猫のくせに何かと口うるさいのである。キョンと暮らし始めた頃、古泉氏は朝に顔を合わせて開口一番、こう言われたことがある。
「おはよう古泉。どこか出かけるのか」
「おはようございます、いえ、今日は一日家でレポートでもやろうと思っていますが」
「え、おまえそんな堅苦しい格好で、家にずっといるのか」
堅苦しいといっても、身につけていたのは、ピンストライプのカッターシャツにダークブラウンのスラックスであったから、そこまで言われる筋合いはない。しかも猫にだ。だいたい人の姿のした彼の服装はといえば、すべて彼のこき下ろした古泉氏の与えたものである。最初は着なくなった寝間着用のスウェットや、引っ越しのときにうっかり持って来てしまった、丈の合わなくなったパンツ類などを適当に着せていたのだが、あるとき彼がそれを身につけたまま外を出歩いていると知ってからは、きちんと新しく買ったものを渡している。近隣の住人にはキョンが兄弟か何かだと思われているので、そりゃあもう顔から火が出るほど恥ずかしい思いであった。
釈然としないまま立ち尽くす古泉氏の横をすたすたと通り過ぎ、奥の三畳間へ消えた人の姿のキョンを襖の陰からこっそりと覗き見ると、すでに猫の姿へと戻って丸くなっていた。部屋はキョンの寝床だった。猫ちぐらが設置されている。寝るときは小さくなれるなんて便利で羨ましいものだと、古泉氏は自らの襟端を摘んで溜息を零す。
「そんなに堅苦しいでしょうか……」
古泉氏はもともと服装には気を遣う方だったし、今着ている服だって、英国のトラッドブランドのものだ。だからきっちり第一ボタンまで留め、裾もタックインして、トラッドに着こなすのが道理だと思っている。むしろそのせいで堅苦しいなどと言われているのだが、これだけは古泉氏の頑として譲れないところだった。
やはり納得のいかない古泉氏は翌日、教授の秘書である森さんにその一件について愚痴を零した。言った途端、森さんは盛大に吹き出した。
「さすが教授の家の血をひく子ね、あなたのことをよく見ているじゃありませんか。それに人間社会の常識もよく分かっているみたい」
教授と森さんには、猫のキョンの摩訶不思議なあれこれを話しているのだが、いまいちほんとうに信じてもらえているか定かではなかった。
森さんは見た目からして年齢不詳の謎めいた女性だ。秘書として働いているのだから学生でないのは確かなはずなのに、学生の中に紛れていてもまったく違和感がない。ただでさえ童顔な彼女を、二つお下げの髪型がますますおぼこく見せている。
「たしかに今時の学生にしては、あなた少しかっちりしすぎている気があるわ。今日のその格好も! ケント&カーウェンなんてあなたの年で着る服じゃないと思うけど」
森さんの心の籠った所見に、古泉氏はほんのわずか眉尻を下げた。そう何度も堅苦しいと言われると、彼だって少しは傷つく。それに今羽織っているジャケットはその昔、叔父から譲り受けた逸品だった。
「いただきものなので」
「あらいやだ、もしかして年上の彼女とか?」
「まさか!」
からかわれていることなど、古泉氏には重も承知である。口元を弛ませるのをやめない森さんに、彼は人畜無害そうな笑みを向けた。自分をからかっても面白くないと、暗に伝えるためだ。
「今度連れていらっしゃいな。あのチビの黒猫がどんな成長を見せたのか、興味があるわ」
含んだ笑いとともにそう言った森さんは、やはり古泉の話を戯れ言だと思っているようだった。
「そうですね、近いうちに」
そういえばキョンが以前大学に行ってみたいと漏らしていたことを、古泉氏は改めて思い出した。
実験が立て続き、くたくたになって帰ってきたその日の晩、手紙が届いていたぞ、とキョンが言うので自室に向かうと、物書き机の真ん中に白い封筒がぽつんと置かれていた。慶事用の切手が貼られたそれを手に取ると、すぐに中身が何なのか分かった。差出人を確認する。裏面の端によく見知った名前を見つけた。それは古泉氏の目を軽く見開かせる程度の衝撃があった。彼はその手紙を開封するのに、たっぷり三十分を要した。
「謹啓清秋の候皆様いかがおすごしでしょうかこのたび私たちは結婚することとなりました……」
気づけば呼吸も挟まず音読していた。自分の口から飛び出す言葉ひとつひとつが、いちいいち彼に動揺を与えた。悲しいだとか辛いだとか、そういった感情とは違った純粋な情動が、彼を強く揺さぶった。それでも涙ひとつ流さなかった自分を褒めてやりたいと、古泉氏は自嘲的に考える。
