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その短い手紙がキョンの元に届いたのは、そろそろと春の気配の近づく、長い冬の終わり頃のことだった。それはあまりに突然のことで、前触れなどどこにもなく、なにせ彼は古泉の不在を、その手紙によって初めて気づかされたほどだ。
飾り気のない真っ白の便せんは、ほのかに甘い香りを漂わせていた。花のような、香辛料のような、とかく正体は知れないが、少なくとも日本の風土にそぐわない異国の香りである。エアメイルのマーク入りの封筒を見ると、滲んで読めない消印が、どこの国のものとも分からない文字で記されている。住所すら書かれておらず、だいたい届いたのが奇跡だと思えるくらい、宛先を記した字は汚い。
件の鍵は便せんの下のほうに、セロハンテープで止められていた。無造作に貼られていたせいですでに取れかけていたも同然だったが、キョンは手紙を破らないようそれを丁寧にはがし、そのままシャツの胸ポケットに収めた。
そうして、キョンは考え込んだ。
古泉とはしばらく会っておらず、その間、メールの一つも届かなかった。この手紙自体、実に半年ぶりの連絡である。それがいきなりエアメイルで、そのうえ内容が、自宅の留守を預かってほしいときたものだ。段階を違えるにもほどがある。
なにもかも理不尽であるのに、どうしても拒否できないなにかが、キョンの胸ポケットの中でふくらんでゆく。たった数グラムのアルミ製の鍵は、すべての言い訳を封じ込めてそこにある。
キョンの家から古泉の家までは、電車を乗り継ぎ三十分ほどかかる。キョンはいまだ実家暮らしで、それで困ることもなかった。古泉のほうは大学に合格が決まってすぐに、学校近くにアパートを借り、それまで徒歩で十五分程度だった距離が一気に遠ざかったが、彼自身、その事実に問題を感じたことはなかった。
最寄り駅からアパートまでの道のりは、相変わらず何もない。コンビニすらない。このご時世にコンビニが近くにないアパートなど、他に借り手がつくのだろうかと、他人事ながらキョンは心配を覚える。
その無機質な門をくぐり、日のあたらない階段を昇り、地味な色をしたドアを開けて、とうとう中に入った途端、やはり変わらず生活感のない部屋に懐かしさを感じるほど、キョンがこの場所を訪れなくなって久しかった。
見渡すと部屋の中はきれいに片付けられていた。入ってすぐ横、台所のシンクは完全に乾いており、排水溝の周りには、カルキの白っぽい粉がそのまま溜まっている。乾燥棚に置きっぱなしの食器はうっすらとほこりをかぶっていて、長い間使われていないのがありありと分かった。
台所を通り過ぎ、フローリングが地続きになった六畳の敷居をまたぐ。南向きに大きな窓があるというのに、室内はやけに薄暗かった。向かいに大きなマンションが建っているというのもあるが、おそらく一番の原因は、窓に取り付けているカーテンが遮光カーテンで、しかもそれをずっと閉め切っているせいだろう。ただでさえ湿っぽく淀んだ空気が、日陰で発酵でもされたみたいに、嫌な気分を押しあげる。
その場にいるだけで気が滅入ってきて、キョンはカーテンを思い切りひいて、ずっと閉められたままだった窓を開けた。するとひんやりとした心地よい空気とともに、強すぎないちょうどいい日が差し込んでくる。鬱々とした雰囲気が多少和らいで、そうなるとこの部屋の居心地はそれほど悪くない。むしろ、窓から見える風景にノスタルジーをかき立てられる気がして、キョンは不思議と安心感を覚えた。それは子どもの頃、押し入れで布団にくるまって眠りについたときの感覚によく似ていた。
窓の外を覗き込むと、コンクリートで整備された、小さな川が流れている。どうして今まで気づかなかったのか、この部屋は二階のため自然見おろすような形になり、川面のきらきらと光るのが、よく見えた。
いいところだ、とキョンは思った。
そして、古泉のいない少しの間、この部屋を借りてみようかと、そう思い至った。