100 love letters

 前略
 僕の旅も佳境に入ってきました。
 お金が尽きれば帰らねばなりませんし、
 元々そう長く旅を続けるつもりもありませんでした。
 ただ、頭を冷やしたかっただけなのかもしれません。
 もしくは、うつくしい景色を見れば、
 気分がよい方向に変わると思ったのかも。
 どちらにしろ、旅自体はひどく楽しいので、
 終わりが近づくまでは、あまり考えないようにします。
 家のほうは変わりないでしょうか。
 人の住まなくなった家は、すぐに朽ちるといいます。


    78

 この頃から、古泉の手紙は一日二日、途切れはじめるようになった。たとえ海外から毎日出したところで、日本に届く日数がまちまちになるのは、むしろ当然のことだ。むしろ今までよく一日のずれもなく、こちらに届いていたものであると、キョンは世界の郵便事情に感心しきりだった。
 古泉のもってまわった言い回しは、相変わらず腹立たしい。それとともに、変わらない古泉の様子に安心を覚え、キョンは苦笑を隠せなかった。
 町は初夏の匂いに包まれている。つい先日ゴールデンウィークが終わったばかりだというのに、キョンはもう半袖を着ていた。今年は例年よりも平均気温が高いらしい。温暖化という人類共通の問題に頭を悩ませつつ、五月の夜にキョンは窓を開け放して、外の風を部屋に招いていた。
 珍しく、古泉の手紙を夜に開いている。あまりにも気持ちのよい夜だったから、今日ならば悪い気もしないだろうとキョンは考え、それはあながち間違いではなかった。
 部屋から見える川沿いの並木はうっそうと緑をたたえ、川の水面は街灯の光をうけて、夜の闇にきらきらと即席の天の川を作り出している。水の匂いは初夏の趣を感じさせた。耳を澄ませば消え入りそうな川のせせらぎが、涼しさを呼び起こして、心地がよい。空には見事な満月が浮かび、川辺に月明かりを降らせている。
 コンビニでもらったうちわを片手に、キョンは淹れたばかりの濃いコーヒーをあおった。褐色の飲み物はどうにもこの場にそぐわない気がしたが、どうしても口にしたかったのだ。キョンにとってコーヒーは、古泉の手紙を読むのに欠かせないお伴だった。
 夜半にキョンはふと、友人だった少女のことを思い出す。あの日もこんな風に、月の丸い夜だった。
 殴られても恋人に追いすがっていた彼女は結局三年の半ばで大学を辞め、田舎に帰ったそうだ。風の噂に結婚したと聞き、ほっとしたとともに、これで中河の連続失恋記録はまた更新されたな、などと笑った記憶がある。
 彼女の一件は今でこそ過去の出来事として受け止められているが、当時のキョンにとっては大事件だったし、古泉との決別が決定的なものになったそもそもの原因でもあった。キョンの心に小さなひっかき傷となって残っているそれは、いまだに思い出すと少しだけ痛む。