立ち尽くしていたところ、突然足下に体温の感触を覚えたのに、古泉氏は驚いてそれを見下ろした。いつの間に入ってきたのか、猫のキョンが行ったり来たりを繰り返しながら、すりすりと額をすりつけていた。深い湖水色の目が、三日月と一緒に古泉氏の影かたちを映す。なぁと掠れた声で鳴いたキョンは、どこか寂しげにも見えた。自身の感情がそう解釈したいだけかもしれない。どちらにしろ慰めてくれてはいるのだろう。それならば、どうしてこういうときに人の姿で現れてくれないのかと、憎らしくも思う。思ったところで、人の姿の彼が自分の足下にすり寄っているシーンを想像して、古泉氏は思わず口を綻ばせた。ちょっとどころではなく間抜けな絵だ。きょとんとした目で見上げてくるキョンの頭に手を伸ばし、古泉氏は優しく撫でる。キョンは身をよじって嫌がったが、構わず目頭の間や喉、耳の裏なんかを撫で続けていたら、終いにはころりと横に転がってしまった。
うん、やはり猫の姿のままでよかったかもしれない、すっかり気持ちよさげな様子のキョンに、古泉氏はつられて目を細めた。彼はときどきこうやって、敢えて猫の姿で甘えてくる。決まって古泉氏が落ち込んでいるときや、気分がささくれ立ってるときだ。彼は人の心を汲む能力に長けていた。そりゃあもう、怖いほどに。
今日は大学にいらっしゃいませんか。問うと二つ返事で快諾が返ってきた。一度多くの人間の集まる世界を、覗いてみたかったらしい。
キョンは猫のくせに、猫の社会よりも人間の社会に多大な興味を抱いているようだった。彼は彼が師匠と仰ぐシャミセンという野良猫以外に友だちらしい友だちはいなかった。狭義的な意味で言えば、シャミセン師匠も師匠であって友ではないし、また少なくとも古泉氏は彼の口から、師匠以外に親しい猫の存在を聞いたことがない。それどころか彼はシャミセン師匠以外の普通の猫たちの存在を、どこか見下しているのではないかと、古泉氏には感じられた。こんな風で、彼はこれから猫として生を全うできるのか。ひとごとながら心配になる古泉氏だ。
初めて乗る電車では興奮が過ぎて、落ち着きなく周りをきょろきょろと見回していたキョンだったが、大学構内に入る頃にはなんとか平静を取り繕えるようになっていた。おそらく内心は大変な興奮の嵐であったことだろうが。どこまでも順応性が高い。そういったところも、普通の猫とはかけ離れていた。これはうっかり教授に会わせたら、研究対象として連行されるかもしれない。冗談混じりにそう考えた後、いまいち洒落になっていないな、と思い直した。
さいわい研究室には教授はおらず、秘書の森さんがひとり、書類整理をしていた。教授は学会発表で今日は留守だというから、講義の間キョンを預かってもらうことになった。
彼がキョンだと紹介すると、森さんは一瞬動揺を走らせたが、次の瞬間には普段通りの笑みを貼りつけ、
「教授の秘書の森園生です。キョンさん、よろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げた。キョンはあわてて同じ仕草を真似た。「あ、はい、どうも、こちらこそよろしくお願いします」などとまるで人間くさい反応つきで。ああ、これでは森さんも彼が猫のキョンだと信じやしないだろうと思えば、やはり森さんは笑顔が奇妙に歪んでいた。どうも判断できかねる様子だった。
「すみません森さん、もう講義に出なくてはいけないので、後よろしくお願いします。昼にまた来ます。あなたも、くれぐれもあまり勝手に動き回らないでくださいね。でも図書室なら好きなだけ見てください」
ゆっくり一から説明する暇もなく、あわただしく研究室を出てゆく古泉氏の背を、キョンと森さんは揃って見送った。それから顔を見合わせ、曖昧に笑みを交わした。お互いがお互いを探り合う、妙な空気がなかなか抜けきらなかった。
森さんの淹れてくれた日本茶は、古泉氏の淹れるようないい品ではなかったが、あれが特別なのだと分かっていたし、人に貰ったものに文句をつけるなんて、人としてありえない。キョンは丁寧に礼を言ったが、いつものように飲める温度になるまでは口をつけなかった。息を吹きかけ中身を冷ましていると、森さんは面白げに言った。
「やっぱり猫舌なんですね」
キョンはどう返していいのか分からず、ええまあ、などと曖昧な返答で口を濁した。それからキョンは逆に訊ねた。
「あの、古泉は、学校ではどんな風ですか」
森さんはわずかに目を丸くして、普段の古泉氏の様子をひとつひとつ、丁寧な口調でキョンに教えてくれた。大学院で今は博士課程にあること、専攻は生物学、この研究室で生殖細胞と繁殖について日々研究していること、とても女性に人気があること、しっかりとしているけれど、どこか世間離れしているところがあること。
「ともかく彼は優秀な研究者ですよ。今はまだ学生だけど、教授も特別お気に召していらっしゃるし、博士を取ったら研究室に残るのではないかしら。教授ももうお歳だし、自分の研究の後継者を探しているのです」
