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衣がえを過ぎた頃に届いた手紙は、まるで最後の別れを告げるような文面だった。
翳る部屋のなか、キョンはたった一枚の便せんを手に、ぼんやりと座り込む。日曜日の昼下がり、大陽が雲に隠れたせいで、部屋の温度は少しだけ下がっていた。これまでずっと存在に気づいていなかった隣人の、ここのところ頻繁に立てている小さな物音が、やけに耳障りに感じられる。
しかしそんなはずはない、とキョンは思い直す。まずこの部屋の鍵を返さなければならないし、部屋の掃除をしたことへの礼だって言ってもらわなくては気が済まない。なによりも、この長々と続けられた一方通行の文通に対する返事は、どうすればいいというのだ。言いっぱなしの手紙の束など、キョンにとっては何も意味をなさない。こんなもの、ただの独りよがりだ。
だからきっと、古泉はここへ帰ってくるはずだ。キョンは確かめるように、何度も彼の手紙を読み返した。
*
事件の起こった次の日のことだ。
結局古泉はその後いっさい言葉を発せず、キョンが目を覚ましたときには、地べたに布団も敷かず丸まって眠っていた。たぬき寝入りだったのかもしれないが、キョンは彼を起こさずにそのまま家を出た。
もやもやとした気分を引きずったまま大学に着き、教室に入ったところで、いつもの席に座る彼女が目に入り、キョンは安堵の溜め息をついた。殴られた痕跡も、表立っては見受けられない。
彼女はすぐさま、入り口に立つキョンに気づいた。彼の元へ駆け寄ってくると同時に、彼の腕を引っぱりながら教室を出る。無言のまま歩を進める彼女のつむじを見ながら、キョンは何事かと声を掛けた。
「おい、なんだいったい」
すでに一時限開始の時間のせいか、人がまばらのパティオまで来たところで、彼女はようやく足を止め、キョンのほうに向き直った。
「……昨日のこと、謝りたくて」
「ああ」
並べられたベンチに腰掛けた彼女にならい、キョンも隣に腰を下ろす。彼女の様子は、昨日の晩よりいくらか落ち着いているように見えたが、顔色自体あまりいいとは言えなかった。
「ほんとに、ごめんなさい。キョンくんに迷惑かけるつもりなんてなかったのに……」
彼女はキョンに体を向けると、深く頭をさげた。そんな風に謝られるとは思ってもいなかったキョンは、思わず面食らってしまった。
「気にすんな。怪我もたいしたことないし」
殴られた部分は痣が残ってはいるものの、腫れはひいたしそれほど痛みもない。すぐに冷やしたおかげだろう。
「わたし、彼と別れることに決めたんだ」
顔をあげた彼女は、きっぱりと言った。
「やっと決心ついた。わたしね、今までずっと、暴力をふるわれることも自分で納得してるんだから、誰に何を言われてもいいやって思ってたのね。でも、昨日キョンくんが彼に殴られてるのを見て……わたしもあんな風に殴られてたのかって思ったら、すっごく怖くなった。これ以上エスカレートしたら、わたし死んじゃうかもしれないって、初めて気づいたの」
「どうしてそんなになるまで、我慢してたんだ? 悪いが俺には、おまえがあの野郎のことを、そんなに好きなようには見えなかったんだが」
「うん……実際、そんなに好きだったわけじゃないと思う」
「じゃあなんで」
「わかんない。でも、彼が離れていくのが怖かったの。信じられないかもしれないけど、彼最初はすっごくやさしかったんだよ。同棲はじめたてのときも、毎日楽しかった。中河くんに聞いたでしょう? 仕事辞めてからああなっちゃったって。ほんとなら、すぐに家を出ていくべきだったのよね。だけど今までずっと一緒だったから、今更一人で暮らすなんて耐えられないって思ったの」
「出られなかったんじゃないのか? そういうのって、報復が怖くて家を出られないことも多いって聞くぞ」
「ううん、わたしは決して、彼に暴力で縛られてたわけじゃないんだ。むしろ縛りつけてたのはわたしのほう」
「それってのはどういう」