   *

 キョンと中河はそれからも、彼女についてあえて口に出すことはしなかった。彼女はといえば、一度顔に傷を作ってからは、だんだんとそれがエスカレートしており、口元を切ったり、頬が腫れていたりと、稀に見ていられないようなひどい怪我をしていることもあった。中河はどうにか彼女を相談所に連れて行こうと頑張っていたが、彼の努力が叶っていないことは端からみても明らかだった。
 事件が起ったのは、それからしばらくしたある日のことだ。
 その日は史上まれに見る厄日で、一日の始まりからしてついていなかった。携帯の目覚まし機能がうまく働かず寝坊したのを皮切りに、母親が出かけていて朝食は用意されていないし、出かけに妹と一悶着あり、急いで駅に向かえば、人身事故で電車が止まっていた。そのせいで結局、一限を欠席する羽目になった。
 さらに学校帰り、古泉宅に向かう電車までストップしたのには、さすがにキョンも感心を覚えたのだった。ここまで悪いことが重なる日も、そうそうないだろうと。
 置き石だかで急停車した電車内に長時間閉じ込められ、やっと動き出したときにはすっかり日が落ちていて、キョンは心身ともにぐったり疲れていた。なんとか最寄り駅までは運んでくれたものの、それからまた点検だのでダイヤが運休しており、駅前には人がごった返していた。
 それでも大通りまで出れば、途端に人はまばらになる。
「あれえ、キョンくん?」
 古泉宅への道すがら、聞き覚えのある声がしたのに驚いて振り向くと、件の彼女が目をまん丸くして突っ立っていた。
「どうしたの、こんなとこで」
「そりゃこっちの台詞だ」
 一通り驚き終えたのち、二人は通りを並んで歩き出す。
「もしかして家、この辺なのか?」
「ほんとは隣の駅が最寄りなんだけどね」
「ああ、今の電車だったのか。急に止まって災難だったな」
「ほんと、ついてないよね。すっかり遅くなっちゃった。キョンくんはこっちが最寄りなの?」
「ああ、つっても友達の家だけどな。けっこうよく来てるんだが、おまえと会うのは初めてだな」
「普段はこっちの駅は来ないからね。だって何もないもの」
「そうだよなあ、ほんとう不便で嫌になる。いや、友達の家だけど」
 キョンが眉間にしわを寄せながらそう言うと、彼女は悪戯げな笑みをこぼした。
「それってほんとに友達?」
 外で会う彼女は、普段の教室での姿とは少しだけ違っていた。どことなくつややかで、夜の色香を感じる。ほのかに流れてくる甘ったるい匂いは、彼女のつけている香水の香りだろうか。恐ろしく蠱惑的だった。思わず見とれてしまったキョンの視線に気づいてか、彼女はたおやかな微笑みを見せる。
「キョンくんみたいな人が彼氏だったら、彼女は幸せだろうね。やさしいし、しっかりしてるし」
 この一言は、さすがに効いた。キョンだって一人の男であるから、期待をあおる言葉にはすぐにくらりときてしまう。それでも自制心が働いたのは、瞬時に思い浮かんだ、中河と、古泉の顔のせいだった。そこで、中河はまだしも何故古泉、という自分への突っ込みを入れることも、キョンはもちろん忘れない。
「だから友達だって。しかも男友達だ。やましいところは何もないぞ」
 言いながら、一度でもことに及んでしまった関係を友人と呼んでいいのだろうかとキョンは考え、しかし答えが出せないこともよく分かっていたため、すぐにその思いつきは放棄した。
「なあんだ、つまんない。キョンくんの秘密を握れたかと思ったのに」
 彼女はそう返し、くすくすと小さな笑い声をあげた。
 キョンはなんとなく愉快な心持ちだった。見あげると空にはぽっかりとまん丸い月が浮かんでいて、それが余計にキョンの気分を高揚させた。
 だから、前方に目をやった彼女が途端、表情を凍らせたことにも、すぐには気づけなかったのだ。
 急に静かになった隣を訝しく思いキョンが目をやると、彼女は小さく震え、恐怖に顔を引きつらせていた。小柄な体がよけいに縮こまり、それは自らの存在をひた隠しにしたがっているようにも見えた。
 彼女の目は一点を凝視していた。真正面の暗がりのその奥、そこに立っていたのは、ひょろりと背の高い、やせ細った一人の男だった。男はこちらを鋭く睨みつけながら、ゆっくりと近づいてくる。
「誰、そいつ」
 耳にした瞬間、変わった声だと、キョンは思った。甲高く、それでいて弱々しい、正直に言って、あまり好ましさを覚えないような声だ。
「おまえ、また浮気してたのか。こないだの男とも違うよな。な。それ、誰なんだよ。言えよ。なあ、言えないのかよ」
