ろう。根の先をおろしにして、あとは煮物にすればよいだろう。もちろん猫のキョンにもやるつもりだ。きっと彼も秋刀魚の焼ける匂いを嗅げば、本能に逆らえないはずだ。彼の分は塩をふらずに、焼けすぎる前にグリルから下ろさなくては。
それからしっかりと見てやろう。彼が頭から食べるのか、尾から食べるのか。