「きっかけはね、些細なことだったの。働かない彼を見てわたし、口には出さなくても、少し軽蔑してたんだ。それが顔に出てたんだと思う、あるときいきなり『ばかにするな』って怒り出して、軽く平手打ちされたんだよね。そのあとすぐ、彼はごめんねって謝ったけど……彼ね、わたしを殴ったり蹴ったりしたあと、絶対に謝るんだ。許してほしくて。でも、わたしは絶対に、許さなかったの。一度でも許しの言葉をかけていれば、そこで終わってたんだろうし、彼はきっと、そこまでの罪悪感を感じなかったと思う。わたしが彼の暴力を受け入れてたのは、彼を許さないっていう、それだけのためだったの」
彼女の告白に、キョンは言葉を返せなかった。彼女の話はキョンに、古泉のことを思い出させた。ずっと謝り続ける彼を、キョンも同じように、許そうとはしなかった。しかしその代償にキョンが受け入れるべきものは何もない。古泉はいつも嫌になるほど、キョンに気を使っていた。彼がエゴを主張したのは、あの夜と、昨日の、たった二度だけだった。
簡単には理解しがたい彼女の言い分は、今のキョンの気持ちに限りなく近いようで、ずいぶん遠い。
そこで彼女はふと思い出したように、言葉をつけ加える。
「ね、昨日キョンくんを助けたあの彼が、例のお友だち?」
「あ、ああ。悪かったな、あいつ、おまえにひどいこと言っただろう。悪気はないんだろうが……」
「ううん……彼、キョンくんのことすごく大事なんだね。あんな風に自分のために怒ってくれる人、なかなかいないと思うよ」
そう言って、にこりと笑った。
その通りだと、キョンは思う。古泉はたしかに、キョンをとても大切に思っているのだ。それはキョン自身よく分かっていた。しかしそのやさしさが果たして、キョンに向かっているのか、それともキョンの後ろにいるハルヒに向かっているのか、未だに判断できない。ハルヒが力を失って、もう彼女を必要としなくなってからもずっと、古泉はハルヒの影を追い続けている。そんな風にキョンには思えた。
「それに、わたしが悪いのはほんとのことだもん。お友だちにも、謝りたい」
「いや。おまえは悪くねえよ。どんな理由があるにしろ絶対に、力で押さえつけるのは、最低の人間のすることだ」
「……ありがとう」
彼女はうつむいたまま、ぽつりとこぼした。
キョンはその日から、古泉の家に行くのを止めた。しばらく時間をかけて、考えごとをしたかったのだ。
古泉のこと。キョンはずっと、古泉がああまでハルヒに執着を抱くのは、仕方のないことだと諦めていた。長い間、直接的に人生の一部そのものをねじ曲げられてきた、そもそもの原因である。たしかに今の今まで、人生のほとんどを占めていたものがいきなりなくなってしまうなど、キョンには想像も及ばない。その先にあるものが、よろこびなのか、かなしみなのかも、キョンには分からない。
しかしそろそろ、忘れてもいい頃だ。もうハルヒは神ではないし、古泉は超能力者ではない。二人とも普通の人間として暮らしているというのに、片や一方は最初からそんなこと知りもしないし、もう一方は未だ日常に戻りきれていないなんて、おかしな話だ。
キョンはずっと以前から、ある一つの仮説を持ち得ていた。古泉がいつまでも、ハルヒにこだわる理由についてである。それはキョン自身認めたくなく、ずっと目を逸らしつづけていたことだ。
俺が近くにいるせいなのかもしれない。すべては、卒業後二人で北高を訪れたあの日から、古泉のそばを離れなかった自分のせいなのではと、キョンはうすうす思いはじめていた。
あの日の古泉の言葉は、実はキョンを通して、ハルヒに告げていたのでは。そう考えずにはいられない。
そしてあのキスも、そうなんだとしたら。
古泉はハルヒへの感情を、自分にすり替えているだけなのだ、そうキョンは結論づける。
いっときの間、離れるべきなのかもしれない。
ずっと一緒にいることは簡単だ。古泉だってきっとそれを望んでいる。そしてキョンだって。
しかしそれでは古泉は、永遠に涼宮ハルヒという強大な力に縛られたままだ。
そこから逃してやれるのは、自分しかいない。
二ヶ月ほど経ったある日、キョンは古泉に、電話をかけた。