 男はふらふらとこちらに寄ってくる。視点の定まらない割に、血走った目をしていた。キョンは今度こそはっきり、薄気味悪いと感じた。反射的に、盾になるよう彼女の前に立ちふさがる。
 こいつが、この薄気味の悪い男が、少女の同棲相手なのか。
 キョンには彼女の気持ちがまったく分からなかった。見た目で判断するのはよくないが、どう見ても、ろくでもない男としか思えない。事実、後ろに隠れる彼女の怯えぶりは、ほんとうにこの男のことが好きなのかと疑問を抱くほどだ。
「どけよ、おい。俺はこいつに用があんだよ」
 声を震わせて言いながら、男はキョンの肩に手をかけ、そのまま強く横に引っぱる。見た目からは想像できないようなものすごい力だ。これが火事場の馬鹿力というやつか、とキョンの冷静な部分は思わず感心を覚えた。
「嫌だね」
 とりあえずとキョンは反抗を試みる。もうすでに男の不躾な言動のせいで、キョンの苛々はピークに達しており、口を開けば悪口のかぎりを尽くしそうだったので、一言を述べるにとどまった。しかしそれだけでも男は神経を逆なでされたようで、拳を握りしめた右手がキョンの視界の隅に入る。
 これはまずい、そう思ったのと、男がこちらに突進してきたのは、ほぼ同時であった。キョンはとっさに彼女をかばう。おおいかぶさったまま強く目を閉じ、その瞬間、にぶい衝撃がキョンを襲った。
 せつなの静寂のあと、彼女の甲高い悲鳴が空気を切り裂いた。
 男の拳は、キョンの左のこめかみを直撃した。脳天に電撃が走ったようなしびれの直後、割れるような痛みが訪れる。キョンはうめき声をあげ、その場にうずくまった。早く起き上がらなければ。彼女に被害が及ぶ前に。キョンは必死に痛みをやり過ごし、体を起こそうとするが、手も足もうまく言うことをきかない。恐怖のせいなのかそれとも脳しんとうを起こしているのか、体中がぶるぶると震えている。
 そのせいで次の一瞬に起ったことにも、すぐに反応ができなかった。
 走りよってくる足下に、キョンはたいそう見覚えがあった。そのよく見知った靴はそのままキョンを通り越し、男のほうへと向かう。それからすぐ、ごん、という嫌な音が響き渡った。しかし倒れたままのキョンには、何が起こっているのか把握できない。音を頼りに、状況を知るしかなかった。人が倒れ込む音と、細切れに聞こえる男の悲鳴、少女の嗚咽。そして、さっき初めて聞いたばかりの、人が人を殴る音が、何度も何度も、繰り返される。耳障りな声が、よせ、止めろ、などという単語を切れ切れと口にする。
 キョンは力をふりしぼり、寝転がったままそちらに体ごと向けた。
 霞んでぼやけた視界に入るそのシーンは、想像していたにしろ、いささか衝撃的だった。男にまたがっているのは、キョンのよく知る人間のはずなのに、まったくそんな風には思えなかった。その丸まった背中から、恐ろしいほどの気迫が発せられていた。
「こいずみ……やめ、ろ」
 キョンは無理矢理と声を絞り出すが、古泉の耳にはまったく届いていない。古泉はただひたすら、拳を振りあげ、振り下ろすことを繰り返している。ちらりと見えた横顔は、キョンの知る古泉ではなかった。一度だけ見た閉鎖空間の中ですら、こんな目をしてはいなかった。
「もう止めてよう!」
 耐え切れないといった風に、彼女は声を張りあげる。その声にやっと手を止めた古泉は、ぐったりと横たわる男の腹から離れ、彼女のほうに向き直った。そうして言ったのだ。
「彼がこんな目にあったのは、あなたのせいでしょう? あなたをかばったせいで、彼は」
 古泉の目にあるのは、明らかな怒りだった。つり上がった目尻は、うつくしい顔を、同じだけ冷酷に見せる。
「こいずみ、も、いい、から」
 息も絶え絶え声を掛けると、古泉はようやくキョンの言葉に耳を傾けた。それから古泉が少しずつ、冷静さを取り戻してゆくのが、傍目にもよく分かった。
「すみません、早く冷やさなければいけませんね。立てますか? どうぞ肩を使ってください」
 倒れたキョンを抱え起こし、腕を引っ張りあげ立たせると、古泉は当事者二人を残したまま、家の方向へゆっくりと足を進める。
「さあ、少しの間つらいですが我慢してください。ゆっくり行きましょう」
 やさしげな声ながら、有無を言わせない古泉の様子に、キョンは従うしかなかった。彼女のことが気になったが、視界の片隅に、彼女の泣き崩れる姿がほんのわずか捕らえられただけだった。