彼女の言葉のほとんどは、キョンにとってはちんぷんかんぷんであったが、キョンは必死になって聞いた。まるで点と点の間を繋ぎ合わせて、ひとつの大きな絵を作るみたいに、自分の知らない古泉氏の姿を描き出そうとしている。森さんにはそれが分かった。それでようやく、ああ彼は本当にあの小さかった黒猫なのだと、腑に落ちたのだった。
「反対に、お家での古泉はどんな風なのです?」
森さんの問いに、キョンの目はきらきらと輝いたようにも見えた。
「古泉は優しいです。でもちょっと抜けてる。それに自分に対して少し無頓着すぎる気があるし、何かに没頭すると、飯も摂らなくなる。俺の分は用意してくれるけど。でも俺が近寄ると撫でてくれます。それから、一緒に寝たがるのは寂しいときなんじゃないかな」
「……古泉も、寂しいなんて思うことがあるのね」
半ば独り言のように、森さんは呟いた。
「古泉はひとりになるとすぐ落ち込むし、ときどき泣きそうな顔してることもあります。そんなときに俺のことを撫でたら、ちょっとは気が晴れるみたいで。くすぐったいけど、あいつに撫でられるのは嫌いじゃないです。そうしたら古泉は笑ってくれるから」
キョンの話を聞きながら、森さんは穏やかに微笑みかけた。
「キョンさんは、優しいんですね」
しかしキョンはそれにぷるぷると首を振ることで答えた。
「俺は、全然優しくなんかないです。自分本意なだけです」
結局キョンは古泉氏が迎えに来るまで、一歩も研究室から出ず、そのほとんどの時間を森さんと話すのに使った。遅くなったと謝罪しながら研究室に戻った頃には、研究室は夕陽の光でオレンジに染まってしまっていた。キョンと森さんは古泉氏を見ては、視線を交わし合って笑うほどに打ち解けていて、彼はなんだか仲間はずれになったような複雑な心持ちだった。
駅まで続く並木通りは、すでに人通り少なかった。ぱらぱらと学生が見当たるくらいだ。道の端にはプラタナスの葉が吹く風に揺れて、カサカサと音を立てている。どこか物寂しい雰囲気があった。
「森さんとどんな話をされたんです」
「おまえのことだ」
はあ、僕のことですか。間の抜けた声だった。
「森さん、僕のことどんな風に言ってました?」
「優秀だってさ。他には、大学で何やってるかとか、あと女にモテるってのも聞いた」
キョンの言葉に古泉氏は複雑げに顔を歪めたが、それから不意に真面目な表情へと変わった。
「……あなたは、どうです。いいひとはいないんですか」
古泉氏はぽつりと小さな声で訊いた。真面目で、堅い声だった。キョンはなぜそんなことをそんな風に訊くのかおおいに疑問だったが、何か根本的なことを問われているのではないかと、本能的に察知した。
「俺猫だし」
「——ですから、懇意にされている、その、雌猫なんかはいらっしゃらないんですか」
キョンには古泉氏の言いたいことがなんとなく分かっていた。しかし彼が揺らいだら、自分には立つ瀬がないことも、同時に気づいていた。自分が猫として異質なことをもちろんキョンは自覚していて、だからこそ、自分が猫であり人間らしくありたいと思っていることを否定されると、とても困る。
キョンは古泉氏のために、猫であり、人でもありたかった。古泉氏が泣きたいときは小さな身体で彼の膝を温めて、彼が寂しいと思うときは、それをまぎらわせるためのお喋りができる、そんな存在でありたかったのだ。
「俺は別に、強くなって魅力的な雌猫と交尾したいとも思わないし、子孫を残したいとも思わない。きっとそのうち動くもの見ても、何の反応も示さなくなる。餌もろくに獲れなくなって、それでもし野良にでもなったら、のたれ死にする自信だってある。それでもいいと思ってるよ」
古泉氏は驚いたようにキョンを見つめた。
「俺はおまえが笑ってくれるならいいよ。そしたらずっと一緒にいるんだ。俺のこと撫でて、辛いのとか悲しいのを忘れるためにおまえの側にいたいよ。それでもし俺が邪魔になったら、そのときは師匠に本格的に弟子入りでもするさ」
キョンはわずかに古泉氏へと寄り添うように歩いた。手が触れるほどの近さで。今は猫の姿ではないけれど、人の姿でも彼に近づいて温められるなら、それに越したことはない。かすかに触れあう手の甲に、古泉氏は明確に指を伸ばした。何かを伝えるように、きゅっと握りしめた。
「あなたが野良になることなんて、今生あり得ません」
古泉の言葉はどこかピント外れであったが、それでも強く放たれたその言葉はキョンにとって何よりも嬉しいものだった。手に重なる手の体温は温かくて心地よかった。この手で早く撫でられたいなと思った。
さっさと家に帰って、小さな黒い姿に戻ろう。ご飯を食べたら、本を読む彼の膝の上でうつらうつらと船を漕いで、そして布団のなかに潜り込んで一緒に眠ろう。
キョンが晩ご飯の献立について思いを馳せたとき、古泉氏は口を開いた。
「さて、今日の晩ご飯は何にしましょうね?」