 家に着くとすぐ、古泉はキョンをベッドに寝かせ、そのまま台所に向かったかと思いきや、間もなく片手に濡れタオルを持って戻って来た。
「痛かったら言ってください」
 言葉とともに、こめかみにタオルを押し当てられる。痛みというよりも熱を放つ傷に、その冷たさが心地よい。
「自分で押さえとくから大丈夫だ」
 言わなければずっとタオルを手に、人の傷を押さえ続けていそうな様子だったので、キョンは無理やり古泉の手からそれを奪い取った。だんだん腫れてきた青あざを押さえながら目を閉じると、思い出したようにめまいと痛みが蘇ってくる。やはり軽い脳しんとうを起こしていたようで、少しだけ吐き気もある。
「古泉、悪い、水をもらえるか」
 キョンがそう頼むと、すぐさま古泉は水の入ったコップを持って来た。申し訳なさそうな表情の理由がキョンには分からなかったが、コップを手渡しながら「すみません、すぐ気づかずに」と口にする古泉は、まるで自分に責任があるとでも言いたげに見てとれた。たしかに古泉の手助けはやりすぎではあったが、むしろ助けてもらった礼を言わなければならないくらいだ。おかしな反応だとキョンは思うが、直後の古泉の発言で納得がいった。
「もう少し早く助けに入ればよかったのですが。申し訳のないことです」
 なるほど、古泉にしてみれば手遅れとの判断だったのだろう。しかし彼がそれを気に病むのは間違っている。
「いや、ほんとうおまえが来てくれて助かった。しかしグッドタイミングだったな」
 キョンが殴られたときに、ちょうど古泉が居合わせたことへの発言である。古泉はそれを聞き、不思議そうに首を傾げた。
「ずっと後ろを歩いていたのに、気づいていませんでしたか」
 キョンはまったく気づいていなかった。いや普通気づくまい。まさか知人が声も掛けず、ずっと後ろについているなどと思わないではないか。
「なんでずっと背後にいるんだよ。声くらい掛けろ」
 思わずキョンがしかめ面を作ると、古泉は不意に何かを思い出したように、たちまち消沈の表情を作り出した。
「あなたが親しげに女性と話していたものですから、てっきりお邪魔をしてはいけないものだと思いまして」
 先ほどとうって変わった古泉の声がやけに刺々しい。すぐに彼が何か勘違いしているのだと、キョンには分かった。
「ただの友だちだ」
「あなたはただの友だちのために、あんな風に体を張るのですか。……ああ、あなたはそういう人でしたね。誰にも彼にもやさしく、親身になって接する」
 表情だけは笑みをかたちづくっているが、古泉の声はひどく低く響いた。明らかな皮肉にキョンはかっとなり、思わず体を起こす。
「おまえな、」
「それとも、あなたほんとうは、彼女のことが好きなのでは? そういえば彼女、少し朝比奈さんに似ていましたね。ああいうふわふわとした女の子らしい人に、昔から弱かったでしょう」
 古泉の冷たい視線が突き刺さる。まったく見当外れな考えを否定するよりもまず、キョンは古泉の叱責するような口調に腹立たしさを覚えた。
 だからキョンは、それが古泉の揶揄だと分かっていながら、あえて否定せずに言い返したのだ。
「たとえそうだとして、なんでおまえにそこまで責められにゃならん」
 思ってもない答えだったのだろう、古泉は一瞬瞠目するとそれから怒ったように目を伏せ、
「――あなたが好きになっていいのは、涼宮さんただ一人です」
 さも当然といった風に語調を強めて、そんなことを言った。
 そのときキョンの胸中に去来したのは、言いようもない怒りと、強制への苛立ちと、古泉に対する不信感と、他にもとにかくたくさん、名付けようもない感情の波だった。
 言いたいことは山ほどあったが、結局はじめに口をついて出たのは、たった一言だった。
「ふざけるな」
 頭に血が昇りすぎると、普段の語彙などすっかりとなりを潜めてしまう。しかし一番の本心は、意外と単純な感情で構成されているものだと、キョンは今更ながら思うのだ。自ら発した言葉でキョンの頭はようやく回り出し、そうすると次々に、古泉の発言に対する不満が噴出しはじめる。
「なんでおまえに自分が好きになる人間まで決められないといけないんだ? だいたいハルヒは今関係ないだろう。それとも何か? 俺がハルヒと付き合うことで、おまえに何か得でもあるのか? 『機関』から金でも貰えるってのか。いや、『機関』だってもうなくなったって言ってたじゃねえか。俺が鍵だとかハルヒが神だとか、そんなもん、もう終わった話だろう」
 キョンの率直な言葉に、しかし古泉は自嘲の笑みでもって返した。
「それでも僕の中では、何もかも過去にはなり得ていません。六年間ですよ。六年間、ずっと信じ続けてきたことが、いきなりひっくり返されて、はいそうですかと納得できると思いますか? 僕はそれほど器用ではないのです。そう簡単に思想を切り替えられるほどにはね」
 そんなのは、古泉の都合だ。キョンはますます怒りにかられる。だいたい古泉は、ようやく望んでいた普通の人間に戻れたはずなのに、已然まったく変わろうとしない。敬語だって嘘くさい笑顔だって、もう必要のないものではないか。そんな過剰な装備で、いつまでも古泉は、自分を守り続けようとする。
「どうしておまえは、そうどこまでも自分勝手なんだ!」
 部屋は静かで、だからキョンの叫びは驚くほど大きく耳に届いた。いきなり声をあげたせいか、再びこめかみがずきずきと痛み出し、キョンは頭を押さえてベッドに倒れ込む。
「痛え……」
 頭を抱え込む姿勢を作り、キョンはベッドの上で小さく丸まった。こぼれそうになる涙はやがてこらえきれず、しとしととシーツをぬらす。
 古泉に感づかれないよう、声を殺してキョンは泣いた。
 キョンの足下、ベッドのへりにもたれかかった古泉は、俯き加減で口を開く。
「……すみません」
 ここ一年ほどで、古泉の「すみません」をいったい何度聞いたことだろう。キョンは思い出すかぎりを数えようとして、ばかばかしくなり止めた。ちなみに初めて謝られたのは忘れもしないあの日のことで、それを思い出すとますますどうしようもない気分になり、また涙が止まらなくなった。
 どうして、謝るのだ。どうして、ハルヒを好きになれとまで言いながら。
「どうして、あんなことしたんだ……」
 あれから決して口にしなかった疑問を、キョンはとうとう吐き出した。答えなど期待していない。ただ、古泉に言い聞かせたかっただけだ。
 案の定、古泉は何も言わなかった。




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